夜想島
片瀬の部屋をノックするには思い切りが要った。
話し掛けるなと言ったくせに自分からのこのこ訪ねるのも気まずいし、片瀬と話をするのも気が重い。だけどこのままでは、ずっともやもやしたままだ。
東京に帰ったら片瀬と会う気はない。となると、今このときしか話す機会がない。
どれほど扉の前に立っていただろう。ようやく意を決して、振り上げた手を当てようとしたそのとき、扉が開いた。鼻を強打して、凜花はその場にうずくまる。
「……なにしてるんですか」
当然の質問に、凜花は鼻を押さえながら答える。
「見ればわかるでしょ。鼻をぶつけたの」
「すみません。僕がドアを開けたからですね」
片瀬は静かに扉を閉めると凜花の前に屈みこんだ。手首を掴んで顔から手を外させて、しげしげと凜花の鼻を眺める。
「よかった、鼻血は出てません。すぐに冷やしたほうがいいですよ」
そう言うと、静かに立ち上がる。
「話し掛けてすみません。予想外のことだったので、つい。僕は早めに夕食を摂るので、篠さんは時間をずらして食堂に来てください」
「ちょっと待って。話がしたい」
凜花はうずくまったまま、食堂へ向かおうとする大きな背中を呼び止めた。片瀬は立ち止まって振り返る。
「話?」
じんじん痛む鼻に頓着せず、凜花は真剣な顔で頷いた。
「昨日の続き」
考え込むように片瀬は目を眇めた。それから引き返して、自室の扉を開けた。
「立てますか」
無言で立ち上がると、凜花は片瀬の部屋に入った。全く同じ間取りだが、自分の部屋よりきちんと片付いている。
広縁の椅子に座ると、さっきまでいた砂浜が見えた。それほど時間は立っていないのに、夕闇に紛れて海は黒い。
片瀬は備え付けのバスルームに直行し、冷たい濡れタオルを凜花に差し出した。
「ありがとう」
受け取ってタオルを鼻に当てながら凜花は言った。ひんやりした感触が心地よかった。
正面に腰を下ろした片瀬は軽く首を振る。それから向かいに座り、窓の外を見た。すっかり日は落ちて、景色は夜に塗り込められている。
「さっきまであそこにいましたね」
「見えてたんだ」
片瀬は答えず、凜花に視線を向ける。話をどう切り出すべきか迷ったあげく、凜花は結局思いつくまま言った。
「山辺さんって覚えてる? 私の上司」
「電話番号を交換しました」
「ああ、そうだったね。さっきまであそこで山辺さんと電話してたの。それであなたの話を聞いた」
わずかに眉を上げる片瀬を、凜花は直視した。
「お願いがあるの。これから私が訊くことで、絶対に嘘は吐かないって約束してほしい。答えられないことならそう言って」
片瀬は無言で頷いた。その目は静かに澄んでいる。
本当に信用していいのかわからない。
だけど、とりあえず片瀬を信じてみようと決めた。
鵜呑みにするつもりはないけれど、疑ってかかったら、わざわざ訊きに来た意味がない。
「本当に神成聖光の息子なの」
「そうです」
「あの会見があるまで知らなかったって言うのは事実?」
「ええ。母は若いころ方舟の会に入信し、出家していました。突然ふらりと戻ってきたときには妊娠していた。相手について一切口にしなかったので、祖父母も僕の父親が誰なのか知らなかったそうです」
「それは幸太郎の記事でも読んだ。じゃあどうして私の前に現れたの? 普通に考えたら自分の父親が殺した人の家族のもとになんて出てこられないでしょ」
淡々と答えていた片瀬が言い淀んだ。言葉を吟味するように二人の間にあるテーブルに目を落とし、しばらくして目を上げた。
「何度も言ったとおりで、ただの自己満足です。僕にはなにもなかった。命を断つことも考えたけれど、祖父母を思うとできなかった。死ぬことができないなら生きるしかない。だけど、なんの目的もない日々は死んでいるのと変わりがなかった。そんなとき光井さんに出会って篠さんのことを知りました。それで思いついたんです。この先、僕はこの人に償うために生きようと」
「信じられない。どうかしてる、そんなの」
片瀬は凜花を凝視した。
「僕を信じなくていい。もちろん許さなくてもいい。なにかを望める立場じゃないのは、百も承知です。だけどひとつだけお願いがあります。どうか幸せに長生きしてほしい。僕は篠さんに生きていてほしい。ただそれだけです」
凜花は黙って片瀬を見返す。
騙されているだけなのかもしれない。だけどそれはとても真摯な願いに聞こえた。片瀬も目を逸らさず、凜花を見つめていた。
「東京に戻ったら二度と篠さんの前に現れるつもりはありません。不快な思いをさせてすみませんでした。僕が言えることはそれだけです」
話を切り上げようとする片瀬を、凜花は遮る。
「待って。まだ話は終わってない」
そう言うと、すっかり温くなった濡れタオルを顔から外した。
「私が好きなのって訊いたの覚えてる? あのときあなたは資格がないって答えてたけど、資格があったらどう答えるつもりだった?」
こんなことを訊いてどうする、と自嘲する反面、訊いておきたいという欲求が抑えられない。もしかしたらこれが一番訊きたかったことなのかもしれない、と気付いた。
片瀬はなにも答えなかった。自惚れと嗤われるかもしれないけれど、答えないのが雄弁な答えのような気がして、凜花は複雑な気持ちになる。
神成の息子に想いを寄せられたとして、跳ね除ける以外の選択肢はない。
だけど、もしも片瀬が神成の息子でなければどうだったのだろう。
無意味な疑問だった。片瀬は神成の息子だし、そうでなければ自分に会いに来ることなどなく、自分たちが出会うことはなかった。
「どうして私に会いに来たの」
凜花は呻くように呟く。それは問いというより責めで、片瀬にも伝わったようだった。
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃない。謝られたってなにも変わらない」
言いながら、凜花は虚しくなる。
そうだ、なにも変わらない。神成がしたことも、母が亡くなったことも、幸太郎を失ったことも、なにもかも全て。
過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる。
いつかどこかで目にした言葉を思い出す。そのときはそんなものか、と思ったけれど、今は違う。未来や自分にだって変えられないことは、きっといくらでもある。
その日は二人で夕食を摂った。凜花の湧き立つような怒りは片瀬と話したことで治まっていた。許したわけではないけれど、片瀬自身には責がないことだと理解できる程度には頭は冷えた。
二人でいても、ほとんど会話はない。いつも通りではあった。
あまり話すと身元がばれてしまうから、片瀬はいつも無口だったのだろうか。それとも、もともと寡黙なのだろうか。
尋ねようとして凜花は思い留まる。この人がどういう人間でも自分には関係ない。明日になれば、もう二度と会わないのだから。
「そういえば私、明日は帰らない。もう一泊していく」
ふと思い出して言うと、片瀬は凜花に目をあてた。
「かすみさんに誘われたの。せっかく来たんだから、この島の観光をしないかって」
気を遣う必要はないにしても、片瀬を避けるためだけではないと一応伝えておきたくて、凜花は言葉を付け足した。
「ずいぶん親しくなったんですね」
片瀬の答えに、凜花は頷いた。
「うん。フェリーが欠航になってなにか不自由してないかって、わざわざ来てくれたの。ちょうど仕事が休みだったみたいで、良かったら明日も島を案内しましょうかって言ってくれて」
片瀬は箸をとめ、凜花を直視した。
「僕は明日帰ります。それから篠さんの部屋にある私物を引き上げて出て行きます」
それを望んでいたはずなのに、胸が締め付けられるのはなぜだろう。自分の気持ちを量りかねて、凜花は黙って目を伏せた。
沈黙を違う意味でとったのか、片瀬は静かに言い加えた。
「勝手に入られるのに抵抗があるなら、部屋には近づきません。僕の私物は処分してください」
凜花は苦笑した。
「そんなの気にしてないし、今さらでしょ。別にいいよ、入っても」
答えながら、片瀬を信用していることに気が付いた。
出生がどうであれ、どういう人間か知っている。不器用だし、ある意味では身勝手だけど、自分に害を及ぼすとはどうしても思えない。
明日を境に、この人と会うことはもうなくなる。
自分が望めば会えるかもしれない。だけど望むつもりはない。
一人の生活に戻って仕事に没頭するうちに、片瀬のことも、それに付随する感情も忘れられるはずだ。
「私はあさって東京に戻る。荷物を引き上げたら、鍵はドアポストに入れておいて」
自分は片瀬と一緒にいられない。それなら離れるのは早いほうがいい。
そうわかっているのに、意思に反して胸が痛んだ。
翌朝は快晴で、誰に尋ねなくとも船が出ることはわかった。
凜花は片瀬と朝食を摂った。示し合わせたわけではないが、かち合ってしまったのだ。
立ち去ることもできたけれど、顔を合わせるのはこれが最後だ。そう思って凜花は思いとどまった。片瀬は十時半に船に乗る。その後は二度と会うつもりはない。
会話は相変わらずほとんどない。こうやって静かに向かい合って一緒にいるのが、いつしか当たり前になっていた。
幸太郎のときと同じように、私はまたひとつ日常を失う。そんなことを考えつつ、凜花は奇妙なほど味のしない食事を終える。
考えてみれば妙な縁だ。本来なら出会うはずのない二人だった。
それを引き寄せたのは片瀬で、自分はそれをあるべき形に戻しただけだ。
片瀬本人がどういう人間でも、彼の背景にあるものを許せるかは、また別の話だった。
席を立とうとしたとき、宿の女性が親しみやすい笑みを浮かべながら現れた。カフェで会った明日香の母親であることは、昨日の夕食時に本人の口から告げられている。
「鈴木さんは今日立つんでしたね。お仕事のご都合ですか」
「ええ、まあ」
言葉少なに応じる片瀬から目を逸らして、凜花は窓の外に目をやった。
本当の理由など言えるはずがない。理解されるとも思えない。女性は如才なく凜花にも声を掛ける。
「篠さんは幸ちゃんがいた会社にお勤めだったんですね。お仕事は大丈夫なんですか」
かすみの言うように、ここではほとんどが筒抜けだと思いながら、凜花は女性を見た。
「ええ、まだ休暇があるので。明日帰るつもりです」
「そうですか。それにしても幸ちゃんは、あまりに急すぎましたねえ。どうして酔っぱらって崖から落ちたりなんか」
嘆息まじりの何気ない言葉に、凜花は眉を寄せる。ニュースで聞いたのは崖から落ちたということだけだ。
「こ……光井さん、酔っていたんですか」
ただの同僚に相応しい呼び方に正して尋ねると、女性は頷いた。
「そうらしいです。珍しくお晩酌をして早く寝たと思ったら、いつの間にか出掛けていたみたいで。朝起きたら姿が見えなくて、かすみちゃんが心配して探しに行ったときには、崖から落ちている幸ちゃんをうちの婿が見つけていたんです」
まさかこの人の身内が第一発見者だったとは、と凜花は目を見開いた。
それから違和感を覚える。
一緒に暮らしていた三年の間、幸太郎が自宅で飲んでいたことは一度もない。
それは自宅以外でも同じだ。アルコールに弱いことを幸太郎は自覚していたし、好き好んで飲んだりはしなかった。
もしかしたら本当は飲めたのに、なんらかの理由でずっと控えていたのだろうか。
そう考えて、すぐに打ち消す。ビールをコップ一杯飲んだだけでも顔が真っ赤になっていたし、具合が悪くなったと言ってぐったりしていたのを覚えている。あれが演技だったとは思えない。
年齢を重ねてから体質が変わることがないとは言い切れないし、別れた後にアルコールを飲めるようになった可能性も否定しきれない。
だけど、普通に考えて不自然だった。
チェックアウトする宿泊客に声を掛けられて、女性は食堂から出て行った。
凜花は思考を巡らせる。
幸太郎がアルコールに弱かったことを、この島の住人は知らないのだろうか。
前に本人が話していたのが本当だとすれば、中学卒業後に幸太郎が帰省したのは数えるほどで、酒を酌み交わす機会はそれほどなかったのかもしれない。
けれど、あっという間に噂が広がるというこの島で誰も知らないのは不思議だし、なにより妻のかすみが知らないのは奇妙だった。
「光井さんが晩酌、ですか」
ぽつんと呟く片瀬に、凜花は目をあてた。
怪訝そうなその表情から、同じ疑問を持っていることは明らかだった。
「体質が変わって飲めるようになったのかな」
半信半疑で凜花が言うと、片瀬は首を傾げた。
「アルコールを分解できない体質って、改善するものなんでしょうか。僕の知ってる光井さんは、間違って烏龍ハイをほんの少し口にしただけでふらふらになっていましたけど」
「それっていつの話?」
「あの記事を書く前だったので、三年ほど前だったと思います」
つまり自分が幸太郎と別れる前の話で、その後どうなったのかは凜花にもわからない。
「そっか。じゃあ、その後に飲めるようになったのかもね」
自分が幸太郎のことをよく知らなかったと、この島に来て何度も思い知らされた。
これもそのひとつにすぎない。生涯の伴侶だったかすみが言うのなら、疑う理由もないだろう。
釈然としない顔の片瀬に、凜花は少し口の端を上げてみせた。
「幸太郎を一番よく知ってるかすみさんがそう言ってるんだから、きっとそうなんでしょ。結局私は幸太郎のことをほとんど知らなかった。どこでどうやって育ったのか、何を考えていたのか、本当は誰が好きだったのかすら」
「……誰が好きだったと思ってるんですか」
とんでもない愚問に思えて、凜花は苦笑した。
「かすみさんに決まってるじゃない。私をどう思っていたにせよ、かすみさんは幸太郎にとって最後に戻ってくる人だったんだから」
片瀬は真摯な目で凜花を見た。
「光井さんがかすみさんをどう思っていたかは知りません。でも、篠さんを本当に大切に思っていたことは知っています」
そこまで言うと一度口を噤み、数秒後、思い切ったように言い加えた。
「僕も光井さんと同じ気持ちです。僕がこんなことを言ったり、何かを望むのは間違いだってわかってます。だけどこの気持ちは間違いじゃない。篠さんには幸せになってほしい。幸せに、長く生きていてほしい。心からそう思っています」
知りたいと思っていた片瀬の気持ちを聞かされて、凜花は無言で目を見開いた。
たらればに意味などない。それでも胸を突かれた。
片瀬が神成の息子じゃなかったら。
自分が片瀬を許せれば。
この状況を受け入れられたら。
未来は変わるのだろうか。混沌とした心に芽生えた感情を殺さずにいられるのだろうか。
呆然と片瀬に目をあてたまま、凜花は無意識に首を振る。
自分にはできそうにない。許すことも、受け入れることも。
唯一できそうなのは忘れることぐらいだった。
凜花の仕草をどう取ったのか、片瀬は小さく息をついた。それから静かに歩き出す。
片瀬が立ち去ったあとも、凜花は動けずにいた。思考はめまぐるしく巡っている。
早く忘れよう。きっとそんなに難しくない。
片瀬はあと数時間したらこの島を出て、自分の前には二度と現れないと言っていた。
その言葉を信じるなら、これから片瀬と顔を合わせることはない。
仕事を再開して日常に戻れば、日々の雑務に追われて、やがて忘れられるだろう。
記憶になければ何もなかったのと同じだ。感情に蓋をして、何もなかったことにして、片瀬の存在を心の中から締め出す。今までしてくれたことも、最後の言葉も、全て忘れてしまおう。
そんなことを考えながら、胸の奥が疼くのを感じた。
かすみと約束した九時半まで、凜花は部屋に籠って時間をやり過ごした。
フェリーが出るのは十時半だから、たぶん今ならまだ片瀬と話せる。だけど話すことなど何もない。
片瀬の真意や自分に対してどういう気持ちを抱いているかは、すでに聞いた。
責めるつもりも、もうない。片瀬の言葉を信じるならば、彼の与り知らぬところで起こったことだ。そして凜花は片瀬の言葉を信じていた。
だとしたら何を話せばいいのだろう?
何を話したところで、なんの意味もない。
どうして亡くなってしまったの、と心の中で幸太郎に問い掛ける。
幸太郎が生きていれば、こんなふうに気持ちを掻き乱されることはなく、物事はもっとシンプルだった。
凜花は大きくため息を吐いた。
暇を持て余して、早々に身支度を整えてロビーで待っていると、かすみは約束の時間の十五分前に来た。体に合った細身の黒いコートを着て、しっかりしたブーツを履いている。
黒いダウンコートにブーツの自分と並ぶと双子コーデのようだ。手ぶらのかすみに対して凜花はショルダーバッグを掛けていて、それが唯一の違いだった。
ここに黒しか着ない片瀬が居合わせたら三つ子コーデと言ったところか、などと凜花が考えていると、宿泊階から当の片瀬が降りてきた。
なぜ、と思って、チェックアウトの時間が十時だったことを思い出した。
ここから港までは車で十分と掛からないし、送迎もつく。おそらく片瀬はぎりぎりまで部屋で時間を潰していたのだろう。
ほんの一瞬だけ片瀬と目が合った。凜花はすぐに目を逸らした。かすみも片瀬に気付いて小さく会釈した。
「行きましょう」
短く言うと、凜花は出口に向かう。かすみは数歩遅れてついてきた。
「まだ仲直りしていないんですか」
小声で尋ねられた凜花は苦笑する。
片瀬自身と言うより、彼の背景にある物を許せる日が来るとは思えない。答えずにいると、かすみもそれ以上は尋ねなかった。
助手席に座ると、食欲をそそる匂いを仄かに感じた。振り返ると、後部座席にA4サイズの書類が楽々入るほどのバスケットが置かれていた。
「たいしたものではありませんが、お弁当を作ってきました。これから行くところには、食事のできる店なんてないので」
凜花の視線を辿って、かすみは笑みを含んだ声で言った。かすみの気配りと優しさに、凜花は強張った顔が緩むのを感じた。
この人と生活を共にすることができて、幸太郎はきっと幸せだったのだろう。素直にそう思えた。
「ありがとうございます。ピクニックなんて久しぶり。楽しみです」
かすみは笑んだ。
「そうですね。私も楽しみです」
そう答えたかすみをもしも凜花が正面から見ていたら、まったく違った感想を持ったはずだ。笑みを浮かべた顔の中で、眼だけが夜の海のように昏く沈んだ色を湛えていた。
チェックアウトしながら、片瀬はたったいま目にした光景について考えていた。
話には聞いていたとはいえ、あの二人が一緒にいるのを見ると妙な気がした。
自分の目には、あの二人は対照的に見える。
良くも悪くも凜花はわかりやすく真っ直ぐだ。愛する人を全身で愛し、仕事には全力投球で臨み、許せないものは曲げられない。
自分に対する感情の揺らぎは感じたけれど、結局は許せないというところに落ち着いたのは、さっきの態度からもはっきりしている。愛するときは脇目も振らずに気持ちを捧げ、落ち込むときは命を落としそうなほど一直線に深く沈む。
対するかすみはよくわからない。
もちろん関係性の違いはある。凜花のことはずっと見守ってきたし、勝手に押しかけて十日以上一緒に過ごしてもきた。かすみは、さっきを含めて二度会っただけで、人となりを知るには至らない。
それでも第一印象から、かすみには拭いきれない影を感じていた。
もちろん夫を失ったばかりの新妻が明るくいられるはずもない。
結婚したことはないし、おそらくこの先もないだろうが、永遠を誓い合った伴侶を喪うということがどういうことかは、ある程度の想像はできる。
しかし片瀬が感じているのはそういった類のものではなかった。
始めて光井の実家で対面したときを思い出す。
あのときかすみが発していた空気は重苦しく、息が詰まりそうなものだった。
かすみは凜花に対して敵意を抱いている。感覚的にそれがわかった。
愛していた男を悼みに初めて実家を訪れた凜花は気付いていないのかもしれない。
周囲に目を配るより、自分の感情を抑えることに意識を集中していた。緊張しているのも手に取るようにわかった。
凜花に対するかすみの感情の理由がよくわからない。
こんな離島まであえて訪ねてきた女に対して勘ぐっていたのかもしれない。そしてその疑いは的外れなものではない。
女の直感は鋭いと言う。たぶんその通りなのだろう。けれど直感というものに、たぶん性差は関係ない。
「かすみちゃん、少し元気になってきて良かったです。幸ちゃんが亡くなったばかりは、目も当てられないくらいでしたから」
宿泊費の釣りを手渡しながら宿の女性が独りごちるように言った。片瀬は首を傾けた。
小さな島で生活をともにしているのだから、面識があるのに不思議はない。
ただ、それだけとは思えないくらい、短い言葉に感情が込められているのを感じた。
「光井さんご夫妻と親しくされているんですか」
女性は頷いた。
「それはもう。光井さんのご本家は島にとってなくてはならない存在ですし、かすみちゃんは私の姪ですから」
片瀬は軽く目を見開いた。
光井がこの島の名家であることは到着した日に運転手から聞いていたし、凜花がカフェで出会った女性がこの女性の娘であったことは昨日の夜に聞いて知っていた。崖から落ちた幸太郎の第一発見者が婿であることも今朝聞いた。
けれど、この女性とかすみに血縁関係があるのは初耳だった。
「光井さんのお身内でしたか」
女性は軽く微笑んだ。
「この島には五種類の名字しかありません。おおかた身近で相手を見つけて、枝分かれを繰り返しているので」
海に閉ざされたこの離島で、出会いの機会がそうそうあるとも思えない。長く顔を合わせていた男女が適齢期を迎えて結ばれるのは、自然の流れなのだろう。
そう思いながら、片瀬は恭二郎の妻を思い出す。彼女は外から来たと言っていた。
「光井さんの弟さんは島外の女性と結婚されましたよね」
「恭ちゃんは大学を出た後しばらく鹿児島で働いていましたし、島の外の生活を好んでいたから外の人を選んだんじゃないかって、もっぱらの噂でしたよ。後を継ぐために戻ってきたけど、自分はそんな器じゃないって、なにかの拍子に言っていたのを覚えています。きっとお役目の重さに思うところがあったんでしょう」
「お役目?」
片瀬が問い返すと、女性はほんの一瞬口を噤み、それから明るい声で答えた。
「ええ。これからこの島を引っ張っていくというお役目が」
釈然としない顔の片瀬に取り繕うように、女性は笑顔を作って表情を隠す。
「最近は島立ちしたあと、そのまま外で相手を見つけて住みつく若い人も結構多いんです。幸ちゃんだって東京で篠さんと……」
そこまで言うと女性はハッと口を閉ざした。言葉を切ったまま、そろそろと片瀬を見る。
片瀬は目を瞠った。この島の人間に対して、凜花が幸太郎と関係があったと話した覚えはない。もちろん凜花も配慮していた。
「どなたから、それを」
女性は気まずそうに片瀬から目を逸らした。
「いえ、誰からというより……。すみません、私の思い違いだったでしょうか」
片瀬は昨日の光景を思い出した。光井の実家を訪れたときのことだ。あのとき凜花は、光井の父に関係性を問われていた。もしかしたら既に知っていたのだろうか。知っていたのなら、なぜ知らぬ態を装ったのだろう。
「光井さんのご実家のかたもご存じ……いえ、そう思っているんでしょうか」
「さあ、それは。ああ、そろそろ行かないと、船に乗り遅れますよ」
その場から逃れる口実かもしれないが、たしかに時間は迫っている。
片瀬は世話になった礼を言い、玄関先に停まっている送迎車へ向かった。視界の隅に映った女性の顔は、どことなく安堵しているように見えた。
運転手は行きと同じ昭三で、顔を合わせるのは三度目という気安さが互いにあった。
「いやあ、昨日は船が出なくて大変だったなあ。あの子は一緒に帰らないんかい」
車に乗り込みながら片瀬は素早く考えを巡らせ、できるだけさりげなく言った。
「ええ。仕事の休みも取れたし、離れがたかったんでしょう。なにしろここは光井さんの生まれ育った島ですから」
昭三は訳知り顔で頷いた。
「そうだろう、そうだろう。女っちゅうのはそういうもんだ。気にすんな。でも兄ちゃんも懐が広いな。こう言っちゃなんだが、幸ちゃんは昔の男だろ」
昭三も知っている。凜花と幸太郎の関係だけでなく、凜花が自分と同棲していると言っていたことも。驚きを顔に出さぬように表情筋を締めながら片瀬は応じた。
誰から聞いたかと正面きって尋ねたところで答えないだろう。さっきの女性と同じように、警戒心から口を噤むのが関の山だ。
それに、情報源よりもっと気になることがある。
「昔の話ですから。過去に嫉妬したところでどうにもなりません。でも、かすみさんはどうお思いなんでしょうね」
こっそり他人のプライバシーに探りを入れる後ろめたさはもちろんあるけれど、さっきかすみを目にしたときに感じた不安が後押しした。
「さあな。あの子の考えてることはわからん。昔っからそういうところがあった」
素っ気ない昭三の答えに、片瀬の不安はいや増していく。
凜花は気付いていない。かすみのみならず、島の人間が凜花と光井の関係を知っていることや、かすみが凜花に向けていた眼差しを。
そして凜花には人の良いところがある。だから他人の悪意を最終的には信じない。それは自分に対する態度からも明らかだ。
自分の考えすぎならいい。
だけど、夫の昔の女に対する感情がポジティブなものとは考え辛い。
わざわざ宿にまで押しかけて接近してきたのが何のためなのか、凜花をどうするつもりなのか、それがどうしても気がかりだった。
片瀬は必死に考えた。凜花の携帯の番号は知っている。一緒に住むようになった初日、強引に番号を聞き出して登録した。着信拒否されていなければ電話を掛けられるはずだが、なんの根拠もない疑いだけでかすみに注意するよう言っていいのか躊躇いがある。
かすみ本人にどういうつもりか問い質そうにも連絡先を知らない。
厳密に言えば自宅の電話番号は知っている。ただしついさっき目にしたばかりで、自宅にいないのはわかっている。知っていたとしても、自分に対してかすみが本心を打ち明けるとは思えない。
光井の実家の連絡先は知らないし、直接訪ねても彼の両親に何を話せばいいのかわからない。
片瀬の気持ちなど知る由もない昭三は、車を走らせながらのんびりと言った。
「ああ、この先に恭ちゃんの働いてる郷土資料館があるんだ。また来ることがあったら、ぜひ訪ねてみて……」
「そこで停めてください」
なにか考える前に、言葉が口から飛び出していた。
そうだ、恭二郎がいた。おととい宿まで送ってくれたときはフラットにあれこれ話していた印象だった。彼になら話してみてもいいかもしれない。片瀬は瞬時にそう判断する。
「それは構わねえけど。恭ちゃんに会いに行くつもりなら、船に間に合わねぇよ」
唖然とする昭三に、片瀬は焦燥を隠して微笑んだ。
「大丈夫です、午後の便に乗りますから。なかなかここまで来られないし、この前お世話になったお礼をひと言言ってから帰ります。我儘を言ってすみません」
無理のある言い訳だろうか、と思ったが、それほど破綻してはいないだろう。
「そおかあ? 午後便は二時半で、だいぶ時間があるけど……」
「せっかくこんな遠くまで来たことですし、観光がてら、そのへんを散策しています」
言い募る片瀬に昭三は少し怪訝な顔をしながらも車を路肩に停めた。
「郷土資料館は、その細い道を少し行ったところにある。そっから港までは歩いて十分くらいだ」
「ありがとうございます。港までの行き方は恭二郎さんに伺います」
心からの感謝を述べながら片瀬は車を降り、郷土資料館へ続く細い道へ入っていった。
石造りの高い壁に覆われた民家を抜けると、こじんまりとした門構えの奥に二階建ての日本家屋が現れた。門に掛けられた表札から、そこが郷土資料館であることが分かった。
急ぎ足で門扉をくぐり、建物を目指す。入り口に入ると、右手側に受付があった。
入館者が記帳する用紙が置かれた木製のカウンターがあり、カウンターの向こうは透明なガラス窓越しに事務所と思しきスペースが見えた。
カウンターのすぐ脇に、そこへの出入り口の扉がある。
冷え込み厳しい時候柄かガラス窓は閉ざされていたが、事務机に向かって書類らしきものを書いている恭二郎の姿が見えた。片瀬は軽く窓を叩く。恭二郎が顔を上げ、片瀬の顔を認めて立ち上がった。そのまま急ぎ足でこちらに向かって、ガラス窓を開ける。
「どうしたんですか、鈴木さん。今日東京に帰るんじゃ……」
「午後の便に乗ることにしました。少しお時間はありますか」
あらたまった様子の片瀬に、恭二郎は少し面食らった様子を見せたが、すぐにそれをかき消した。
「もちろんです。ご覧のとおり来館者もなく暇をしていました。この時期、ここを訪れる方はそう多くはないんです。どうかしましたか」
「篠さんについてなにかご存知ですか」
直球すぎたか、と片瀬は尋ねながら思ったが、言葉を選んでいる余裕がない。
過剰反応かもしれないけれど、こうしている間も不吉な予感はどんどん膨らんでいる。
「篠さん、ですか? それはもちろん。おとといお会いしましたし」
「僕がお伺いしたいのは、そういうことではありません」
そう言うと片瀬は恭二郎を直視した。恭二郎はなにか思い当たったように軽く頷いた。
「兄とお付き合いしていたことですか」
やっぱり知っている、と片瀬は思った。もはや驚きはない。
「そのことは、みなさんご存知なんでしょうか」
恭二郎は首を傾げた。
「さあ。わざわざ話すようなことではないので。だけどこの狭い島では、噂が広まるのはあっという間です」
「恭二郎さんはどなたから聞いたんですか」
「かすみさんです。兄が東京でどんな暮らしをしていたのか話しているとき、流れで仕事先の女性と一緒に暮らしていたことも打ち明けたそうです」
片瀬の焦燥は強まっていく。かすみは一体どういうつもりで凜花に接触したのだろう。そして今日も凜花を誘い出しに来たのだろう。
「……なにかあったんですか」
ただならぬ様子の片瀬に不審を抱いたのか、恭二郎が尋ねた。
片瀬は口ごもる。不確かな危惧を軽々しく口にしてもいいものか迷ったが、不安がそれを押し切った。
「かすみさんが篠さんに会いに来ました。昨日も今日も。夫が昔付き合っていた女性に接近する理由が僕にはよくわかりません。無礼と叱られるかもしれませんが、よからぬ想像ばかりしてしまいます」
「昨日も今日も?」
おうむ返しに片瀬の言葉を受けた恭次郎は眉を寄せた。
「かすみさんは今日、仕事のはずです。僕の知る限り、彼女が欠勤したことは一度もありません」
間髪入れぬ返答に、片瀬は軽く目を見開いた。
「よく御存じですね」
「身内ですし、勤務先はここから目と鼻の先の信用金庫です」
簡潔に応じると、恭二郎は考え込むように視線を落とし、指先をメガネのフレームにあてる。数秒後に指を離すと片瀬を見た。
「鈴木さん。午後の便が出るまで四時間ほどあります。お茶でもいかがですか」
思わぬ誘いに片瀬はまばたきした。
どういうつもりか測りかねたが、恭二郎が何を語るつもりか気になって頷いた。恭二郎は事務所の出入り口を開けた。
「お入りください。むさくるしいところで恐縮ですが」
「部外者が入っても?」
恭二郎は軽く笑んだ。
「お気になさらず。繁忙期はシルバー人材のお年寄りに手伝って頂いていますが、今時分、職員は僕だけです」
片瀬は招かれるままに事務所に入る。事務机がふたつ置かれただけの室内には、無数のバインダーや書類、段ボール箱が置かれていた。雑然とした印象はぬぐえないが、少しもホコリじみたところはない。
恭二郎は部屋の片隅に置かれていたパイプ椅子を、さっきまで書き物をしていた机の前に置いた。
「こんな椅子ですみませんが、どうぞ」
片瀬が腰掛けると、恭二郎は奥まったところにある給湯スペースに行って、ガスストーブの上に置かれたヤカンを手に取った。
手際よく急須に茶葉を入れると湯を差して、蒸らす間に二人分の湯呑みを棚から出す。
湯気の立つ薫り高い緑茶を盆に乗せて事務机に戻ると、恭二郎も腰を下ろした。
「お手数を掛けて申し訳ありません。お仕事の邪魔をするつもりはなかったんですが」
恭二郎は首を振る。
「大丈夫です。急ぎの仕事はありません」
そう言いながら湯呑みに手を伸ばし、片瀬にも勧めた。
二人は向かい合って熱い緑茶を飲んだ。
どちらの湯呑みも空になるころ、恭二郎が口を開いた。
「つかぬことをお伺いしますが、鈴木さんは篠さんと一緒に暮らしているんでしたよね。恋人が昔付き合っていた男性に対して、実際のところどう思っているんですか」
片瀬は少し考えた。
自分と凜花の本当の関係を他人に告白するというのは、そのまま自分の出生について話すことで、そう簡単なことではなかった。
恭二郎がどういう人間かよくわからないし、あっという間に噂が駆け巡るこの島の住人でもある。
だけど彼は光井の弟で、なにか重要なことを知っている気配がする。おいそれと口にはできない秘密を打ち明けるきっかけは、それに匹敵するほどの秘密なのではないだろうか。
うまくいく公算はそう大きくない。
だけど仕事中にわざわざ自分を引き留めて、こうして向き合っているのがどういう意味かを考えると、試してみる価値はありそうだった。
腹を決めて片瀬は口を開いた。
「僕と篠さんが一緒に暮らしていたのは事実です。だけど僕らは恋人同士ではありません。この先そうなることもないでしょう。東京に帰ったら二度と会わないと約束しました」
恭二郎は首を傾げた。
「僕の見たところ篠さんはあなたに気を許しているようでしたし、あなただって篠さんを大切にしている。ここに来たのだって篠さんを案じてのことですよね。それなのに、なぜ」
「僕の実父が神成聖光だからです」
恭二郎は目を見開き、まじまじと片瀬を見た。片瀬は言葉を続けた。
「鈴木というのは偽名で、本名は片瀬高志と言います。神成が逮捕されたあとに方舟の会が行った会見で、僕は神成の後継者に指名されました。それまで僕は、父を知りませんでした。母はかつて方舟の会に入信していて、神成と関係を持っていたそうですが、それも知らなかった。母は墓場まで秘密を持って行くつもりだったそうで、同居していた祖父母ですら、僕の父親が誰なのか知らなかったそうです」
そこまでひと息に言い、片瀬はわずかに残っていた緑茶を飲み干した。すっかりぬるくなった液体が、緊張で乾いた喉を潤す。
「方舟の会が起こした事件で、篠さんの母親は亡くなりました。僕にできることはなにかと考えた結果、篠さんのために生きていくと決めました。彼女が幸せに生きていけるように、ずっと見守り続けてきたんです。光井さんが亡くなったというニュースを聞いて、篠さんが心配で部屋を訪れました。そこで倒れている篠さんを発見して、それから部屋に居つくようになりました。一緒に暮らしていたというのはそういう意味で、彼女にしてみたら僕はただの迷惑な侵入者にすぎなかったはずです。実際、篠さんに全てを話したら、ストーカーと気味悪がられました。おとといの夜のことです」
何年間にも渡る凜花との関わりを、片瀬はあっという間に語り終えた。細かい部分は省いたけれど、大まかなところは話せたはずだ。
「おとといの夜? それまで篠さんは知らなかったんですか」
黙って聞いていた恭二郎が初めて口を挟んだ。
そう言えばこの人も光井さんだ、と片瀬は気付いたが、わざわざ言い直さなくとも伝わるだろう、とあえてそのままでいた。
「ええ、そう簡単に話せることではないので。出生が明らかになったあと、僕は今までの生活をすべて失うことになりました。このことを話すのは光井さん、篠さんに次いで、恭二郎さんで三人目です」
恭二郎は眉を寄せた。
「そんな重大なことを、なぜ僕に」
「どうして僕が篠さんと一緒にいるのか、僕にとっての篠さんがどういう人か、恭二郎さんに知ってほしかったからです」
秘密を語りつくした片瀬は口を閉じた。
どういう反応が返ってくるかわからない。カルトの教祖の息子として、冷たく追い払われる可能性もある。
「そういえば兄は、方舟の会に関する記事を書いていましたね。あれはあなただったんですか」
しばらくして恭二郎が言った。その声から嫌悪感は感じられない。そのことに、片瀬は少なからず安堵した。
これまでの経験上、自分の出生を知った人間が手のひらを返したような態度をとるのは決して珍しいことではない。
「そうです。僕が光井さんと知り合ったきっかけはそれでした。彼は僕に言ったんです。神成が父親だったとしても、自分のものじゃない罪を背負う必要はないって。その言葉で僕は救われた気がしました」
「そうですか。兄がそんなことを」
恭二郎は短く息をつき、片瀬の手元を見た。
「もう一杯お茶をいかがですか」
緊張のためか、喉はまだ渇いている。片瀬は頷いた。
「ありがとうございます」
恭二郎はゆっくりとした足取りで給湯スペースへ向かい、さっきより時間を掛けて茶を淹れた。湯気の立つ温かい茶が注がれる様に、片瀬は気持ちが落ち着くのを感じた。
二人は再び差し向かいで座り、湯呑みを手に取った。示し合わせたように口をつけたあと、恭二郎が口を開いた。
「御神体と御番主の話を覚えていますか」
片瀬は少し眉をあげ、それから頷いた。海に閉ざされた小島に伝わる密教の話は印象的だった。
宗教に人生を狂わされたせいで片瀬はどんな神も信じないが、脈々と受け継がれている信仰を否定するつもりはない。
「たしか御番主はこの島で古くから続いている宗教の長で、御神体は聖母マリアに見立てられた女の子だったかと。興味深い話だったので覚えています」
「そのとおりです。かすみさんはかつて御神体でした。そして、僕の家系は昔からずっと御番主を務めています」
片瀬は少し驚いた。この島の宗教がどういうものかはよくわからないが、光井が宗教の指導者の家系に生まれついていたとは初耳だった。自分の遺伝子上の父も同じようなことをしていたので、奇妙な縁を感じた。
「家系ということは世襲制なんですね」
「ええ。そして次の御番主は僕です。本来継ぐべきだった兄が頑なに拒んだので」
「そうだったんですか。具体的にはどのようなことをするんでしょう」
恭二郎は空になった湯呑みを机上に置き、両手の指を組んだ。
「信仰を語り継いだり神事を執り行うなどの、本来であれば宣教師が行うべき行為です。禁教令によって全ての宣教師がいなくなったあとも隠れてキリスト教を信じていた人たちは、組織立って信仰を守り続けてきました。夜想島以外の隠れキリシタンたちにも、同じように指導者がいたようです。もっとも横のつながりがなかったため、信仰の伝わりかたは土地ごとに違いがあります。御神体が物ではなく女児だというのは、夜想島の特色と言えるでしょう」
そこまで答えると、恭二郎は軽く息をついた。
「前にもお話しした通り、御神体の役目は聖母マリアの化身として御番主の傍らに控え、人々の心の拠り所であり続けることで、それを終えるのは初潮を迎えたときです。この島だけでなく、月経は不浄という考えは隠れキリシタン信仰には多くみられます。キリスト教にはそういった思想はないようなので、きっと日本人独自の考えに基づいたものなのでしょう。役目を果たした御神体は最後に御霊抜きという神事に臨みます。御番主に処女を捧げるんです」
突然始まった恭二郎の講釈を黙って聞いていた片瀬は、最後の言葉に目を見開いた。事が事だけに、言葉を選んで確認する。
「思い違いならすみません。処女を捧げるというのは性的な関係を持つということですか」
対する恭二郎は淡々と応じた。
「関係を持つというのが適切かどうか。あれはただの儀式で、御霊抜きの際、たった一度性交渉を行うだけですから。その後、御番主が御神体だった女性に触れることはありません。それは不貞にあたり、教義では決して許されないことです」
否定されるのを望んでいた片瀬は、恭二郎の答えに衝撃を受けた。
「なぜそんなことを。ただの儀式と言っても、それは……」
御神体であった女児に対する虐待だ。回数は関係ない。たった一度のことだったとしても、それこそ決して許されないことだ。そんな考えがそのまま呻き声として出て、片瀬は我に返る。
この島の信仰がどういうものかわからないし、地域によって様々な風習があるのはなんとなく知っている。部外者が口出しすることを恭二郎は快く思わないかもしれない。御霊抜きという神事は到底容認できないが、恭二郎の気分を害したら情報を得られなくなる。
尻すぼみに消えた片瀬の言葉に、恭二郎は苦く笑みを浮かべた。みなまで言わずとも、片瀬の表情から気持ちを察したようだった。
「御神体を務めていた女性が結婚すると相手の男性が早死にしてしまう。それはかつて神を宿していた依り代を穢す行為に対する罰で、それを防ぐために神の代理人たる御番主が性交する。そうすることによって神の怒りを回避できる。ずっとそう言い伝えられてきました。ただし僕も鈴木さんと同じ意見で、兄が島を捨てたのも御霊抜きのせいです」
理解しがたい話を、片瀬はとりあえずなんとか呑みこんだ。
一般常識では許されないことでもこの島ではそれが常識で、それを踏まえないことには話が進まない。
それに恭二郎の話を聞いていて気が付いたことがある。それを確認するのが最優先事項だった。なんと言うべきか迷って、結局シンプルに尋ねた。
「ということは、かすみさんは」
恭二郎は言い淀み、それから静かに答えた。
「かすみさんの御霊抜きを行ったのは僕の父親です。慣例に従い、信者の見守る前で儀式に臨みました」
片瀬は絶句した。おととい会ったばかりの誠治の姿を思い出す。
幸太郎と似通った顔立ちをした人品の良い老紳士が、神事とはいえ年端もゆかぬ少女を犯していたなんて信じられない。
けれど恭二郎がこんな嘘を吐く理由があるだろうか。
これが真実だったとしたら、かすみの心境は察するになお余りある。互いに憎からず想い合っていた人の父親に、人前で抱かれなければならなかったのだから。
黙り込んだ片瀬をよそに、恭二郎は言葉を継いだ。
「ですが儀式は最後まで行われませんでした。かすみさんは途中で父を跳ね除けて逃げ出したんです。僕の知る限り、御霊抜きを完遂しなかった人はかすみさんだけです」
「途中、と言うと」
片瀬は短く尋ねた。そこまで立ち入った話を訊くべきではないのかもしれない。
だけど今を逃せば、知る機会はおそらく二度と訪れない。
こうして恭二郎が語っていること自体、きっと異例なことだった。この島に伝わる信仰を島民が口にしないというのは凜花が持っていたガイドブックにも書いてあったし、御霊抜きという神事は現代の法律に照らし合わせれば罪に問われて然るべき行為だ。
「父がかすみさんを横たえて、両脚に手を掛けた直後のことでした」
片瀬は息をついた。文脈を汲めば、かすみはおそらく決定的に犯される前に逃げて、事なきを得たということか、と思った。
もちろんそこに至るまでだけでも深刻な行為ではある。
しかし最後の一線を保てたことは、せめてもの救いなのではないだろうか。
「かすみさんのように中断した人は初めてでしたが、御神体を降りるときに御霊抜きを拒んだ女性も過去に何名かいたそうです。そしてその夫は全て早逝しました。これはあくまで僕の見解ですが、それには第三者が関係していた可能性もあります。かつて御神体だった女性には手出しができないので、しきたりに従わなかったことに対する間接的な罰として、結婚した相手に手を下した。そういうことがあったのではないかと、お年寄りの話や幾つかの文献から推測しています」
片瀬は息を呑んだ。恭二郎を見ると目が合った。
「ちょっと待ってください。それじゃあこの島では、公然と人殺しが行われていたということですか」
恭二郎は目を逸らさずに答えた。
「公に行われていたわけではありません。漁師だった男が仕事中に海に落ちたり、山道を歩いているとき足を滑らせて転落死をしたりと、あくまで事故として片づけられる範疇で亡くなっています」
「……山道で転落死?」
その死因には聞き覚えがある。光井だ。
アルコールを受け付けないはずの光井が酒に酔って転落死した。そこまで深い関わりを持っていたわけではない自分ですら不審に思った。
弟の恭二郎はそのことについてどう感じたのだろう。片瀬は思い切って尋ねてみた。
「光井さんが酒を飲めない体質だったのはご存知ですか」
「ええ。兄ほどではないですが、僕もビールをコップに一杯がせいぜいです」
あっさりと返ってきた答えに、片瀬は愕然とする。
「ご存じだったのなら、疑問に思わなかったんですか。飲めないはずの酒を飲んだあと、近所の崖から落ちて亡くなるなんて」
話しながら自らの口調が糾弾するようなものになっているのに気付いて、片瀬は口を閉じた。
冷たいようだが、光井はすでに亡くなっている。恭二郎を責めたところでどうなるものでもない。
だけど凜花は生きていて、これからトラブルに巻き込まれる可能性がある。
自分にできることがあるとするなら凜花を危険から遠ざけることだけで、そのためには情報を集めることが重要だ。自分にそう言い聞かせた。
確かめようはないけれど、かすみが過去に御霊抜きから逃げ出したせいで光井は何者かに殺害されたのかもしれない。
島外の人間に話せば荒唐無稽と鼻で嗤われるだろう。
だけどこの島は、あまりに外から隔絶されている。
立地だけでなく思想的にも、今まで生きてきた環境と違いすぎる。自分の常識では計れない理由で凜花の身に良くないことが起こることだって、じゅうぶんにあり得るのだ。
一度深呼吸をして気を静めた後、片瀬はあらためて尋ねた。
「恭二郎さん。かすみさんはどちらにあたるんでしょう」
「どちら、とは」
「御霊抜きをしなかった元御神体の夫は、不慮の死を遂げることが多かったんですよね。儀式に臨んで、途中で逃げ出した場合も同じなんでしょうか」
「前例がないことですが、おそらく同じでしょう。結局は儀式を行えなかったのですから」
「それはつまり、光井さんが、かすみさんのせいで誰かに殺されたんじゃないかってことですか」
思い切った問いに、恭二郎は首を振った。
「いいえ。僕はかすみさんが兄を殺したのではないかと考えています。こうして口にするのは初めてですが」
想像の斜め上をいく返答に、片瀬は目を剥いた。
今の話の流れから、かすみが幸太郎を殺したと考える理由がわからない。
けれど、近くで接していた恭二郎の言葉には重みがあった。
「殺したって……。かすみさん自身もそう仰っていましたけど、それは自分が元御神体だったからという話だったんですよね」
「いいえ。そうではなく、実際に手を下したと思っています」
片瀬はごくりと唾を呑みこみ、恐る恐る尋ねた。
「どうしてですか。仮にも愛し合っていた男女が、そんなことするわけ……」
「殺人事件の犯人は、半数以上が家族です。それに愛情は永遠ではない。近年の離婚率の高さが、それを証明していませんか」
冷静に応じる恭二郎の顔は、内心の苦悩を表すかのように沈鬱に歪んでいた。
「兄が東京で一緒に暮らしていたという女性に対して、かすみさんが穏やかならぬ感情を抱いていたのは感じていました。それが原因で口論したことがあったのも知っています。酒を飲んでいたと証言したのも彼女で、実際はどうだったのかなんてわかりません」
「疑っていたのなら、どうしてなにもしなかったんですか。同じ亡くなるにしても、事故と事件では全然違う。家族や警察に言うなり、かすみさんを問い詰めるなりすべきだったのでは」
恭二郎は目を逸らした。
「そんなことをしても兄が生き返るわけではありません。この島が注目を集めるだけです。マスコミにおもしろおかしく騒がれたり、外の人間から好奇の目で見られるようになる。そんなことは僕を含め、誰も望んでいません」
世間体か、と片瀬は思った。
この島に噂が広がりやすいのは宿の女性や昭三からも明らかだった。秘密を秘密のままにしておくには誰にも話さず、何事もなかったような顔で振る舞わなければならない。
「兄が亡くなったというのに、事を大きくしないために口を噤んだ。そう思われても仕方がない。そんなことは僕が一番わかっています」
黙り込んだ片瀬に、恭二郎はそっと言葉を足した。片瀬は首を振った。
「恭二郎さんを責めるつもりはありません。僕だって同じだ。存在すら知らなかったとはいえ、血の繋がった父が犯した罪に正面から向き合うことも、自分には関わりないことと開き直ることもせず、ただ目の前の問題から逃げ出しました。そんなことをしたって起きてしまったことは変わらないと、そう思って」
本心からの言葉だった。他人の目や中傷に耐えられず逃げ出した片瀬には、恭二郎の気持ちがよく理解できた。
もしも正面切って理不尽な状況に立ち向かっていたら、どうなっていたのだろう。
あのまま大学に通って、医師になるという夢を叶えていたのだろうか。
母や祖父母とも疎遠にならず、少しは孝行することができていたのだろうか。
そう考えると胸が苦しくなる。
「過ぎたことを考えても詮無いことです。僕らはそのとき選びえた最良の選択をした。たとえそれが間違っていたのだとしても」
片瀬の心中を察したのか、恭二郎はそう断言すると片瀬を見た。
「かすみさんが気になります。彼女の行動には違和感がある。かすみさんが篠さんを良く思っていなかったことは、語らずとも伝わってきました。それなのに仕事を休んでまで会いに行くなんて普通じゃない」
自分の考えすぎではなかったか、と片瀬はくちびるを噛む。あのとき凜花を引き留めなかったことが悔やまれてならない。
「選択を誤ったと思ったのなら、やりなおせばいい。かすみさんに連絡を取ります」
きっぱりと言いながら恭二郎はパンツのポケットからスマートフォンを取り出す。
しばらく画面を見つめてから人差し指を動かして操作し、耳に当てる。
応答してくれ、と願いながら、片瀬は固唾をのんで恭二郎を見守った。
「……出ない」
十秒ほどして短く言うと、恭二郎は再び画面を操作し、同じ動作を繰り返す。
今度は五秒後くらいに声を洩らした。
「ああ、かすみさん。いま大丈夫ですか。……運転中でしたか。すみません。いえ、大した用じゃないんですけど。もし良かったら今夜、最近できたカフェで、篠さんや美春と一緒に食事でもどうかと思って、そのお誘いです。美春もあそこに行きたがっていたので。……ええ。さっき鈴木さんがここにご挨拶に寄ってくださって、篠さんがもう一泊すると聞いたので」
そこまで言うと、自分を凝視する片瀬に目を向けた。
「そうですか。良かった。こんなに近くにいても、なかなか一緒に食事することもないですからね。すみませんが篠さんに代わって頂けますか。僕から直接お誘いしたいので」
凜花を案じていた片瀬は、感謝の眼差しを恭二郎に向けた。現時点での無事が確認できるだけでも、心持ちが全然違う。
「篠さんですか? 恭二郎です。急にお誘いして申し訳ない。……いえ、そんな。旅館には夕食はいらないと僕から連絡を入れておきましょうか。……大丈夫です、大した手間ではありませんから」
そう言うと、スマートフォンを片瀬に手渡す。躊躇いつつ、片瀬はそれを耳に当てた。
『本当にすみません。何から何までお気遣いいただいて』
電話越しに凜花の声を聞くのは初めてだ。ほんの一時間前に顔を合わせたばかりなのに、安心して力が抜けた。
なにを言おうか迷って、結局は必要最小限の事実を伝えることにした。
「篠さん。かすみさんは知っています。篠さんと光井さんが同棲していたことを」
応答する声はない。いきなり自分が出たので驚いたのかもしれないし、内容を掴みかねているのかもしれない。もしも凜花がかすみにスマートフォンを返していたら、と不安になった頃、ようやく凜花が硬い声で応じた。
『……なにを言っているんですか』
片瀬は胸を撫で下ろした。
「そのまま黙って聞いていてください。僕の考えすぎかもしれません。だけどかすみさんには気を付けて。言いたいのはそれだけです。恭二郎さんに代わります」
簡潔に警告すると、スマートフォンを恭二郎に返す。
「もしもし。今の話は本当です。そして僕からも片瀬さんと同じことを言っておきます。では今夜また。かすみさんに代わってください。待ち合わせを決めるので」
それから恭二郎はかすみと話し、六時に現地集合することになった。
通話を終えた恭二郎は短く息をついた。
「この誘いが、かすみさんへの牽制になればいいのですが。僕は五時まで仕事でここを動けません。急に休みを取ったら、周囲の人間から怪しまれます」
これが恭二郎にできる最大限のことだと片瀬にはわかった。できることなら今すぐ凜花のもとへ行きたいけれど、なるべく穏便に事をすませたいという気持ちは理解できる。
「じゅうぶんです。ありがとうございました」
礼を述べる片瀬に、恭二郎は首を振った。
「たいしたことはしていません。それより、仕事の都合がつけば片瀬さんも夕食にご一緒しませんか。あともう一泊するのは難しいでしょうか」
恭二郎の誘いに、片瀬は目を見開いた。
「いえ、それは問題はありません。問題は……」
「篠さんですか」
端的に言い当てると、恭二郎は真摯な目で片瀬を見た。
「二度と会わないと言っていましたが、本当にそれでいいんですか。会わないのと会えないのは全然違います。会おうと思えばいつでも会えると思っていた人と、ある日いきなり会えなくなることは珍しくないんです」
それはもちろん知っている。離れたところで暮らす祖父母はともかく、母親とは二度と会えない。死に目も看取れなかったし、いまだ墓参りすらできていない。
光井もそうだ。光井の存在がなければ、今よりもっと生きづらさを感じていただろう。またいつか会って礼を言いたいと思っていたのに、二度と叶わない願いになってしまった。
このうえ凜花になにかあったら耐えられない。凜花が自分を許さなくても、そんなことはどうでもいい。一方的な感情なのは百も承知で、自分にとって凜花は特別な人だった。
「僕もご一緒します」
こんなふうに首を突っ込むのが正しいことなのかはわからない。
だけど凜花の無事を見届けなければ、自分は一生後悔する。それだけはわかっていた。