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夜想島  作者: 綾稲 ふじ子
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夜想島

 凜花は車窓の外を眺めながら、ついさっき掛かってきた電話について考えていた。

船に乗っているはずの片瀬が、どうして恭二郎と一緒にいるのだろうと訝しむ。

電話の内容も不可解だった。

自分と幸太郎が同棲していたことを、かすみが知っていると片瀬は言っていた。

それについては、あまり疑問はない。夫婦なのだから、昔付き合っていた人の話をするシチュエーションくらい、いくらでもあっただろう。エピソードのひとつとして自分とのことを話したとしてもおかしくない。わざわざ打ち明けなかったのも、妙な空気になるのを避けるためだったと思えば納得できる。自分も同じ理由で、幸太郎との本当の関わりを話さなかったからだ。

 不可解なのは、なぜ片瀬が唐突に電話を掛けてきて、かすみに気を付けろと言ったのかだった。

恭二郎が片瀬と同じ見解だと言っていたのも不思議だったし、鈴木ではなく片瀬と呼んでいた理由もわからない。

 それに、漠然と気を付けろと言われても困る。

 どうせなら何をどう気を付けたらいいのか、もう少し具体的に話してほしかった。

「恭二郎くんとの待ち合わせまで六時間あります。どこか行きたい場所はありますか?」

答えの出ない問いに頭を悩ませていた凜花は、話し掛けられて我に返った。慌てて視線をかすみに移す。かすみは前方を直視していた。

「光井さんが好きだった場所を案内してくださるんですよね」

「ええ。大体のプランは考えてあります。でも、もしも篠さんが行きたいところがあれば」

 こまやかな気遣いに凜花は恐縮した。

「いいえ、とくには。かすみさんにお任せします。おんぶに抱っこですみません」

 かすみは口角を上げた。

「とんでもない。それでは私の考えたコースで行きましょう。山道を歩いたことは?」

 凜花は少し考えた。山道を歩いた経験はほとんどないが、足には自信がある。

 歩いてネタを稼ぐのも仕事のうちで、一日で都内のパンケーキ屋を五軒はしごしたり、取材で歩きづめになることもあった。

「本格的なトレッキングをしたことはありませんけど健脚なほうです。よっぽど険しい道じゃなければ、たぶん大丈夫だと思います」

「大丈夫、それほど歩きにくい道ではありません。場所によっては舗装されていませんが、ハイキングコースになっているくらいですから。時間はたっぷりありますし、休み休みで行きましょう。せっかく今日はお天気もいいし」

 かすみの言葉で、凜花は再び車窓の外を見る。昨日の悪天候が嘘のように、外歩きには最適な晴天だった。

「夜想島は、西岸部と東岸部でがらっと様相が変わります。篠さんが泊まっていた旅館のある西岸部は海水浴場やスキューバダイビングのポイントがあったりと比較的穏やかですが、東岸部は波が荒く、断崖に囲まれた数々の奇岩が見られます。県道が通っているのは西岸部沿いだけで、東岸部は曲がりくねった山道ばかりなんです」

 凜花はガイドブックで見た夜想島の地図を思い浮かべた。見所は東岸部側に集中していた覚えがある。となると、今日はポピュラーな観光スポットを巡ることになるのだろう。

「同じ島の中でも、そんなに環境が違うんですね。かすみさんの家はどちら側になるんですか?」

「海岸からは少し遠いですが、東岸部側です。今日は最南端から東岸部沿いへと南下して行きましょう。主人の好きだった場所は、島の最北端にあります。そこから待ち合わせのカフェまで西岸沿いに車で三十分くらいです」

「島を半周する感じですか」

「そうですね。そんな感じです。いかがでしょう」

「楽しみです」

 雑然とした街並みに住んでいる自分にとって、自然と触れ合う機会はそう多くない。

それに、どういうところで幸太郎が生まれ育ったのかにも興味があった。

 でも、と凜花はふと思う。

 さっきの片瀬と恭二郎の忠告には、一体どんな意味があったのだろう。

 片瀬は、自分と幸太郎のかつての関係をかすみが知っていると言っていた。

 それが正しいのだとすれば、どうしてわざわざ自分に接触してきただけでなく、幸太郎との思い出の場所まで案内しようなどと思いついたのだろう。

「凜花さん」

 漠たる不安を抱いていた凜花は、急に呼びかけられてドキリとする。

「なんでしょう」

 恐る恐るかすみを見る。かすみは華やかに微笑んでいた。

「私も楽しみです」

 緊張が解けて、凜花も微笑んだ。

 考えすぎはよくない。きっとかすみは良かれと思って自分を観光に誘ったのだろう。

 もしかしたら幸太郎と関係があった女に対して無意識下でマウントを取りたいと思っているのかもしれないが、それならそれで構わない。もともとかすみに敵うと思ってない。

 どんな思惑があるにしても、かすみとの関わりは今日で最後になる。東京に帰ったら、ここに来ることはおそらくない。

 せっかくのドライブ日和なのだ。余計なことは考えず、今日この一日を満喫しよう。

 凜花はそう思った。


 最初に立ち寄ったのは、島の最南端にある展望台だった。

 カーブの続く細い道を上がっていくと三叉路が現れ、山腹に沿って進むとやがて果てに辿りついた。

 季節柄、地面は枯草に覆われていて荒涼感があったけれど、視界いっぱいに広がる海は紺碧に澄んでいる。海風はあるけれど、東京と比べるとまだ暖かだ。

展望台から少し下ったところに白い灯台がそびえていて、目にも鮮やかだった。

「夏ならこの辺一帯に野生の百合が咲き乱れて、もっと綺麗なんですけど」

 ゆったりとした足取りで遊歩道を歩きながら、かすみは言った。

「でも、広々として気持ちのいいところですね。海が良く見えるし、灯台が海に映えます」

 凜花の感想に、かすみは灯台を見下ろした。

「少し歩くと灯台に出ます。行ってみますか」

「はい」

 連れ立って幅の狭い石段を降りていくと、まもなく岩場に覆われた海岸に辿り着いた。旅館のそばのさらさらとした砂浜と違った印象だ。

左手側に断崖がそそり立って、見事な景観だった。凜花はショルダーバッグからスマートフォンを取り出して何枚か撮った。

 いつの日かこの地を振り返るとき、この写真が記憶を辿るよすがになるだろう。

「ここが最南端でしたっけ。東岸部もこんな感じなんですか?」

「いいえ。ここよりもっと多くの切り立った断崖があります。夏場の観光シーズンには、海から断崖を臨む観光クルージングがあります。小学生の頃に遠足で乗りましたが、船酔いした主人に気を取られて、あまり景色を楽しめなかった思い出があります」

 ふと挿し込まれた幸太郎との思い出話に、凜花は複雑な胸の内を隠して笑んだ。

 なんということもないエピソードにも、幸太郎とかすみの付き合いの長さや深さを感じてしまう。仕方のないことなのに、感情を完全にコントロールするのは不可能だった。

「子どものときからずっと一緒だったんですね」

「そうですね。一緒にいるのが当たり前で、離れるなんて想像すらしていませんでした」

 海に目を当てながら、かすみは静かな声で言った。

「一度は離れたにしても、光井さんは結局かすみさんのもとに戻ってきたじゃないですか。結ばれる運命にあったんでしょうね」

 そして自分は、ほんのいっとき彼と生活をともにしていただけの人間だ。そう思うと、傷が掻き毟られる。

「運命、ですか」

 かすみは言葉を吟味するように繰り返す。それから凜花をかえりみた。

「遠足の観光クルージングのとき、運命について考えたのを思い出しました。初めて島を外から眺めて思ったんです。どうして私はここに生まれたんだろう。そういう運命なんだろうかって」

 今までと変わらぬ穏やかな声だったけれど、そこに込められた感情が伝わってくる気がした。小学生の子どもが抱く疑問にしてはあまりに重い問いで、どうしてそんなことを考えたのかが気になった。

「そのとき何歳だったんですか」

 そっと尋ねる凜花に、かすみはかすかな笑みを浮かべたまま応じた。

「小学五年生だったので、十歳の頃でした」

 そう言うと、独り言のように言葉を続ける。

「海はどこまででも続いていて日本のどこでも、世界中どこへだって行けるはずなのに、私はきっとどこへも行けない。こうして生まれた以上は、一生この島に縛り付けられて生きていくんだろう。そんなふうに息苦しさを感じたのを覚えています」

 かすみが御霊抜きという儀式に臨んだのは十三歳だった、と凜花は思い返した。

 十歳ともなれば数年後の自分にどういうことが起こるのか、なんとなく把握していただろう。親に庇護される立場で、一人で生きていくことのできない子どもが、逃れられない行為をどういう心境で受け止めていたのか、想像するのは難しい。

 ただし今のかすみは成人していて、この島に縛り付けられる必要はない。外の世界で生きていくという選択肢だってあるはずだ。

「かすみさんはしばらく鹿児島で暮らしていたこともあったんですよね。どこへでも行けるし、なんにでもなれる。今からだって遅くは」

「でも、結局はここに戻ってきました。戻って来ざるを得なかったんです。一人で暮らす父を残してはどこへも行けない。父はずっとこの島で漁師をしていて、いまさら余所では暮らせません。それにこの身体に脈々と続く血が、ここを捨てることを許さなかった。いつまでも続かないとどこかでわかっていたからこそ、鹿児島での生活が余計心に残っていたのかもしれません」

 凜花にはかすみの言っていることが理解できなかった。

 ここでの生活が息苦しいのなら逃げ出せばいい。肉親の存在が歯止めになっているのかもしれないが、自分を守るための行動を起こすのは決して悪いことではないはずだ。

 だけどそれをどう伝えればいいのかわからなかった。

 かすみにしても、ただ自分の気持ちを吐き出しただけで、答えなど求めていないのかもしれない。身近な人間にこそおいそれと打ち明けられないことでも、なんの利害関係もない通りすがりの他人には気楽に話せる心境はわからなくもない。

 何を言うべきか、もしくは何を言わないべきか考え込む凜花に、かすみは声の調子を変えずに言った。

「そろそろ行きましょうか。もう十二時になります。次に行く場所がこの島で最も有名な観光スポットなので、そこで昼食を摂りましょう」

 少なからずホッとして、凜花は頷いた。

 かすみと並んで歩きながら、この人は今、何を考えているのだろうと思った。

 どれほど近しい人間でも、心の底にあるもの全てを窺い知るのは難しい。ましてや数回しか会ったことのない赤の他人が相手であれば、わかりようもない。

 この道行きはかすみにとってどんな意味をもつのか、それが気になった。


次に辿り着いた展望台は駐車場から程近くにあって、海に面した荒々しい岩肌の崖が臨めた。特徴的な形状の岩石が幾つも海面からそそり立っているのがまず目に付く。海の色は深い。おそらく他方向から見れば、ここも切り立った崖の上にあるのだろう。

 二時間サスペンスドラマで犯人が自白したあとに飛び降りそうな場所だな、などと凜花が柵にもたれかかって考えた。

ふもとの集落も見晴らせた。海岸に面して民家が密集している。ビルはない。見るからにのどかな海辺の町だった。あの家の一軒一軒に人が住んでいて、それぞれの人生を送っていると思うと、なんとなく不思議な気持ちになった。雑然とした街で、仕事に追われる慌ただしい日々を過ごしている自分とは全然違う生活が、きっとここにはある。

凜花はここでもスマートフォンで写真を撮った。

「ここがこの島で一番有名な観光スポットです。ツアーのパンフレットなどでもよく表紙になっています」

 バスケットをベンチの上に置きながら、かすみが言った。確かにガイドブックの写真にも載っていた、と凜花は思い出す。さっきの展望台にはベンチなどなかったし、ここには公衆トイレもある。きっと観光スポットである所以だ。

人影は相変わらずない。オフシーズンの月曜日に、ここを訪れる人はそう多くないのだろう。

おかげで絶景を独占できるのは思わぬ余得だった。

「食べましょう。もうこんな時間だし」

 かすみの言葉で腕時計を見る。一時になるところだった。不意に空腹を覚えて、凜花は苦笑する。朝食はしっかり摂ったのに、時間になるときちんとお腹は空く。

「ありがとうございます。お腹ぺこぺこです」

 バスケットを挟んで、凜花はかすみと隣り合わせにベンチに座る。かすみは甲斐甲斐しくランチボックスを開いて、割り箸を差し出した。

「こんなものでお口に合うかどうか。適当につまんでください」

 ランチボックスの中には出汁巻き卵やひと口大のハンバーグ、れんこんのきんぴらや茹でブロッコリー、プチトマトなどが彩りよくたっぷり詰められている。ラップに包まれたおむすびは海苔とおぼろ昆布の二種類があった。

「すごい! 美味しそう。いただきます」

 嬉々として割り箸を割り、凜花は見た目にもふっくらとした出汁巻き卵を取った。口に入れるとふわっとほどけて、上品な味わいが広がる。

「すごく美味しいです。どうやって作るんですか、これ」

「簡単ですよ。よく溶いた卵に鰹節で取った出汁と薄口醤油をほんの少し入れて、隠し味にお砂糖をひとつまみ。それだけです」

 さらりと答えるかすみに、凜花は感嘆する。

「きちんと出汁を取るのがすごいです。私、顆粒の出汁しか使ったことないですもん」

「忙しいときには私も使いますよ。でも、今は時間がたくさんありますから」

 そう答えるかすみは寂しげだった。

 不慮の事故で最愛の伴侶を失ったばかりで独りになったかすみにとって、時間は計り知れないほど長く感じられるのだろう。自分も母を失ったとき、そう感じた。

 だけど、あのときは幸太郎がそばにいてくれた。幸太郎を失ったあとは片瀬が押しかけてきたし、山辺もいた。

 かすみにはそういう人間が誰もいないのだろうか。父親がいると聞いたが、支えにはなってくれないのだろうか。そう思ったけれど、凜花は黙っていた。

「そういえば、このハンバーグは主人の好物でした。私のハンバーグが一番美味しいなんて言ってくれて。そんなわけはないと思うんですけどね。きっと島の外にはもっと美味しいものがあったはずですから」

 思い出したようにぽつんと呟くかすみに、凜花は二重の意味で胸を締めつけられた。

 夫を亡くしたばかりのかすみに対して気の毒に思うのと同時に、幸太郎の気持ちをあらためて思い知らされた。

 幸太郎にはかすみの料理が一番だった。料理だけでなく、かすみ自身が一番だった。

 自分はあくまでその他大勢の一人にすぎなかったのだ。

 複雑な感情を押し殺して、凜花は微笑んで見せた。

「そんなことないです。どんなものよりも、光井さんにとってかすみさんが作ってくれたお料理が一番だったんでしょう。本当に美味しいですし」

 凜花の言葉を受けてかすみも微笑んだ。

「だったらいいんですけど。もっと美味しいものを、たくさん食べさせてあげたかった」

 そう言うと、気付いたように明るく言った。

「やだ、なんだかしんみりしちゃいましたね。食べましょう。多かったら残してください」

「大丈夫です。美味しいし、ぺろりと食べられちゃいます」

 空気を変えよう、と凜花も明るい声を心がけて応じた。

 実際にランチボックスの中身のほとんどは凜花の胃に収まっていた。かすみは少し手を付けるだけで、あまり食の進まない様子だった。

幸太郎が好物だったというハンバーグは、確かに冷めても美味で、箸を運ぶ手が止まらない。意地汚いとは思いつつ、凜花はせっせと食べて、ランチボックスを空にした。

「食べきってくださって良かったです。お口に合いましたか」

「ええ、とっても。ごちそう様でした。おなかいっぱいです」

「あんまり満腹だと、この先の道で車酔いしてしまうかもしれませんね。少しここでゆっくりしていきましょう」

 ランチボックスをバスケットにしまうと、かすみはちらりと腕時計を見た。

「次に行くところで、島内の観光はおしまいです。恭二郎くんとの待ち合わせまで時間が余りそうなので、腹ごなしも兼ねてこの辺を少し散策しますか」

「いいですね。そうしましょう」

 凜花は同意した。三半規管はそう弱くはないけれど、せっかくの観光で具合が悪くなったらもったいないし、かすみに世話を掛けるのも申し訳ない。

 海岸まではなだらかな坂道を辿って三十分ほどかかったが、空は相変わらず澄んで、風も穏やかだったので心地良く歩けた。

 展望台から見下ろした集落ではさすがに住人の姿を見かけたが、見慣れぬ人間と関わるのを避けるようにすっと姿を消した。

排他的と評すれば言葉が強すぎるかもしれない。だけど警戒心の強さを感じるのは否めない。

 浜辺には大小さまざまな石が一面に広がっていた。どれも丸みを帯びているのは波に洗われたせいだろう。視界のどこにも海とそそり立つ数々の奇岩が入る。白い海鳥が滑らかに空を横切った。

「どの浜辺も全部違いますね。旅館のそばは砂浜だったし、さっきは岩に覆われていたし」

 石に足を取られて転ばないよう気を付けて歩きながら凜花は言った。

「同じ島でも立地や海流でだいぶ変わってくるようです。ここはとくに独特の景観だから、観光スポットになるのもわかります」

 自分とかすみの関わりにほんの少し似ている、と凜花はふと思った。

 同じ男を愛していた女という共通点はあるけれど、自分とかすみは全然違う。

住んでいるところや生き方、物の考え方や料理の腕前もだ。

この島を後にしたら二度と会うこともないであろう儚い縁でも、幸太郎が愛していた女性を知れてよかった。

幸太郎は人生の最後、この島で幸せに生きていた。そう思うと救われた。

本当に愛していたのは自分ではなかったと思い知らされた切なさが完全に胸の中から消えることはないにしても、いずれ時が癒していくはずだ。

二人は黙って海や断崖を眺めた。

隣にいても、かすみがどういう気持ちで自分を島内の観光に誘ったのかはわからない。だけど凜花がたったいま感じているのは、不思議なほど穏やかな気持ちだった。

「お腹の具合は?」

 静かな声で尋ねられ、凜花は海からかすみに目を移した。

「大丈夫です。だいぶ消化してきました」

「それなら行きましょう」

 二人きりで過ごす時間ももう少しで終わる。

この出会いが痛みをもたらしたとしても、自分はかすみの存在を知れてよかった。凜花は心からそう思った。


 最後の目的地は他の二か所と違って、細く曲がりくねった山道を進んだ先にあった。

 かすみが車酔いを懸念していたのがよくわかる、と思いながら凜花は山深い景色に目を奪われていた。

ついさっきまで広々とした海原が広がっていたのに、海の気配は一切ない。

 タイヤが水を含んだ砂利を跳ね上げた。舗装されていない道を進んでいることを振動が知らせている。もはや山道というより少し広めの獣道と呼んだほうがよさそうだ。

「車で来られるのはここまでです。少し歩きますが大丈夫ですか」

 山道の途中でかすみが停車して尋ねた。

「もちろん。せっかく連れてきていただいたんですから」

 ここまで来たのなら、幸太郎が好きだった場所を見ておきたい。

どれほど歩くのかはわからないが、ハイキングコースになっていると昨日かすみから聞いた覚えがある。それほど険しい道ではないだろう。

 凜花はショルダーバッグを肩に掛け、心の中でこっそり気合を入れつつ車を降りた。

前日の雨で洗われたせいもあってか空気は清涼で、濃厚な緑の香りがする。

「思っていたより地面がぬかるんでなくて良かった。歩きやすさが全然違いますから」

 車を降りながら、かすみが言った。バッグは車に残したまま、黒いコートののポケットに鍵だけ入れる。

「お天気も良くなりましたし。さすがにあの豪雨じゃ、ここに来るのは無理ですよね」

「私は慣れているから雨でも大丈夫ですけど、篠さんは大変でしょうね。足を取られて転んでしまいそう」

「絶対に転ぶ自信があります。それでなくても山道ビギナーだし。そうなったら、おんぶしてもらわないと」

 かすみはくすりと笑った。

「篠さんの住んでいるところには、こんな道はないんでしょうね」

「あればいいんですけどね。少しハードなウォーキングでもしないと太る一方です」

 足元に注意を払うのを忘れず、凜花はかすみに遅れぬようについていく。

 舗装こそされていないが、平坦な一本道なので、危惧していたほどきつくはなかった。

 ここにも人の姿はない。今日回ってきた他の観光スポットと違って、ここが閑散としているのはなんとなく納得できる。

立地的な要因がなによりも大きい。港からだいぶ離れているし、駐車場からしばらく歩かなくてはならない。それに時期的な問題もある。初冬のこの季節に物寂しい山道を好んで訪れる酔狂な観光客は、そう多くはないのだろう、と凜花は考えた。

 しばらく無言で歩を進めていると、かすみが不意に口を開いた。

「今から行く場所にも灯台があって、夜想島の島民にとっての聖地の真上に建っています」

「聖地?」

 歩くのに集中していた凜花は短く聞き返した。息が切れるほどではないが、だんだん足が重だるくなってきている。かすみの足取りは変わらず、疲れた様子はかけらもない。

「もともとあの場所は殉教地でした。キリスト教の禁教時代に信者だった島民たち数名があそこで処刑されたんです。最期まで信仰をまっとうした殉教した島民を讃えて、やがて聖地となりました。洗礼などの儀式に使う水は灯台のふもとの岩場から汲んできますが、一般の信者は立ち入ることを許されません。御番主のみが足を踏み入れられる特別な場所なんです」

 さくさく歩きながら、かすみは説明する。

 方舟の会のせいで宗教アレルギーとまではいかなくても、もともと薄かった信仰心とはさらに無縁になってしまったので、凜花は返答に困ってしまった。

 純粋に神様を信じることは決して悪いことではない。

だけど、時として盲目的になってしまう思想に、うっすらとした抵抗と恐怖をどうしても覚えてしまう。

「あとどのくらいで着くんですか」

 コメントを避け、わずかにずれた話題を振ると、かすみは事もなげに答えた。

「半分くらいまで来ているので、あと十五分もすれば」

 予想より遙かに長い道のりに凜花は目を剥いた。

さっきは冗談で言ったけれど、帰り道は本当におんぶしてもらうことになるかもしれない。

 もっとも、自分より体重の軽そうなかすみにはさすがに頼めない。なんとしても自力で下山しなくてはと、到着すらしていないのに、あらためて気合を入れ直す。

ここまで来たら引き返すのは悔しいが、帰路も同じくらいの時間を要するであろうことは想像に難くない。おちおちしていたら日が暮れてしまう。今はまだ明るいから慣れない山歩きを楽しめるが、真っ暗な山中を歩くのはぞっとしない。

腕時計を見ると、もう少しで三時半になるところだった。

片道三十分とすれば往復一時間で、五時近くになればだいぶ日が落ちてしまいそうだ。

「大丈夫ですよ。もう、そう遠くありません。昔は灯台守が家族とともに暮らしていて、子どもたちはそこからふもとの学校まで歩いて行っていたそうですから。今の灯台は自動化しているので、灯台守はいなくなりましたが。ほら、見えてきました」

 かすみの言葉に目を上げると、木々の隙間を縫って視界の先に灯台と海が見えた。

 凜花はホッと息をつく。目的地が見えてくれば安心だ。先はもう遠くないはずだ。

 足を運ぶことに専念してひたすら前へと進んでいくと、やがて開けた場所に出た。

開放的な雰囲気だった最南端の灯台と違って、最北端に位置するこの灯台はどこか閉ざされた様相を醸し出していた。

 灯台の周りだけは申し訳程度に整地されているが、その周辺は枯草が地面を這っていて柵すらない。閑散とした土地に建つ唯一の人工物は、不思議と風景に調和していた。

 こんな寂しげな場所が幸太郎は好きだったのか、と凜花は思った。

「この灯台は百年以上前に建てられました。もともとは日本と台湾の航路を整備のために作られたそうです。五十五キロ以上先まで光を届けると言われています」

 灯台を見上げながらかすみは説明し、崖の突端へとゆっくり歩き出す。

「ちょうどいい時間に着きました。もうじき美しいものが見られます」

 かすみの姿越しに海に目を当て、凜花は息を呑む。

見晴らしの良い高台から一望する海原は、ただただ美しかった。陽光を受け、穏やかな波が黄金に輝いている。

「今もじゅうぶんに美しいと思いますけど」

 感じたままを口にすると、かすみは首を振った。

「いいえ、こんなものでは。もう少し待ちましょう」

 十一月も下旬の日は短く、もうじき日は傾き始めるだろう。そう思ったけれど、凜花は黙っていた。かすみが何を見せたいのか、それが気になったからだ。

 不意にかすみが振り返った。

「待っているあいだ、私の話を聞いて頂けますか。時間もあることですし」

 凜花は頷いた。もちろん異議はない。

 何を見せたいのかと同じくらい、かすみの語りたいことに興味があった。

 かすみはほんの少し口角を上げた。

「主人を殺したのは私です。私が元御神体だったことや言い伝えは関係ありません。実際に、この手で崖から突き落としたんです」

そう言うと、手のひらをひらりと掲げてみせる。

話をうまく呑みこめず、凜花はじっとかすみを凝視した。

「私はあの日、新製品のジュースを買ってきたから一緒に飲もうと言って、コップに注いだアルコール度数十二パーセントの缶酎ハイを飲ませました。疑わずに口をつけた主人はたちまち酔って、意識が朦朧としていたようでした。私は足元のおぼつかない主人の手を取り、外へと連れ出して崖から突き落としました。幸いにして目撃者はいなかったようですが、誰かに見られたとしても構わないと思いました。この島の人間は事を荒立てるのを好みません。よほどのことがない限り、騒ぎ立てたりはしないんです。主人の父はここを平和な島だと言っていましたが、それはそうです。何か事件があったとしても面倒なことにならないように揉み消すのが常套手段なんですから。駐在さんもそのへんはわきまえていて、下手に首を突っ込んだりはしません」

 物語を読み聞かせるように淡々と言うと、挑むように凜花を見返す。凜花はごくりと唾を呑んだ。

 にわかには信じ難い話だった。この可憐な女性がそんなことをするなんて考え辛い。

夫を亡くしたかすみが自責の念に駆られて産み出した妄想だと思いたかった。

 だけど、と凜花は考えた。今の話が本当であれば、幸太郎の遺体からアルコールが検出された理由に説明がつく。

自分の体質を熟知し、アルコールを避けていた幸太郎が自主的に飲酒したというより、よっぽど信憑性もある。

そうは思っても、やっぱり信じられない。信じられないというより信じたくない。

「嘘、ですよね、そんなの。だってかすみさんがそんなことする理由なんて」

「ありますよ、いくつも。そのひとつは篠さん、あなたです」

 否定する凜花を鋭く遮って、かすみは冷笑する。それは今まで一度も目にしたこともない昏い笑みだった。

 刺すような視線に、凜花は身体が震えるのを感じた。電話で片瀬が言っていたのは本当だった。今さらわかった。かすみに気を付けろと言っていた意味も。

 こんな人里離れた場所で殺人の告白をするのがどういうことかを考えると、片瀬の危惧は的中していたと思わざるを得ない。

 もっとわかりやすく言ってくれればよかったのに、と心の中で片瀬にクレームを申し立てる。

いや、そうじゃない。忠告を受け流して、警戒せず、おめおめここに来てしまった自分が悪い。

片瀬にしたって、かすみがここまでの行動に出るなんて想像しなかったのだろう。そう思い直して凜花は反省した。

とにかくかすみを落ち着かせなければ。万が一かすみが物騒なことを考えていたとしても、話し合えば思い留まるかもしれない。

無言で必死に考える凜花を意に介せず、かすみは話を続ける。

「主人からあなたの話は聞いていました。東京で一緒に暮らしていたって。言い逃れなんてしないでください。あなたの写真もメールもスマートフォンに残っていました」

 削除されていなかったことに凜花は驚いた。とは言え、自分もまだ残してある。何度も消そうと思ったけれど、結局できなかった。

 ただ、消すのが面倒だっただけかもしれない。だけど幸太郎の中にほんの少しでも自分の痕跡が残っていたと考えると嬉しかった。

 ただし今は呑気に喜んでいる場合ではない。かすみの気持ちをいかに穏やかにするか、それだけを考えるべき場面だ。

「でも、結局ここに戻ってきたじゃないですか。私のことなんか、そんなに気にする必要なんてなかったんです。幸太郎さんが心から愛していたのはかすみさんだったんですから」

 説得しながら胸が疼いたが、嫉妬に駆られるかすみが目を覚ましてくれるのなら大したことではない。

「そんなの当たり前です。篠さんがただの遊び相手だったなんて、言われなくてもわかっています。問題はそんなことじゃありません」

 歯牙にもかけない態度に凜花は若干かちんと来たけれど、腹を立てるのは無事にこの山を降りたあとでいい。

 それに、かすみがそう思っているのであれば、自分に敵意を向ける必要はない。

 わざわざ接触してきて、ここまで連れてくる理由だってないだろう。

「だったら何が問題だったんですか。っていうか、さっきの話は本当に本当なんですか。かすみさんの妄想なんじゃ」

 頼むから妄想であってくれ。妄想じゃなかったとしても、妄想だったと言ってほしい。

 そんな凜花の願いは聞き届けられなかった。かすみは固い口調で遮った。

「いいえ。確かにこの手で殺しました」

頑なな否定に凜花は呻いた。

「なんでそんなことを。子どものころからずっと一緒にいたんでしょう」

「初めてか初めてじゃないかなんて大した問題じゃない。そう言ったんです」

 凜花は返答を捉えかねて首を傾げた。

「初めてってなにが」

「私と主人は結婚するまで身体の関係を結びませんでした。婚前交渉は教義で認められていませんし、私はずっと男性が怖かった。人前で交わることを余儀なくされたあの日からずっと。結婚したその夜、初めての経験に躊躇する私に対してそんなことを言う主人を、心から憎いと思いました」

 整った顔を歪ませて、かすみは吐き捨てるように言った。

 凜花は昨日聞かされた御霊抜きの話を思い出した。あの儀式がかすみの人生に影を落としたとしても無理はない。

どんな女性でも耐え難いだろうが、思春期を迎える年頃の女児には、その後の人格形成に影響を及ぼすほどの出来事だったはずだ。それは凜花にも納得できた。

 だけどどうしてその矛先が幸太郎に向けられて、実際に手を掛けてしまったのかは理解できない。御霊抜きに臨んだのは幸太郎の父親だ。殺意を覚えるのなら父親に対してではないのだろうか。

「主人は島を出たあと好き勝手に恋愛をして、何人かの女性と関係を結んだことも打ち明けました。篠さんは主人が初めての相手だったそうですが、主人にとって篠さんは三人目の女性だったそうです」

 こんな状況なのに凜花は頬が熱くなるのを感じた。そんなことまでかすみに話さなくていいのに、と幸太郎を恨めしく思った。

確かに幸太郎は初めての男だった。

高校生のときは母に苦労を掛けぬよう、学費の安い国公立の大学を目指して勉強に専念していたし、大学に入ってから幸太郎に出会うまでは、授業とバイトに明け暮れる日々だった。淡い恋心を抱いていた相手は何人かいたけれど、まともに恋愛をしたのは幸太郎が初めてだ。

「私が苦しんでいたことを知る由もなく肉欲に溺れていたくせに、知ったような顔でそんなことを言って。大した問題じゃない? どんな思いで御霊抜きに臨んだか、そんなことも知らないくせに」

 憎々しげにそう言うと、かすみは口元を歪ませた。

「あのとき私は、主人を守るつもりで御番主に身を任せることを決めたんです。私と主人はいずれ結婚する。御霊抜きをしなければ主人が早死にするかもしれない。そんなことは耐えられない。そう思って臨んだのに、肝心の主人がそのことを全くわかっていなかった。好きな人の父親に抱かれなければならないのがどんな心境か、本当に好きな相手に初めてを捧げられた篠さんにわかりますか」

 凜花はぎこちなく首を振った。想像はできるけど、正確な心境などわかりようがない。

「私の母も、かつて御神体を務めていました。母は御霊抜きを行いましたが、そのせいで父とは隔意があったとずっと感じていました。妻を抱いた男性をずっと目の当たりにしなければならなかった父からしたら割り切れないものがあったのかもしれません。だけど、どうしようもなかったことで引け目を感じ続けなければならなかった母を思うと、あまりに憐れです。ずっとそう感じ続けて私は父と心から打ち解けることができないまま、ここまで生きてきました」

 救いようのない話に、凜花は胸が詰まるのを感じた。

 かすみの母親の御霊抜きをしたのが誠治だとしたら、母子二代に渡って同じ相手に抱かれたことになる。

 凜花の感覚からすれば、それはとてもグロテスクなことだった。

 そして、娘も妻と同じ男に抱かれるのを容認しなければならなかった父親の心中はいかほどのものだったのか、と思った。御番主としての務めを果たしただけの誠治に罪があると言い切れないが、ないとも思えない。

 何を言ってもかすみの絶望を和らげることなどできないだろう。

 けれど幸太郎にしてみれば、そんな彼女の苦しみを少しでも和らげようとして、御霊抜きのことを口にしたのではないだろうか、と思った。

「かすみさんの身に降りかかったことを完全に理解するなんて私にはできません。だけど幸太郎さんは、かすみさんの気持ちを軽くしようと思って言ったんじゃないでしょうか。認識不足だったのは否定しませんけど、決して悪気があったわけでは」

「悪気のない無神経さは、明確な悪意よりずっとタチが悪いと思いませんか」

 冷たく言い放つと、かすみは険しい眼で凜花を見た。

「あなたの声で主人の名前なんて聞きたくない。二度と口にしないでください」

 もはやお手上げだ、と凜花は絶望した。何をどう言えばかすみの気が静まるのか、想像すらつかない。余計なことを言えば火に油を注ぐだけだ。

一刻も早くこの状況から解放されたいが、そもそもかすみはどうしたいのだろう。

言いたいことを全て吐き出せば気がすむのだろうか。それとも何かするつもりだろうか。

ひと気のない断崖の上で殺人の告白をされたことを思うと、その何かというのがどういうものか、悲観的な想像しかできない。

「厳密に言えば私の初めての人も主人でした。主人以外の男に触れられるのにどうしても我慢できずに、御霊抜きの途中で逃げ出したので」

 今の状況からどうやって抜け出そうか考えていた凜花だが、この情報には思わず目を丸くした。

だとしたらかすみは決定的な凌辱を受けたわけではない。それでもじゅうぶん辛い思いはしただろうが、幸太郎の言葉にそれほど立腹する必要はなかったのではないだろうか。

「そのせいで私はいまだに主人の実家に嫁として認められていません。主人の葬儀で喪主になれなかったことからも、それは明らかです。私は大切な儀式を中途半端に投げ出した不信心な女だと思われていているんです」

 確かにそれについては訝しく思っていた。幸太郎が結婚していた以上、喪主になるのは妻の役目だ。父親が出てくる場面ではないだろう。

「なにがなんだかわからないうちに御神体に祀りたてられて、そのせいでこんなことになって。これが運命だというのなら私の人生はなんのためにあるんでしょう。信仰って一体なんなんでしょう。神様なんて信じても、私はちっとも幸せになれなかった。死んだあと楽園に行けるにしても、こんな地獄みたいな状況になるなんて、あまりに理不尽です」

 悲痛な声に凜花の胸は締めつけられた。かすみが言うことはもっともだった。

本当に幸太郎を殺したのならそれは立派な犯罪で同情の余地などない。

だけどそこに至るまでの経緯について考えると、違う感想を持つ。

この狭い島で古くから伝わる宗教に縛られて、不本意な仕打ちを甘んじて受けなくてはならなかった。そういう意味で、かすみは被害者だった。

それはよくわかったけれど、いくら考えても、かすみが何を望んでいるのはわからない。

 だとしたら本人に直接尋ねるしかない。それがかすみを刺激することになったとしたら、それはそれで仕方がない。凜花はそう腹をくくった。

「かすみさんは一体どうしたいんですか? 私をここに連れて来たのには、どんな意味があったんですか」

 かすみは笑んだ。それはこの状況には似つかわしくないほど華やかな笑みだった。

「私を殺してください」

 聞き間違えかと、凜花はかすみを凝視した。かすみは笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

「そんなに難しいことではありません。ただ私を突き落とすだけです。ここにいるのは私たちだけで、篠さんは恭二郎くんに私が誤ってここから落ちたといえばいい。あとは彼がなんとかしてくれます」

「イヤです。なんで私がそんなことを」

 凜花は反射的に拒否した。

 かすみは崖を背に、凜花からほんの二メートルほど先の、手を伸ばせばすぐ届く位置にいる。二、三歩進んで突き落とせば、きっとそのまま海へ転がり落ちて命を落とすだろう。確かにそんなに難しくはなさそうだ。

 けれど人を殺すという行為はそんなに簡単なことではない。露見しなかったとしても、自分が罪を犯したことは一生背負わなければならない負債となる。

たとえ本人が望んでいたとしても、そうおいそれとできることではなかった。

「私は主人を殺しました。あなたも彼を愛していたはずです。愛していた人を殺された。それは人を殺す理由にはなりませんか」

「なりません。かすみさんが本当に殺したのだとしても、裁くのは私じゃなくて司法です。個人的な感情で人を殺すなんて、あってはならないことです」

 凜花は必死に言い募った。かすみがそんな結論に達した理由がどうであれ、かすみを殺すことなど断じてできない。それだけははっきりしていた。

「殺してくれないのなら、篠さんを殺します」

 いっそ朗らかと評してもいい口調でかすみは言った。それから凜花に向かって一歩踏み出す。

「今すぐ選んでください。私を殺すか、自分が死ぬか。その二択以外はありません。私は本気です」

 一歩後ずさって凜花は首を振る。殺すのもイヤだけど、殺されるのはもっとイヤだった。

「今すぐなんて無理だし、他の選択肢もあるでしょう。なかったことにするとか、公的な機関で罪を償うとか。お勧めはしないけれど、どうしても死にたいなら、自殺という手段だってあります」

 そう言いながら、これは自殺教唆になるのだろうか、と凜花は不安になる。

 冷酷な意見だという自覚はある。だけど他人を巻き込むくらいなら、自分の手で人生の幕を下ろせばいい。そう思うのは間違っているのだろうか。

 かすみは笑みを引っ込めて平坦な表情になる。それからおもむろに振り返って海を見た。

 凜花もつられて海を見る。緊迫したこの空気が嘘のように荘厳な景色が広がっていた。夕闇を映す海に、少し傾きかけた日が帯状に光っている。

空は薄紺から淡い橙へグラデーションを描き、水平線の彼方には夕焼雲が薄く広がっている。

「篠さんに見せたかったものはこれです。海面に光の道ができているのがわかりますか」

 かすみは体勢を変えぬまま言った。もちろん覚えている。あのときは、自分がこんな風に追い込まれるなんて思っていなかった。できるならあの時点まで時間を巻き戻したい。凜花は現実逃避的にそんなことを考えた。

 なにも答えない凜花に、かすみはふたたび目を向けた。

「神を信じる者はこの道を辿って天の国に行ける。子どもの頃からそう言われてきました。そして自ら命を絶つことは許されていません。そんなことをしたら私は主人のいる天の国には行けないし、二度と会えなくなります」

 ようやくかすみの本当の目的がわかった、と凜花は思った。

「かすみさん。あなたは最初から私に殺されるつもりでいたんですか。幸太郎さんともう一度会うために」

 無意識に幸太郎の名を口にして、ひやりとする。ただでさえまともな精神状態とは思えないかすみが逆上するのではないかと、恐る恐る様子を窺う。かすみは悪戯が見つかった子どものように目を逸らした。

「あなたが私の前に現れたりするから。ぬけぬけとこんな辺鄙なところまで押しかけて、しかも新しい恋人まで連れてきて。篠さんに会った瞬間に心は決まりました。こんな風に絶好の機会に恵まれたのは、それを神様が許したからでしょう」

 あまりな言い分に凜花は唖然とした。

そう言われると無神経だった自分が悪かったような気もしてくるけれど、そんなことを考えるなんて想像もつかなかったのだ。

「そんなこと簡単に決めないでください。それにさっきの話が本当なら、かすみさんは人を殺したんですよね? かすみさんの信じる神様は、殺した人と殺された人が同じ場所に行けるって言ってるんですか? 何の保証もないのに、どうしてそんなことを思いついたりしたんですか」

「ご心配いただかなくとも、神は罪を犯したものでも悔い改めればお許しくださいます。私は自分の行いを心から悔いています。きっと許しを得られると信じています」

「それはかすみさんの勝手な解釈でしょう? もしも神様が許してくれなかったらどうするんですか。殺され損じゃないですか。そんな回りくどいことをするくらいなら、最初から殺したりしなければよかったんです」

 思うがままの言葉が口をついてしまった。言いすぎた、と凜花は慌てて口を閉ざす。

 言いたいことを言ってすっきりしたが、それでかすみが激昂したら、事態はさらに手が付けられなくなる。

 予想に反して、かすみはわずかに俯いた。

「殺してしまえば楽になれると思ったんです。やり場のない怒りも嫉妬も、この人さえいなくなれば全部なくなるって、そう思ったのに。ちっとも消えないんです。それに、もう二度と怒りをぶつけることも、許すこともできない。いなくなって初めて、そんなことに気付いてしまいました。私は一体どうすればよかったんでしょう」

 途方に暮れた顔で呟くかすみを、凜花は憐れに感じた。

 この島の因習に縛られ、逃げ出すこともできずに感情をため込み、愛していた男の無神経な発言に傷つけられて、鬱積した怒りを制御できずに殺してしまった。

 殺人は到底許容できる行為ではないけれど、一人の女性として、かすみの受けた傷を気の毒に感じた。

 凜花は無意識にかすみに歩み寄った。かすみははっと顔を上げる。その表情は哀しみといくばくかの期待、かすかな恐怖が混在している。

身じろぎひとつしないかすみの細い身体を、凜花はそっと抱きしめた。

「かすみさんがずっと苦しみ続けてきたのはよくわかりました。だけど駄目です。殺したことを後悔しているのなら、まっとうに罪を償えばいい。そうすれば神様だってきっとかすみさんを許してくれるし、天寿が尽きたあと幸太郎さんと同じ場所へ辿りつけます」

 いま腕の中にいるのは幸太郎を殺した殺人者だ。

 だけど同時に、誰よりも幸太郎を愛してきた女性でもあった。きっと幸太郎もこの女性を愛していた。

 幸太郎のためにも、かすみを殺したりはできない。苦しみながらも生きて、罪を償って、いつかは幸せを感じて、一生を終えてほしい。心からそう思った。

「帰りましょう。これ以上ここにいたらいけません。今ならまだ引き返せます」

 身体を固く強張らせていたかすみは、ふいに凜花を払いのけた。

「私に帰る場所なんてありません! あるとすれば主人のそばだけです! そんな御託なんてどうでもいいから、早くここから突き落として! できないならあなたも殺します! 神様を信じないあなたは、死んでも主人とは会えない!」

 そう言うと、かすみは凜花の両肩を掴んだ。華奢な身体から想像もつかないほど強い力で、振りほどくこともできない。ほんの数メートル先には断崖があり、一押しされれば海へと転がり落ちるだろう。

 凜花は必死に抗った。

「落ち着いてください。やめて!」

 揉み合いながらも、なんとか断崖から離れようとかすみを引き寄せる。それを察したのか、かすみは凜花を断崖側に押し出そうとする。凜花はかすみの本気を悟った。

 このままでは本当にどちらかが死ぬ。

 かすみを殺すことはできない。それなら自分がここから飛び降りれば、事態は収束するのだろうか。

 妙に冷静な頭の片隅で、凜花はそう考えた。

 人を殺してまで生き延びるのなら、いっそひと思いに命を絶ったほうがマシだ。

 自分には身寄りもないし、悲しむ人間だってそれほどいない。

 そこまで考えて、ふと片瀬の顔が脳裏をよぎった。

 片瀬は最初から自分を生かそうとしていた。別れ際にも自分が幸せに長く生きることを望んでいた。

 いくら疎まれようと献身的に世話をしてくれて、誠実であろうとしてくれた。

 簡単に命を投げ出すことは、そんな片瀬の気持ちに背くことになる。

 そんなことはできない、と突如として思った。

「かすみさん! 考え直して! 一緒に帰りましょう!」

 凜花はかすみの身体を強く掴んで崖の反対側に倒れ込もうとした。

かすみは凜花を跳ね除けて崖へと引きずり込もうとする。諦めたら最悪の場合、二人とも落ちて死ぬ。そんな事態は何としても避けなければならない。凜花は全身の力を振り絞って、かすみを崖から遠ざけようとした。

どれほど攻防が続いただろう。それはほんの一瞬のことだった。

先に足を滑らせたのはかすみだった。崖を背にしていたかすみはその瞬間、凜花から手を離した。流れるように急な斜面へ滑り落ちていくかすみの腕をなんとか掴もうと、凜花は反射的に手を伸ばしてバランスを崩す。

かすみに触れることは叶わなかった。かすみから遅れること数秒、凜花も崖から転がり落ちていった。


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