プラス④
■場面:本郷通り~東大赤門前。
【ひかり】
「ちょっと休憩しましょうか」
【エイジ】
本郷通りに出たところで、榊さんが後ろを振り返って僕に言った。
【エイジ】
「そ、そうですね。ちょっと疲れたし」
【エイジ】
明日筋肉痛ってレベルじゃないけど、2時間以上歩き通し、立ち通しだったので、そろそろ椅子が恋しい。
【エイジ】
アキバ系の僕は、もちろん学校でも運動部なんてものには入っていない。ハッキリ言って体力には自信がない。
【ひかり】
「こっち」
【エイジ】
ファミレスかファストフードか、あるいは喫茶店にでも入るのかな?
【エイジ】
こんな綺麗な女の子と二人で喫茶店とか……僕の胸は期待&興奮&緊張で高鳴った。
【エイジ】
でも、榊さんが立ち止まったのは、デニーズでも、マックでも、ルノアールでもなくて……。
【ひかり】
「ここよ」
【エイジ】
目の前には、真っ赤に塗られた時代がかった巨大な門。
【エイジ】
神社か?
【エイジ】
いや、神社なら鳥居だよな。
【エイジ】
「こ、ここって……」
【ひかり】
「赤門よ。東大の。名前ぐらい知ってるでしょ?」
【エイジ】
「東大の赤門! ここが!」
【エイジ】
もちろん、名前は知っている!
【エイジ】
東大と言えば赤門って言葉が続くほど、それは不可分なイメージだ!
【エイジ】
「と、東大……こ、ここが」
【エイジ】
僕はもう東大という名前だけで、ビビって後ずさってしまった。
【エイジ】
僕にとって東大とは、雲の上どころか、異次元の世界と同義語だ。
【エイジ】
名前には聞いていても、見ることも触れることも出来ない場所だ。
【エイジ】
でも、榊さんは別に臆した様子もなく、
【ひかり】
「元は加賀藩の上屋敷と水戸藩の中屋敷だったの。前田利家と水戸光圀ね」
【エイジ】
と言った。
【エイジ】
「水戸光圀というと、あの『控えおろう』……の」
【ひかり】
「ええ、『水戸黄門』ね」
【エイジ】
「な、なるほど、それじゃどこかに『東大・黄門』っていう黄色い門もあるのかな?」
【ひかり】
「水戸黄門の黄門というのは、中納言の中華風の呼び方よ。中国の皇帝の色は黄色なの。だから、皇帝のいる宮廷の門は黄色に塗られていたのよ。そこに出入りする役職を黄門侍郎と言ったの。東大に黄色い門はないわ。医学部の『鉄門』はあるけど」
【エイジ】
「な、なるほど……(ま、また恥ずかしいことを言ってしまった)」
【ひかり】
「それに、この赤門は水戸藩ではなく加賀藩の屋敷跡のものだしね」
【エイジ】
「それにしても派手ですね。さすが歌舞伎者の『前田慶次』の関係者の屋敷……」
【エイジ】
……確かそうだったはず。
【ひかり】
「この門が建てられたのは、前田慶次が生きた時代よりずっと後よ」
【ひかり】
「徳川十一代将軍の『家斉』は、正室と側室を合わせて16人の妻に、男子26人、女子27人の子だくさんだったの」
【エイジ】
「な、なんですか、それは。ビックダディよりもずっと凄いじゃないですか」
【エイジ】
ラノベのハーレム物だって、そこまではしない。
【ひかり】
「男の人にしてみれば羨ましいんじゃない?」
【エイジ】
「そんな、僕は一人の女性だけを好きになるのが好きです!」
【エイジ】
悪戯っぽく言った榊さんに、憤然と言い返す。
【エイジ】
榊さんは、軽く微笑んだだけで、
【ひかり】
「だから、当時の幕府の仕事のひとつは、生まれた子どもの養子先、嫁入り先を探すことだったのよ」
【エイジ】
と言った。
【ひかり】
「加賀藩に嫁入りしたのは『溶姫』というお姫様で、その『溶姫』を迎えるために作られたのが、この赤門なのよ」
【ひかり】
「将軍家から奥方を迎える場合、慣例として門が作られ、赤く塗られたらしいわ」
【エイジ】
「ふぇ、お嫁さんもらうだけでわざわざ門ひとつ作るのか。でも、加賀といえば100万石だから、お金はあったのかな」
【ひかり】
「でもこういう裏話もあるのよ。宮城くん『武士の家計簿』って映画は観た? 何年か前に公開された」
【エイジ】
「な、名前だけは聞いたことがあるような……」
【ひかり】
「あの中で主人公のお父さんの加賀藩士が、『赤門を完成させる費用が足りなくて、表だけ朱く塗って誤魔化した』って言うシーンがあるの。降嫁した女性は門を潜ったら後ろを振り返ってはならない仕来りだから、それを利用したのね。頭がいい人だわ」
【エイジ】
歴史の話をしているときの榊さんは、本当に楽しそうだ。
■場面:東大構内~三四郎池。
【エイジ】
榊さんと僕は、完成時には表だけが塗られていたという赤門を潜って、東大の構内に入った。
【エイジ】
後ろを振り返ってみたら、今はちゃんと裏側も塗られていた。
【エイジ】
僕のその動作に、榊さんがクスッと笑った。
【エイジ】
ゴールデンウィーク中なので、構内に学生の姿は少なかった。
【エイジ】
でもまるっきりゼロというわけでもなく、行き違う学生――特に男子学生が皆一様に榊さんを見つめてくるのは、一緒に歩いている僕としては誇らしくもあり、疎ましくもあり、腹立たしくもあった。
【エイジ】
「学食にでも行くんですか?」
【ひかり】
「ゴールデンウィーク中にやってるのかしら? でもお天気も良いことだし、せっかくだから『三四郎池』にでも行ってみましょう」
【エイジ】
三四郎池? 姿三四郎? 1・2の三四郎? プラレス三四郎? どれもも古いなぁ。
【エイジ】
榊さんと僕は、途中の自販機でお茶を二本買うと、その『三四郎池』なる場所に向かった。
【エイジ】
『三四郎池』は東大の安田キャンパスのほぼ中央あった。
【エイジ】
低く鉢の底に掘られたような池で、池の畔に行くまでには危なっかしい段差を下らなければならなかった。
【ひかり】
「ここが有名な『三四郎池』。夏目漱石の『三四郎』で、主人公の『三四郎』とヒロインの『美禰子』が出会った池よ。それで『三四郎池』と呼ばれるようになったの」
【エイジ】
「な、夏目漱石の『三四郎』ですか……」
【エイジ】
もちろん読んだことはない……。
【ひかり】
「夏目漱石の前期三部作の最初の作品ね。『三四郎』『それから』『門』」
【エイジ】
「ああ、それなら国語の授業で習いました。『三四郎』それから『門』じゃ、二部作だろう! って! クラス全員で突っ込みました」
【ひかり】
「あはは、それ面白い」
【エイジ】
榊さんと僕は、池の畔で腰掛けられる場所を見つけると、並んで腰を下ろした。
【ひかり】
「宮城くん、おむすび1つ食べない?」
【エイジ】
榊さんは背にしていた小さなリュックから、布ナプキンで包まれた小さなバスケット取り出して言った。
【エイジ】
「いいんですか?」
【ひかり】
「一人だけで食べるわけにはいかないでしょ?」
【エイジ】
「それでは――いただきます――うん、美味しい!」
【エイジ】
榊さんがくれたオニギリはとても美味しかった。
【エイジ】
いつも食べてるコンビニのオニギリなんか、足元にも及ばない。
【エイジ】
「これ、榊さんが握ったんですか?」
【ひかり】
「え? まさか。お母さんが作ってくれたの。今日、本郷を歩くって言ったから」
【ひかり】
「わたし、お料理とか全然駄目なの。一人じゃご飯も満足に炊けないわ。甘やかされて育ったから」
【エイジ】
気恥ずかしそうに笑う榊さん。
【エイジ】
榊さんを包んでいた神秘的な衣が少しずつ消えて、目の前に普通に親近感を持てる女の子が現れてきた。
【エイジ】
歴史好きの、ちょっと変わった良いところのお嬢さん。
【エイジ】
うん、萌える!
【ひかり】
「? どうしたの? わたしの顔に何か付いてる?」
【エイジ】
「い、いえ、ごめんなさい!」
【エイジ】
い、いけない。思わず見取れてしまった。
【エイジ】
女の子の顔を間近でこんなにも見つめるなんて、今までの僕にはなかった大胆な行動だ。
【エイジ】
「そ、それにしてもまさか東大で休憩するとは思わなかった」
【ひかり】
「今のうちからこの雰囲気に慣れておくのも悪くないわ。あと二年したら通うことになるんだし」
【エイジ】
「……え?」
【エイジ】
「も、もしかして、ここを受けるんですか?」
【ひかり】
「そのつもりよ」
【エイジ】
「も、もしかして、頭いいんですか?」
【ひかり】
「十人並みよ」
【エイジ】
ふ、普通『東大』の受験を予定していて、しかも受かることを前提に話している人は、十人並みとは言わない。
【エイジ】
天才か、さもなきゃ誇大妄想だ。
【エイジ】
「あははは……そ、そうですね」
【ひかり】
「そこで退かないの」
【エイジ】
「す、すみません」
【エイジ】
それにしても二年後に大学受験ってことは、僕より一つ年上の一七歳か。
【エイジ】
榊さんと僕は、文豪『夏目漱石』が眺めたであろう静かな池を見つめながら、美味しいお握りを平らげた。
■舞台:東大構内~本郷通り~言問通り
【エイジ】
『三四郎池』の畔で足を休めた榊さんと僕は、有名な安田講堂を背中に正門から再び本郷通りに出た。
【エイジ】
安田講堂って、三島由紀夫? だかが切腹したところだっけ? いや、違うか。
【エイジ】
本郷通りに出ると、榊さんは北に向かった。
【エイジ】
やがて言問通りに突き当たると、右に曲がる。
【エイジ】
そのまま少し歩くと――。
【ひかり】
「あったわ」
【エイジ】
榊さんが満足そうに頷いて立ち止まった。
【エイジ】
さあて、今度はなんだろう?
【エイジ】
「――『弥生式土器発掘ゆかりの地』?」
【エイジ】
「へえ、あの『弥生式土器』ってここで見つかったんだ」
【エイジ】
『弥生式土器』ぐらい僕でも知ってる。
【エイジ】
『縄文式土器』の次の土器だ。
【エイジ】
……。
【エイジ】
ぐ、具体的な模様とか形は分からないけど。
【エイジ】
「『縄文式土器』は縄の模様でしょ? それじゃ『弥生式土器』は弥生の模様?」
【ひかり】
「『弥生の模様』ってどういう模様よ?」
【エイジ】
榊さんに突っ込まれ、僕は『うっ』と詰まってしまった。
【エイジ】
「ははは……どんな模様でしょうね」
【ひかり】
「『弥生』っていうのは旧暦の三月のことよ。新暦だと三月下旬から五月上旬ね。東大が水戸藩の中屋敷だったってさっき話したでしょ? 水戸藩の九代目の藩主『徳川斉昭』が詠んだ和歌が歌碑になってこの近くにあったんだけど、その中に『弥生』という言葉があったの。そこから、この辺りが『弥生町』と名付けられて、その町内から発掘されたから――」
【エイジ】
「『弥生式土器』ってわけか」
【エイジ】
「じゃあ、『弥生時代』とかの語源も、その『徳川なんとか』さんの和歌が始まりだったんですね」
【ひかり】
「そういうことになるわね」
【エイジ】
「へぇ」
【エイジ】
エイジ、覚えた。
【エイジ】
面白いな。
【エイジ】
本か、TVか、さもなくばネットの中にしかないと思っていた『歴史』が、こんな間近な場所にあるなんて。
【エイジ】
『弥生』は新暦の三月下旬から五月上旬か。
【エイジ】
「ああ、それじゃ、今頃の季節も『弥生』って言うんですよね?」
【ひかり】
「ええ、そうね、ギリギリ」
【エイジ】
「偶然とはいえ、何だか歴史に導かれてるみたいで運命的すよね。僕たちの今日のこの散策」
【エイジ】
僕の何気ない言葉に、榊さんは一瞬目をパチクリさせて、その後『なに言ってるの』と横を向いてしまった。
【エイジ】
僕に向けられた白い頬が、ほんの微かに赤らんで見えたのは、多分気のせいだろう。