マイ・レディー・ジョーカー
<シリーズ登場人物>
益屋淡雲:両国広小路の両替商で、慈寿荘の主
読経が続いていた。
よく晴れた秋の日である。声は地を這うように低く、腹に響いてくる。
焼香をそそくさと済ませた津村作之丞は、なおも続く読経を背に、用意された庫裏の一間へ向かった。
武州岡成藩の城下、寺内町にある曹洞宗・海妙寺の住持は、死んだ仁科忠蔵の親戚筋にあり、死んだ忠蔵の〔同志〕達の為に一間を提供してくれたのだ。
作之丞は母屋へ続く回廊の途中で、一度だけ立ち止まって振り返った。焼香の列は長い。忠蔵は書院番士だったが、そこでの人望は厚く上役に気に入られていたという。
作之丞も、忠蔵が好きだった。性格は穏やかで、口が堅い。仲間内で相談をする際は、まず最初に忠蔵を選んだものだった。
一間の障子を開くと、目をぎらつかせた二人の男が、一斉に視線を向けた。
「怖い顔するなよ」
作之丞が嘯くと、男たちはほっと溜息を洩らした。
「遅いぞ、作之丞」
そう言ったのは、海原六右衛門だった。
六右衛門は作之丞と同じ二十七であり、この集まりではまとめ役である。背が高く逞しい体躯を活かしてか、押し出しも強い。勘定方の与力として、将来を有望視されている男だった。
「すまん、すまん」
「役目か?」
「ああ。昨夜も遅くまでな」
と、作之丞は嘆きを交えて言い、車座となっていた二人の間に入った。
作之丞は大目付配下の徒士目付組頭だった。昨夜も大目付の命で、今回死んだ忠蔵の探索で駆け回っていたのだ。
幼馴染を殺した下手人を追う。怒りを抑えて平静に思考しなければならないので、精神的にはかなりしんどいものがある。しかし、誰かに任せるよりはマシだった。
「何かわかったのか?」
六右衛門の台詞を奪い取るように訊いたのは、高遠十内だった。この男も自分や六右衛門と同じ歳だが、部屋住みとして家督を継いだ兄に面倒を見てもらっている。いわゆる〔厄介叔父〕というものだった。この中では最も剣をよく使い、無外流の目録を持ってはいるが、部屋住みで日がな一日家に籠っているからか、その顔色は青白い。
「いいや、全然だな。家人や奉公人、同役の者に話を訊いても何もわからん……」
そう答えると、十内は深く息を吐いて腕を組んだ。元来無口な男だ。これ以上の事は何も言う気配はない。
「死因は?」
代わって、六右衛門が口を開いた。
「首を折られていた」
「針の次は、柔かよ」
「これで二人目だ」
残暑厳しい先月の晦日、同じく親友だった山内甚兵衛が何者かに殺されていた。甚兵衛は郡奉行助役・郷方廻りとして日々村々を巡っていたのだが、その日は日没が過ぎても屋敷に戻らなかった。心配になった妻女の訴えで同役の役人が捜索したのだが、甚兵衛は城下へ路傍で発見された。死因は刺殺。延髄に長い針で刺された痕跡があった。
甚兵衛の件だけなら、怨恨もあったのかもしれない。甚兵衛は仕事は出来るが、無能な者には冷淡で冷酷でもあった。出世争いで同役を蹴落とし、部下の数名は気鬱の病で職を辞している。そんな甚兵衛を、遺恨に思う者もいただろう。しかし、その次に忠蔵を殺されたとあれば、そうとは言えない。
「桜井様が、各々身辺には気を配れと仰っておられた」
桜井とは、作之丞の上役である大目付・桜井只四郎の事だ。若干三十五の若さながら、藩主の大谷純豊に気に入られて、大目付という大任に就いている。
「そうだろな。甚兵衛に忠蔵と来たんだ。〔俺たち〕を狙っているのは間違いない」
六右衛門が言った〔俺たち〕とは、自分と六右衛門が中心となって立ち上げた、藩政改革を唱える一派・就義党の事である。現在の岡成藩は、純豊の生母・恵高院を後ろ盾に持つ、首席家老・北原越後の独裁が長く続いていた。
享保の大飢饉で大損害を被った財政は五十年が経った今でも回復の兆しを見せないというのに、領民の生活を足蹴にするような暴政、賄賂と縁故がまかり通る秕政を繰り返している。特に、江戸・両国広小路の両替商・嘉穂屋宗右衛門との癒着は看過出来ないものがあった。ある筋によれば、嘉穂屋と組んで阿芙蓉の売買にも一枚噛んでいというのだ。
阿芙蓉は幕府の禁制。そこに首席家老たる者が関係している事がわかれば、改易すらあり得る。
「奸臣の為に、御家を潰してなるものか」
と、作之丞は六右衛門と共に、北原派独裁に否の声を上げた。まず駆け付けたのが、十内と殺された甚兵衛と忠蔵だった。作之丞・六右衛門・十内・甚兵衛・忠蔵は、藩校・奧学館で文武を競い合った幼馴染だった。身分も全員が大組という上士階級で、釣り合いも取れていた。若い頃は喧嘩だけでなく、口に出せない無茶な悪事も働いた。それが今では立派に更生し、世の為に働こうとしているのだ。
武士とは、領民を守る為に存在する。そう思えるようになったのは、若い頃に無頼を気取って市井を見た経験があるからだろう。兎にも角にも、就義党は少壮の士が集まるだけの集団だったが、北原に反感を抱く者が一人また一人と集結し、藩主の異母兄である大谷求官が後ろ盾になると、どんどんと人が増えていった。今では、北原すらおいそれと手を出せない一派になりつつある。
「北原越後か」
十内が唸るように言葉を捻り出すと、六右衛門が小さく頷いた。
そうした状況で、甚兵衛に続き忠蔵が殺されたのだ。北原派が疑われても当然である。
「甚兵衛は就義党の折衝役だった。忠蔵は連絡役。就義党の両脚を奪いにきたというところか」
「許せん」
冷静に分析する六右衛門に対し、十内が珍しく語気を荒げた。口数は少ない男だが、激高しやすいところはある。若い頃から、喧嘩になるといの一番に飛び込んでいった。
「おいおい、早まるな。これは政事だ。軽挙妄動は慎め」
「六右衛門。俺たちの親友が殺されたんだぞ。兄弟に等しい親友が」
十内が拳を畳に叩きつけた。六右衛門が視線を逸らしたので、作之丞は
「落ち着け」
と、十内の肩に手をやった。
「桜井様が、手の者を使って北原の身辺を探らせておる。今回の手口から見て、下手人は始末屋で間違いない。北原と親しい裏の首領にも人を放った。実力行使は最後の一手だ。短気を起こして、二人の命を無駄にするな」
桜井は大目付という要職にありながら、北原を見限り就義党に組している。本人は求官同様に後見役としか思っていないが、作之丞も六右衛門も派閥の領袖として就義党を率いる立場だと思っている。
兎も角、上役が就義党の協力者という事もあってか、作之丞は自由に動ける事が出来るのはありがたい事だった。
「短気は損気か」
「そうだ。二人に報いるには、北原を追い落とすしかない」
「作之丞。もし下手人を斬る時は俺にやらせてくれ」
「十内、その時は俺も一緒だ。六右衛門もな」
そう言うと、十内は鼻を鳴らして大刀を手に立ち上がった。
「それはお前らの仕事じゃねぇよ。家督を継いだお前らとは違って、俺は気軽な部屋住みだ。汚れ仕事は俺がうってつけだろう」
「おい、十内」
一間を出て行こうとする十内を作之丞は呼び止めようとしたが、それを六右衛門が遮った。
「ほっとけ。部屋住みが長くなると、人は捻くれるものよ」
「六右衛門、そんな言い方は止めろ。次は怒るぞ」
作之丞の一喝に、六右衛門は肩を竦めた。
幼馴染の五人は兄弟のように仲が良かったが、六右衛門と十内はその中ではしっくりしなかった。最も禄高がある六右衛門と部屋住みの十内。快活な六右衛門と無口な十内。何かにつけ正反対な二人なのだ。その中を取り持つ役目が作之丞と、忠蔵だった。甚兵衛は我関せずばかりに、気にも留めない。しかし、そんな五人でも集まると仲が良いから不思議だった。
「内輪揉めをしている場合か? 甚兵衛と忠蔵を殺されたのだ。次は俺か貴様か、十内が狙われているはずだ」
「俺やお前は兎も角、就義党を狙っているなら十内は外れるだろうよ」
それには作之丞も頷かざるえない。十内は何かと手伝いはしてくれるが、部屋住みの無役なので、大した役割を任せてはいない。作之丞にとっては、高遠家の当主である十内の兄が就義党ではないので気を使っているのだが、十内はどう感じているか聞いた事はなかった。
「それで、本当のところどう思う?」
「どうって?」
「お前の見立てよ。北原の仕業か、或いは」
六右衛門の声が沈む。ここだけの話を聞かせろという事だろう。
「実は此処に来る前に桜井様に聞かされたのだが、北原派の一人と癒着があった嘉穂屋の番頭をこちら側に引き込んだ。北原が刺客を放ったのも、それがわかったからだろう。先月の朔に甚兵衛が殺されたが、ちょうど同時期に番頭が失踪している」
「それはまことか?」
「ああ。今は求官様のお屋敷で二人を保護している。証言と証拠が揃ったのだ。北原の失脚も時間の問題だろうな」
六右衛門の表情に喜色が浮かび、硬く握り拳を作って頷いた。
「これで、俺たちの未来は開けるぞ。北原派は一挙に失脚すると、今度は論功行賞だ。おそらく桜井様が家老の列に加わる。それで桜井様に同心した者が執政府に入るだろう。空席になった奉行職には俺たちだ」
嬉々として語る六右衛門に対し、作之丞は苦笑してみせた。
「ぬか喜びをするな。ここからが大事なのだ」
それは、まるで自分に言い聞かせているようだと、作之丞は思った。
「そうか、そうだな。最後に気を抜いて痛い目を見る事もある」
「だから内密にしてくれよ」
「当り前じゃないか」
そう言うと、六右衛門は葬式だと言うのに笑顔を浮かべて立ち上がった。外に護衛を待たせているのだという。作之丞は、
「あんまり笑うな。葬儀なのだぞ」
と言って、六右衛門を送り出した。
庫裏の一間で、作之丞は一人になった。思わず身体を横たえる。微かな眠気を覚えた。
昨夜も遅くまで働き、午前中は桜井と談合を重ねていた。山場を迎えているだけあって、作之丞の身体は悲鳴を挙げているのだ。
(ここからが大事か……)
内心で、一人呟いてみた。
北原は早晩失脚する。代わって藩政を牽引するのは、就義党である。その辺りの話は、桜井と何度も詰めていた。北原を倒したからと言って、いきなり老職という事はあり得ない。故に桜井は、まずは今の奉行職にある者の中から、北原との関係が薄い者を中老に引き上げて執政府を組閣する。その空いた席に、就義党の面々が座るのだ。
殺された甚兵衛も忠蔵も、その候補だった。当然六右衛門は入るが、十内は無理だと断言されている。その代わりに、別家を立てる事が許される手筈になっていた。
こうした話を、六右衛門は知らない。知らせる気も無かった。
ここからが大事というのは、北原を倒す事ではない。倒してからの事なのだ。
北原が失脚すれば、桜井が権力を掌握する。それから始まるのは、その下にある席を巡った出世争いである。
十内は兎も角、甚兵衛・忠蔵・六右衛門も敵になる。特に六右衛門は就義党結党の中心になっただけあって、最も張り合う相手になるだろう。
(どうしてこうなったものかな)
昔は馬鹿な事を繰り返していた。騒ぎ、笑い、喧嘩もしたし、盗みもした。女も泣かせた事もある。過ちは多々あったが、それでも青春だった。
犯した罪とほろ苦い記憶は、更生し領民の為に働くという事で赦されるだろう。しかしその後に始まるのが、熾烈な出世争いだ。一緒に馬鹿をやった親友と、出世を賭して争わねばならなくなるとは思いもしなかった。
勿論、引き返す事も出来た。投げ出す事も。就義党は、北原を倒せば一応の役目を終える。しかし、自分はそれを拒んだのだ。壊すだけでは無責任だ。壊した後に、組み立てる。そこまでして初めて、責任を果たしたと言えよう。その為には、権力が必要だった。
(故に、な……)
作之丞は、ゆっくりと瞼を閉じた。ここ数か月、いや勝利が見えてきてから、酷く疲れる日々が続いている。襲ってくる睡魔に、身をゆだねてみようという気になっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから十日後、岡成城三の丸にある求官の屋敷で盛大な宴が催されていた。
作之丞は、上座に陣取る求官と桜井にほど近い場所で、盃を片手に宴を楽しんでいた。
祝勝会だった。この日の御前会議で、北原とその一派の主だった者が罷免されたのだ。それだけでなく、北原はその場で捕縛され、一門衆の筆頭である大谷浪江の屋敷に預けられる事となった。
完全な勝利。その祝勝会であった。まだ執政府の組閣は確定こそしていないが、その内示は既に受けていた。
桜井は首席家老。そして作之丞は、奉行職を跳び越えて若年寄だった。執政府は家老・中老・若年寄で構成されているので、就義党を率いた功労者として一気に藩政中枢に上り詰めた事になる。思い切った人事は、北原によって停滞した藩政に新風を引き込む、是が非でも改革をするのだという意思を見せつける為でもあるのだろうが、それでもよかった。権力の階段を登る足掛かりが出来たのだ。
その為に、汚い手も使った。青春を同じくした親友を殺したのだ。
甚兵衛と忠蔵は、作之丞が暗殺した。五日前には、六右衛門を作之丞は殺していた。六右衛門を呼び出して二人で飲んだ帰りに、雇った始末屋が襲ったのだ。六右衛門は膾のように斬り捨てらていた。
その三日後には、下城途中の自分自身を襲わせた。右肩と左腕に、動くのに支障が出ないぐらいの傷を作った。それで周囲は、自分が真の下手人ではないと信じるはずである。
ただ、出世の邪魔にはなりそうではない十内は生かす事にした。流石に、無益な人間まで殺すほど非情になれないのと、桜井が十内を気に入っているという事もある。桜井の護衛に、十内が呼び出されるという事も多々あった。勿論、一人襲われていない者を作る事で、万が一の場合に、罪をなすりつける魂胆もある。祝勝会に呼ばれなかった十内は、今頃一人で酒に溺れている頃だろう。
忸怩たる想いはある。悲しみもある。後悔もある。だが、自らの手を穢しただけの代価は得られる手筈になった。
「おぬしの若年寄昇進は、死んだ同志に報いる為でもある」
組閣を起案した求官から、直々にそう言われたのだ。
「三人が生きていれば、今の席は用意出来ぬよ。誰か一人を持ち上げれば、角か立つからの」
とも、言われた。
全くその通りだった。だから殺した。この胸の痛みは、青春の一部として一生残っていくだろう。
「これはこれは、津村様」
歳は六十ほどの小太りの老爺が、作之丞の隣りに座って銚子を差し出してきた。
「ああ、益屋殿か」
老爺は、益屋淡雲という名の商人である。両替商を中心に、米問屋・材木商・薬種問屋・海運業と手広くやっている。求官とは長い付き合いがあるらしく、この政変を財政面から支援してくれた男だ。
「いやはや、めでたいですねぇ」
「これも全て益屋殿のご助力があればこそ」
赤ら顔の淡雲から酌を受けた作之丞は、したたかに頭を下げた。
「なんの、なんの。最初に反北原の声を上げたのは、津村様でございます。その勇気は本当に称賛されるべきでしょう」
「益屋殿に言われると、なんだか照れますな。しかし、財政面で益屋さんが貢献した役割は大きいですよ。何をするにも、金が掛かりますから」
「ふふ。あのまま北原様が家老の座にいましたら、多くの領民が泣いたでしょう。私は、世の為・人の為にならぬ者がのさばっているのが許せぬのですよ」
「それはなんとも、富商の心意気と申しますか。武士としても見習うものがございますな」
「勿論、下心が無いわけではございませんよ。北原様とご昵懇だった嘉穂屋さんは商売敵でしてねぇ。それに、これから若年寄として諸奉行の上に立たれる津村様とお近づきになれましたしのう」
そう言って酒を呷って微笑んだ淡雲の目の奥が、全く笑ってなかったのを作之丞は見逃さなかった。
(この眼だ……)
碁石をはめたような、真っ黒の眼光。裏の世を生きる者の眼に、作之丞は身震いする心地だった。
今回の一件で、一つだけ失態を犯していたというなら、この淡雲を頼った事だろう。
淡雲は江戸でも指折りの豪商であるが、それと同時に根岸一帯を統べる、裏の首領でもあった。そんな淡雲と知り合いになったのは、求官の屋敷でだった。求官は新進気鋭の若手藩士と淡雲に紹介し、すぐに打ち解けた。それから淡雲が岡成へ来る度に、飲み交わす関係になった。
「立身出世の為には、お仲間がちと多過ぎますなぁ」
と、政争に見せかけて友を暗殺を唆し、無償で飛鳥という名前の始末屋を手配してくれたのも、その淡雲だった。何故にそこまでするのですか? という問いには、
「このままでは、いずれお仲間同士で争い合い、それ以上の人が死ぬのは明らか。ならば今のうちに終わらせるのが、世の為人の為……」
内訌の雰囲気は確かに感じていた。最初こそ一致団結をしていたが、情勢が反北原に傾くと、就義党内部に派閥が出来つつあったのだ。津村派と海原派。それを嫌った者が、甚兵衛や忠蔵に流れていた。この暗殺は、北原を倒す為には必要な処置だ。そう言い聞かし、淡雲の申し出を受けた。
結果として、作之丞は就義党をまとめ上げて、若年寄に登る事が出来た。また就義党に加わった者にも、昇進と加増をとりつけた。
全て、これで良かった。そう思いたかったが、同時に淡雲に弱みを握られた事を意味していた。裏の首領の顔を持つ淡雲が、これをネタに無理難題を言ってくるに違いない。
「今後ともよろしゅうお願いしますよ」
淡雲はそう言い残し、腰を上げた。向かった先は、上座の求官と桜井の所だった。千鳥足の淡雲は二人の前に座ると、何やら繁々と話し込んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それは、宴の帰路だった。
作之丞は乗り物酔いをする駕籠を避け、四人の護衛と共に徒歩で御旗町の自宅へと向かっていた。
町屋が続く小径の暗がりに、人の気配があった。護衛の一人が一行を止めると、作之丞に下がるように告げた。
剣は人並みに使える。しかし、所詮は人並みだ。ここは求官が用意してくれた護衛に頼るしかない。
「いいご身分だなぁ、作之丞さんよ」
現れたのは、十内だった。
着流しに、落とし差し。月代も顎髭も手を入れられておらず、その両眼は酩酊の色を見せていた。
「十内か。どうした」
作之丞は、護衛越しに応えた。
「我が世の春を謳歌するお前に訊きたい事がある」
「なんだ?」
「甚兵衛、忠蔵、六右衛門を殺したのはお前か?」
「何?」
肺腑を突かれる心地だった。護衛たちが、半信半疑の表情で作之丞に目を向ける。
作之丞は咄嗟に気を取り直し、腕の包帯を見えるように差し出した。
「そんな冗談を言いにわざわざ? 見ろよ、俺も襲われたのだぞ」
「なら言い直そうか。甚兵衛、忠蔵、六右衛門を殺すように指示したのはお前か?」
「何を証拠に斯様な戯言を」
「六右衛門が殺された前日に訪ねてきて、俺に大金を託したのだ。『もし俺が作之丞よりも先に死んだら、この金で奴を調べてくれ』とな。あの俺を嫌ってた六右衛門がだぞ。頼れるのは、俺しかいないと言ってだ」
「……」
「それで、俺はやくざの親分に頼んで探ってもらったよ。そしたら、すぐにわかったさ。お前と益屋の関係がな」
「証拠はあるのか?」
作之丞の絞り出すような声に、十内は鼻を鳴らした。
「無い」
「無い? 証拠も無く、そんな事を言い出したのか?」
「証拠などどうでもいい。俺はお前を斬る。親友だった男たちの為に」
十内がするりと一刀を抜く。殺気。それは親友と呼べる者に向けるには、禍々し過ぎるものだった。
「斬れ、……こやつを斬れ」
作之丞は、絶叫していた。護衛の四人が瞬時に抜刀し、十内に殺到した。
十内は無外流の使い手だが、求官が用意した護衛も中々のものと聞いていた。しかし、その四人を十内は一息で斬り捨てていた。
「十内、お前」
「俺は、桜井様の命で何人か斬ったんでな」
刀身の血を払わぬまま、その切っ先を作之丞へ向けた。
身体が動かなかった。恐怖で、全身が竦んでいた。それに反して、頭は急速に回転していた。どうやって、この窮地を乗り切るのか? 乗り切ったとして、十内は淡雲との関係を掴んだ。ならば、殺すしか術がないではないか。
「黄泉で、三人に謝れ」
十内が一歩踏み出す。その刹那だった。
頭上から影が舞い降りたと思うや、十内の首筋に匕首を突き刺さっていた。
「お前という奴は」
十内が作之丞を見据えたまま、うつ伏せに斃れた。その背後には、黒装束をまとった忍びが一人立っていた。
「すまん、助かった」
「構わないよ。あんたを守るのも、あたしが踏んだ仕事の内でね」
声は女だった。そして、仕事という言葉。それで、作之丞は全てを察した。
この女こそ、淡雲が使ってい飛鳥という始末屋だったのだ。男だと思っていたので衝撃も強かった。
「これは相応の報酬で報わないとな」
「それもいいよ」
飛鳥は、自らの覆面に手を掛けた。
胡桃のような小さな眼を持つ、牛蒡のような色黒の女の顔がそこにあった。
歳は十八か九だろうか。背も低く、身体の線も細いので若く見えるのかもしれない。
「だって、あたしは今からあんたを殺すから」
と、飛鳥は腰の小太刀を抜き払った。
「殺す? 俺を? 淡雲の差し金か」
「いや、違う。これはあたしの遺恨」
「俺がお前に何をしたというのだ」
すると、飛鳥が呆れた様子で首を横に振った。
「誰も彼も忘れているようだね。甚兵衛も忠蔵も六右衛門も、思い出さなかったよ。そこの十内は訊く前に殺しちゃったのでわからないけどね」
「おっ、俺たちが何をしたというんだ」
「八年前さ。十二歳だったあたしを、お前は襲ったんだ。そして、死んだ四人と代わる代わる犯した。覚えているかい?」
八年前。当時は十九だった。覚えているか? と問われても、作之丞はピンと来なかった。あの頃、女を買う銭惜しさに、百姓の娘や穢多の娘を襲っては犯していた。それも一度や二度ではない。だから、この飛鳥の話を訊いても思い出さない。しかし、確実に〔犯した事がある〕とは言える。
「しかも、助けに駆け付けたおとっちゃんを、斬り殺した。それは、六右衛門という男だったけど、あんたも同罪さ。唯一の家族だったんだから」
「すまん……」
「ふん。まぁいいさ。どうせ、あんたは死ぬんだ。でも、一つだけ言いたい事がある」
飛鳥が一歩、また一歩と近付く。作之丞の身体は、金縛りにかかったように固くなっていた。刀を抜かねばと思っても、その手が動かない。十内に斬られると思った直後に助かり、気が緩んだところのこれだ。思考も緩慢である。
「あんたら、若い頃に犯した過ちを償う為に、悪い家老を倒したようだね。それが罪滅ぼしなると」
「そうだ。そうだよ。反省して、だから俺は」
「反省? そんなものして、何になるの? あたし、あんたらに犯された事を、全く赦してないから。赦すつもりもないよ。あんたがどんなに事をして罪滅ぼしをしようと、赦すと決めるのはあたしだし、死ぬ以外に赦さないから」
作之丞は襟を掴まれ、捩じ上げられた。身体が浮く。娘とは思えない、強烈な力だった。
「自分の犯した罪を、勝手に過去にしないでよ」
そう言い放つと、飛鳥が小太刀を構えて嗤った。
その眼は、碁石をはめたかのように黒々としたものだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「終わったかい?」
作之丞の骸を見下ろしていると、背後から淡雲の声がした。
「ああ、これで全員殺したよ」
飛鳥は、振り向きもせずに応えた。そして小太刀を腰に戻した。
「なら、お前さんの復讐は終わったね」
淡雲が横に並んだ。いつ見ても、重そうな身体の割りに動きは軽い。今回もわざわざ他人の復讐を見届けに、江戸から岡成くんだりまで足を運んだのである。
「長かったよ。八年前に、犯されたあたしを益屋さんが拾ってくれて、自分の手で五人を殺すと決めてからの七年は、修行の毎日だった」
「ふふ。その分、銭も使ったよ」
飛鳥は、淡雲に目を向けた。淡雲は微笑んでいた。
剣も小太刀も柔術も忍術も、一流と呼べる師匠について学んだ。それだけではない。長崎からわざわざ唐土拳法の使い手を呼び寄せて、その武術を叩き込んだのだ。その為に、淡雲が大金を叩いてくれたのは、想像に容易い。
その事については、感謝しかない。淡雲を第二の父と思うのも、そうした厚意を感じての事だった。
「返さなくてもいい銭だけどね。お前さんは、私の娘みたいなものさ」
「ありがとう」
「それで、これからどうするんだい? お前さんが望むなら、嫁ぎ先でも働き口でも世話するよ」
「いいよ。益屋さんに拾われた命なんだ。この技も、益屋さんに与えられたもの。なら選ぶ道は一つしかない」
「飛鳥、それは始末屋になるって事だよ」
「もとより、そのつもりさ。どうせ人殺しなんだ、あたしは」
すると、淡雲が一つ頷いた。
「そうかい。なら、そうさせてもらうよ。でも、私らが殺すのは、生きてちゃ世の為人の為にならねぇ外道ばかり。そんな仕事を踏む始末屋は、外道であっちゃいけないのでね。何人いても足りゃしない」
「おとっちゃんを助ける為なら、腕の振るい甲斐もあるってものさ」
飛鳥は音も立てずに跳躍すると、町屋の屋根に飛び乗った。
「あたしは、鬼子天女の飛鳥。そう呼んで、売り込んでくんな」
〔了〕