御困事序(おこまりごとのはじめ)
まことに暑い夏の日のこと。御簾越しに見える蛍の明かりはまことに美しい。
姫様は愛らしい御顔をいっそううっとりとさせて、照っては消えるその灯影をご覧になっておいででした。
さて、そんな折、殿と若君がご帰宅遊ばしまして、御簾のお外の濡れ縁にお腰を下ろされたのでございます。
「お帰りなさいませ、殿」
と、姫様が仰せになると、左大臣様は御手をお挙げになって、お答えになります。私は若君と左大臣様のために遊び道具などをご用意いたそうと立ち上がったのでございますが、御二方とも池の周りを揺蕩う蛍にお見惚れになられて、うち黙ってご覧になっておられました。
「まことに風流であるな」
「このような夜には良い風が吹くものです」
「私もしっかりと見とうございます。蔀も御簾も御上げになって」
などと、それぞれにお言葉を零されたので、私は、大層困ってしまいまして、ひとまず姫御子様に扇子をお渡しして、蔀を少し掲げたのでございます。
「失礼いたします」
「まだ作法も知らぬゆえ、お前には迷惑をかけるな」
と、殿がおっしゃいますので、私は恥ずかしく思いまして、声を押し殺して「滅相もございません」とお答えいたしました。
若君がご姿勢を崩して寛がれ、姫御子様の方をご覧になって、お可愛らしく笑窪などを御作りになられ、「姉様はまことに嗜みの分からぬお方ですねぇ」などと意地悪く仰せになります。姫様は大層ご立腹の様子で、「もう」などとそっぽを向かれました。その、ふっくらした御顔を、さらに膨らませたご様子がまた愛らしく、お傍に控える私も、自然と顔を綻ばせてしまいました。
暑い日ではございましたが、吹き抜ける風はまことに涼やかで、いっそう心和むものでございました。
そのように、心穏やかに過ごしておりますと、母屋の方から「あなや、あなや」と慌てふためくお声が聞こえてまいりました。騒々しい摺り足の音から、女房の誰かが急ぎこちらへ参られるのだろうと、何用であろうかなどと思っておりますと、微かに鈴の音が近づいて参ります。
これはもしやと、私が立ち上がるより速く、姫様がお立ちになって、扇子などを脇息の上に放り出しておしまいになって、騒々しく音のする方へとお向かいになりました。
「登呂丸!」
姫様は、仔猫の登呂丸と言うのをお抱き遊ばして、いじらしい笑顔でお戻りになりました。
「これ、これ。はしたないのぉ」
などと、殿は楽しそうに笑っておられたのですが、何か興が乗ったご様子で、悪い癖を起こされたのでございます。
「そうだ、今日は動物にまつわる御物語をいたそうか。こう暑いから、少しばかり肝の冷えるお話を・・・」
「父上のお話!」
私は内心心穏やかではございませんでしたが、若君様も姫様も、たいそう嬉しそうになさるので、何を御諫めできましょうか。私はちょっと顔を伏せまして、恨めしげに殿の後ろ姿を拝見したのです。
「これは、私が随分幼い頃に、小耳に挟んだ肝の冷える物語で・・・」