プラス②
■場面:春日踊り~『かねやす』
【エイジ】
急変した状況が、台風で決壊した濁流のような勢いで僕を押し流していた。
【エイジ】
ほんの1時間前は、アキバのマックで彼氏のノロケ話をするるりかに茫然自失のショック状態だったはずなのに、今はこの『榊ひかり』さんと名乗る見知らぬ女の子と、春日通りを御徒町方面に歩いている。
【エイジ】
自分の置かれた状況の変化の激しさに、僕の頭は混乱の極みにあった。
【エイジ】
「あ、あの、どこに向かってるんですか……?」
【ひかり】
「かねやす」
【エイジ】
「かね……やす?」
【エイジ】
「それは、地名ですか?」
【ひかり】
「お店の名前よ。もっとも地名と同義で扱われることが多いけど」
【エイジ】
「はぁ……(地名と同義……なんこっちゃ)」
【エイジ】
榊さんはマイペースで僕の前を歩いて行く。
【エイジ】
僕はと言えば、思いっきり場違いな居心地の悪さを感じながら、小さくなってその後に続いた。
【エイジ】
自分がるりか以外の女の子は苦手だということを、改めて思い知らされる。
【ひかり】
「ここよ」
【エイジ】
5分も歩かないうちに、榊さんが立ち止まった。
【エイジ】
そこは大きな交差点で、信号には本郷三丁目と書かれていた。
【ひかり】
「ここが『かねやす』」
【エイジ】
「ブティック……ですか」
【エイジ】
いや、ブティックと名乗るようなオシャレなお店というより、いわゆる街中の衣料品店?
【ひかり】
「元は『歯磨き粉』屋さんね。」
【エイジ】
「歯磨き粉? あの歯を磨く?」
【ひかり】
「あなた、歯磨き粉で顔を洗うの?」
【エイジ】
い、いや、僕が言いたいのはそういうことじゃなくて――。
【ひかり】
「別に歯磨き粉だけを売っていたわけじゃないわよ。小間物屋として、主力商品が歯磨き粉だったっていう話」
【ひかり】
「元禄の頃に、『乳香散』っていう歯磨きが大ヒットして、大層繁盛したそうなの」
【エイジ】
「元禄……ですか」
【エイジ】
元禄……ええと、いつ頃だろ? 西暦で言ってくれないかなぁ。
【ひかり】
「――ときに元禄十五年十二月十四日。江戸の夜風をふるわせて。響くは山鹿流儀の陣太鼓」
【エイジ】
「は……?」
【ひかり】
「一打ち、二打ち、三流れ――もう、『忠臣蔵』も知らないの?」
【エイジ】
「あ、ああ、『忠臣蔵』ですか。名前だけは知っています。ははは……そうか、あの時代からあるんですか、このお店」
【エイジ】
僕は後頭部に手を当てて、馬鹿っぽい笑いで誤魔化した。
【エイジ】
歴女の榊さんに思いっきり呆れられてしまった。
【エイジ】
「そ、それじゃ榊さんは、歯磨き粉を買いに?」
【ひかり】
「違うわ。これを見に来たの」
【エイジ】
「これ?」
【エイジ】
榊さんの視線の先、小間物店かねやすの店先の壁には――。
【エイジ】
「『本郷も、かねやすまでは、江戸の内』」
【エイジ】
川柳だか、俳句だか、そんな感じの言葉が掲げられている。
【エイジ】
「どういう意味です?」
【ひかり】
「享保――1700年代前半に、江戸で大火事があって、江戸城まで燃えてしまったの」
【ひかり】
「それで、今で言う『復興担当相』になった大岡忠相が、江戸城からこのかねやすの南までの家屋を『瓦葺き・土蔵造り』の火災に強い作りで建て直すように推奨したのよ」
【ひかり】
「それまでは『茅葺き・板塀』で、マッチ箱のように燃えやすかったから」
【エイジ】
大岡忠相? ああ、大岡越前か。
【エイジ】
それなら知っている。僕が小さかった頃、死んだお爺ちゃんが4時からの再放送をよく見てた。
【ひかり】
「つまり当時の認識では、本郷もこのかねやすまでが、いわゆる『お江戸』だと思われていたの。街並みの作りで見分けていたのね。瓦葺きか、茅葺きか。土蔵造りか、板塀かで――その本郷通りが、中山道だから」
【エイジ】
目の前の本郷三丁目の交差点で、僕たちが歩いていた春日通り(東西)と本郷通り(南北)が、直角に交わっている。
【エイジ】
本郷通りは中山道で、本郷はその中山道と一緒にまだ北に続いているのに、このかねやすを境に本郷の中で街並みが別れてしまったわけだ。
【エイジ】
そこでこの、『本郷も、かねやすまでは、江戸の内』という川柳が読まれた――。
【エイジ】
なるほど、さっき榊さんが『「かねやす」は、地名と同義』と言ったのはこういう意味か。
【エイジ】
凄い、なんかひとつ賢くなった。
【ひかり】
「歴史って面白いわよね」
【エイジ】
そう言って、榊さんが口元をほころばせた。
【エイジ】
榊さんが笑顔を見せたのは、この時が初めてだった。
■場面:春日踊り~『麟祥院(春日局の墓)』
【エイジ】
榊さんと僕はかねやすの前を離れると、本郷通りには曲がらずに、そのまま春日通りを東に向かった。
【ひかり】
「宮城くんは、『春日』って姓を聞いたら、まず誰を思い浮かべる?」
【エイジ】
「それはもちろん、『春日アン』さん!」
【ひかり】
「『春日アン?』」
【エイジ】
「アワワワ! 違う、違う!」
【エイジ】
反射的に答えたあとで、僕は慌てて両手を振って訂正した。
【エイジ】
『春日俊彰』……『春日八郎(こち亀で読んだ)』……あとは、え~と。
【エイジ】
思いつく限りの『春日』を上げていくが、段々と僕を見つめる榊さんの目がジト目になっていく。
【ひかり】
「~はぁ、なんでそこで『春日局』の名前が出てこないのかしら」
【エイジ】
やがて僕が『ネタ切れ』になったとき、榊さんが深々と嘆息した。
【エイジ】
ジト目でも溜め息でも、榊さんは絵になる。まさに美少女の特権だ。
【エイジ】
「おお、そうだ、『春日局』!」
【エイジ】
ポン、と拳で手の平を叩く。
【エイジ】
その名前は僕でも知ってる。
【エイジ】
どういう人かは詳しく知らないけど。
【エイジ】
ただ、なんとなく『大奥』って言葉が浮かんでくる。
【エイジ】
いわゆる『お局様』のルーツ? 元祖?
【エイジ】
「でも、なんで急に『春日局』なんですか? 今歩いているのが『春日通り』だからですか?」
【ひかり】
「だって、この春日通りはその『春日局』に由来してるんですもの。この近くに『春日局』の屋敷があったのよ」
【ひかり】
「そこから春日町という名前がついて、さらには春日通りって名前がつけられたの」
【エイジ】
「へぇ」
【エイジ】
全然知らなかった。
【ひかり】
「道、渡るわよ」
【エイジ】
「は、はい」
【エイジ】
榊さんと僕は横断歩道を使って、『春日局』に由来するという通りを渡った。
【エイジ】
榊さんは、そのまま春日通りから外れて、細い路地に入っていく。
【エイジ】
僕は黙って後に続く。
【ひかり】
「着いたわ」
【エイジ】
「ここは……お寺?」
【ひかり】
「ええ、『麟祥院』よ。『春日局』の菩提寺の」
【エイジ】
「菩提寺って……それじゃ、ここに『春日局』のお墓が?」
【エイジ】
目の前に小さいけど立派な山門……と言うのだろうか? があり、難しい言葉が書かれた額が掲げられている。
【エイジ】
その奥が、『春日局』の墓がある麟祥院というお寺らしい。
【ひかり】
「何をしてるの? 入るわよ」
【エイジ】
「か、勝手に入っちゃっていいんですか?」
【ひかり】
「門が開かれてるでしょ。参拝者はご自由にという意味よ」
【エイジ】
そ、そうなんだ。
【エイジ】
何分、お寺に入るなんて初めてで……。
【エイジ】
榊さんに続いて山門を潜り、境内に入ると、なんとなく身が引き締まる思いがした。
【エイジ】
騒々しい都会の真ん中にあるのに、周囲の空気はなぜか静かで、ヒンヤリとした霊気のようなものを感じる……とまで言うのは大袈裟だろうか。
【エイジ】
この空気、嫌いじゃないかも。
【エイジ】
やがて墓地に入った。
【エイジ】
墓場はまるで迷路のように入り組んでいる。
【エイジ】
「な、なんだか迷いそうですね」
【ひかり】
「ほんと――でも、ほら墓所までの経路が出てるわ。矢印」
【エイジ】
示された順路を進んで、僕らはどうにか『春日局』の墓に辿り着いた。
【エイジ】
それは卵を逆さにしたような、変わった形の墓石だった。
【ひかり】
「卵塔っていうらしいわ。卵の塔。僧侶のお墓に多いみたい」
【エイジ】
「真ん中に穴が開いてますね」
【エイジ】
まるで『キン肉マン』に出てくる悪魔超人の『ブラックホール』だ。
【ひかり】
「『春日局』の遺言で、死んだ後も黄泉の国から天下の政道を見守って直していけるように、穴が開けられてるみたい」
【エイジ】
責任感が強いのか……それとも権力欲か……。
【エイジ】
「でも、お墓自体は以外と質素ですね」
【エイジ】
権力者のお墓だから、もっとけばけばしい物かと思った。
【ひかり】
「開祖の家康も、お墓自体は質素だから。家康以上のお墓は遠慮したんじゃないかしら」
【エイジ】
榊さんの言葉に、僕は小学校の修学旅行のときに行った日光東照宮を思い出した。
【エイジ】
東照宮自体は豪奢だったけど、家康の墓はあまり印象に残ってない。
【エイジ】
つまり、墓自体は榊さんのいうとおり、質素だったのだろう。
【エイジ】
「『春日局』って人は、どういう人だったんですか?」
【エイジ】
死してなお現世の世直しをしたいと願った『春日局』という女性に、僕は少し興味を持った。
【エイジ】
榊さんは、江戸城後宮の主だった女性の墓を見つめながら、語り始めた。