目覚めの時
深夜。学院の敷地内は静寂に包まれていた。
窓の外では、風が高く冷たい音を立てて吹いている。塔の上層にある拓真の部屋は、外界の喧騒から切り離されたかのような孤独な空間だった。
部屋の中心にある机の上。拓真は静かに古びた書物を開いていた。
異世界に召喚されてからというもの、彼の手元に現れたスキル《未明ノ書》。
自分だけに見えるその“書”は、最初は空白ばかりだったが、知識を得るにつれ少しずつ記述が増えてきていた。
けれど、今夜は違う。
――ページが、勝手にめくれた。
無風のはずの室内で、紙が揺れる。光でも風でもない、何か得体の知れない“意志”のようなものがページを捲る。それは拓真の意思を越えて、まるで書物自体が読み手を選んでいるようだった。
そして、現れたのは、見覚えのない表紙。
《創世の書》――。
「……これは」
拓真の灰色の瞳が細くなる。今までにない感覚が、胸の奥を軋ませた。
不思議と、拒絶ではなかった。ただ、底知れぬものを見てしまったような、そんな畏怖。
《未明ノ書》の中に、新たな項目が浮かび上がっている。
【創世の書 - Prologue】
『万象の源に触れる資格を、汝は得た』
『記録されし神語は、いずれ世界の枠組みを揺るがすだろう』
『選ばれなかった者よ。汝が観測せし真実を、此処に刻む』
古代語と現代語が交じる文章。それがなぜか読めることに気づいた瞬間、拓真の脳裏に稲妻のような閃光が走る。
知識が流れ込んでくる。だがそれは単なる情報の集合ではない。
構造、因果、概念、法則――世界を成り立たせる“根の部分”に触れる感覚。
(これは……魔法でも、技術でもない。世界を“書き換える”……?)
頭痛すら覚える圧倒的な情報の奔流。だが拓真はその一端を、手放さなかった。
すぐにはすべてを理解できない。それでも、何かが始まったのは確かだった。
《創世の書》という名を持つこの力は、明らかに“誰か”が封じていたものだ。
そして今、拓真がその封を解いてしまったのだ。
彼は息を吐き、ページを閉じた。部屋の中は変わらず静かだったが、何かが確実に変わったことを、拓真は感じていた。
その翌朝。
メイは寝癖だらけの髪を整えながら、拓真に声をかけた。
「……拓真くん、顔色悪いけど、大丈夫?」
「……いや、大丈夫。少し、深く読んでただけ」
「また《未明ノ書》の中?」
拓真はわずかにうなずく。メイにはすべてを伝えてはいない。けれど、彼女は何も聞かず、うっすらと笑った。
「ふふ、拓真くんはやっぱり、知ってる人だね」
意味深なその言葉が、彼の胸にわずかな温かみを灯す。
そしてその日の午後、学院の禁書庫に関する一通の通達が届いた。
『封印区域、調査要請』
表向きは「魔力暴走の兆候を探る」という理由だった。
だが拓真には、わかっていた。これは偶然ではない。
《創世の書》の覚醒と同時に、動き始めた何か――
世界の底に潜む、“書き換えられた歴史”が、顔を覗かせようとしていた。
拓真は静かに鞄に本をしまい、メイに言った。
「……行こう、メイ」
「うん、拓真くん」
『封印区域』――かつての大戦で封印された、禁忌の記憶が眠る場所へ。
“選ばれなかった者”の戦いが、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
その場所は、王都の南端にあった。
一般生徒はおろか、上級魔術師でさえ立ち入ることは許されない、重厚な封印が施された“影の空間”。
かつて、王国と異界との狭間に開かれた“次元の歪み”が収束した場所。
伝承の中では「魔災の核」とまで呼ばれ、歴史から抹消された戦乱の記憶が封じられているという。
だが、今――
その封印が、わずかに脈動していた。
薄闇に包まれた空間で、低く、くぐもった音が響く。
何者かが叩いたわけでもない。だが確かに、「内側」から“何か”が蠢いている。
一方、学院の中庭を歩く拓真とメイ。
「……これが、正式な調査依頼?」
メイが手元の書簡を広げながらつぶやいた。王城からの印が入っているが、文面には明らかに不自然な点があった。
「理由が曖昧すぎる。“魔力の乱れの兆候”って……こんな書き方、情報操作としか思えない」
「うん。でも、あえて“言葉を濁した”ように見えるね」
拓真の声は低いが、冷静だった。彼はすでに《創世の書》に記されたいくつかの断片を照合し、この事態が単なる偶発ではないことを理解していた。
――この調査依頼は「選ばれた」わけではない。
“観測者”である自分を、試す者がいる。
「……これは、見えない敵からの“招待状”だ」
拓真がそう呟いたとき、メイは少しだけ表情を強張らせた。しかし、すぐに微笑みに変わる。
「じゃあ……行こう、拓真くん。“見えない場所”で待ってる何かに、先に会いに行こうよ」
その言葉に、拓真はわずかに頷いた。
――“見えない戦い”の幕が、今まさに上がろうとしていた。
そしてその先に、世界の仕組みすら揺るがす“人為的召喚”の真実が眠っていることを、彼らはまだ知らない。