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夜想島  作者: 綾稲 ふじ子
9/10

夜想島

 全身が痛い。まず最初にそう思った。次に感じたのは寒さだった。とくに足が冷たい。なぜだか水に浸かっているようだ。身じろぎしようとしたのに身体が動かない。

 薄く目を開けると薄暗い空が目に入った。少し遅れて静かな波の音が耳に届いた。

 なんでこんなところにいるんだっけ。それに、どうしてこんなに身体が痛いんだろう。

 凜花はぼんやり記憶を辿り、徐々に思い出す。ここにいる理由も、こうなった原因も。急速に意識がはっきりとした。

 かすみはどうしたんだろう?

 慌てて身体を起こそうとして激痛に顔を顰める。どこもかしこも痛いけれど、左肩から背にかけてが一番痛い。

首はなんとか動いた。ゆっくり身体を見下ろす。黒いダウンコートの袖口はびりびりに破れて、ごつごつした岩場の一面に羽毛が散らばっていた。その流れで崖を見上げる。

視界のほとんどを険しい岸壁が遮って、その高さを知らせている。いくばくかの木々が斜面に沿って健気に生えているだけの荒々しい断崖は、数十メートルほどありそうだ。

フル装備のロッククライマーならともかく、装備はおろか、なんの経験もない自分がここを這いあがるなんて、たとえ体調が万全でも不可能だ、と凜花は冷静に判断する。

あんな場所から落ちてばらばら死体にならなかったのは、ほとんど奇跡のように感じる。

痛みをこらえてそっと指を動かしてみる。手の甲は擦り傷だらけでひりひりするし動作はだいぶぎこちないけれど、動かすことはできた。

 次に足元を見た。膝下あたりまで波打ち際にあって、規則的に波が押し寄せてくる。水は信じられないほど冷たい。

このままでいたら体温を奪われてしまう。そう思って必死に身体を動かした。

痛めつけられた全身が不満を洩らしたが、構わずにじりじりと後ずさりする。

立ち上がるなんて夢のまた夢だ。左腿がじんじんして熱を持っている。

骨折した経験はないからよくわからないけど、もしかしたら折れたのかもしれない。

時間を掛けて足を海から引きあげている途中、左腿の外側から出血しているのに気が付いた。

こんな大怪我をしたのは生まれて初めてだ。満身創痍とはこのことか、と自嘲する。

海岸の半ばに大きな岩があった。凜花は少しずつ身体をずらして、そこに寄り掛かる。視界に海が広がった。

私はここで死ぬのか、と思った。

普通に考えて、人里離れたこんな寂しい場所に誰か来るとは思えない。

ましてやこんな断崖の下にいるのだ。そう簡単に見つかるわけがない。

不思議なくらい気持ちは平静だった。

人生最後に目にする景色を漠然と眺める。もうじき完全に日が暮れそうだ。そうなれば何も見えなくなる。日が落ちる先に死んでしまう可能性だって大いにあり得る。

ふと、波間になにか黒いものが漂っているのが目に入った。

しばらく目を凝らして、それがかすみであることを認めた。かすみはうつぶせの状態でぷかりと浮かんでいた。身体は波の動きに合わせて揺らめいている。

ちょうどあのとき光が射していた辺りだ、と凜花は思った。

結局かすみは思いを遂げてしまった。自分はそれを止められなかった。

 思わず目を閉じた。

 私が彼女を殺したのだろうか。

 もっと素早く手を伸ばせば。バランスを崩さなければ。払いのける手を掴んでいれば。

 きっとそれでも無理だった。たぶんかすみはここで命を絶つと決めていた。

 最後に見たかすみの顔を思い出す。

 あのとき、かすみは確かに笑みを浮かべていた。あんな状況なのに、奇妙にホッとしたような表情だった。

 かすみは幸太郎と再会できるのだろうか。罪を犯した彼女を、神様とやらは本当に許すのだろうか。

 どうか許してほしい。私はかすみを許す。本当に幸太郎を殺したのだとしても。

 かすみはもうじゅうぶん苦しんできた。

 私は幸太郎にもかすみにももう会えない。神様を信じていない者が行く天国だか地獄だかに行ってしまうだろうから。運が良ければ母には会えるだろう。

 片瀬にはもう会えない。そう思ったら胸が疼いた。

 あれほどまでに自分が幸せに長く生きることを願っていた片瀬は、自分が死んだと知ったらどう感じるのだろう。

 全身に感じていた痛みはいつの間にか麻痺して、今はあまり苦痛を覚えない。寒ささえ感じられない。ただただ眠たいだけだ。

 思考がとりとめもなくきれぎれに浮かんでは消える。

 意識が遠のいていく。

 最後に浮かんだのは片瀬の顔だった。


 右腰あたりで振動を感じた。凜花はゆっくりと覚醒する。

鈍く痛む頭でしばらく考えて、スマートフォンが着信しているのだと気付く。

痛むのは頭だけではない。体中が痛い。すぐに自分が置かれた状況を思い出した。

あんな高いところから落ちたのにまだ生きているなんて、人体って意外と頑丈なんだな、と、他人事のような感想を持つ。

いったん途切れた振動をふたたび感じた。頑丈なのはスマートフォンも同じようだった。

ショルダーバッグに守られたのかな。それとも持ち主に似たのかな。そう思いながら、右手に力を込めてみる。

不幸中の幸いとでもいうべきか、身体の左側と比べると、右側はそこまでのダメージを受けずにすんだようだった。左手と同じく、むき出しの手の甲はかすり傷を負ったようでひりつくけれど、動かすのには支障がない。

目を開くと暗闇を照らす真っ直ぐな光が見えた。

 なんでこんなところに光が、と訝しみ、すぐに自分が落ちた真上に灯台があったのを思い出す。五十五キロ先まで光を届けると、かすみが言っていたことも思い出した。

 かすみは今どの辺にいるんだろう。

 昏い海に目を凝らしてみても、その姿を見い出すことはできなかった。

振動が止まる前に手探りでショルダーバッグのファスナーを開けて、スマートフォンを取り出す。全体的にヒビの走る画面に表示されているのは鈴木と言う名で、つまりは片瀬だった。強引に電話番号を登録されたのを思い出した。ずいぶん昔のような気がしたが、ほんの十日ほど前のことだ。

こんな状態でもきちんと作動するスマートフォンに感心しながら、指に力を込めて通話ボタンを押す。間もなく耳に馴染んだ声が聞こえた。音声は意外なほどクリアだった。

「もしもし、篠さん? 今どこにいるんですか」

 いつもより少し早口で声が大きい。あまり感情を表さない片瀬にしては珍しい。

 そんなことを考えながら、凜花は小さく息を吸い込み言葉を絞り出す。

「崖の下」

 声を出すと胸が痛い。もしかしたら肋骨も折れたのかもしれない。自分が重傷を負っていることを、凜花はあらためて悟った。

「なんでそんなところに」

 怪訝そうな声に腹が立つ。もっともな問いではあるけれど、誰も好き好んでこんな場所にいるわけではない。

「落ちたから」

「どこから」

「崖から」

 しばらく沈黙が続いた。

 通話が切れたのかな。それともとうとうスマートフォンが壊れたのかな、と凜花が思ったころ、ふたたび片瀬の声がした。

「なにがあったんですか」

 こうなった経緯を簡潔に説明するのは難しい。考えを纏める気力もないし、かと言って長いセンテンスを喋るのもしんどい。

「色々あった。っていうか、かすみさんに気を付けろって言うんなら、もうちょっと詳しく話してよ」

 クレームが思わず口をついた。忠告を無視してしまったのは棚に上げておいた。

「かすみさん?」

 片瀬の声に緊張が走るのがわかった。

「恭二郎さんが何回電話を掛けても出ないんですけど、今どうしてるんですか」

 片瀬の問いになんと答えるのが適当か、凜花は気を抜くと散漫になりそうな思考を何とか形にする。

どうして片瀬が恭二郎と一緒にいるんだろうと思ったが、そんなことを訊くほどの余裕もない。

「たぶん幸太郎のところに行ったんだと思う」

 片瀬はふたたび沈黙した。凜花は意識が遠のいていくのを感じた。痛みは絶え間なく続いているけれど、とにかく今は眠くて眠くて堪らない。

「篠さん。つまりかすみさんは」

「ごめん、少し眠らせて。ものすごく眠いの」

 もつれそうになる舌をなんとか操って凜花は片瀬の言葉を遮った。

「寝たらいけません。篠さん、もう少し何か話してください。今どこにいるんですか」

 切迫する片瀬の声に、なんで人の睡眠を妨げようとするの、と凜花はムッとする。

「さっきも言ったでしょ。崖の下」

「どこの崖ですか」

 片瀬の声は妙に優しくなる。

機嫌を取ろうとしたってもう手遅れなんだから、と腹を立てつつも、凜花は律儀に答えた。

「灯台のある崖。この島の最北端。もういい?」

「まだ駄目です。篠さん、通話を切らないで」

 通話は切らなかった。その前にふたたび意識を失った。


 次に凜花が意識を取り戻したとき、最初に目にしたのは険しい表情を浮かべる片瀬だった。凜花の右手首に手を当てている。大きなダウンジャケットが上半身に掛けられているのも目に入った。

「……どうして片瀬さんがここにいるの」

 ぽつんと尋ねると、片瀬は素早く凜花の顔を見た。それから手首に当てていた手を滑らせて凜花の手を握る。

「握り返すことはできますか」

 なんでそんなことを、と思いながらも凜花は握り返す。片瀬がほっと息をついた。次の瞬間、普段はほとんど感情を浮かべることのない両眼から涙が吹きだした。

 凜花は呆気にとられる。それから心配になった。

「私そんなにひどい?」

 片瀬は空いている手で乱暴に涙を拭い、笑みに似た表情を浮かべた。

「大丈夫。絶対に助かります」

 簡単に言ってのける片瀬が無責任に思えて、凜花は眉を寄せた。

「なんでそんなことがわかるの。こんなに痛いのに」

 不機嫌に尋ねると片瀬は凜花を覗き込んだ。

「どこが一番痛いですか」

「全部」

 凜花の右腕を、片瀬は優しく撫でた。

「痛みを感じるのは生きている証拠です。こんな所から落ちたのに、よく生きていてくれました。きっと斜面に生えている木に引っかかって、衝撃が少し和らいだんでしょう」

 そう言いながら手を離して、凜花の髪に絡みついていた小枝をそっと引き抜く。凜花はもう一度頭上を見上げた。

 確かに普通なら死んでいる。実際にかすみは死んだ。そう思うと不意に怖くなった。

「私、これから死ぬの?」

 片瀬は表情を引き締めて首を振る。それからもう一度凜花の手を握った。

「死なせません。絶対に死なせない。そんなの絶対に許さない」

 こんな状況なのに、凜花はなんとなくおかしくなって力なく笑んだ。

「絶対に? っていうか、私が死ぬのには片瀬さんの許可が必要?」

「そうです。僕が絶対に篠さんを死なせたりしない」

 きっぱりと片瀬が言い切ったその直後、慌ただしい足音がした。

「片瀬さん! 篠さんはどうですか」

 聞き覚えのある声だった。恭二郎だとすぐにわかった。

「大丈夫です。ついさっき意識が戻りました」

 目線を凜花に当てたまま片瀬が応じた。間もなく息を荒げた恭二郎も凜花の傍にしゃがみこんだ。

「ああ良かった! 篠さん、僕がわかりますか」

 動くのが億劫で、凜花は目だけを恭二郎に向けた。

無礼は承知だが、なにぶん死にかけているのだ。多少は大目にみてくれるだろう。

「ええ。でも、どうしてここにいるんですか」

 そもそも午前中に東京へと立ったはずの片瀬が、こうしてそばにいること自体が不思議だった。

「話すと長くなるので篠さんが元気になったらあらためて話します。とにかく、もう少し頑張ってください。すぐに船が来ます」

「船?」

 短く問い返したとき、かすかにモーター音が聞こえた。

「この崖を行き来するより海からのほうが救助しやすいので、漁業組合に頼みました」

 恭二郎の言葉を聞きながら、凜花は初めて疑問を抱いた。この二人はどうしてここにいるのだろう。

 どこにいるのか片瀬に尋ねられて答えたのは覚えている。だけど、そうおいそれと来られるような場所ではない。

「どうやってここまで来たの? 私みたいに転がり落ちてきたわけじゃないわよね」

 凜花は片瀬に視線を戻して尋ねる。片瀬はほんの少し口角を上げた。

「まさか。恭二郎さんがここまで連れてきてくれたんです。助けを求めたのが恭二郎さんだったのは、本当に幸運でした」

「どうして」

「ここはこの島の宗教の聖地のすぐ近くで、御番主と呼ばれる人以外は立ち入ることを許されない禁足地なんです。恭二郎さんは御番主の跡継ぎとして、ここまでのルートを教わっていましたが、他の人なら、ここに来ることはできませんでした」

「お二人に良くないことが起こらないよう、いま祈ってきました。だから大丈夫。篠さんは絶対に助かります」

 勇気づけようとしているのか、恭二郎はぎこちない笑みを浮かべた。

気遣われすぎて凜花は逆に不安になる。全身を覆い尽くす痛みから自覚はあるが、傍目にもいまの自分の状態は危うく映るのだろう。

 一人でここに転がっていたときは諦めからくる達観で迫りくる死を受け入れていたのに、片瀬が来てから気持ちが変わった。死によってこの人と引き離されるのを怖いと思った。

 まもなくばらばらと足音がして、凜花は数人の男に囲まれる。いずれも精悍な海の男といった風貌だ。それなのにどこか腰の引けた様子で恭二郎の顔を窺っている。

「本当に大丈夫なんですか」

 おどおどと尋ねる男に、恭二郎は顔を向けた。

「大丈夫です。神は人を罰するものではなく救うものです。こうして助けを求めている人を救おうとする者を咎めることなど決してない。さあ、急いでください」

 毅然とした恭二郎の声に励まされたのか、男たちは一瞬顔を見合わせたあと、てきぱき動き始めた。

 なるべく凜花を動かさないように慎重な手つきで簡易な担架に乗せ、船へと運び込む。

 恭二郎と片瀬も一緒に乗り込んだ。明るい船内で、片瀬は凜花の左脚の傷に目を留め、船員からタオルをもらって服の上からぎゅっと結びつけて止血した。

それから港に着くまでは、ずっと凜花の手を握り、意識を繋ぎとめるように小さな声で話し掛け続けた。

 常の寡黙さが嘘のようだった。饒舌とまではいかないが、訥々とした言葉は途切れない。内容は海の色や船の内装、天候にまで及んだ。

 この人こんなに喋れたんだ、という驚きと、眠りを妨げようとする片瀬に若干の苛立ちを覚えつつも、凜花は手を握り返して話に応じていた。

 もしも片瀬がいなかったら自分はきっとあの場所で死んでいた、と薄れそうになる意識の中で凜花はふと思った。

「ありがとう」

 片瀬の話の流れを無視して凜花は言った。

 恭二郎の勤める資料館の話をしていた片瀬は言葉を止め、凜花の顔を覗きこむ。

「篠さんは僕に感謝なんかしなくていい。それに、僕がここに来ようなんて言い出さなければ、こんなことにはなっていませんでした」

「そうだとしても」

 暴力的な睡魔と必死に戦いながら、凜花は片瀬を見上げた。

「来てくれなかったら、私は誰にも看取られずに死んでた。来てくれてありがとう」

 気を抜くと閉じそうになる瞼を見開いて片瀬の顔を凝視する。死を覚悟したとき、最後に思い浮かべたのも、この世に引き戻したのもこの人だったと思った。

強烈な眠気の波に呑みこまれそうになる。凜花は瞼に込めた力を緩めた。

 片瀬の顔に濃い焦燥が浮かんだ。握りしめる手に力がこもる。

「篠さんは死んだりしません。だから眠ったら駄目です」

 そんなこと言われたって、と凜花は薄れゆく意識の中で苦笑する。仕事で二日間完徹したときよりもっと眠いのに、これ以上起きているのはもう無理だ。

 なにも答えず凜花は目を閉じる。くちびるに何かが触れた。薄く目を開くと、片瀬の顔があった。目が合って、片瀬はくちびるを離す。

 古いおとぎ話のようなシチュエーションだ、と凜花は朦朧とする意識の中で考える。

「片瀬さんは王子様なの?」

唐突な問いに、片瀬は涙の膜に覆われた目を丸くする。

「もちろん違います」

「お姫様なら王子様のキスで目を覚ますけど、あいにく私もお姫様じゃない」

 最後まできちんと言い切れたか自信がない。凜花の意識は暗転した。


その後なにがあったのかは、全く記憶にない。

黒々とした意識の中をふわふわ漂って、ときたま捉えどころのない断片的な夢を見た。

 覚醒したとき、凜花は激しい喉の渇きを覚えた。

身じろぎしようとして節々の痛みに眉をひそめる。左頬のあたりがごわごわして少し痒い。なにか貼り付けられているようだ。身体の左側は何か固いものに覆われているし、異様な臭いがする。

 目を閉じたまま、一体なんの匂いだろう、とぼんやり考え、消毒液と髪の脂っぽい臭い、かすかな体臭の混じりあったものだ、と分析する。

 痛くて臭くて動けない。控えめに評して最悪な気分だった。

 あたたかく大きな手が右手を包みこんでいるのをゆっくりと認識する。

瞼を開くのすらしんどくて、とろとろまどろみ続けながら手の持ち主について考えた。

 お母さんかな、とまず思った。

いや、ちがう。こんなごつごつした手じゃないし、もうこの世にはいない。

もしもお母さんだとしたら、私は死んでいることになる。だとしたら、こんなに身体が痛む意味がわからない。

 凜花はたゆたう記憶を探る。

 一緒に暮らしていた人がいた。生まれて初めて、心から愛した人だった。

光井幸太郎。

この人は幸太郎だろうか。

ちがう。彼の手は、体格と比例して、自分とそう変わらない大きさだった。

それに、幸太郎とは一緒にいられなくなった。

 大好きだったのに別れを選んだ。その理由も思い出した。

 どうしても許せなかった。一番の味方でいてほしかったのに、よりによってお母さんが亡くなる原因になった新興宗教の次期指導者と目される男を庇う記事を書いたから。

 あの男。鈴木と名乗って、ずっと自分のそばにいたあの男。なんていう名前だっけ。

ああ、そうだ、片瀬。片瀬……下の名前は思い出せない。

とにかく、片瀬だ。

その片瀬が助けに来てくれた。

幸太郎の妻と断崖で揉みあいになって、一緒に転がり落ちたあとだ。

どうして片瀬が来たのかはよくわからない。なにか話していた気がするけど、そのへんの記憶は曖昧だ。

だけどずっと手を握っていてくれたことは覚えている。

途切れ途切れの記憶が少しずつ繋がっていく。

この手の持ち主が誰なのか、目を開かなくてもわかった気がした。

正解を知りたくて、凜花はそっと目を開く。

 予想通りの顔が視界に飛び込んだ。凜花の手に大きな手を重ねたまま、ベッドサイドに置かれたパイプ椅子に大きな身体をもたれかけるようにして眠っている。

 この人の寝顔を見るのは初めてだとふと思う。記憶にあるより、輪郭が幾分シャープになっていた。無精ひげはいつもと比べて少し長い。

 それから目だけを動かして、あたりを見回す。全体的に白く殺風景な、狭い部屋だった。

 壁掛け時計は見当たらないが、閉ざされた薄い緑色のカーテン越しに外光が差し込んでいる。何時かはわからないけれど、夜でないことだけは確かだ。

病院の個室にいることはすぐにわかった。なにしろ、つい最近お世話になったばかりだ。

もっとも、点滴と簡単な検査くらいで済んだあのときとは比べようもないほど、今回はだいぶ重装備だ。左肩と左脚はそれぞれギプスで固定されて、右前腕の外側には点滴の管が刺さっている。

「……身動き取れないわけだ」

 思考がそのまま口から出た。びっくりするほどしゃがれた声だった。

ほんの小さな掠れ声だったのに、繋いでいた手がびくりと震えた。

 片瀬の目が大きく見開かれるのを、凜花はじっと見ていた。

「篠さん? 僕がわかりますか」

「片瀬さん」

 凜花が短く答えると、覗き込む片瀬の目に涙の粒がみるみる盛り上がっていった。

「どうして泣くの」

 額に落ちる水滴を拭うすべもなく、凜花は尋ねた。片瀬は素早く首を振り、枕元に手を伸ばした。それからふたたび凜花に目を落とす。

「ナースコールを押しました。すぐに看護師さんが来ます」

 その言葉のとおり、まもなく病室の扉が開いた。

「どうしました」

 きびきびとした女性の声がする。片瀬は凜花から視線を外して振り向いた。

「意識が戻ったみたいです」

「まあ、よかった。ちょっと失礼します」

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、白衣に身を包んだ女性が視界に現れた。三十代後半から四十代前半くらいだろうか。セミロングの髪をきちんと束ねて、化粧っ気のない顔に生き生きとした表情を浮かべている。凜花は一目で好感を持った。

片瀬は立ち上がり、椅子を畳んで壁に立てかける。ずっと握られていた手が離れ、凜花はなんとなく心もとない気持ちになる。

「篠さん。具合はいかがですか」

「良くはないです。痛いし、臭いし、動けないし。あと左頬のあたりが痒いです」

 ぼやく凜花に、看護師は血圧を計りながらにっこりした。

「ですよね。もう少ししたらお顔の絆創膏は剥がせると思います。経過を見て、お身体もきれいにしましょう。ちょっと待っててくださいね。いま先生を呼んできます」

 そう言いながら音をたてず、足早に立ち去った。

「夜想島にこんな大きな病院があるなんて思わなかった」

 凜花が素直な感想を述べると、片瀬はベッドのふちに腰を下ろして凜花の手を握った。

「ここは鹿児島本土の救急病院です。篠さんはドクターヘリで運ばれて、三日三晩、昏々と眠り続けていたんです」

 凜花は驚愕に目を見開いた。

「嘘でしょ。全然覚えてない」

「でしょうね。ずっと意識不明でしたから」

 片瀬は握る手に力を込める。

「目を覚ましてくれて、本当によかった」

 ありふれていても真情に満ちた言葉だった。凜花は胸が詰まるのを感じた。

 父親が犯した罪を贖うために自分のそばにいることは知っている。

 片瀬を許せないと思っていた。二度と会わないほうがいいとも思っていた。

 それなのに、今こうしてそばにいてくれるのを嬉しいと思っている。

 人の心に宿る感情はひとつでないと、凜花は初めて理解した。

 黙って片瀬を見返していると病室のドアが開き、よれよれの白衣を羽織った男が現れた。

続いて先ほどの看護師も入ってきた。状況的に、この男が医師なのだろうと判断する。

寝癖でぼさぼさの頭は白髪交じりだが、顔を見る限りそれほど年齢はいっていなさそうだ。看護師と同年代か、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。激務のためか、濃いクマが浮かび上がっているけれど、理知的で穏和な目をしていた。

「大変な目に遭いましたね。でも、もう大丈夫ですよ。ああ、お付添いのかたは一度退室していただいてよろしいですか」

 その言葉を受け、片瀬は立ち上がって医師に一礼すると病室を出て行った。

「すみません、お手間をかけます」

 凜花の言葉に、医師は手際よく診察しながら気さくに笑う。

「いえいえ、これが僕の仕事ですから。それより彼氏さんに感謝ですね。ずっと篠さんに付きっ切りでしたよ」

 凜花はなにも答えなかった。関係性を訂正するほどの気力はないし、片瀬が言っていることと整合性がなければ不審に思われるかもしれない。医師は手を止めることなく言葉を継いだ。

「原則的にご家族以外の付添人はお断りしているので、今回は特例なんですけど。本当に、いつ見ても篠さんに寄り添っていました。近くのウィークリーマンションを借りたそうですが、ほとんど利用していないと思いますよ」

 どうしてそこまで、という驚きよりも、いかにも片瀬らしい、という感想が、凜花の中で上回った。

 片瀬はいつもそうだった。本人は自己満足だと言うけれど、たとえそうだとしても、してくれたことには変わりない。

「うん、大丈夫そうですね。左肩と左足を骨折されて肋骨にひびが入っていますけど、落ちかたが良かったのか綺麗に折れているので、予後も良さそうです。他に大きな傷はありません。頭部への打撲が心配でしたが、明晰にお話しされているし動作もしっかりされています。今後の経過で変わってくるでしょうけど、おそらくは三週間くらいで退院できると思います」

 下された診断に、あと三週間も、と凜花は嘆息しそうになったが、慌てて堪える。

医師に対して失礼だし、あんな高さから落ちてそれぐらいですんだのはむしろ僥倖だ。

 笑みを浮かべながら退室しようとしていた医師は、扉の脇に向かって声を掛ける。

「篠さんはもう大丈夫でしょう。それよりあなたが心配です。昼食は?」

「いえ、まだ」

 応じる声で、片瀬がそばにいたことを知る。

「それはいけませんね。とりあえず何か食べてきてください。今度はあなたが倒れてしまいます」

 やんわりと諌めて医師は立ち去る。気まずそうな顔の片瀬が入室して、ベッドのふちに腰掛けた。

「すみません、ちょっと外します」

 凜花は苦笑した。

「私に断わる必要なんてないし、もう大丈夫だから帰って。ウィークリーマンション借りたんでしょ。てか、なんでそこまで」

「慣れてますから。一時は日本全国のウィークリーマンションを転々としていました」

 遮るようにそう言うと、片瀬は小首を傾げた。

「それに、いま帰るわけにはいきません。これから山辺さんがいらっしゃるので」

 思いがけない名を耳にして、凜花はまばたきする。

「え、なんで山辺さん? ああ、そういえば連絡先を交換してたんだっけ」

「はい。迷ったんですけど、万が一のことを考えて、昨日の昼過ぎに電話を掛けました。勝手なことをしてすみません」

「それはいいけど。っていうか本当に来るの? 山辺さんが?」

 事態を把握して凜花は青ざめる。

繁忙期にはまだ少し早いけれど、そうでなくとも何かと忙しくしている山辺がはるばる鹿児島まで来ることを思うと、申し訳ないという表現では言い足りない。

「ええ。十四時過ぎにはこっちに着けるだろうって」

「いま何時?」

 片瀬は腕時計を一瞥する。

「十三時になるところです」

「ってことは、あと一時間じゃない! えっ、どうしよう。どうしたら」

 小さくパニックを起こす凜花の手を、片瀬はそっと握った。

「どうもしなくて大丈夫です。昼食を摂りに行きがてら、山辺さんに連絡しておきます。篠さんの意識が戻ったって。喜びますよ、ものすごく心配されていましたから」

 そう言うと手を離して立ち上がる。

「……ありがとう」

 ドアへ向かう背中に向かって呟くと、片瀬は振り向かずに軽く首を振る。一貫する態度に凜花は苦笑した。



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