帰りの電車
終電まであと十分。仕事が長引いて、こんな時間になってしまった。
田舎の小さな駅、この時間に駅員はいない。古い駅舎に似合わないICカード付きの改札を抜けて、ホームへと歩く。
「こんな時間に駅に来るのははじめてだ」
心の中でつぶやいた。ホームには、弱々しいライトがポツポツと等間隔に並んでいる。駅の外側にも街灯はまばらで、薄暗い。
ホームの奥に、人影が見えた。近づいてみると、女子高生のようだ。真上のライトにその姿が照らされる。ウェーブのかかった、やけに明るい茶髪のロングヘア。下着が見えないのが不思議なくらいに短いスカート。いわゆる、ギャルという種族だろう。彼女がこちらを振り向くそぶりを見せたので、慌てて目を逸らした。
視界の片隅で、彼女がチラチラとこちらを気にしている様子が伺えた。あからさまに嫌そうに、ため息をついている。
「早く来ねえかなあ」
彼女がつぶやく。そこまで露骨に態度に出さなくても、と思うが、こんな時間に、わたしのような知らないおじさんと二人きりで駅のホームにいるのは落ち着かないだろうなと、気持ちが分からなくもない。
彼女は手持ち無沙汰に、長い茶髪をくるくるといじり始めた。電車を待つのはわたしと彼女だけ。人影はなく、音もない。あたりを見渡すが、目に入るものはほぼ無く、ライトが少ないせいでホームの端も闇にかすんで消えていた。
不気味だ。正直、こんな時間にこの駅に、一人じゃなくてよかったと思う。というのも、この駅には怖い噂があるのだ。
半年ほど前、この駅で女の子が亡くなったらしい。ホームから転落し、電車にはねられたのだ。
幼い子供が不幸な事故で亡くなるというのは、胸が痛む。
その女の子の霊がこの駅に出るというのだ。もしその子に会ったら連れて行かれる、という噂。ひとりぼっちで淋しく、いまだに成仏できないその子が、一緒にあの世へ行く人を探しているという。
駅という場所にいかにもありそうな噂だし、子供の事故をネタに、誰かが面白がって作ったのだろう。しかし実際に、この闇の中、噂の出所である駅のホームに立っていると、どうしても気になってしまう。
ふと視界に入ったものにドキリとした。花が数本挿してある瓶が、柱のそばに置いてあったのだ。そのすぐ正面で、幼い女の子が事故に…。
腕時計を見る。電車が来る時刻まであと五分。早く来てくれ。霊なんて出るはずはないが、早くここから立ち去ってしまいたい。
その時。女子高生の頭上のライトがチカチカと点滅を始めた。
「え、何?」
ライトを見上げた彼女が呟いた瞬間。
パリン!
破裂する音とともに、ライトが散った。
「ぎゃあ!」
頭を覆って彼女がしゃがみ込む。
「だ、大丈夫ですか」
駆け寄ろうとした瞬間、目の前が闇に包まれた。一瞬の間を置いて、辺りの全てのライトが消えていることに気づいた。何なんだ、これは。
「嫌だ、嫌だ! 怖い!」
闇の中から彼女の叫び声が聞こえる。暗いせいで姿は全く見えないが、声の方向にゆっくりと歩み寄る。
ひた。
耳が、不気味な音を拾った。水気を帯びたような足音。
ひた。ひた。
その音がこちらに近づいているのが分かった。ああ、まずい。間違いない。まさか本当に、女の子の霊が出るなんて。
「怖い…怖い…!」
女子高生が泣き叫ぶような声をあげる。何とかしなければ。今彼女を助けられるのは、わたししかいない。
「安心してください、わたしはここにいますから」
視界には変わらず闇だけが広がっている。なんとか手探りで、彼女の姿を探した。その間にも少しずつ、ひた、ひた、という音は近づいていた。
「もう嫌…帰りたい…早く帰りたいよ…」
絞り出すような彼女の声を近くに感じた。もう少しだ。
腕を伸ばし、彼女を探した。冷たく柔らかな、腕と思わしきものに触れ、とっさに掴んだ。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫」
女子高生の声だ。安心した。掴んでしまったのはやりすぎだろうかと思ったが、彼女もわたしの腕を掴み返してきて、しっかりとスーツの袖を握っている。
全く、さっきは強気に、こちらに敵意すら向けていたのに。よほど怖かったのだろう。
突然、一面の闇に二本の光が差した。電車のライトだとすぐに分かった。その光はレールを叩く音とともに近づいて来る。
ああ、助かった…!
電車は徐々にスピードを落とし、やがてレールの擦れる音を立てて停車した。目の前の扉がプシュッと音を立てて開く。僕は彼女の手を引き、電車に飛び乗った。
再び音を立てて扉が閉まる。床にへたりこんだまま、荒い息を整えた。彼女も同じように、床に手をつき肩で息をしている。
思ったより早く電車が来てよかった、と腕時計を確認したところで、腕が固まった。
終電の時刻の二分ほど前を、針は指していた。じゃあ、この電車は?
ひた。
背筋が凍る。さっきの幽霊からは逃れたはずだ。なのになぜ。
「ありがとう、おじさん」
顔を上げると、女子高生が立ち上がりこちらを見下ろしていた。足元には、赤黒い水たまり。
ひた。
彼女が一歩こちらに近づく。
その時、すべてを理解した。わたしはずっと勘違いをしていた。
駅で死んだ女の子。それが幼い子供だとは、誰も言っていなかった。
場違いに明るい彼女の髪の毛の間から、初めて、顔がのぞく。表情は伺えず、表情どころか、目や鼻がどこにあるのかも分からないほど、その顔面は原型をとどめていなかった。
ふふふ。口と思われる部分が歪み、彼女が言った。
「ありがとう。これで、帰れる」