二
みんなと異様な鳥を見た翌朝。
右手に覚えた激痛でセトは跳ね起きた。
ベッドから転げ落ちなかっただけでも自分を褒めたい気持ちになり、そんな感動も吹っ飛ぶほどの痛みに涙目で右手を確認する。
手の甲が赤く腫れていた。
だが、よく見れば全体的に充血して膨らんでいるというよりも、昨日見た赤い先がより濃くなっている。
以前よりもハッキリして、何かの形を示していた。
セトはじっと睨む。
「紋様、かな?」
よく見れば何かを象っている。
だが、セトの理解力では解明できなかった。
答えを探そうと注視していると、やがて痛みが引いていることに気づく。人の安眠を妨げた激痛は何だったのかと釈然としないまま、まだ腫れた手から視線を外す。
とりあえず手を冷やす処置が必要だと考えた。
セトは自室を出て外の水汲み場まで向かう。
桶を片手に水の湧く井戸まで向かうと、そのすぐそばに少女が立っていた。
丘の方から上がる日の光に赤い目を眇めている。
「おはよう、ルシェラ」
「ああ、起きてたんだね。 おはよう、セト」
セトがその横顔へと挨拶する。
気づいた少女ルシェラが振り返り、肩にかかる長い金色が揺れる。艶のある髪の毛先が日の光に重なって陽光のように眩しい。
セトは思わず見惚れて黙った。
「どうかした?」
「あー、いや?別に、ルシェラは早起きだなって思っただけ」
「少し怖い夢を見ちゃって」
「怖けりゃ父さんのベッドで一緒に寝てもらえば良いだろ」
「そんな歳じゃないよ」
ルシェラがくすりと笑う。
つくづく絵になるなあ、とセトは感心しながら彼女を見つめていた。
ルシェラはセトにとって同居人である。
実はセトの家は、この小さな村でむかし宿屋をやっていたことがあるため大きい。既に廃業はしているが、宿泊金さえ貰えれば旅人を家に泊めることたけは惰性で続いていた。
しかし、ルシェラは少し事情が異なる。
二年前からルシェラは宿にいる。
ある雨の日に傷だらけで夜道を歩いていた彼女を父が宿に連れて介抱したのが切欠だった。
行く宛の無い彼女と住み、今では家族となっている。当時は突然できた四つほと上の姉に驚かされ、思春期に入ったこともあって少し対応しづらくなっていた。
今では村一番の美女である。
その評判もあって彼女の前では緊張していた。
「手を洗いに来たの?」
「うん」
「なら私は家に戻ろうかな」
「そういえば、昨日だけど旅人さんが来てたぞ」
「え?でも昨日は家に誰も来なかったよ」
ルシェラがううんと唸る。
宿の仕事を手伝っているルシェラなら知っているはずだった。
昨日友達と話していた折に現れた黒髪の少女である。縦長のカバンを手にした異国風の風采の印象深い人物だった。
「黒い髪の、何か頬に書いてる…………シシューって言うのかな、そんなのしてる人」
「…………そう、知らないかな」
ルシェラの瞳にかすかな緊張の色が宿る。
それからすぐに微笑んでセトの頭を撫でた。
やや乱暴な手付きに、だが彼女に触れられたセトは思春期真っ盛りの精神でうろたえてしまい、慌てて手を引き剥がそうとする。
「教えてくれて、ありがとう」
「な、何だよやめろよ髪ぐしゃぐしゃすんな」
「あはは、良いでしょ。どうせ寝癖で――!」
抵抗するセトの手を見てルシェラが止まる。
不審に思ったセトは小首を傾げた。
「どした?」
「右手、どうしたの」
「え…………ああ、ちょっと腫れてさ」
「いつから」
セトの右手を胸に抱くように引き寄せる。
思わず固まったセトに、切羽詰まった面持ちでルシェラは問い糾した。
「きょ、今日の朝だよ」
「本当に?」
「…………実は昨日の昼からちょっと痛いなって思ってた」
少し強がってみせたが、真っ直ぐなルシェラの眼差しに射抜かれて渋々と告白した。
右手を赤い瞳が静かに眺める。
その表情がどこか悲しそうなものに見えて、セトは不審に思って覗き込む。
「どうかした?」
「セト、これ包帯を巻いて隠して」
「え?」
「お願い、これを他の誰にも見せないこと。人前では包帯をつけること。絶対に口にしてはダメ」
「何でだよ」
「約束して」
ルシェラが強い語勢で約束を求める。
セトは戸惑いながらも縦に首を振った。
すると、ルシェラは相好を崩してからセトを抱きしめる。
「大丈夫、だいじょうぶよ」
「なななな!?」
「大丈夫…………」
「ルシェラ?」
自分を抱く体が震えているのに気づいたセトが訝って名前を呼ぶ。
ルシェラは答えず、まるで自己暗示のように同じ言葉を繰り返した。
何を恐れているのかわからないセトは、だが安心させるように彼女の背中に腕を回して抱き返した。
右手の痣については誰にも話さない。
誰にも見せない。
その約束を守ろうと、震える姉の体に誓った。