一
竜暦七〇四年。
村の片隅で子供たちが集まっていた。
額を寄せて一冊の本に集中している。
一人だけ輪を外れてふてくされている赤い髪の少年がいた。
「またその本かよ」
「またセトだけつまんなそう!」
きゃっきゃと子供たちが燥ぐ。
少年セトは唇を尖らせてそっぽを向いた。
金色の瞳が不機嫌そうに細められる。
「だって何日も連続でその本だぜ」
「遊ぶ前に読めって父ちゃんたちうるさいし」
「大人も変だな」
「オマエも読まないと怒られるぞ」
「ちっ、わかったよ」
セトが渋々と子供たちの輪に入った。
糸で綴じられた本の紙面に視線を注ぐ。
少年はやれやれと首を横に振った。
「毎度まいど辛気臭い話だよ」
「何で読み返せって大人は言うんだろ?」
「知らねえよ」
セトは本を草の上に置く。
それから下草の上に腰を下ろして空を仰いだ。
「竜が消えて七百年も経つんだぜ」
「七百ってどんくらい?」
「村の爺ちゃん十何人ぶんくらい生きた時間」
「わっかんねー」
計算に根を上げて一人が寝転がる。
見上げた青空の中を、雲が泳いでいく。春の穏やかな風が運ぶ温もりに包まれて、全員はただ黙って風にそよぐ草の音に耳を澄ました。
竜の話を読め。
村の大人は口を揃えて命じた。
この世界には昔だが万能の魔法の力を持つ竜がいて、世界に大きな呪いを残して去ったという。常識とかけ離れ過ぎた年数と世界という壮大な規模に、まったく現実味が湧かなかった。
子供たちはどこか与太話として流している。
自分が大人よりも達観しているような気分だった。
「竜って何だよ」
「あれだよ、トカゲみたいなやつ」
「トカゲ?」
「バカ、違えよ。翼があって、もっと大きいんだって」
「どんくらい?」
「あの山くらい!」
「寝言は寝て言えよ」
「んだと?」
竜の姿を想像し合って盛り上がる。
実際に竜の姿を子供たちは知らない。
大人に訊ねれば、どんな獣よりも恐ろしいとしか言わなかった。
情報不足で想像すらできない。
「だいたい呪いって何だよ」
「あれだよ、体に紋様が出るんだって」
「紋様?」
「そ」
自信満々に語るのは紅一点のテラ。
水色の髪をした少女で、村では密かな人気を誇る愛らしい外見をしている。
話に加わらないセトは聞き流していた。
それを咎めるようにテラがにじり寄る。
「き、い、て、る?」
「んあー」
「本当にセトって人の話を聞かない」
「呪われたヤツは鱗だか紋様だかが出るんだろ」
「何よ、聞いてるじゃない」
ふん、とテラが鼻を鳴らす。
「その紋様がある人は魔法が使えるらしいの」
「魔法?」
「火を起こしたり、水を出したり」
「びっくり人間だな」
セトは想像した。
もし何も無い場所から火や水を出したりすれば生活は豊かになる。何を消費して生まれる力かは知らないが、利便性には長けていた。
セトの内心を読み取ってテラが苦笑する。
「でも魔法使いは嫌われるの」
「なんで?」
「魔法を使いすぎると悪いことが起きるって」
「悪いことって…………」
「何だあれ!」
ふと、誰かが空を指差す。
「なあ、あれ何だろ」
「ん?」
「何か飛んでる」
「鳥だろ」
「あんな鳥、いたっけ」
子供たちの視線が頭上の影に募る。
太陽にかかる大きな雲の近くで、たしかに影が飛んでいた。
翼を広げた姿はたしかに鳥影に見えなくもない。
だが、それにしては首が長く、後部から伸びた細長い尾の先は錨のような形をしている。頭と思しき部位にちらつく一対の角のような物体にも違和感を覚えた。
子供たちが目を凝らす。
「鳥じゃない」
「鳥以外に空を飛ぶヤツなんかいるのか」
「えー?」
セトはぼう、と空の影を見つめる。
「そこの君たち」
透き通るような声に全員が振り返る。
黒髪の少女が立っていた。
年の頃は十六か、顔の入れ墨や異国の装束に身をまとう姿には独特の雰囲気があり、子供たちはしばし見惚れて沈黙の時間が流れる。
少女がその反応に居た堪れなくなって苦笑した。
「早く家に帰った方がいいよ」
「なんで?」
「お姉さん誰?」
「旅人さん?」
我に返った子供たちが好奇心に質問攻めにする。
少女が空を振り仰いだ。
その瞳にかすかな焦燥の色を見取って、セトが立ち上がる。
「オマエら、帰ろうぜ」
「えー?」
「雨降りそうだぜ、ほら」
セトが空を指差す。
たしかに、雲が増え始めていた。
青と白の比重が逆転しようとしている。
納得した子供たちは、最初に動いたテラを追うように家路を辿る。雨に振られる、と若干うれしそうな悲鳴を上げながら走った。
セトもみんなが帰り始めるのを見て歩き出す。
「ありがとう」
少女が微笑んで礼を言った。
「何で?」
「少し危険だからかな」
少女が肩にかけた縦長のカバンを揺すって見せる。
「それ何?」
「化け物退治の道具」
「化け物」
「この村にいる、ね」
片目を瞑って少女がちろりと舌を出す。
無邪気な表情に、セトは怪訝な顔をしながら帰った。
後ろから見送る視線を背中に感じながら、今日の話を思い返していた。
呪われた者だけが使える魔法。
使いすぎなければ無害なのか。
それなら、少しだけ使ってみたい。
妄想で胸の中で膨らむ。
ただ、代わりに人に嫌われるのだから便利な物ではないのかもしれない。
できるだけ穏便に暮らしたいセトにとっては、ただの迷惑になってしまう。
「――いてっ…………!?」
不意に右手を痛みが襲った。
何かに噛まれたような激痛に苦悶しながら、問題の右手へと視線を落とす。
疼くのは、手首よりもやや上だった。
セトは恐るおそる袖をまくる。
「あれ、これ」
前腕の半ば辺りに、薄く赤い線が浮かんでいる。
目を凝らせば何かの模様にも見えた。
だが、もしかしたら草でかぶれたせいかもしれない。
痛みは弱くなり、痒みへと転じる。
やはり、かぶれたのだろう。
「明日には治るよな」
セトは気にしないようにして歩き出した。