姫御子の御話:『吉野の山寺に鹿が闖入せし由』
吉野の山桜と言えば、歌枕にもなっている晴れやかで見事なものと存じております。随分と昔から知られております見事な山寺なども数多御座いまして、秋の頃には紅葉も色づき美しい。
さて、吉野山は金峰山寺という、それはそれは霊験あらたかな山寺が御座いますね。そこに偉い僧坊などが集まって、年次の法要などをなさっておられたとか。
この頃は桜も色づき、山はすっかり紅色に染まり、風流なご様子です。
吉野山でも優れた御坊が、お弟子の坊主などを連れて蔵王権現のおわします蔵王堂の厨子の御前へとお向かいになる。そのお弟子の中に、覚角という方がいらっしゃった。とても高いご身分の若い坊主で、艶やかな肌はまことに麗しい。かつては形の整った滑らかな御髪をお持ちであったが、御髪も眉もすっかり削ぎ落してしまわれた。何でも、世の中の憂しというものを痛感して御出家されたのだそうです。今でこそ落ち着いていらっしゃるものの、御出家遊ばした際には、涙ながらに浮世の不条理をお嘆きになったとか。ですから、未だ煩悩を捨てるにはあまりに若いということで、御坊が色々のお世話をしていらっしゃる。
御坊についてお行きになる覚角が通った後は、不思議と涼やかな風が吹き抜けてゆくように感じられます。その際、境内には桜紅葉の葉が落ちて、踏みしめる音も実に趣があります。
ご法要が始まると、境内の参拝者らは皆まことにありがたくお心強い念仏の声などに心を奪われて、目を閉じ、御手を合わせてお祈り申し上げる。覚角も眼裏で揺れる明かりを感じながら、一心不乱に念仏を唱えていらっしゃった。
ちょうどこの頃、紅葉狩りに出ていた姫君が、たまたまいらっしゃいました。この頃は、当世風の服をお召しの方など居られませんから、立ち振る舞いもお召し物も唐物でありました。不用心にお外に繰り出されて、綺麗な形の落ち葉などをお集め遊ばしているところ、山の上方から紅葉を踏みしめる音がいたしました。
姫君が振り返ると、夫婦の白い鹿が仲睦まじげに戯れておりました。心洗われる光景で、人も獣も、愛情というものは美しく思える。姫君は綺麗な葉を一枚お取り上げになると、女鹿の額にそっとお乗せになり、また牡鹿にも同じようにお乗せになった。
「とてもとても、仲睦まじいのは良いことだわ。本当だったらあの人も、私と一緒にいて下さるはずだったのに・・・」
などと、思わせぶりなことをおっしゃると、紅葉の中に膝をついてお嘆きになった。
心まで冷ますような冷たい風が吹き付けて、ざらざらと葉が擦れ合う音が響きます。木々は色づいた葉を振るい落として、夫婦の鹿にお乗せになった葉も風に靡いて落ちてしまう。その様子のなんと儚いことか。
姫様はますますお嘆きになって、もう、あの人のことばかり考えておしまいになる。ああ、あの時手を繋いだな、ちょうど吉野山が見事な桜色に染まったあの時。ああ、幾度も紅葉を踏み鳴らして歩いたな。あの人は今や亡いのと同じ。お心を惑わすわけにはいきません。
姫様がお体を紅葉の中に埋めて、声を上げてお涙をお流しになる。鹿の夫婦は頬を伝う雫を舐めて慰めている。すると、強い風が吹き荒び、牡鹿が頭を上げて金峰山寺の方に向き直った。次には、風に誘われるが如く、牡鹿が山を降って行きます。颯爽と、すばしこく降っていきます。
ご法要も折り返しに差し掛かったころ、色めいた桜紅葉の木々がごそごそと音を立てて、騒めいている。人々が先程の辻風のせいかと、お心細く思っていると、大きな枝のような角が、桜紅葉の間をかき分けて生えてくるではありませんか。それに驚いたのも束の間、角は桜紅葉から飛び出して、境内へと軽やかに躍り出る。先程の牡鹿が、しなやかな前脚をそっと持ち上げ、紅葉の葉を踏み鳴らしたのです。
蔵王堂の方では、覚角も御修行の成果をお出しになり、師もほっと胸を撫で下ろしておられたところ、何やら外が騒がしいと聞く。御坊などが儀式に熱中するお傍で、弟子たちが気になって戸を御上げになった。
すると、牡鹿を追い出そうと、人々が追い掛け回しているではないか。牡鹿の方は綺麗な四角を描くように動き、下人などの頭上をひょいと飛び越えてしまう。牡鹿の着地と同時に、桜紅葉がふわりと舞い上がると、ふいに大風が吹き荒んだのです。風に乗って赤い桜の葉が僅かに開いた蔵王堂の戸を潜りました。すると、覚角が突然はっ、とお目を見開いたかと思うと、袈裟を脱ぎ捨て、数珠やら杵やらを御倒しになって、慌てて外へと繰り出して行かれる。驚き戸惑う坊主たちも、一時中断し、覚角の御様子をうかがったのです。
覚角は息を荒げて、およそ坊主とは思えぬご様子で、牡鹿と向かい合っておられました。牡鹿は動くのを止めて、覚角のことを見つめています。
はっ、とするような毛並みの良い、白い牡鹿は、桜紅葉を咥えると、これをそっと覚角の方へと運んでいきます。覚角はこれを御受け取りになって、
「やはり浮世に残していった姫のことが忘れられませぬ。結ばれぬと言うのならばと、剃髪も済ましてしまいましたのに・・・。私はどちらにもつかず、まことに情けのうございます」
などとお袖を御濡らしになるのでした。
その御様子をご覧になった人々は、皆あはれに思われて、お涙をお流しになります。その様子をご覧になった師は、覚角にこのようにおっしゃいました。
「まだ手遅れではございますまい。御覧なさい、白い牡鹿は神の御使いというでしょう。それが、あなたに、ご縁のある吉野の桜紅葉をお運びになったのです。行ってきなさい。あとのことは私がよくよく済ませますので」
恩師に諭されては、どのようにお断りなどできましょうか。覚角は山へと登って行かれる神の御使いを追いかけて、山寺を飛び出して行かれました。
吉野山に吹き抜ける風が、視界を唐紅の色に染めます。袖に濡れたお涙も乾くほど、大きくお手を振り、吉野山の獣道を駆けあがって行かれる。やがて白い光が視界一杯に広がって、開けた場所へと辿り着きました。
青い空の中に紅葉が舞い上がって踊ります。その中で、お嘆きにになる姫君の御姿を、覚角は強くお抱き上げになりました。
「覚角様・・・」
「今はその名で呼ばないで下さい。父のことも、母のことも、構いません。共に行きましょう」
何度も、何度も、何度も、お互いの御名をお呼びになって、紅葉色の唇を御重ねになる。そして、紅葉を敷物として、激しく、甘やかに、踏みしめる音と握る音とをお重ねになる。空が吉野山の色と重なるまで、そうしておいでになった後、お二人は山を下り、ご家族にも恩師にも何もお告げにならずに、神隠しにでもお遭いになったように、忽然と消えてしまわれたのだそうです。
これが、私が小耳に挟みました、桜紅葉の姫と牡鹿の坊主の御話でございます。
と、いうことでした。
「まぁ・・・」
姫様の御話が御年に似合わず艶っぽく、思わず言葉を失っていたところで、若君が横笛をお取りだしになります。御簾が波打ち、竹の御香りが流れてくるのも心地がよろしい。君の一息で、甘やかな音が草葉を揺らすと、止まっていた蛍が静かに飛び立ちます。
烏帽子から髪が乱れて、汗と共にお顔にかかる横顔も、いつになく艶っぽいご様子。
「その様子だと、お前にも色事の一つくらいはあるようだなぁ」
「ちょっと、殿」
などと、殿がおっしゃるので、私が御諫め致しますと、若君は笛をお仕舞いになって、殿からそっぽを向いてしまわれました。
しかし、お考えが及んでおられないのか、御簾越しの赤ら顔が私にはしっかりと見えてしまっており、それが何とも言えないご表情で・・・。
その御様子に見入っておりましたところで、殿が面白そうに口角を持ち上げて、私におっしゃいました。
「ところで、ここまで皆が語ったのだから、お前からも何かよい話を聞きたいが・・・」
「おやめください。私はそう言うのが得意ではありませんの」
などと、うんざりしながら答えますと、姫様が登呂丸を私のお膝に御置きになって、「えぇー、私も聞きたいです」などと取りついていらっしゃる。私は御物語をするのもお恥ずかしい、さりとてお下がりいたしますのもつまらないと、困ってしまいまして、おろおろしておりました。しかし、若君がいつの間にか御心を整えて、私が御物語をするのを待っていらっしゃることに気づきまして、これは観念するより仕方がないということで、姿勢を正して、一つ咳払いを致しました。
「では、お耳汚しかと思いますが・・・」