蛸の婿のウィット
とある神社にタコの婿とタコの巫女がいた。婿が巫女に言った。
「すげえ本物だ。でも巫女ってみんなバイトなんですよね。」
「いいえ、オクトパスです。」
─終わり─
なんだか嫌な夢をみているみたいだ。「自分ウィットに富んでます」というような顔をした男が両腕を一杯に広げ、誰彼構わず笑顔を振りまいて回っている。一定の書物が有する難関さは、知識の効力を軽薄な連中から守り、また知識を享受する連中にはある種の慎ましさを植え付けたのだ。逃げ出した食用タコが通った後の床は濡れて周囲よりも色がワントーン落ち、近くを飛び回っている虻や蝿がその跡に留まると、小さな体に足りる分だけのささやかな水分補給を開始する。見ていて気分のいい光景ではない。1971年のラスベガスからタイムスリップしてきたメスカリン使用者が、現代に至ってもなお顔を伏せて海面にゲロを吐き続けている。「クソッ、もっと純度を下げて作りやがれ……」こればっかりは日頃から筋肉を使い仕事に励んでいる港湾労働者たちにもどうしようもないのだった。「自分ウィットに富んでます」の男はまだウィットに富んでますの顔でそこに立っていた。だが僕という人間は、ウィットに富んでいるとか富んでいないとか、そういうところにいられないのだった。根本的に飢えていた。未だに何かいい解決策があることを夢見て、ここ数百年間の科学の果てに潰えたはずのロマンチストをエセの分際で気取っているのだ。なあウィットな男、教えて欲しい。僕もそんな笑顔を浮かべてみたい。それと1滴目からそれ以降の涙はどうすれば流せるのか。ウィットに富んでます男、こっちはマジなんだ。それ以上つまらない冗談を言うのはやめてくれ……。
ウィットのおとこは にげだした!
一体アイツがいつ現れたっていうんだ。嫌な夢をみているみたいに体が言うことを聞かない。この場から抜け出す方法を完全に忘れてしまっている。そしてズルズルとプルトニウムじみた展開にいくら嫌気が差してもなお終わらないのだ。うまく意識だけで夢から抜け出すか、夢の中で自殺するかしないと嫌な夢というものは終わってくれないのである。だから僕は近くの電柱によじ登って、その途中でわざと足を踏み外すことにしたのだった。すると上空2万メートルからの落下が始まった。いつもならこの辺でベッドの上に意識を取り戻し、ビクンと体が跳ねて目を覚ますのだが、今回の夢はなかなかにしぶとい。さっきの港付近の海に入水して、海底のアンコウやコンドームに挨拶をしてもまだ落ち続ける。重力とはこんなにも働き者だったんだな。『力×距離=仕事 物体を移動させないと仕事をしたことにならない』ステゴサウルスの化石とすれ違いざま、横に丸められた紙の端にそう書いてあるのを見つける。それにしても僕の体はちょっと重力に従順過ぎやしないか。そして僕の体に対し、どの地層も抵抗らしい抵抗を示さない。これは一体何事なのだろう。まるで嫌な夢をみているみたいに体が言うことを聞かない。ここから抜け出す方法も、手足の感覚とともに忘れてしまった。手足? 僕には手足があったのか? そうだ。手足ならちゃんと付いているじゃないか。計8本の触手! 今やサンバを踊るのだってこの通り、達人級だ。日本の裏側だからブラジルでサンバって何とも安い連想……いや、あの大勢の観客のなかで一人じっとしているアイツは、「自分ウィットに富んでます」という顔をしたあの男は、口と両目の端が裂けた笑みを浮かべてこちらを見ていた。