殿の御話:『右大臣が穢に触れし時のこと』
今となっては昔のことだが、主上の外戚となられた右大臣殿がいらっしゃった。華々しい栄華を掌中に収め、誠におめでたいことであった。この、時の右大臣殿が、御殿から牛車にお乗りするところより語り始めることとしよう。
右大臣殿のお住まいは御所のごく近くでいらっしゃって、朱雀大路の様子をご覧になることができるほどであった。
ご乗車遊ばした右大臣殿のために、使いの者どもがあれこれと支度をして車をお囲いになる。お車も実に見事なもので、屋形には見事な御紋があしらわれておった。支度が整うと、それは大層な行列を成して、屋敷から内裏へとお発ちになる。車を牽く牛も黒毛の雄が牡牛で、ゆったりと四肢を持ち上げて、蹄を鳴らす音も静かで雅やかである。
内裏までのごく短い距離であっても、真に栄えておる場所であるから、人の往来も多い。ところがその日は、ひどく静かで、流れる下水の音なども酷く目立っておった。
「何やら静まり返っておるな。不吉なことでも起こるのではないか」
などと、使いの者たちが口々にお噂されるので、右大臣殿は物見の簾をお打ち上げになって、「何が不吉なことなどあろうか」と、お叱り遊ばした。
そんな折、殿のお声に驚いたのか、道端から一匹の野犬が、車の方を見ながら飛び出してきたのである。
その犬を見て、使いの者たちはびっくり仰天された。何たることか、この野良犬、口に人の腕を咥えておるではないか。
腕と言っても上等な腕ではなさそうで、どうやらどこかの下衆などの腕のようである。ひどく蝿などが集り、見るに堪えぬ有様で、使いの者たちでなくても恐れるのが道理であるようだ。
「大臣殿、穢に触れてしまわれたのでは、御参内などいたしますな。内裏に持ち込んでしまっては、良からぬことがあるに違いありません」
などと、使いの者が御諫め申し上げるのだが、右大臣殿は一層不機嫌になられて、
「ええい、黙れ。今は我が家が栄華の極みに至るめでたい日であるぞ。我らの権勢は天上にも昇らんばかり。それをみすみす野良犬ごときに阻まれてなるものか!」
とひどくお誹りになった。右大臣殿の仰せの通り、もはやこの御方の右に出る者などいらっしゃらない。まして牛の轡を引くのが生業の使いの者が、何を口答えできようか。不気味に思いながら、犬を追い払い、目と鼻の先にある内裏へと、車をお運びになる。
前簾をお掲げになり、下車なさると、早速即位の礼のご準備をお始めになる。
色もとりどりの旛、見事な鼓や鉦などが庭に立ち並ぶお姿はまことに美しい。とりわけ旛は、それはもう見事というほかなく、眩いばかりの御紋をあしらった逸品である。それが幾つも風にはためく様は、本当にうっとりする程の眩さであったそうだ。
「今日は善き日哉、まことに善き日であるな」
と、右大臣殿は大層ご機嫌なご様子。ところが、まさにこの時、紫宸殿では大変なことが起こっておったのだ。
高御座の中に、あろうことか野良犬どもが闖入いたしたのだ。畏れ多くも主上の座で寛いでいるではないか。これだけでもとんでもないことであるが、騒ぎを聞きつけた時の大納言殿が急いで参上なさいますと、この野良犬はあろうことか骸を・・・
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「びっ・・・くりした。大声出さないでくれますか。はしたないですよ」
私、あまりの不気味さに思わず悲鳴を上げてしまいました。若君がご驚愕なさって、恨めし気な御顔で私の方を睨まれたのです。
とてもお恥ずかしいことで、思わず微かに見える若君の影から顔を逸らし、お袖で隠したのですが、ちらと目を遣りますと、若君もお恥ずかしそうに赤面遊ばされたご様子。愛らしくて思わず袖の内で顔を綻ばせておりますところ、殿が楽しげにからからとお笑いになった。
「まだ話は終わっておらんのだが・・・。ここまでだと教訓話にもならないので。続けて良いかな」
あまりにもお恥ずかしい姿を晒してしまいましたので、姫様に顔をお見せするのも恥ずかしく、若君がこちらをご覧になるので、風で御簾が靡くのも一層お恥ずかしい。そんな有様ですので、殿のお楽しそうなご様子がいっそう恨めしく思い、思わず心のままに愚痴などを零してしまったのです。
「殿はあることないことあれこれと物語などされますが、不敬で不浄な御話はやめて下さいまし。いくら御作り話だといたしましても、お上にも失礼だと思いますよ」
「まぁまぁ、そう怒るな。せっかくの艶っぽい御髪が崩れてしまうよ」
「まぁ!おだてても気分が治るほど安い女ではございませんよ」
「はっはっはっ、つれないのぉ・・・。では、気を取り直して」
骸を抱いておったのだ。そこで、すぐに野良犬を追い払ったのだが、さて、このような事態とあっては、即位の礼などできようはずもない。大納言殿はすぐに事の次第をご報告遊ばされたのですが、それをお聞きなった右大臣殿が大変にご立腹なさって、「良いから即位礼を始めよ!」などとおっしゃった。
結局、色々の御約束事をして、大納言殿に固くお口封じをなさって、即位の礼を強行なさったとか。
それからしばらく、疫病、大水、野分など、都をひどい天災が襲い、都の人も多くお隠れになったそうだ。挙句に、気に病んだ主上が固く御出家を決意遊ばされて、右大臣殿の栄華もそれを機に終いとなり、大納言殿との御約束事も御破談となったそうだ。
このように、いくらやんごとないご身分のお方でも、穢を内裏にお運びになることなどあってはならぬこと。そういう時はきちんと謹慎し、事を急くことも無いように。まして我が家から穢が出ては大変であるから、皆も健やかに過ごすように。
とのことでございました。殿がご満悦の御様子で御鬚を整えておられると、今度は若君がうずうずとされて、落ち着かない御様子でした。
御簾越しにも見えるほどに影が揺らいでおられましたし、池の蛍がお外を照らしておりますので、いっそうその御様子が目立っておりました。
ついに我慢しかねて、雲が僅かにかかった照る月に向かって、大声をあげておっしゃったのです。
「父上、私も語りたく存じます」
「お、お前も何か話してくれるのか?父の物語の引き出しが増えるのは大層喜ばしいことだぞ。話してみよ、話してみよ」
と、殿の悪い御癖がまた出たご様子。私も頭が痛くなってまいりまして、姫様と御几帳の奥に下がってしまおうかと可愛らしい御手を取ったのでございます。
ところが、その手は妙に毛深い。思わず背筋がぞわりとして、また聞き苦しい悲鳴を上げてしまったのですが、視線を下ろすと、そこにあったのは登呂丸という猫の前足でした。
事の真相は、姫様が登呂丸をお抱き上げなさっていたところ、私が姫様とお下がりしようと登呂丸の手を取った、ということでした。
殿と若君が振り返っておられるし、姫様もきょとんとした御顔でこちらをお見上げになる。私はたいそう恥ずかしくなって、顔を手で覆いました。
「申し訳ございません、ああ、お恥ずかしい・・・」
姫様が登呂丸の前脚をお持ち上げになって、私の肩を肉球で撫でつつお慰め下さいました。
「よし、よし。登呂丸も元気をお出しと言っていますよ」
ようやく落ち着いたときには、何と言いますか、奥に下がるのも億劫になってしまいました。静寂に包まれますと、今度は若君が、このように御物語をお始めになったのです。
「動物と言えば犬やら猫などもいるけれども、他にも、色々な動物がありますよね」