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夜想島  作者: 綾稲 ふじ子
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夜想島

 いま出て行ったのは凛花だろうか。一瞬ではっきりとは見えなかったけれど、小走りに白い車に乗り込んでいった。運転席に座ったのは、見間違えでなければたぶんかすみだ。

 あの二人だったとして、いつの間に一緒に出掛ける仲になったのだろう。少なくとも昨日は、連絡先を交換している素振りはなかった。広縁から外を眺めながら片瀬は思案した。

 どうでもいいことか、とため息を吐く。凜花は自分を許さないだろうし、一切の関わりを拒むだろう。凜花の立場からすれば当然のことだ。

 こうなることはわかりきっていた。それでも打ち明けなくてはならなかったのは、このままいけば凛花に惹かれる気持ちを抑えきれなかったからだ。

 凜花の自分を見る目が少しずつ変わってきたのにも焦燥を覚えた。

 こうなることは予想外だった。凜花にしてみれば自分はただの侵入者にすぎず、特別な感情を抱いたりすることはありえないはずだった。

たとえ迷惑がられても、凜花を放っておくことはどうしてもできなかった。

凜花と初めて対面した日のことを思い出す。

冷え切った部屋に、憔悴しきった様子で一人きりでいた。野良猫のように痩せていて、身に降りかかる危険にすら無頓着になるほど投げやりになっていた。

 そうなった原因と自分には関わりあると思うと胸が詰まった。

 最初に凜花の姿を見たのは、居酒屋で間違って提供された烏龍ハイでふらふらになった光井を送っていった日のことだ。

アルコールを分解できない体質だと呂律の回らない口調で説明し、おぼつかない足取りで歩く光井が心配で、どうしても放っておけなかった。

 光井の同棲相手の母親になにがあったのか知っていたので顔を合わせる勇気がどうしても出ず、インターフォンを押すとすぐに部屋の前から立ち去った。ドアを開ける音に振り向いて、光井を迎え入れる若い女の姿を見た。それが凜花だった。

 この人の母親を、俺の父親が殺した。そう思うと居たたまれず、階段を駆け下りた。

光井は自分の出生を知ったあとに初めてできた、友人のような存在だった。

 六歳も年上なのに、親しみやすく愛嬌のある人柄に加えて小柄で童顔だったので、それほど歳の差を意識したことはなかった。

インタビュアーとして中立的であろうとしていたのは感じていた。

それでも紙面に載ったのは、明らかに神成の息子である自分を擁護するものだった。

 なぜかと尋ねた自分に、光井ははっきり言った。

「たとえ神成が実の父親だったとしても、君が悪いわけじゃない。自分のものではない罪を背負う必要はない。そう思ってあの記事を書いた」

 その言葉に、どれほど救われたことだろう。

 教団のあの会見の後、人生は一転した。

それまでは父を知らない以外、それほど不自由のない生活をしていた。

代々町医者をしていた母方の実家に身を寄せ、母と祖父母と四人で平穏な日々を送っていた。父については誰も口にしなかったし、いないのが当たり前だったので、幼い頃はあまり疑問に感じなかった。年齢を重ねてからも詮索しなかった。なにか理由があるのだろう、と慮ったからだ。

 後から知ったことだが母は若いころ巧みな勧誘によって方舟の会に入信し、数年の間、教団施設に出家信者として住み込んでいた。あるとき身重な身体でふらりと帰ってきて、その後は教団との関わりを一切断ってきた。

母は頑なに口を噤んでいたので、祖父母すら自分の父については何も知らなかった。

 子の父親はおそらく方舟の会の信者だろうと想像していたけれど、無理矢理に問い質して過去を思い出させるのを恐れて、あえて尋ねることはしなかったという、

 ずっと知らずにいられたら、どれほど良かっただろう。長年慈しんできた一人娘が教祖の愛人の一人だったと知り、祖父母は大きなショックを受けていた。

 神成と関係を持っていたときは、母も自分が無数にいる愛人の一人だとは知らなかったという。神成は洗礼と称して多くの女性信者と性交し、そのなかでも特に気に入った者は愛人のように扱っていた。

 自分以外にも神成の寵愛を受けている者がいることを知ったのが目を覚ますきっかけで、母は脱会を決意した。

抜け出せたのは不幸中の幸いだったが、神成の執着心は予想以上に強かったらしい。

 母が脱会した当初は何度も接触を試み、教団へと引き戻そうとしたらしいが、祖父母の助けを借りてなんとか逃れることができた。

ただし神成は母が子を産んだことも、その子が自分の子であることも把握していて、事あるごとに教団幹部に調べさせていた。

 片瀬は祖父と同じように医者になって多くの人を救いたいと必死に勉強をして、国立の医大にストレートで合格した。それから一年も経たないうちに全てを失った。

 住んでいた家にはマスコミや野次馬が押しかけ、引越しを余儀なくされた。祖父は医院を畳んだ。

教団の人間に居所を知られているのが不気味で、一人で家を出た。祖父母と母はこれまでの人生とは縁もゆかりもない土地へと移り住み、母はそこで亡くなった。祖父母とも、もう何年も会っていない。

それまで付き合っていた友人たちとの関係も断たれた。

離れて行く者ばかりではなかったけれど、自分と親しくしていることで迷惑を掛けるかもしれない。そう懸念して、自ら身を引いた。恋人とも自然消滅した。

青天の霹靂とはこのことか、と悪夢のような状況に片瀬は絶望した。

大学にも通い辛くなり、最終的に自主退学の道を選んだ。大学を中退したうえ、一気に身辺が騒がしくなった片瀬は仕事を探すことすらままならず、日雇いの仕事で生計を立てて、なんとか一人で生きていきた。祖父母からまとまった額の生前分与を受けていたから早急に金銭に困ることはなかったけれど、手を付けるのに躊躇いがあった。

 教団の追跡が自分にも及ぶことを恐れ、住まいを転々とした。他人と深く関わることを避けて肉体労働に身を費やし、仕事を終えたら泥のように眠った。

 少しでも自分の痕跡を消すために身分を隠して、ずっと偽名を使わざるを得なかった。

 それによる不便を語ればキリがない。

身元を証明することができないから、どれほど遠くへ行くときも飛行機は使えないし、高校在学中に取った運転免許証も更新できず、今は無免許状態だ。

身を隠しながらひっそりと生き続けて数年が経った頃、光井と出会った。

 君の居場所を突き止められたのはほとんど奇跡だった、と光井は言い、取材を申し込んできた。なにを書かれるのか最初は警戒していたが、光井の人柄に惹かれて信じることにした。他人と深い会話をすることに飢えていたせいもあったのかもしれない。

 交流を深めるうち、片瀬はひとつだけ人生の目標を見い出した。

光井の恋人でもあり、生物学上は父である神成聖光のせいで母を失ったという篠凜花を影ながら支えていく。そう決めた。

 具体的に何をすればいいのかわからなかったし、人を生き返らせることが不可能な以上、彼女が失ったものを取り戻すこともできない。

 それでも凜花のためにできることがもしあれば、喜んでそうしようと思った。

自己満足であることはわかっている。

自分のためだけに日銭を稼ぎ、生きるためだけに生きている、なんの意味もない日々に飽いていただけなのかもしれない。

 それから片瀬は本人には決して気づかれぬよう距離を置いて凜花を見守ってきた。

 住まいも職場も知っているので、遠巻きに凜花の姿を眺め、様子を窺った。

ストーカーと罵られても仕方がない。実際に似たようなことをしていたのだから。

 早朝のニュースで光井の訃報を見たとき、真っ先に凜花を思った。別れてから二年近く経っても、凜花に新しい恋人の影はなかった。それが光井のためかどうかはわからないけれど、まったく影響がなかったとは思えなかった。

 光井と一緒にいる凜花を何度も見た。信頼しきった顔で寄り添って歩き、よく笑っていた。自分のせいでそれが壊れてしまったと知ったとき、より一層責任を感じた。

 男女の仲は儚いものだけど、あの件さえなければ、そして自分が存在しなければ、二人の仲は破綻しなかったのではないか。そんな思いがどうしても拭えない。

 自分が凜花に惹かれるなんて間違っている。それは誰よりも理解している。

 だけど生活をともにして、凜花の強さや弱さに直に接しているうちに、感情を抑えられなくなってきた。凜花も徐々に打ち解けてきて、ときたま自分を意識するようなそぶりを見せるようになった。

 許されるはずのない想いなのに、ほんの少しだけ迷ってしまった。

 もしも自分の出生を隠しきれば、ずっと凜花の傍にいられるかもしれない。そんな夢を見てしまった。

 真実を告げさえすれば、あっけなく消え去る夢だと知っていた。

幸太郎とかすみのことで精神的に弱っている凜花にとって、このタイミングが正解かはわからなかったけれど、これ以上黙っていてはいけない。そう思って打ち明けた。

 想像通りの結果になった。凜花は激昂し、今後一切の関わりを断つと告げた。

当たり前だ。騙していたわけではないけれど、秘密を抱えたまま、素知らぬ顔で凜花と生活をともにしていたのだから。

 片瀬は窓の外を眺めながらため息を吐く。

 雨は少しずつ勢いを弱め、空は明るさを取り戻しつつある。このままいけば、明日には天候は回復して通常通り船は運行するだろう。

 東京に戻ったら二度と凜花の前に姿を現さない。遠くから見守り続けるのを止めることはできないけれど、接触することはもうない。

 それでいい。

 これ以上そばにいれば、凜花への気持ちを抑えられなくなってしまう。

 最初から叶うはずのない恋だった。いま感じている痛みや喪失感は、自分に与えられた罰なのだろう。そう思った。


 食料品や日用品なども売られている小さなスーパーで、念のために替えの下着を数枚買ったあと、凜花はかすみに案内された真新しいカフェで昼食を摂った。

かすみによると、夜想島は数年前から観光地化を目指して、島外の企業誘致を図っているらしい。確かに交通の便が良いとは言えないこの島にしては、東京に引けを取らない店構えで、味もしっかりしている。

 仕事に復帰したらこの島を取り上げてもいいかもしれないと、注文した魚介パエリアを食べ終えた凜花は思案した。

「喧嘩でもしたんですか」

 向かい合った席でボンゴレビアンコの最後のひと口を器用にフォークに巻きつけながら、かすみが尋ねた。質問を掴みかねて首を傾げる凜花に、言葉を足す。

「鈴木さんとです」

 意識の外にあった名前を耳にして、凜花は思わず顔を顰めた。あの男を記憶から抹消できたらどれほどいいだろう。かすみは申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「ごめんなさい、立ち入ったことを訊いて。長く一緒にいれば色々とありますよね」

 気を遣わせてしまった、と凜花は慌てて首を振る。

そもそも昨日、誤解を招くような言い方をしてしまった自分が悪い。

「いえ、気にしないでください。たいしたことじゃないので」

 かすみは眉を開き、口元に笑みを浮かべた。

「そうですか。それなら良かった。でもわかります。近くにいればいるほど、ぶつかりあうことが多くなるのは」

 何気ないひと言を、凜花は少し意外に感じた。こんな儚げで楚々とした女性の口から、ぶつかりあうなんて単語が出るとは思わなかった。

「かすみさんでも、そんなことあるんですか」

 凜花の問いに、かすみの笑みは深くなる。

「それはもちろん。主人とも何度も喧嘩しました」

 かすみと幸太郎との関わりを知るのは心が引きつれるような痛みがある。それでも素知らぬ顔で聞かなければならない。そう思って凜花は軽く笑ってみせた。

「かすみさんが喧嘩するなんて想像がつかないです。原因はなんだったんですか」

 紙ナプキンで口元を拭っていたかすみは、視線を宙にやった。

「大抵はつまらないことなんですけどね。脱いだものを脱ぎっぱなしにするとか、便座を上げたままにしておくとか」

 そういえばそうだった、と凜花は深く頷いた。自分も同じ理由で喧嘩したことがある。同じ男を愛していたのだから当たり前だ。

 今の光景を幸太郎が見たら一体どう思うのだろう。そう思いながら水を飲んでいると、新たな客が入店した。ようやく歩きはじめたくらいの幼児を連れた女性で、自分やかすみと同じか、少し上ぐらいの年頃に見える。女性は何気なくこちらに視線を向け、かすみに目を留めた。

「あれ? かすみもここでランチ? 珍しいね」

 声を掛けられたかすみは微笑んだ。

「うん、今日休みだから。佑くん大きくなったね」

「でしょ? たまには遊びに来て。そちらは?」

 親しげな眼を向けられ、凜花は軽く会釈する。かすみは微笑みを浮かべたまま、凜花に顔を向けた。

「幸太郎が東京で働いていた会社の人で篠さん。篠さん、主人と私の同級生の明日香です」

 かすみの紹介に、明日香と呼ばれた女性は顔を曇らせる。

「ねえ、大丈夫なの? 聡も心配してたよ。なにかあったらうちに来て。話を聞くくらいしかできないけど」

 表情を崩すことなくかすみは頷く。

「ありがとう。そうする」

 素直な返事に満足したのか、明日香は優しい笑みを浮かべる。それから凜花に一礼し、子に手を引かれるまま、少し離れた奥まった席に腰を下ろした。

「明日香のご主人も同級生で、ここで働いているんです。そういえばお母さんも、篠さんの泊まっている旅館で働いていたはずです」

 もしかしたら給仕をしてくれた女性だろうか、と凜花は思った。そう思って見れば、顔の造りが似ている気がする。

「そろそろ出ましょう」

 かすみに促され、凜花はかすみのぶんも一緒に会計をすませて店を出る。かすみは自分のぶんは払うと言ったけれど、島を案内してもらった礼だと押し切った。

 昼食を摂っている間に雨は上がり、濃淡のまちまちな雲越しに陽光が通っていた。このままいけば、明日は欠航にならないだろう、とフロントガラス越しに空を見ながら凜花は思った。

 早く自分のフィールドに帰って体勢を立て直したい。

片瀬を追い払って元の自分に戻る。

 仕事に没頭して一人の生活を確立し、今までどおりに生きていく。

そういう生き方が自分には合っている。

「私と主人はこの小学校に通っていました」

 かすみがふいに口を開き、凜花は視線を巡らせる。こじんまりとした建物は静まり返っていた。数秒後、日曜日だったと思い出した。

「幼馴染だったんですよね。ずっと親しくしてたんですか」

 恭二郎から聞いているけれど、知らぬ態で尋ねる。かすみは口元にだけ笑みを作った。

「ええ。でも、ここを卒業したあと疎遠になりました。とは言っても中学を卒業して島を出るまで、ほとんど毎日顔を合わせざるを得ませんでしたけど」

 それも知っている。ただし理由は知らない。訊いていいものか悪いものか凜花が逡巡していると、かすみが先に言葉を継いだ。

「さっきの話に戻りますが。主人とは日常的なつまらない喧嘩の他に、大きな喧嘩を二回しました。一回目がそのときで、それから二十年近く、一度も口をききませんでした」

「二十年も? なにがあったんですか」

 反射的に尋ねてから、夫を失ったばかりで傷心であろうかすみに突っ込んだ話をしてもよかったのか、凜花は悩んだ。とは言え口に出た言葉を取り戻すことはできない。

対するかすみは笑みを崩すことなく応じた。

「篠さんはこの島の宗教について、なにかご存知ですか」

「少しだけ。昔からずっと隠れキリシタンだったんですよね」

 この島の人間にとって宗教は切り離せないものなのだろうか。恭二郎との会話を脳裏で反芻しながら凜花は答えた。

「そうですね。ただ、ひと口に隠れキリシタンと言っても、地域によって若干の違いがあります。禁じられた宗教を内々に守り続けているうちに、本流のキリスト教とは違うものになっていったのでしょう。夜想島も例に漏れず、独自の宗教へと変わっていきました」

「そっか。教義について、おおっぴらに話し合ったりできないですもんね」

「それはもちろん。禁教を破っていると発覚すれば、改宗しない限り死ぬまで拷問されますから。この島の特色は、祭事を司る指導者の他に、それを補佐する女児がいたことです」

「恭二郎さんから聞きました。御神体ですよね」

 かすみは凜花を一瞥した。その目は驚きに見開かれている。

「そんな話を恭二郎くんが?」

「ええ。流れでなんとなく」

 しばらく沈黙が流れた。旅館が見えてきたころ、かすみが口を開いた。

「私が御神体だったことや、主人の家系が代々御番主だったことも?」

 今度は凜花が驚く番だった。前半については聞いていたけれど、後半は初耳だ。

 恭二郎はなぜ話さなかったのだろうと思考を巡らせ、話の発端を思い出す。

 おそらく恭二郎は、かすみが幸太郎を殺したという発言に対して説明しなければと考え、必要最小限の話をしたのだろう。

「それほど詳しくは聞いてないんです。たぶん恭二郎さんは、かすみさんが言っていたことをフォローするつもりだったんだと思います」

「私が言っていたこと?」

 問い返してから、かすみは得心した顔になる。

「御神体の話ですか。結婚した男性が早死にするという」

「そうです。もちろん恭二郎さんは否定していました。キリスト教が禁じられていた時代から現在に至るまで何人もの御神体がいたけど、結婚した男性全てがそうなったわけじゃないって」

「御霊抜きの話は」

「おたましいぬき?」

 首を傾げる凜花を、かすみは再び一瞥する。口を開きかけて一度閉じると、車を路肩に寄せて止めた。それから口を開いた。

「篠さんさえよければ、もう少しドライブしませんか」

 凜花は頷いた。断る理由はない。どうせさしたる予定もないのだ。片瀬と同じ空間にいるより、外の空気に触れていたほうがいい。

「でも、かすみさんは大丈夫なんですか」

 ふとかすみの健康状態が気になって尋ねる。今は元気そうに見えるけれど、昨日は明らかに具合が悪そうだった。案じる凜花に、かすみは微笑む。

「大丈夫です。とくにすることもないし。いま一人で家にいるのは、ちょっと」

 そう言われて気付く。夫を亡くしたばかりで、ぽつんと家にいたら滅入ってしまいそうだ。こうして他人の世話を焼いているほうが気がまぎれるのだろう。

「それならお願いします。すみません、色々と」

「とんでもない。雨も上がってきたし、この辺りを少し観光しましょう。少し戻ったところに良い滝があります」

「かすみさんにお任せします」

 凜花の答えを聞くと、かすみは車をUターンして来た道を引き返した。対向車がないので、車線変更はスムーズだ。危なげなく運転しつつ、かすみはちらりと凜花を一瞥する。

「篠さん、ご出身はどちらですか」

 不意の質問に凜花は目を瞬かせた。

「私ですか? 生まれも育ちも東京です」

「人がたくさんいて賑やかなんでしょうね」

「賑やかっていうか、うるさいくらいです。ここと違って雑然としてるし。かすみさんは東京に行ったことは」

「いいえ、一度も」

「ずっと島で暮らしていたんですか」

 話をしている間に、車は脇道へと入っていく。

「高校は鹿児島で、卒業後もしばらくは鹿児島で働いていました。島の生活とは全く違って慣れないことの連続でしたけど、楽しかったです。父が体調を崩して島に戻ることにしましたが、できたらずっと鹿児島にいたかった」

「お父様、どこかお悪いんですか」

「たいしたことはないんですけどね。腰痛持ちで、油断するとすぐ傷めてしまうので」

 そう言うと少し黙り込む。きっと運転に集中したいのだろうと、凜花も黙って緑に包まれた山道の景色を眺めた。

しばらくして、かすみが尋ねた。

「鹿児島に住んで、なにが一番嬉しかったかわかりますか」

 凜花が最初に思いついたのは利便性だった。観光で数日間滞在するくらいならともかく、実際に住むとなれば話は別だ。コンビニもファストフード店もない環境は、生活の場として考え辛い。

「お店がたくさんあるとか?」

 前方から視線を外すことなく、かすみは器用に首を振る。

「もちろんそれもあります。だけど一番ではありません。私を誰も知らないし、私も周りの人を知らない。それがとても嬉しかったんです。ここで生活していると、そうはいきません。誰もが顔見知りで、全てが筒抜けです。その人がどういう人で私がどういう人か、互いに知っているんです」

 言われてみればたしかにそうだった。島に来てから出会った人のほとんどが、どこかで繋がっている、と凜花は気付いた。

 一番最初に出会った運転手も幸太郎の家族と親しい様子だったし、店で食事をしていても知り合いに会う。そしてその知り合いの母親は宿泊先の旅館で働いているという。

 幸太郎と同棲していたときを含めて、五年以上住んでいるマンションの隣人がどういう人かほとんど知らないし、近所付き合いは皆無だ。

考えようによっては寂しいことかもしれないが、気楽であるのは間違いない。

「他人との関わりが深いのも良し悪しですよね。色々と気を遣うことも多そうだし」

 凜花の答えに、かすみはちらりと笑う。

「それはもう。きっと篠さんの想像よりもずっと煩わしさはあります。ここに住む以上、近所付き合いは避けて通れないし、みんなと同じであることこそが美徳です。土地柄もあるんでしょうね。この島の厳しい自然環境に立ち向かうには、助け合わずには生きていけない。個々の価値観よりも足並みを揃えることが重視されるんです。だからこそ宗教が深く根付いたのでしょう。同じ価値観で結束するために」

 凜花は少し考えて、適切そうなたとえを口にしてみる。

「仮想敵がいるほうが結びつきが強くなるみたいなものですか」

 かすみは頷いた。

「そうですね、そういうことかもしれません。そして閉ざされた空間では、他所から奇妙に思えるような物事がまかり通ってしまうんです。たとえ内心では疑問に思っていても、それを口に出すことはできません」

 車は駐車場へと出た。五台ほど止められそうなスペースだが、車はおろか人の気配もない。手近なところに停車すると、かすみは凜花を見た。

「着きました。キャンプ場や公園もあるので夏場はそれなりに訪れる人もいるんですけど、この時期は大体貸切になります」

 車を降りて辺りを見渡すとバンガローが目に入った。自然が豊かで港からもそう遠くなさそうだから、夏場ならここに泊まるのも悪くないだろう、と凜花は思った。

 駐車場から続く歩道沿いには小川が流れて、目にも耳にも爽やかだった。かすみは凜花の先に立ち、振り返る。

「滝はこちらです。歩いて五分くらいのところにあります」

 歩き出したかすみに凜花はついていく。

「すごく綺麗なところですね。誰も来ないのが、もったいないくらい」

 凜花の感想に、かすみは微笑んだ。

「この島には、もっと綺麗な場所もありますよ。あいにくここからは少し遠いんですけど」

「そうなんですか。もっと時間があれば、ぜひ見てみたかったです」

「篠さんがまたいらっしゃることがあれば、ぜひご案内します」

 話しながら歩いていると、間もなく緑に包まれた滝が現れた。

 五十メートル以上はありそうな武骨な岩肌に添って、大量の水が飛沫を上げて流れ落ちている。雄大なその景色は神秘的ですらあった。凜花は魅入られるように滝を見上げた。

 かすみも言葉を発することなく滝を眺めていたが、しばらくして口を開いた。

「さきほどの話の続きですが、御神体だった女性は初潮を迎えるとお役御免になります。月経は不浄で、聖母を宿すには不適格とされるので。新たに選ばれた御神体と入れ替わる前に御霊抜きという儀式をすれば、後に結婚した際に伴侶が早死にするのを防げる。昔からそう言われているんです」

 唐突に再開された話に少し戸惑いはしたが、それなら良かった、と凜花は思った。

おそらくは救済措置みたいなものなのだろう。いきなり指名された挙句、将来結婚する相手が早死にするなんて、あまりに理不尽すぎる。

「そうなんですか。儀式ってどんなことをするんですか」

「御番主と交わります」

 なんの気なしの質問に、かすみはさらりと応じた。交わるという意味を捉えかね、凜花は首を傾げた。

「交わるって、どういう意味で」

「性的な意味です。御神体だった女性と結婚した男性が早逝するのは、かつて聖であった女を穢す行為に対する神罰で、神の代理人たる御番主が交わることでそれを回避できる。そう信じられているんです」

 当たり前のように返ってきた答えに凜花は焦った。滝から目を離して、かすみを見る。かすみは滝に目をあてたままでいた。

「ちょっ、ちょっと待ってください。生理が始まったら御神体じゃなくなるってことは、十歳になるかならないかの子どもですよね? そんな子どもに対して、その……」

 そこまで言って、かすみも御神体だったことを思い出す。言葉を切ると、かすみは薄く笑んだ。

「個人差はありますが、初潮の始まる平均年齢は十二歳だそうです。私は十三歳でした。十三歳のときに昨日昼食を摂ったあの部屋で、衆人環視のもとで御霊抜きに臨みました。主人の目の前で、彼の父親と交わることになったんです」

 衝撃的な告白に凜花は言葉を失った。

あそこでそんなことが行われていたなんて、思いもよらぬことだった。

かすみの具合が悪くなるのは当然だ。もしも自分だったら足を踏み入れることすら拒むだろう。

どう応じるのが正解なのか、かすみがその出来事をどう受け止めているのか、想像もつかない。かすみは仄かな笑みを消し、淡々と言葉を続ける。

「今でもたまに夢に見ます。寒々とした広い和室、床の間の掛絵、直に触れる肌の感触、儀式を見届ける主人の姿。忘れたいのに、どうしても忘れられないんです。その少しあとに主人と大喧嘩をして、疎遠になってしまいました」

 凜花は何も言えなかった。凜花の常識からしたらそれは性的虐待で児童虐待だ。

 日本各地の風習で、新婚夫婦の新妻が新郎以外の男性に身を任せる儀式があったと聞いたことがある。結婚を拒む女性を誘拐して手籠めにし、既成事実を作って妻にするという因習が昭和の中頃まで続いていた地域があったことも何かで読んだ。

 常識は時代とともに変わる。現代では考えられないような出来事でも、単純に否定することはできない。

ただし、それが現代でも通用するかどうかはまた別の話だった。

 かすみの姿を見られない。どんな言葉や慰めも、うすっぺらい、的外れなものになる気がして、凜花は黙って海を眺めた。

 沈黙を破ったのはかすみだった。

「おかしな話をしてごめんなさい」

「いえ、そんな」

 穏やかな声で詫びるかすみに対し、それ以外なにが言えるだろう。

 かすみはようやく凜花を見た。声と同じ、穏やかな表情を浮かべていた。

「帰りましょうか。旅館まで送ります」

「はい」

 短く答えながら、凜花はかすみの話を脳裏で反芻していた。

 かすみは幸太郎と二回大きな喧嘩をしたと言っていた。

 最初の喧嘩が御霊抜きのあとだったのなら、二回目の大きな喧嘩はいつで、理由はなんだったのだろう。そんな疑問を抱いたけれど、とても訊く気にはなれなかった。

「明日東京に戻るんですか」

 もうじき旅館に着くというころ、かすみが尋ねた。

 それまでに聞かされた話について、とりとめなく思いを巡らせていた凜花は我に返り、かすみに意識を戻す。

「そのつもりです」

「そうですか……」

 かすみは一度言葉を切り、前方から凜花へと視線を移す。

「もしよかったら、明日も私と一緒に島内の観光をしませんか」

 凜花は目を瞬かせた。

「え、でも。かすみさん仕事は」

「折よく明日も休みです」

 ちらっと笑うと、かすみは視線を戻した。

「篠さんにもご都合があるでしょうし、もちろん無理にとは言いません。でも、できたらご案内したいところがあって」

「どこですか」

 興味を引かれて凜花が尋ねると、かすみは前を向いたまま静かに答えた。

「さっきお話しした綺麗な場所です。主人もそこが好きでした。私と主人は子どものころから、よくそこで遊んでいました」

 凜花は少し躊躇った。

 二人の思い出の場所にずかずか踏み込んでもいいものかわからないし、自分自身、行きたいかどうかも微妙だ。

 だけど、とふと思いつく。

 出発を一日ずらせば、移動中の半日近く片瀬と行動を共にする必要はなくなる。

別々に帰るための理由なんて必要ないけれど、角が立たないに越したことはない。

どうせ急ぎの用などないし、この先ここを訪れることはきっとない。かすみの提案に乗るのも悪くないかもしれない。

「かすみさんのご迷惑にならないのなら」

 凜花の返答に、かすみは笑んだ。

「明日の朝、旅館まで迎えに行きますね。十時頃でいかがですか」

 頷きながら、凜花は思ってもみなかった成り行きに驚いていた。


 かすみに送られて旅館に戻り、ロビーを歩いているときにスマートフォンが震動した。

 画面を見ると山辺だった。現実離れした話で知らず知らずのうちに疲弊していた脳が、無条件に安堵するのを凜花は感じた。急いで通話ボタンを押す。

「篠です」

「おお、篠。体調はどうだ?」

 聞き慣れた声に、凜花は気持ちが緩むのを感じた。

「おかげ様でまあまあです。急に電話なんてどうしたんですか。なにかあったんですか」

「いや。仕事でお前の家の近くまで行く用事があったから、メシでもどうかと思ってな」

 休職中に出歩いていたらまずいだろうか、と逡巡したが、休職は謹慎ではない。それに幸太郎を弔うためにここに来たのだから問題ないのではないか。

勝手にそう結論づけて、正直に話すことにした。叱られたら、そのときはそのときだ。素直に謝ればいい。

「すみません。じつは今、幸太郎の生まれ故郷にいるんです」

「え? あいつ、どっか遠くの島出身だったよな」

「鹿児島から船で二時間くらいの離島です。すみません、お休みを頂いている身で」

 恐縮する凜花を、山辺は笑い飛ばす。

「そんなの気にすんな。休みなんだからお前の好きに過ごしていい。一人でそこまで行ける元気が出たんならなによりだ」

 山辺の何気ない返事に、ちりっと胸が痛む。一人ではない。片瀬と一緒だ。

かすみの話で頭がいっぱいで、しばし片瀬のことを失念していた。話そうかどうしようか迷って、結局これも素直に話した。

「いいえ、一人ではありません。山辺さんも会ったことのある鈴木という男性と一緒です」

「ああ、あのときのガタイのいい兄ちゃんか。やっぱり知り合いだったんだな」

「知り合い、ではなかったんですけど。いえ、正確に言えば、あちらは私のことを知っていたんですけど。ついでに言えば、鈴木って言う名前じゃありませんでしたけど」

「けど、けどって、なんじゃそりゃ。なに言ってんだ、お前」

 当然のリアクションだった。

 山辺に話してしまおうか、と凜花は思った。

昨日から今日にかけて色々な話を聞きすぎて混乱している。話すことで少しは整理できるかもしれないし、第三者の意見を聞けば違う観点で考えられるかもしれない。一人で抱え込むことに、凜花は限界を感じていた。

「山辺さん。いま少しお話しても大丈夫ですか」

「なんだ、あらたまって。べつに構わないぞ。用事はすんだし、そんなに急いで戻る必要もないし」

 山辺の優しさに甘えて、凜花は片瀬のことを打ち明けることにした。

誰の耳があるかわからないので旅館の外に出て、ひと気のない道沿いに海岸まで歩きながら全てを話した。

 この十日近くずっと一緒に暮らしていたことも、覚えている限りで交わした会話の全ても、片瀬が名を偽っていた理由も。

事実を知る前にほんのすこし片瀬に惹かれていたこと以外、なにもかもを口にした。

 長い話が終わるころには海岸に着いていた。陽は傾きかけ、気温が下がっていくのを肌で感じる。

山辺はときたま相づちを打つ以外は口を挟むことなく、凜花の話に耳を傾けてくれた。ときたま電話越しにパトカーか救急車のサイレンや街宣車の音が聞こえて、都会の雑踏を思い起させた。

「私はどうしても片瀬を許せません。嘘を吐いていたことも、何食わぬ顔で私のそばにいたことも、片瀬の父親が私の母親を殺す理由を作ったことも、全部」

「そりゃまあそうだろう。俺だって奥さんや娘になにかあったら、犯人の家族を許せるかどうかわからん。憎むとまではいかなくても、確実に複雑な感情を抱くだろうな」

 そう答えると、山辺は黙り込んだ。通信状況が悪いのだろうか、と心配になって凜花がスマートフォンの画面を見ようとしたころ、ようやく声が聞こえた。

「お前の気に入る話じゃないかもしれないが、俺は方舟の会の裁判や神成の話、それから片瀬高志の話を個人的に調べていた。どこかに発表するためというより身近な人間の身内が亡くなって他人事とは思えなかったし、純粋に興味があった。どうしてこんなことになったのかとか、いきなり指名された片瀬高志という男がどういう人間なのかが」

 初めて聞く話だった。凜花の記憶にある限り、山辺から方舟の会について話したことは一度もない。幸太郎の記事に対して凜花が尋ねたときにも、山辺自身が方舟の会や片瀬についてどう思っているか、明確には答えなかった。

 それは母を失って以降、方舟の会に関する情報を一切遮断し、事件のことを忘れようと仕事に没頭していた自分に対する気遣いだったと思い至った。

「それで山辺さんはどう思ったんですか」

 山辺は軽く唸った。もしかしたら髪を掻きむしっているのかもしれない。考え込むときの山辺の癖を凜花は思い浮かべた。

「難しいな。俺は宗教には関心がないし、新興宗教にハマる人間の心理は一ミリも理解できん。大学生のころ騙し討ちみたいに勧誘されたことがあったけど、教義や主張に一貫性もリアリティもなくて話のアラばっかり気になって入信したいなんてとても思えなかった。だけど他人が何を信じるかは自由だし、それで救われるのなら、俺がとやかく言う必要もない。方舟の会を信仰することによって救われた人だって、もしかしたらいたのかもしれない。そういう人間にとって神成は救い主だったんだろう。あんな事件を起こすまではな。そしてあの事件に関しては、これからの裁判で明らかになっていく。それまでは、なんとも言えん」

 豪快そうに見えるけれど実は細やかで慎重な山辺らしい意見だ、と凜花は思った。

「片瀬に対しては、俺も光井と同じ見解だ。あるとき急に自分の出生を知らされて、世界が一変する心境は想像もつかない。それが好転ではなく転落であれば、なおさらだ」

「転落、ですか」

 おうむ返しに呟く凜花に、山辺はほんの一瞬の間を空けて尋ねる。

「片瀬高志のことはどこまで知ってる」

「なにも。本人の口から聞くまで、神成の後継者に指名された息子の名前すら知らなかったくらいですから。山辺さんはなにかご存じなんですか」

「片瀬は方舟の会が会見を開くまで、母親とともに母方の実家に身を寄せていた。祖父は町医者で、小さな医院を営んでいた。片瀬は跡を継ごうと勉強に励んでいたらしい。成績だけでなく運動神経も人柄もよく、友人の数も多かったという話だ」

 調べていたというだけあってすらりと出てきた回答に、凜花は唸る。

「スクールカーストの頂点にいたってわけですか」

「きっとそうだったんだろうな。同級生の証言によると女子にもモテていたみたいだし。国立の医大にストレートで合格して、間もなく全てを失った。心無い人からの嫌がらせや中傷に耐えかねて祖父は先々代から受け継いだ医院を閉め、妻と娘を連れてどこかに引越し、片瀬は大学を退学した。それからずっと身元を隠して、日雇いの仕事をしながら住居を転々としていたらしい。インターネットで目にした卒業アルバムの片瀬は、ほっそりと色白の美青年だった。本人を目前にしても全然気づかないくらい変わったのは、外仕事や力仕事で鍛えられたせいだろう。そのへんの経緯は光井の記事にも詳しく書いてあったな」

 別れの原因になった記事を苦々しく思い出しながら、凜花は疑念を口にする。

「私も読みましたけど、あれは事実なんですか? 本当に片瀬は方舟の会と繋がっていないんですか。疾しいことがあったから姿を消したのでは」

「それは俺にはわからん。知りたいなら本人に訊くしかない」

 もっともな答えだった。山辺が知る由もないことを訊いても仕方がない。

だけど片瀬と対峙する気にはどうしてもなれなかった。それに山辺の話が真実だったとして、あっさり片瀬を許す気にもなれない。

「山辺さんの話や幸太郎の記事が本当だったとしても。私は片瀬を許せません」

 絞り出すような凜花の言葉に、山辺は真剣な声で応えた。

「それでいい。お前は無理に片瀬を許さなくてもいい。片瀬もその覚悟があるから、お前に打ち明けたんだろう」

「覚悟って何の覚悟ですか。私は最後まで黙っててほしかった。知りたくもないことを、どうして後になって言ったりするんですか」

 思いのままにまくしたてかけて、凜花は言葉を切る。山辺に言っても詮無いことだった。

「それも片瀬にしかわからんだろう。だけど、片瀬はお前に対して誠実であろうと思って言ったんじゃないか。あくまで想像にすぎないけどな。俺はそう思う」

 そう言うと、山辺は静かに言葉を継いだ。

「お前、片瀬が好きなんだな」

 言い当てられた凜花は口を噤む。確かに自分は、鈴木だった頃の片瀬に惹かれていた。

 もしも神成と無関係だったら、その気持ちはもっと強くなっていたかもしれない。

 だけど片瀬が神成の息子じゃなかったら、そしてあんな事件がなかったら、こんなふうに自分に接触してくることもなく、出会うこともなかったはずだ。

 いっそ、そのほうがよかった。

 片瀬を知らず、こんな感情とは無縁で、ただ神成とそれに連なる者を憎んでいればよかった。今の自分はそうではない。

「あまり深刻に考えすぎるな。物事はなるようにしかならん。いつまで島にいるんだ」

 黙り込んだ凜花を気遣ってか、山辺は明るい声で尋ねた。凜花は気を取り直して答える。

「ちょっと用事ができたので、あさって東京に戻ります。本当は今日帰るはずだったんですけど、悪天候で船が出なくて」

「そうか。気を付けて帰ってこいよ。そろそろ戻らなきゃいけないから切るぞ」

 そう言われて、ずいぶん長い間、多忙な山辺の時間を奪ってしまったと気付く。

「長々とつまらない話をしてすみませんでした。休職が明ける前、一度会社に行ってもいいですか」

「おう、いいぞ。来るときは電話してくれ」

「わかりました」

「じゃあな」

 短い挨拶を最後に山辺の声が消えた。耳に入るのは波音だけになる。

 しばらくの間、身体が冷えるのも構わずに、凜花は呆然と海を眺めていた。この数日で知り得た情報や感情を整理しきれない。

 そういえば昨日の朝、この場所で片瀬に抱きしめられた、と思い出した。

 私が好きなのかと尋ねて、好きになる資格がないと答えられたことも。

あのときは何を言っているのかわからなかった。今ならわかる。

 じゃあ資格があれば?

 資格があればどうなんだろう。

 知ったところで片瀬を許せない気持ちに変わりはない。だけど知りたい。理由は自分でもわからない。

 凜花は旅館の方向を見上げた。抱きしめられたとき、旅館の窓から自分の姿が見えたと片瀬は言っていた。この場所から片瀬の姿を窺い知ることはできない。

 今の状況に似ている、と思った。片瀬は自分のことをよく知っているのに、自分は片瀬のことをほとんど知らない。

 山辺の言葉を思い出す。片瀬の気持ちを知りたいなら、片瀬本人に訊くしかないと言っていた。

 凜花は旅館を凝視する。それからゆっくり歩き出した。


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