コーヒーが繋ぐ午後
キスをする時、彼女の髪の中に指を差し入れて、頭皮に触れるかどうかの所で止める。
彼女はそれだけで、身を小さく震わせて、
声にならない息を洩らした。
本当の彼女の色は僕にはわからないが、
きっと今は「ほんのり赤く染まって」いるのだと思う。これも多くの本から得ただけの知識だ。
僕の目は多くの色を見分けることができないらしい。
人と比べることができないから、特に不便を感じたことはないが、共感できないことに苛立つことはある。
母親から、なるべく赤いトマトを買ってきてと頼まれて、まだ青青したものを選んだ時は
叱られ、心配され、泣かれ、何が何だかわからなかったが、僕の目はそういうものなんだとわかってからは、相手の動向を見つめ、よく観察し同じようなものを選ぶ癖がついた。
服も靴も、一緒に買いに行く友達の同じ明度のものを選ぶ。
白黒とまではいかないにしても、僕の目にはほとんどの色の区別はつかない。
何度も目医者には通い、検査をし、
母親曰く、他の人と同じ感覚で見える色は黄色だけらしかった。
この、僕の見える色以外は一体どんな色をしているのだろう。
そう考えることはある。
同じ明度のものを見て、女の子たちがこっちが好き、わたしはこっちがいいと言い合っているのをみると、同じ色を見て何を言い合っているのかと、頭にはてなマークか浮かんでいる。
彼女にプレゼントする時は大抵店員さんのセンスに任せる。僕が選ぶととんでもないことになるからだ。
そのおかげで、相手をよく見る観察眼は磨かれたのだと思う。どんな表情で、何を考え何を欲しているか、僕は注意深く見る。
ものを見つめるその先に、どんなものを欲しがっているのか、どんな声をしているのか、
次第にわかるようになった。
と、同時に味に関しては元々敏感だったので、
今の仕事をはじめた。
売上は上々で、生活にも困らず、蓄えもできた。
何より、自分がしたことで誰かに喜んでもらえることをはじめて知れたのだ。
天職だと思っている。
彼女、 柚衣と出会ったのはある水曜日の午後だった。たまに来る常連さんが連れてきたのだが、
雰囲気は柔らかいのに随分カチコチしていて、今すぐヒールを遠くに投げて、ペタリと寝そべりたそうな顔をしていると感じた。
疲れているだけではなく、今の環境でひたすら頑張っていて人の評価を求めるというよりは自分に負けたくない感じ。
本当に強いのだろうが、その奥に柔らかさを含んだような人だった。
この店には僕にお任せのコーヒーしか置いていない。
できる限り希望に添えるべく、丁寧にコーヒーを落とす。
とん、とん、と落ちる雫に、客の幸せを込めながら。
どんなに生活に疲れていても、
どんなに大きな悩みがあっても、
このコーヒーを口にする間だけはゆっくりと癒されて欲しい。僕の願いはただそれだけだ。
柚衣はあれから、何度か1人で店へ来てくれた。
一言、二言話すだけで特にぐっと距離を近付けることはしなかったが、
静かな水曜の午後、空間を共にするだけで、コーヒーの香りが二人をくっつけているようだった。
時に渋く、時に酸味を強くして、僕は彼女の意図を汲み取った。
彼女はその度、泣きそうな、切なそうな、それでいて体の中から悪いものを出すかのようなため息をついて椅子に体を預けた。
美しい人だ、と僕は思った。
そっと耳に触れると、
我慢できなくなった口が開き、ひゃん、だか、ふぁん、だか小さく発して涙目になって彼女が跳ねる。
可愛い人だ。
かわいいね、と口に出すと、彼女は喜ぶどころか少し怒る。
一回り以上も自分が年上であることを、彼女は気にしていた。
本当に心からそう思っているのに、彼女は居心地悪そうに、照れていいのか、怒った方がいいのか迷っているようだった。
そのままぎゅう、と抱きしめると、考えることをやめた彼女が手を回し、僕と彼女はひとつになる。
僕達を包むのは決まって水曜の午後のコーヒーの香りだ。