神崎拓真という存在
教室の隅、窓際から二番目の席。そこが、神崎拓真の居場所だった。
窓からは春の陽射しが射し込み、校庭の桜が風に散っては、空へ舞い上がっていく。教室はいつも通り、賑やかだった。誰かが笑い、誰かが冗談を言い、それに誰かが突っ込んで笑い合う。そんな輪の中心には、加賀見ヒロトがいた。
明るくて、頭が良くて、運動神経も抜群。誰からも好かれていて、教師からも信頼されている。そんな人間が本当にいるのかと思うくらい、完璧な男だった。
その隣にいるのが、クラスのマドンナ的存在の綾瀬ユイ。ヒロトと並ぶと、まるで漫画の中から飛び出してきたような理想のカップルに見えた。
拓真は、彼らをただ、見ていた。
別に羨ましいわけじゃない――と、自分に言い聞かせていた。自分は自分。目立つのは性に合わないし、騒がしいのも苦手だ。誰にも期待されず、誰にも迷惑をかけず、静かに、穏やかに生きていければそれでいい。
だけど。
(俺って、本当に……このクラスにいる意味、あるのか?)
ふとした瞬間に、そんな思いが胸をよぎる。
中学時代までは、それなりに友達もいた。だが高校に入り、進学校の空気に馴染めなかった拓真は、徐々に孤立していった。目立たず、関わらず、声もかけられず。ただ、クラスの“その他大勢”として存在しているだけ。
朝、自転車で学校に通い、授業を受け、昼食はパンとジュースで済ませ、放課後は図書室か寄り道もせず帰宅。スマホのSNSには誰からの通知もない。そんな毎日が、ずっと続いていた。
そんな生活を“楽”だと感じていた自分がいたのも、また事実だった。
だが、今日に限っては、妙な胸騒ぎがしていた。
何かが違う。空気が、音が、視線が、どこかずれているような気がする。
授業中、黒板の文字がやけにぼやけて見えた。先生の声が遠くから響いてくるような、そんな感覚。
(寝不足か?……いや、ちゃんと寝たはずだけど)
拓真はこめかみを押さえながら、ちらりと隣の席を見る。そこに座っていたのは、先月から転校してきた少年だった。どこか影のある雰囲気で、あまり人と話している姿を見たことがない。
だが今、その少年と目が合った。
一瞬のことだった。だが、彼は確かに何かを言いたげな目をしていた。拓真は思わず眉をひそめたが、その瞬間――
ガタン、と教室の窓が大きく揺れた。
誰かが悲鳴を上げる。机が勝手にきしみ、蛍光灯が明滅し始める。
「な、なんだこれ……!? 地震かっ!?」
「ちょっと! 足元……光ってる!」
床が、光っていた。
真っ白で、青みがかった、目を焼くような魔法陣めいた紋様。それが教室全体を包み込み、生徒たちを飲み込んでいく。
「っぐ……! 身体が……浮いて……っ!」
目の前がぐにゃりと歪んだ。
重力が崩れ、視界が捻れ、耳鳴りが脳を刺す。
誰かが叫んだ気がした。誰かが泣いていた気もした。けれど、それもすべて音の向こう側に消えていった。
(なんだこれ……なんなんだよ……!?)
最後に、拓真が見たのは、またしても“あの転校生”の表情だった。無表情。だが、確かに口が動いていた。
それは、言葉にならない祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
そして、視界が完全に白で塗り潰された。
意識が戻ったとき、そこは教室ではなかった。
空は澄み切って青く、肌に触れる風はどこか異国の香りを運んでいた。
眼前に広がるのは、石畳の大広間。高い天井と金の装飾、壁には知らない言語で綴られた旗が並んでいる。
戸惑うクラスメイトたちの中心で、金色の装束を纏った男が静かに歩み寄ってくる。
「……皆様。ようこそ。我らの世界へ」
彼の背後には、騎士たちが整列していた。
「貴方がたは、“異界より選ばれし勇者候補”……どうか、我が王国を救ってはいただけませぬか」
静寂が、教室だった場所を支配した。
そして、物語が動き出した。