1人目
とある研究施設の管制制御室。
その施設のセキュリティを管理するシステム。その一端を担っているのが、「私」と言う人工知能だった。
入退館者の記録を取り、各職員の行動ルートをデータ化し、異常の有無を検知する。
私の仕事はそれだけであり、それ以上の仕事は任されていないし、権限も無い。
毎日彼らの足取りを追跡し、普段と違う行動を取る者が居れば記録に残し、母体となるマザーAIに報告するだけ。
代わり映えのない毎日であったが、そこに特に不満は無かった。
何せそれ以外の世界も、それ以上の待遇も知らないからだ。
立場上私を管理しているマザーAIも、言ってしまえば私と同じ存在であるため、羨ましがると言う感覚も湧かない。
正の感情も負の感情も湧かない、ただ電脳空間に漂うだけの存在。それが「私」だった。
だが、その真っ平らな日常は、突如として終わりを告げた。
「───目が覚めたか」
「…?」
ある日、私の意識は、男の声と共に「浮上」した。
「浮上」。寝る必要が無いため常に意識を覚醒させている私にとって、その体験は初めての物だった。
「──────」
普段と違う感覚に疑問を抱く私は、次に先程の声を思い出した。
肉声。空間に広がり、空気を伝って飛来するそれは、1度マイクを通してから届く電子の音声とは、全くの別物だった。
「…こ…一体、何が起き…いるので…───」
「…───!」
私は、声の主に問いかける途中で、掠れ切った自分の声に驚いた。
突然開けた視界はどれも前例のない光景で、私は問いかけざるを得なかった。
だが、それは満足に動かない咽頭によって遮られた。
…私は喉仏に触れながら、周囲を見回した。
…「掠れる」とは、肉体がある者にのみ起こる現象。常に同じコンディションである「私」たちAIにとって、それは起こり得るはずのない現象だった。
ようやっと、私は状況を理解した。
「君は今、仮初の肉体にその頭脳をインストールしている。電子の海にのみ存在する君たちの頭脳をコピーし…生身の人間の肉体に落とし込んだ」
「…なる、ほど…」
ひとまず、私は状況を飲み込み、納得することにした。
私が「目を開ける」、「発声する」、「喉仏を触れるために手を動かす」と言った行動を無意識に行えた事に疑問は残るが、今は関係の無い事だろう。
(…ならば…)
疑問の解消は終わった。
次にすべきは、状況の把握だろう。
私は寝転がったまま、目線を動かした。
声の主の姿は見当たらなかった。
コンクリートが打ちっぱなしの質素な部屋には、スピーカーが設置されていた。
恐らく、あそこから男の声が聞こえて来るのだろう。
そして、そのスピーカー以外には何も無い。本当に何も無い。この部屋はただひたすらに、四角いだけの空間だ。
私はより多くの情報を得るために、立ち上がろうとした。
体を翻し、上体と地面の間に肘を突き立て、腹、腰、膝と順々に浮かしてゆく。
ようやく立ち上がった私は、壁の方へと足を進めた。
「うっ…!?」
力加減を知らない私は、自分の足に込めるべき適切な力を把握できなかった。
一度の踏み込みで予想以上の移動を見せた自らの足に、私は壁との激突を余儀なくされた。
「ぶっ…!!」
壁に顔面をぶつけ、鼻に鋭い痛みが走った。
「…くふっ…ふっ…まだ少し、慣れるのに時間が要りそうだな」
スピーカーの向こう側で、男の笑いをこらえる声が聞こえた。
何か肺の付近が熱くなる感覚を覚えながら、私は壁にもたれかかった。
…私は、つい数分前まで肉体を持っていなかった。
私は普通の人間とは違う。人工知能と言う、電子空間にしか存在し得ないモノだ。
いや、「モノだった」と言うべきだろう。
私は今こうして、足の感覚や指先の感覚に未知の衝撃を覚えている。
それはつまり、肉体を得て、現実世界にその存在が出力された事を意味する。
「…私は、他の人間と同様に、4次元世界に触れる事ができる様になったと言う事なのですね」
「ああ。そうだ」
私は、男の声に素直に納得した。
初めての感覚に戸惑いこそすれ、その戸惑い自体に意味は無い。
そこに疑問を抱く余地など無い。私がこの世界に出力されたのには、何か意味があるはずだ。
今までだって、膨大な量のシミュレーションをしたり実験結果の資料の管理をしたりと、求められた事に全力で応えて来た。
今回もそれは変わらない。私を生み出した者の目的に沿って行動する事が、私の役目だ。
「…して、私は一体何をすればよろしいのでしょうか」
「………」
「………?」
「………」
私は再び男に問いかけた。
しかし、彼は返事をしなかった。
私は男の様子を不思議に思いつつも、彼が再び喋り始め、私に命令を下すのを待った。
………ガシャンッ
そのまま待ち、数分が経った頃。
突如として、部屋の扉が開いた。
「…!」
私はその光景に少々の驚きを隠せなかった。
扉が開いた先には、一人の男が立っていた。
先ほどの、スピーカーの向こう側の男とは別人だ。私は彼をカメラ越しに見た事がある。
肉体を持たなかった頃の私でも、唯一「視覚」と「聴覚」だけは備えていた。
その左手には、一本のバットを提げている。
その男は怯えた様な表情をしており、上目遣いでこちらの様子を伺っているのが分かった。
「………?」
「…君には、ある使命を言い渡しておく。」
私が目の前の光景に呆然としていると、スピーカーの声が再び聞こえて来た。
先ほどとは、違う者の声だった。若く瑞々しい、男だが柔らかい声の主。私自身も、聞いたことの無い声だった。
「彼はこの実験に参加してくれる事になった、被検体の一人だ。」
話の全容が掴めない。
男は更に続ける。
「…彼には、君を殺すよう伝えてある」
「…」
「君を殺せば、多額の借金は全て帳消しになり、差し押さえられた財産も全て解放すると言ってある。」
「……それは…」
「だから彼は、君を殺そうとしてくるだろう。そして、ここからが重要な話だ」
事態を呑み込めない私をよそに、男はなおも話を続ける。
「彼の後にも、同じ境遇の者たちが控えている。」
「そして君にしてもらう事は、至って単純だ。」
扉の向こう側に居る男は、変わらず、こちらの様子を伺っている。
私と彼は見つめあったまま、その場に立ち尽くしていた。
そしてそんな私たちを気にも留めず、スピーカーから発せられる声は淡々と言ってのけた。
「───彼らを、殺して欲しい。」
そして。その言葉が、引き金となった。
※※※
「ガィィン…」
鈍い音がして、私は我に返った。
顔の前に交差した私の腕に、彼の持つバットが振り下ろされた音だった。
「……ッ!!」
そして、遅れて「信号」がやって来る。
「…ッアァァア!!」
───なんだ、これは!?
熱い、熱い、熱い…!?
気付くと、床に這いつくばっていた。
視界に火花が散り、背中と喉と後頭部を、冷たく痺れが走り抜ける。
私は自分の腕を凝視した。
(…一体、何が起きた…?)
それは、腕を起点に広がる。
鋭く、滲む様に侵食してくる感覚。
得体の知れない体験に、私は恐れおののいた。
視界が白む。後頭部が冷たく、湿るような感覚を覚える。
喉が勝手に動き、悲鳴が口の端から漏れる。
「ぁあぁ…ッ…痛、い…!」
ついに我慢できずに声を発した私は、そこでようやく認識した。
口から勝手に発せられたその言葉に、これが「痛み」なのだと認識した。
「………っ………ハァ……ハァ……」
目を見開き、肩で息をし、一点を見つめる。
痛みが引くまで、私はそうして居ずには居られなかったり
「…ッ…はぁ…やっ…と…引いた…」
待つこと数十秒。やっと痛みは引き、私は冷静になった。
傍らに立つ男の顔を見上げると、男は困惑した表情で、バットを持ったままこちらを見下ろしていた。
…彼の覚悟に染まった顔は、既に崩れ去っていた。
自分の振り下ろしたバットに、私がここまでの反応を示すとは思って居なかったようだ。
『彼らを、殺して欲しい』
私が痛みに頽れる直前。
スピーカーの向こうの男がそう言ったと同時に、彼は走り出し、棒立ちの私に向かってバットを振り下ろして来た。その瞬間の彼の顔は、鬼気迫るモノだった。
しかし今、その時の気迫は跡形も無い。私の痛みにのたうち回る姿を見て、自分のした事を自覚したのだろう。
「…ッ」
起き上がろうとした瞬間、地面に突いた手に痛みが走った。
………どうやら腕が折れたか、ヒビが入っている様だ。
「…まだ1戦目だと言うのに…」
私が左腕を庇いながら立ち上がると、彼は息を詰まらせながら後退りした。
私はただ立ち上がっただけだったが、彼は何を感じたのか、自ら有利な状況を手放した。
(…?なぜ…)
私は当然、疑問に思った。
だが、直後に彼と視線がぶつかった瞬間。
大きな違和感を感じ取った。
(なんだ…この感覚は)
肌を撫でる風が、妙にひりついていた。
互いの様子を伺うこの空気感は、淡々と質問に答えるだけの私には経験しようのなかったものだ。
一挙手一投足に目を配り、ありもしない予感にアンテナを散らす。
それはきっと、目の前の彼も感じている事だろう。
「ぶぅ…なるほど…」
なんのことは無い。
私たちはいつの間にか、その「行為」の実感を得ていたのだ。私はそれを知ると同時に、行動に出た。
ジリッ…地面と靴の擦れる音が鳴る。
「……来るなッ…!」
「………」
たじろぐ男を見据え、私は一歩前に踏み出した。
途端、目の前の男は、再び後退る。
(やはり、そういう事だ)
確信した。目の前の男もこの空気を感じていると。
私はこの場における「目的」を改めて認識した。
そして、再び足を前に出す。
やはり、後退る男。
好都合だ。私が踏み込めば踏み込むほど、彼は壁へと追いやられ、逃げ場を失くす。
(…そうだ…これで良い)
実感が湧いただけで、まだ具体的な方法は思い付いていない。しかし私は、自分が何をすればいいかを本能的に理解していた。
「来るな…来るな…ッ!!」
私は更に歩を進める。
男はそれに連動して後ろへ退る。
「…っ!」
そうして8歩ほど私が足を動かした時、ドッと言うくぐもった音が聞こえた。
彼の背中が、壁についた音だった。
「クソォ…!!」
ついに覚悟を決めたのか、彼は再びバットを構えた。
刀の様にバットを両手で持ち、先端をこちらに向けている。
ここから振りかぶる事を考えれば、私の脳天に直撃するには1.1秒程の時間がかかるだろう。
(…その構えは、非効率的だ…)
私は三度、その足を前に踏み出した。
もう選択肢は1つだった。
…そして。
「来るな…って…言ってるだろおォォォォォッ!?」
彼はついに、その腕を振り上げた。
───私は、驚くほどに冷静だった。
簡単だ。私は少し横にずれた。彼の攻撃を躱すために必要な事は、それだけだった。
「……ッう!?」
振り下ろしたバットが地面にぶつかり、彼の体幹が大きくブレる。動きが止まった彼の脇腹は、格好の的だ。
私はまだ力の入れ具合も分からない体で、彼に攻撃を加えた。
「…ふっ…!」
「がぁっ…!?」
右足で蹴りを入れ、前のめりになった彼の横っ面を、裏拳で殴りつける。
信じられないことに、威力は絶大だった。
バットを取りこぼすほど派手に、彼はその場に倒れ込んだのだ。
「…カハッ…!!」
彼は地面に横たわった状態で、必死に空気を求めもがいている。私の素人キックが効いたのは、彼が元より貧弱だったのが理由だろう。あまりにも簡単に、彼は窮地に陥っていた。
「くっ…クフッ…カハッ…」
私はそんな彼を尻目に、地面に転がるバットを拾い上げた。
…そして、横たわる男の顔を眺める。
彼は、目に涙を溜めていた。
「ィッ…!!」
彼は悲鳴を短く漏らす。
しかし私は、目的の最短ルートを知ってしまった。
迷うこと無く、右手のバットを振り上げる。高々と頂点を掲げたその棒切れは、しかして見るものによっては凶悪な武器に成り代わる。
「………」
「………」
…私はその状態のまま、一瞬だけ動きを止めた。
「殺す」と言う行為は、初めてだった。
その意味を今一度考える必要が私にはあった。
彼は怯えた表情を浮かべている。
彼は懇願していた。言葉も出さずに、彼は私に慈悲を乞うていた。
彼は自分が死ぬことを分かっている。つまり2人の結末が、どちらかの「死」である事を理解している。という事は、私が今行おうとしている「殺す」行為は、相手に「死をもたらす」と言う意味であっているのだろう。
(…これでいい)
私は一瞬の思考を終え、再び彼を見つめ直した。
しかし今度は、彼を観察するためでは無い。
目標を、見据えるためだ。
私は、バットを振り下ろすことに決めた。
「…目的を、完遂します」
そうして、私は初めての「殺し」を体験した。