面倒くさいキャサリーヌはどうしても走り出す
ウケの悪そうなキャラで書いたため、どうしょうかなぁと思いつつ、投稿。温かい目で見ていただけると嬉しいです。
朝は無糖のコーヒーにサラダ。私ビスタリオ・コンプトンの朝食はいつも決まっている。
特にコンプトン伯爵家の当主として仕事をするようになってからは、私が未熟なせいもあって日々の仕事に忙殺され食欲も湧かない。
仕事人間だった父は、私に当主の座を譲るとさっさと田舎に引き籠ってしまった。てっきり、事業の方に力を入れるのかと思っていたがどうも違ったらしい。
引退したら、母と今まで出来なかったことをやって残りの人生を謳歌するつもりだと言ったのだから驚きだ。
結局父が大きくしていった事業を私が受け継いだため、領地運営と事業でいっぱいいっぱいの毎日だ。
私には姉が一人いる。彼女の名前はレイラ。美しく聡明ではっきりものを言う女性だ。私の理想の女性で、出来るなら姉のような人と結婚したいと思っていた。
姉は父に似て商才があり、いくつか事業を立ち上げている。残念ながら、女性である姉の名前では相手にしてもらえない為、父が出資している事業と言うのを前面に出している。
貴族の女性が事業を興すなど如何なものかと世間の姉に対する目は冷ややかだが、姉は人の目など気にしない堂々とした人だった。
父が「お前が男だったら」と言うと、「残念でしたわね」と引き攣った笑顔で微笑む姉を何度も見てきた。父は姉の最大の理解者で最大の苦しみを与える人だ。
そんな姉も4年前にアルパイン伯爵家に嫁ぎ、時々フラッと遊びに来る程度しか顔を見ることもなくなった。
姉の事業はいつの間にかアルパイン伯爵家の事業となっていた。そのおかげもあって、昔の栄華など見る影もなく落ちぶれていたアルパイン伯爵家が、再び息を吹き返し社交界に返り咲いた。
「リオ様!おはようございます」
少し甘ったるいこの声の持ち主は、キャサリーヌ・クラリタ。クラリタ侯爵家のご令嬢で私の婚約者だ。
何故か、花嫁修業と称して我が邸に3か月前から住んでいる。
まだ、結婚もしていない二人が一つ屋根の下で暮らすなど、貴族として有るまじき行為だが侯爵家の力を以て押し切られた。
クラリタ侯爵の、早くキャサリーヌを結婚させたい胸の内が見え隠れしている。いや、はっきり見えている。
キャサリーヌは16歳にしては幼く、淑女教育もあまり進まなかったようで、はっきり言えば、人前に出すには恥ずかしいレベルだ。
侯爵家の次女として存分に甘やかされたキャサリーヌは両親も手を焼くほどの問題児に成長してしまい、なぜか私に押し付けた。なぜだ?
キャサリーヌ曰く、ある貴族のパーティーでバランスを崩したキャサリーヌを受け止めたのが私だったらしい。
はっきり言って私は覚えていないが、彼女は間違いありませんと言い切り、顔を赤らめて、「それがわたし達の運命の出会いです」と言った。
背中にゾクッとする恐怖を感じたのを、未だに鮮明に覚えている。
キャサリーヌは私の横まで来ると、モジモジと後ろに隠し持っていた数本のカスミソウを私に差し出した。正確には勢い余って私の顔にカスミソウが押し付けた、だ。
「わたしがお庭から摘んできたんです。リオ様にプレゼント」
キャサリーヌは、私の顔がカスミソウに突っ込んでいてもお構いなしに、頬を赤らめて上目遣いに私を見ている。
「…あ、ああ、ありがとう、キレイだね」
私はそう言ってカスミソウを受け取った。
「……」
キャサリーヌからは特に言葉が無い。顔を見れば、何やら頬を膨らませて不満気だ。なんだ?
「それだけですの?」
「ん?」
「それしかありませんの?」
「それしかとは?」
みるみるキャサリーヌの目に涙が溢れてきて、あっさりと零れ落ちた。
「酷いですわ、リオ様!それが婚約者に言う言葉ですの?もう知らない!」
そう言うと、ドレスを翻し走ってダイニングルームを出て行った。
「……ケイトリン」
少し離れた所で控えている侍女のケイトリンに声を掛けた。
「はい、ビスタリオ様」
「私は何か間違ったことを言ったのかな?」
「いえ、特に間違ったことは仰っておりません」
「だよな」
「ですが、キャサリーヌ様がお求めになっているお言葉でもなかったかと」
「キャサリーヌはなんと言って欲しかったんだ?」
「キャサリーヌ様は、ビスタリオ様に『てっきり花の妖精が舞い降りたのかと思ったよ、私の可愛いお姫様』で、ほっぺにチュ!もしくは『私の可愛らしい婚約者の前では、この可憐なカスミソウでさえ引き立て役にもならない』で、抱きしめてチュ!を望んでおられます」
「……」
溜息しか出ない。毎度毎度なんなんだ。
「それで、私はどうするべきかな?」
「ご自分でお考え下さい」
「勘弁してくれ」
何かと言えば不貞腐れて、泣き出して大暴れをしているキャサリーヌを、どうやって宥めるかも私の仕事だ。一番不要で一番面倒くさい仕事。最近では、その仕事を半分放棄している。
父の友人であるクラリタ侯爵の頼みと言うこともあって、キャサリーヌが私の婚約者になった時、すまなそうな顔をしていた父の顔を今でも忘れてはいない。
婚約の話を聞いた時、私は外国に留学してた。私が18歳でキャサリーヌが13歳の時だ。
卒業まであと僅かと言うこともあり、すぐに帰らなかった私も悪かったが、私の承諾も得ずに婚約を結んだ父に、その時ばかりは怒りが込み上げた。
キャサリーヌとは面識はなかったが、噂くらいなら聞いたことがある。容姿はとても可愛いが、頭がお花畑だとか何とか。
私の理想とする姉には遠く及ばないご令嬢の言動は、多分に私を混乱へと招いた。そして、今となっては諦めの境地だ。
放っておこう。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、私は執務室に向かった。今日も、仕事が山積みだ。
執務室では、側近のウィリアムが書類を仕分けしている。父の代から働いていたガバローの息子で、ガバローの引退を機に見習いから昇格して側近になった。
この有能な男が居なかったら、私は全てを捨てて逃げ出していたかもしれない。
「おはよう、ウィル」
「おはようございます、ビスタリオ様」
書類は丁寧に仕分けされ、最優先の書類が一番上にあって下に行くほど、時間に余裕があるものになっている。
とはいえ、ほとんどが最優先の為、ウィリアムの判断はかなり大きな影響を与える。それを任せられるのも、彼を信用しているからだし、私がまだまだ至らないからだ。
今は、父が全幅の信頼を寄せているウィリアムに認められることが私の目標だ。
「先ほど、キャサリーヌ様とすれ違いましたが」
「…うん、何やらご機嫌を損ねたらしい」
「またですか」
「仕方ないだろう。彼女の思考は斜め上の私の考えが到底及ばないところにあるんだ」
「ははは、確かに。そう言えば、聞いてもいないのに、「わたしは、花園に行きます」と仰っていらっしゃいましたが」
「…はぁ」
ウィリアムを通して、私に迎えに来いと言っている。
「行くべきか?」
「ご自分でお決めください」
分かっている。行けば少しは機嫌が直ってその後の煩わしさも少しは減るかもしれない。しかし、私は何のためにそんなことをしなくてはならないのか。
だが、私がうだうだをしている間に勢いよくドアが開き、私は一気に絶望感に包まれた。キャサリーヌが、泣きながらやってきたからだ。
「なぜ、迎えに来て下さらないのです?」
「キャサリーヌ、落ち着いて」
「キャサリーヌではなく、キャシーと呼んで下さいませ、といつも言っていますのに!」
「す、すまない、キャシー」
「リオ様は、わたしが一人で泣いていても平気なのですか?酷いわ、わたしはずっとリオ様が来て下さるのを待っていたのに」
「キャサリー、んん、キャシー、すまない。ところで朝食は取ったのか?」
出来れば上手く話を逸らしたい。それに、朝から花を摘んでいたんだからまだ食べていないかもしれない。
「な、な、なぜ朝食なんですの!今言うべきことですの?信じられませんわ。ええ、まだ朝食は食べていません。リオ様とご一緒しようと思っていましたから」
「そ、それは悪かったね」
「…もう!リオ様は全然わたしのことを分かって下さっていないわ!」
言うだけ言って、またもやキャサリーヌは部屋を飛び出していった。
ウィリアムの大きな溜息が聞こえる。
「何だ?」
「今のは、ビスタリオ様のお言葉にも問題がありますよ。なんですか、朝食って。もっと別の言葉があったでしょう?」
「……、仕事をしよう」
「宜しいのですか?」
「いつものことだ。あとでご機嫌を伺いに行くよ」
きっと彼女は、ベッドで盛大に泣いているだろう。キャサリーヌ付きの侍女カレンが、上手くあやしてくれるといいのだが。
気持ちを切り替えて仕事に取り掛かろうと、一番上に置かれた最優先とされる書類を手にして私は目を見張った。領内で、突然の大雨による災害が発生したとある。
暫く仕事に集中していたが、気が付けば昼食の時間をかなり過ぎ、ティータイムに丁度いい時間となっていた。8時間飲まず食わずだ。
「少し休憩をするよ」
ウィリアムに声を掛け、執務室からダイニングルームに向かう途中、中庭からキャサリーヌの鈴のような笑い声が聞こえてきた。侍女のカレンと一緒に刺繍を嗜んでいるようだ。
そうやって過ごしている姿はとても可愛らしく、あの変わった思考さえなければ、案外上手くいくかもしれないのにと思うこともある。
私は今日何回目かの溜息を吐き、意を決してキャサリーヌの方へ歩き出した。
キャサリーヌが私に気が付くのは早かった。
「リオ様!」
私に向けられる笑顔は、花のようだとも天使のようだとも思う。それくらい可愛らしい。
「キャサリーヌ」
キャサリーヌは駆け寄って私に抱き付いた。
「キャシーですわ」
「キャシー」
「お仕事は終わりましたの?」
「いや、休憩をしようと思ってね」
「ま、昼食はお食べになりました?」
「まだなんだ」
「それでは今から?」
「ああ、何か軽く食べようかと思って」
「それでしたら、わたしがご一緒しても宜しゅうございますか?」
「もちろんだよ」
「嬉しい!」
どうやら既に機嫌は直っているようだ。カレンを見れば、目で大丈夫だと合図をしてくれた。毎回カレンには感謝しかない。
キャサリーヌは侯爵令嬢であるにもかかわらず、令嬢らしくない。走るし、泣くし、よく転がる。
キャサリーヌの姉のアメルダは彼女よりも6歳年上で、品があり侯爵令嬢として全く隙の無い完璧な女性だ。
可愛らしいキャサリーヌとは違い、美麗と形容される容姿をしている。
どちらかと言うと、キャサリーヌよりアメルダの方が私の好みだ。だからと言って、決してやましい気持ちがあるわけではない。
やましい気持ちはないが、アメルダが婚約者だったらもう少し良い関係を築けたのではないか、と思っているのも事実だ。
残念ながらアメルダは、数年前にバルデス公爵と結婚し、今は社交界の華として君臨している。
「キャサリーヌ」
「キャシーですわ」
「キャシー」
「はい」
キャサリーヌは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「今朝は悪かった。私はどうも察しが悪くてね」
「まぁ、リオ様はまだそんなことを気になさっていらしたの?わたしは、もうすっかり忘れてしまいましたわ」
「そうか」
そう言って私は、幼子の頭を撫でるようにキャサリーヌを撫でた。
私がキャサリーヌを嫌いになれないのは、天真爛漫でくるくる動く表情とこのさっぱりした性格のせいだ。
面倒くさいのは確かだが、時間のお陰かカレンのお陰か、いつの間にか気持ちを切り替えている。斜め上を行く思考には常に振り回されているが、最近はそれにも少し慣れてきた気もする。
「リオ様は、向日葵がお好きでしたわよね」
「ああ、そうだよ」
「ふふ、わたし今、ハンカチに向日葵の刺繍をしていますの。出来上がったら貰って下さいませ」
「それは楽しみだ」
ダイニングルームに着くと、既にウィリアムから連絡が入っていたのか、サンドウィッチとサラダとスープが出てきた。
私が軽く食事をしている間、キャサリーヌはシフォンケーキを食べている。彼女のお気に入りは、シフォンケーキに生クリームとメープルシロップをたっぷりかけて食べることだ。いつも飲んでいるのはアールグレイの紅茶。
そして、ずっと話をしている。庭のあの花が芽吹いたとか、カレンと行った店の雑貨が可愛かったとか。私は少しの相槌を打つだけ。
今ここで話をしている人が私の姉だったら、仕事の話や領の話になっているだろう。貴族間のいざこざを突く算段をいろいろ立ててみたり、仕事の幅を拡げるために相談したり。
私は姉と話をする時、かなり饒舌になる。彼女と話をしていると、自分には何でも出来そうな気がするのだ。彼女は才能を見抜いたり、発破をかけるのがとても上手だ。
「聞いていらっしゃいます?」
キャサリーヌの言葉でハッと我に返った。
「すまない、少し考え事をしていた」
「もう!ですから、今度のお休みに一緒に街に行きましょうって言っているんですわ」
「街に?」
「はい!とても素敵なお店を見つけたんです。ぜひ、リオ様と行きたいと思いまして」
「うーん、そうか。でもなぁ、暫くは難しいかな」
「無理ですか?」
「いや、行けないこともないとは思うんだけど」
「行けるんですか?」
「そうだなぁ、いや、今は無理だろうな」
「行けないんですか?」
「そうとも言えないか」
「どちらですか!」
私の曖昧な返事に、キャサリーヌは苛立ちを隠せない。
「はっきり言って下さいませ」
行けないことはないと思うが、今は難しいというより無理だ。雨による災害には一刻も早い対応が求められる。とはいえ、キャサリーヌをどこにも連れて行ってあげたことがないことは気になっていたし、行った方がいいことも分かる。
「あとでウィルに聞いてみるよ」
「ウィリアムがいいと言ってくれないと行けないんですか?」
「いやそうではないが、やらなくてはならないことがあるし、ウィルに迷惑を掛けたくないからね」
え?なんでだ?キャサリーヌが泣き出した。
「わたしより、ウィリアムの方が大事と仰るの?」
「え?何故そうなる?」
「わたしが寂しい思いをすることよりも、ウィリアムに迷惑を掛ける方が心配と仰るのでしょう?」
「いや、そういうわけではなくて」
「酷い、リオ様。わたしはいつも我慢していますのよ」
「それは、すまなかった。私が悪い」
「わたしとお出掛けしてくださいますの?」
「分かった、出掛けよう。約束だ」
私がそう言うと、しゃくり上げながらもキャサリーヌは泣き止んでくれた。走って出ていかれる前に落ち着いてくれたことに安堵してしまう。
「嬉しい。わたし、とても楽しみですわ」
キャサリーヌは、本当に嬉しそうに微笑んでいる。
「リオ様とお出掛けなんて初めてですわね」
「そうだね」
これは何が何でも出掛けなくては。もし、出掛けられないなんて言ったら大変なことになる。私は身が引き締まる思いがした。…言葉の使い方を間違えただろうか。
「お出掛けですか?」
「ああ、今度の休みと言っていた」
「ビスタリオ様が休みを取れるのは、そうですね。早くても20日後ですね」
ウィリアムがスケジュールを確認した。
「しばらく休み無しか」
「申し訳ありません。北部で起きた雨による災害の視察が、急遽入りましたので」
「事故も起きているんだったな」
「はい。これは先延ばしに出来ませんので明日には必ず出発します」
「分かった。キャサリーヌにはそのように伝えよう」
「ああ、その際にはお土産を買ってくることを伝えてあげてください」
「土産か」
「長く邸を空けることになりますので、寂しい思いをさせてしまいますでしょうが、ビスタリオ様が彼女の為に何か考えていると知られたら、喜んでくださるでしょう」
「考えたのは君だがな」
「嘘も方便です」
「君は優秀だな」
「恐れ入ります」
キャサリーヌに事情を説明すると泣きそうになったが、お土産を買ってくると伝えたら機嫌を直してくれた。
お土産は何がいいか、と聞いたらなんでもいいと言われた。それが一番困ると言うと、リオ様がわたしのために悩んでくださるだけで、わたしは嬉しいのです、とキャサリーヌは言う。やはり、私の側近は優秀だ。
視察に向かう当日、思いの外キャサリーヌは明るい表情だった。
「リオ様、お気を付けて」
「ありがとう。何か困ったことがあったら、ベンジャミンや家の者にすぐ言うんだよ」
「はい、大丈夫ですわ。カレンもいますし」
キャサリーヌの後ろで、カレンが力強く頷いている。頼もしい。
「では、行ってくる。ベンジャミン、後を頼んだ」
「お任せ下さい」
家令のベンジャミンは何十年も勤めてくれているベテラン。彼もとても頼りになる男だ。
馬車に揺られながら向かう先は、コンプトン領の最北端にあるマドロナという小さな村だ。大雨のせいで地盤が沈下し、何戸も家が崩壊したと報告を受けている。
「道があまり良くありませんので、2日は掛かると思ってください」
向かいに座っているウィリアムは、資料を何度も見返してはチェックをしている。ビスタリオの手にも、頭を抱える数字が記載された資料がある。
「少しは状況は改善しているのか」
「雨が止んで全体的に乾いてきていますが、そんなに変わらないようですね。仮の住まいは早急に必要となります。支援物資は早めに送るべきですが、まずは何が必要が調べてからでないと」
「うん。道の整備も必要だな」
「そうですね。まさか、ここまで荒れるとは思いませんでしたからね」
マドロナは小さな村だが、隣りのスペンサー領との境と言うこともあって人の往来もそれなりにある。そんな場所で水害となれば流通にも大きな影響を与える。
まずは住民の安全と生活を確保してそれからか。私が領主になって初めての大きな仕事となった。
◇◇◇◇◇◇◇
10日間かけて視察から帰ってきた時、邸には両親と姉が帰ってきていた。今回の災害を心配して、私が出立してすぐに入れ違いで駆け付けてくれていたらしい。
父が仕事を代行し、母と姉がキャサリーヌの相手をしてくれていた。キャサリーヌに寂しい思いをさせるのではと心配をしたが、そうではなかったことはありがたい。
しかし、姉はここに居ていいのだろうか?
父と仕事の引継ぎをしながら被災した地域の対応を話し合う。父の的確な指示や、今後起こりうる懸念事項に対する対応など、さすがの一言しか浮かばない自分に情けなさを感じつつも、心強い安心感も感じている。
今後の見通しが立った頃、両親は帰っていった。母との別れの際に、キャサリーヌが大泣きしていたのがちょっと気にかかる。二人はいつの間にそんなに仲良くなったのか。
そして、姉は未だに帰る様子がない。
両親が帰った日の夜。姉が私の執務室を訪ねて来た。姉の後ろに控えていた侍女が、酒の道具を一式準備して出て行った。
「私のお気に入りのブランデーなの。一緒に飲もうと思って」
「それは嬉しいですね」
我がコンプトン家は酒豪の集まりで、飲み出したら朝まで周りの人が引くほど飲む。なので、姉はコンプトン邸以外では殆ど酒を口にしなかった。
酒豪と知られれば離縁される、と笑っていたのは何時のことだったか。
「最近は酒をお召しなんですか?」
姉が持ってきたブランデーは初めて飲む。結婚してからは、あまり酒を口にしていないと思っていたので意外な気がした。
「そうね、もう一年位かしら」
「そうでしたか」
二人でグラスを合わせるといい音がした。
「うまい。少し甘めですね」
「ふふ、そうなの。梨を原料にしていて好きな香りなのよ」
「意外です。姉さんは甘い酒はそんなに好まないと思っていたんですが」
「前はそうだったんだけど。飲んでみたら、意外と好きって気が付いたわ」
久しぶりにのんびりと姉弟で向かい合ったが、改めてみると姉は随分痩せていた。顔色も幾分悪く見える。
「最近はお忙しいんですか?」
「そう見える?」
「そうですね」
「…暇よ。あの家に居ても何もすることが無いの。本当に暇」
「…そうでしたか」
没落寸前のアルパイン伯爵家との結婚の話が急に湧いてきた時、姉は部屋でひっそりと泣いていた。姉とガデッシュ・アルパイン伯爵は、政略結婚で殆ど交流もないまま姉は嫁いでいった。
「ビスタリオ、私は近いうちに離縁されます」
「は?」
「お父様とお母様にも伝えました」
「ど、どういうことですか?」
姉は寂しそうに笑って、ブランデーを一気に飲み干した。
「私とガデッシュ様の結婚は、最初から破綻していたわ」
「……っ!」
私は最初からこの結婚には反対だった。我が家に何もメリットの無い結婚などする必要はないと父に猛抗議した。
相手のガデッシュから聞こえるのは悪い噂ばかりで、こちらが資金援助をする。一体何のために姉を犠牲にするんだと父の執務室に怒鳴り込んだのだ。
姉は泣いていたのだ、声を殺して。きっとこの結婚が嫌なんだ。私が姉を守らなければ。そんな使命感から父と対立したが、あっさり論破されて終わった。
姉は能力に溢れた人だ。アルパイン家を立て直すなら、姉程適任者は居なかった。
女主人として事業家として、アルパインの名で成功をすれば自分の価値を証明出来ると言った。父の陰に埋もれてしまうことなく、姉の力で。
無謀とも言えるその挑戦は、姉が結婚を決意するに十分な魅力を孕んでいた。そして、姉は見事にアルパイン伯爵家を立て直し、更に過去の栄華を取り戻すほどの潤沢な財産を作り出した。それなのに。
「初めから分かっていたことではないですか」
「そうよ、最初から分かっていたわ。でもね、最初の頃は少しは私に敬意を払ってくれていたのよ。だから、少しずつ、お互いの距離を縮められればいいと思っていたの。私の独りよがりだったけど」
「……」
アルパイン伯爵家は当主が7年前に事故で無くなり、そこから当主の妻でガデッシュの母であるアニータが必死に領地を守ってきた。とはいえ、領地運営の経験など無いアニータには問題を解決する術もなく、裏切られ搾取され輝きを失っていく領地をただ見ていることしか出来なかった。
息子のガデッシュは平凡で人任せな性格も手伝って母を助けることは考えなかった。周りがどうにかしてくれるだろう。
危機感のないガデッシュには現実が見えていない。漸く見え始めた頃には没落寸前だった。
そんな中、自分たちを助けてくれる最後の頼みの綱が、レイラ・コンプトンとの結婚だった。
最初から上手くいかなくても、時間を掛ければガデッシュが心を開いてくれるかもしれない。姉は自分が出来ることに尽力した。
まずは邸を掌握した。使用人の心を掴み、信頼関係を築き、味方を増やして立て直していった。
事業にも力を注ぎ、夫を前に立たせ自分は一歩下がった。ガデッシュはその扱いに十分満足していた。
2年で負債を全て返済した。
事業を拡大し女性にも働く場所を与え、領民の生活が豊かになっていった。領民の要望を出来る限り吸い上げ、問題を解決することに尽力したことで、領主と領民の間に無くなっていた信頼関係が戻ってきた。
正確には、レイラと領民との間だったがガデッシュの名で改革していったから、領民はそうとは知らない。
3年もするとガデッシュは投資をするようになった。
いい結果を生むことはなかったが、潤沢な金があれば些細な失敗など気にならない。レイラが、もっと慎重にと注意すれば、鬼のような顔をしてレイラを詰ったし、時には暴力を振るった。
そして、ついには邸に愛人を連れてきた。
我が物顔で闊歩するガデッシュの愛人モニカは、レイラを常に下に見ていた。
自分がこの邸の女主人であるかのように使用人を使い、レイラに部屋を出るように毎日のように文句を言った。レイラの部屋はアルパイン伯爵家の女主人が使う部屋だ。モニカに使う資格など無い。
流石にガデッシュは、それに同調することはなかったが、自発的に部屋を明け渡すなら問題はない、と何も言わなかった。
母親のアニータ・アルパインはレイラの味方だったが、息子に強く言える人ではなかった。家を没落寸前まで落としてしまった負い目もあって、泣きながらレイラに謝るのが精いっぱいの弱い人だった。
4年目に入って半年も経った頃には、モニカのお腹が大きく目立つようになってきた。
妊娠したとは聞いていたが、日に日に大きくなるそのお腹を見ると吐き気がして、邸に居ることが苦痛となった。
モニカの態度は最早自分こそがガデッシュの妻でこの邸の女主人だと言わんばかり。早く邸を出ていけとがなり立てる日々は、レイラの心を闇へと堕として行くのに十分だった。
「ガデッシュ様はね、私のことを石女って呼ぶのよ」
「なんてことを…」
「子供も産めない女は必要ないって言われたわ」
「本当に…?」
「ふふ、知らないわ。だって私達寝室を共にしたことなんて3回しかないのよ」
「……」
バカにしやがって。
「私があいつを八つ裂きにしてやります」
「ありがとう。でも大丈夫よ。もう、いろいろと吹っ切れたから」
「あいつだけいい思いをして、何が大丈夫なんですか!」
「私もいけなかったのよ。私って可愛い女とは言えないでしょ?仕事ばかりしていたから、男性が喜ぶような話も出来ないし。こんな女じゃ離縁されても仕方ないわ」
「そんなことない!」
「ふふ、落ち着いて。私はのんびりと話をしたいわ」
私は怒りで心臓の鼓動がかなりうるさくなり、頭に血が上っているのも分かる。
「すみません」
「あなたが怒ってくれて嬉しいわ」
私にはそれしか出来ない。それが歯痒い。
「あなたとキャシーは上手くいっているのかしら?」
「私達の話など今はどうでもよいではないですか」
「いいえ、聞きたいわ。私キャシーが大好きなのよ。本当にあの子が妹になるなんて嬉しくて」
「いつの間にそんなに仲良くなったのですか」
「実はね、あの子がこの邸に住むようになってからだから、3か月くらい前からよ」
「そんなに前から…」
「あの子ね、リオに迷惑を掛けたくないから女主人としての仕事を覚えたいって、私に教えを乞いに来たの」
「そんなことが」
「緊張していたのね。涙目になりながら、私に頭を下げていたわ。私は一目で彼女を気に入ってしまったの」
生きる気力も湧かず、感情が消えかけていた時に、キャサリーヌが現れた。
家の為、ビスタリオの為に色々と教えて欲しいと手紙を貰った時は、涙が止まらなかった。
キャサリーヌと頻繁に会うようになった。内緒で仕事を覚えて、ビスタリオを驚かせたいのだと張り切っている姿が可愛らしい。
キャサリーヌの笑顔は、レイラの心を浸食した闇の中を照らす一筋の光。
キャサリーヌの涙は、乾ききったレイラを潤す命の雫。
キャサリーヌの手の温もりは、冷え切って生きる意味を忘れたレイラの心に灯ったともしび。
キャサリーヌにレイラは救われた。たとえ本人にそのつもりはなくても。彼女に出会わなければ、死ぬか狂っていたかもしれない。
「キャサリーヌがそんなことを」
「あら、ダメじゃない。キャシーでしょ?」
「そうでした」
「ここに来てからも、毎日お母様と私とキャシーでお茶を飲んだり、お話をしたり、お勉強をしたり、本当に楽しかったのよ」
母と姉に見てもらえたのなら、キャサリーヌはかなり勉強になっただろう。
「本当に彼女はあなたのことが好きなのね。あなたの話をしている時、本当に幸せそうだもの」
「はは……」
何となく居た堪れない。
「あの子のように素直になれたら、何かが変わっていたかしら?」
「姉さん…」
「あんなに可愛く拗ねることが出来たら、少しは彼の気を引けたかしら?」
「……」
「思いっきり我儘でも言ってやればよかったのかしら。……バカみたい」
「姉さんには姉さんの素晴らしさがあります。キャサリーヌとあなたは違うんです。私は、姉さん程素晴らしい女性は居ないと思っています」
「ありがとう。彼があなただったらよかったわ」
「……」
「ふふふ、こんな時でも涙も出ない。私って本当に可愛げのない女だわ」
「姉さんは可愛いですよ。綺麗だし、聡明だし、優しい。姉さんの焼いてくれるマドレーヌはいつも最高だし、酒にも付き合ってくれるし」
「あなたやお父様に付き合えるのは、私とお母様くらいですものね」
「ははは、そうですね」
「……」
「……」
姉は苦しい胸の内をずっと言いたかったのだろう。でも、ずっと仕舞い込んで我慢をしていた。言えない女なのだ。弱みを見せられない不器用な女。それがレイラという女なのだ。
痩せ細り顔色を悪くしている彼女に、何故自分は気が付いてやれなかったのか。ここまで追い込まれる前に気が付いてやれれば、状況はもう少し違ったかもしれないのに。
「ここにいる間、アルパインの侍女長が毎日私に手紙を送ってくれていたから、ある程度の状況は知っているの」
「そうでしたか」
「ガデッシュ様が、離縁の書類と婚姻の書類を入手したって」
「…ふざけやがって」
「私が帰れば、即離縁するつもりで待ち構えているわ。ふふ、離縁しても半年は婚姻出来ないのに気が早いわよね。子供が生まれても、私生児よ。ふふふ」
「帰る時は私も一緒に行きます」
「あら、大丈夫よ。お父様が来て下さるから」
「父さんが?」
「慰謝料をたっぷり請求してやるって息巻いていらっしゃったわ」
結局半分しか父の目論見通りにはならなかった。姉は女主人としてアルパインを立て直したが、仕事で彼女の名前を前面に出すことはなかった。罪滅ぼしのつもりなのか、アルパインを潰してやると言い切ったそうだ。
「そこは私にお任せ下さいと言っておいたけど」
姉がアルパインに嫁いだ際に、事業の契約書が書き換えられ、『レイラ・アルパインである限りその利益はアルパイン伯爵家の物となる』とされている。つまり、離縁しアルパインでなくなればどうなるか。
「ガデッシュ様って全然事業家に向かないの。契約書も殆ど読まないでサインしてしまうのよ。バカよね」
姉がクスリと笑った。苦労をしたことがない男なのだ。苦労したのは自分の周りの人間。
一度覚えた贅沢を止めるのは難しい。離縁し事業を失い、領地運営もまともに携わってこなかった彼の将来はどうなるのか。
「絵画や古美術の売買だけはお義母様にそのままお譲りするつもりよ。お義母様のことだけは心配だから」
ほどほどの利益を上げている絵画や古美術の売買を、実際に行っているのはレイラが育て上げたダンと言う青年で、利益の何割か直接アニータには入るようになっている。
それは慎ましやかに生活をするアニータには十分な金額で、自分が居なくなっても苦労しなくて済むようにというレイラの心遣いだが、ガデッシュには一切渡らないように管理人も付けている。
「あなたは優しすぎます」
「そんなことないわ。私はガデッシュ様の破滅を願っているのよ」
「でも領民の為に事業の移転はせずに、領民の雇用を守るつもりなんですよね」
「…そうね、あちらがどう出るかによるけど。領民には何の罪もないもの」
姉が言った通り、姉がアルパインに帰って直ぐに離縁が成立した。事業を失うことに怒り狂っていたガデッシュだが、父が思いっきり殴りつけて黙らせたらしい。
姉に手を挙げようとしたガデッシュに対して、正当防衛を主張し「出るところに出るぞ!」と脅した。
アニータと使用人がレイラの横と後ろに立ち、誰の味方かを分かりやすく主張し、母親と邸中の使用人を敵に回していることに気が付いて、ガデッシュとモニカは一気に消沈していった。
アルパインを出て、暫く両親の所に身を寄せていた姉がザイオン辺境伯、今はエネシス男爵の元に後妻として嫁いだのは、半年後のことだった。
年が20歳以上も離れていたが、既に辺境伯の爵位は息子に譲り、後継者を必要とはしておらず、石女と言われていた姉には、気負うものがなくありがたいお話だと笑っていた。
結婚式で久しぶりに会った姉は、昔の輝きを取り戻し、いや、それ以上に輝き、幸せに満ち溢れていた。そしてふっくらとしたお腹。
「ふふふ、順番を間違えてしまったわ」
そう言って恥ずかしそうに笑う彼女の横に、白髪の美丈夫が優しく寄り添っている。
姉の夫のエネシス男爵は、元辺境伯の名に相応しく、素晴らしい体躯に溢れる威厳と包容力で姉をすっぽりと包み、これでもかと愛情を注いでいる。
「私ね、彼の前だと我儘なの。怒ることもあるのよ」
可笑しそうに姉は笑う。
「だって彼ね、私の姿が見えないと、邸中大騒ぎして探し回るの。本当に大変なんだから。それで私が怒ると、あの大きな体を小さくしてシュンとしているの」
エネシス男爵が辺境伯と名乗っていた頃は、国の参謀として手腕を振るい、彼なくしては国の防衛は語れない、と言わしめたまさに防衛の要の存在であった。
そのエネシス男爵が、20歳以上も年下の妻に叱られて小さくなっているとは、何とも微笑ましい話ではないか。
あの日の姉の笑顔は本当に美しかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「リオ様、今度はあちらに行きましょう」
今日は前に約束した通り、街に買い物に来ている。
結局全く休みが取れず、気が付けば一か月が過ぎていたが、キャサリーヌは文句も言わずに待っていてくれた。
他のことではいろいろと大騒ぎしていたが。
久しぶりの休みだからのんびりしたい気持ちもあったが、これからはしっかり休みも取れるようになるだろうから、まずは約束を果たさなくては。
決して自分のそばを離れず、勝手な行動をしないことをしっかりと言い含めて、カレンと護衛にライネスを付けて4人で買い物をしている。
ビスタリオの手を引っ張って、目当ての宝飾店に入るとキャサリーヌは目を輝かせた。
「欲しいものがあるのか?」
「ふふ、どれもこれも素敵で迷ってしまいますわ」
キャサリーヌはそう言うが、彼女がじっと見つめている可愛らしいネックレスの存在に気が付かないほど、ビスタリオは鈍くはない。そしてその黄色み掛かったエメラルドが、自分の瞳の色だと分からないビスタリオでもない。
「あー、楽しかった。わたし、他にも行きたいところがありますの」
そう言って、何も買わずにキャサリーヌは店を後にした。次に向かったのは雑貨屋で、ずらっと並んだ髪留めは少女を一瞬にして虜にした。
「素敵、あぁ、これも可愛いわ」
キャサリーヌは夢中になって、あれこれ鏡を見ながら自分に合わせている。
ビスタリオには何が違うのか全く分からない。キャサリーヌは二つの髪留めを見比べてずっと悩んでいる。
二つとも買えばいいのにと思うが、こうやって悩むのが楽しいのだろう。そう思って見ていたらキャサリーヌがビスタリオに二つの髪留めを差し出した。
「リオ様はどちらがいいと思います?」
蝶と、リボン…、違いが全く分からない。正直、どっちでもいい。
キャサリーヌの目に涙が浮かんできた。なに?
「酷い、リオ様」
どうやら心の声のはずが、しっかり声となって出てしまっていたらしい。
キャサリーヌは店を飛び出していった。
「キャ、キャサリーヌ!」
追いかけようとしたが、店主からがっちりつかまれ代金を請求された。慌てて支払いを済ませキャサリーヌを追いかけようとした時には、どちらに行ったのか分からなくなっていた。護衛についてきたライネスが追いかけたが、急な出来事に出遅れ見失ってしまっていた。
「カレンが追いかけましたので、一人きりではないと思うのですが」
「分かった。手分けして探そう」
ライネスと別れて私は人通りの少ない方を探すことにした。私が息を切らして必死にあちこち探している間に、ライネスがキャサリーヌを見つけてくれたが、テンプレよろしくちょっと荒くれ者風の男たちに囲まれていた。
「お嬢様!」
ライネスが駆け付けあっという間に男たちを撃退すると、一緒に居たカレンは力が抜けて座り込んでしまった。そして当のキャサリーヌは変わらずに不機嫌そうだ。
「なんでライネスなの?!」
「え?」
「ここで助けに来るのはリオ様でしょ!」
「は?」
「ライネスがヒーローになったらダメなのよ!」
「マジか」
折角助けたのに、まさかのダメ出し。
そこへ現れた私への、恨みがましいライネスの目。現状が理解出来ない私に、キャサリーヌがギャーギャー言っていたが、とりあえず無事でよかった。
ライネスには特別手当を出しておこう。
休憩をしようと入ったカフェは、落ち着いた雰囲気のクラシックな内装で、人ごみに疲れた私はホッと息を吐いた。
私はコーヒーを頼み、キャサリーヌはアップルパイとセイロンティーを頼んだ。
隣の席にカレンとライネスが座り、何か話をしながらメニューを決めている。私はあの二人は付き合っているのではないかと思っている。はっきり言って、私の勘は当たらないのだが。
「リオ様、わたし今日はとっても楽しくて全然疲れませんわ」
私はぐったりだ。
「それはよかった」
「それで…」
何やらキャサリーヌがモジモジしながら、バッグの中から長方形のリボンが掛けられた、小さな箱を取り出し私の前に差し出した。
「これは?」
「初めて二人でお出かけした記念に」
初めて二人で出かけた記念?それは記念になるのか?
「開けても?」
「ええ、是非!」
中には、黒い艶の美しい万年筆が入っていた。
「とても美しい万年筆だ」
「気に、入っていただけましたか?」
心配だったのか、聞き方が控えめで少し面白い。
「ああ、とっても気に入ったよ。ありがとう」
私がそう言うと、キャサリーヌはぱぁッと笑顔になった。私も、内側の胸ポケットにしまっていた、小さな箱をキャサリーヌの前に置いた。
「…わたしに?」
「気に入ってくれるといいんだけど」
リボンをほどき箱を開けると、中には先ほどのエメラルドのネックレス。ライネスに頼んで買っておいてもらったものだ。
「これは」
元々大きな目を更に見開いて、そしてまたもや泣き出した。今度は走り出しもしないし、大きな声を出すこともない。静かに泣いている。
「とても嬉しいですわ。大切にします」
そう言ってキャサリーヌが笑った時、私はドキッとしてとても不思議な気分になった。
なんの意味もなく買ったネックレスだった。キャサリーヌが言うような記念の品のつもりもない。キャサリーヌが着けたら似合いそうだなと思っただけだった。
それなのに、キャサリーヌは一生の宝物のように大切そうに握り締めている。
私は今までキャサリーヌとの関係を、どこかおままごとのように感じていた。キャサリーヌの気が済めば終わる話のような無責任な気持ちがあった。
現実問題として、キャサリーヌに邸の女主人が務まるとは思っていなかったし、まだまだ幼いキャサリーヌを妻として迎えることは想像出来ない。ことあるごとにヒステリックに走り出すなんて面倒以外のなにものでもない。
だがどうだろう。いつも彼女に振り回された私は、いつの間にか彼女の涙をきれいだと思ってしまっている。
理想の女性だと思っていた姉はキャサリーヌに傾倒し、とても可愛がっている。
最初はすまなそうな顔をしていた父が、キャサリーヌに対してデレデレしていた時は気持ち悪かったし、猫を可愛がるかのようにキャサリーヌを撫でまくる母を止めるのは苦労した。
邸の使用人で、キャサリーヌを嫌っているものなど一人もいない。いつの間にかキャサリーヌは我が家の一員となり、家族に少なからず影響を与えている。
対して、私は彼女に紳士であっただろうか?一度考えてしまえば、自分が彼女を傷付けるような振る舞いをしていなかったか心配になってきた。
一日に何度彼女を泣かせているだろうか。いや、別に私が悪いのか、正直なところ疑問に感じることだらけなのだが、彼女を大切にしてきたかと聞かれたら、そうだとは言えない。
「私は、あなたを苦しめていないだろうか?」
ポツリと出てしまった。
キャサリーヌはキョトンとして首を傾げている。
「私は、あなたを大切にしていなかったと思っている」
益々キョトンとするキャサリーヌ。私は不安がどんどん込み上げてきた。
あの顔は間違いなく、今更何言ってんだ?おっさんって顔だ。散々泣かせてきて、今更そんな調子のいいこと言ってんなよって思っている。
冷汗が背中に伝うのを感じた。
「わたし」
キャサリーヌが口を開くと私はビクッとしてしまった。
「一度も幸せじゃない……」
心臓が爆発しそうだ。
「と感じたことはありません」
「……え」
「リオ様と一緒に居て幸せじゃなかった時なんか一度もありませんわ。そりゃ追いかけてきてくれないし、愛を囁いてくれないし、キッスもしてくれませんけど」
キッス。
「頭を撫でて下さいますし、褒めて下さいますし、優しく笑って下さいます。すぐに謝って下さいますし、プレゼントは喜んでくださいますし、いつも私の刺したハンカチを持っていてくださいます」
そう言えば、使いもしないのになぜか毎日キャサリーヌが刺繍したハンカチをポケットに入れている。
「わたしは毎日幸せですし、これから間違いなく幸せですわ。でも、わたしばかり幸せでは申し訳ないので、少しでもリオ様のお役に立てるように、勉強も頑張りますわ」
そう言って笑ったキャサリーヌの笑顔は本当に眩しかった。
認めなくてはいけないだろう。私が彼女に惹かれていることを。あんなに嫌だと思っていたのに、毎日振り回されてうんざりしている筈なのに、私の本当の心はそうは言っていないようだ。
「私は、とんでもない人をお嫁さんにするのかもしれませんね」
「ま、どういう意味かしら?」
キャサリーヌは可愛らしく笑った。
邸に帰る馬車の中で、疲れて寝ているキャサリーヌと手を握る私たちを生暖かく見守る二人の視線には気が付かないふりをした。
明日もキャサリーヌは走り出すかもしれない。でもその時は、少し楽しみながら彼女を追いかけることが出来るだろう。いや、いつかは彼女が走り出さなくてもいいくらいには、察しのいい男にならなくては。
あーでもないこーでもないと思案しながらも、これからを思うと幸せな気分になる帰り道だった。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
誤字報告ありがとうございます。
とても助かります。