夜想島
喉が渇いた。頭が鈍く痛むし、顔の表皮は乾燥して突っ張っている。
目を覚ました凜花は、まずそう思った。すぐに原因を思い出す。大人げなく鈴木に縋りついて泣き喚いたせいだ。心につかえていた痛みが和らいでいることに、ぼんやり気付く。
目の上に乗せていた濡れタオルはいつの間にかなくなっていた。部屋は明るく暖かい。
半身を起こして鈴木を見い出す。広縁の椅子に腰掛けて外を見ていた。
子供じみた甘えを受け入れて、ずっとそばにいてくれたことを知り、凜花は少なからず驚いた。この人はどうしてここまでしてくれるんだろう、とあらためて不思議になる。
立ち上がってベッドサイドのミネラルウォーターを手に広縁へ歩きだし、鈴木の向かいに腰を下ろす。がさつく喉を潤してから、口角を上げてみせた。
「本当にここにいてくれたんだ。ごめんね、我儘言っちゃって。退屈だったでしょ」
「景色を見ていましたから」
凜花は苦笑した。窓に映るのは叩きつける雨粒と黒く塗り込められた海だけだ。
「暗くて景色なんてほとんど見えないよ」
「……具合は?」
凜花へ目を移して尋ねる鈴木は、いつも通りの感情が読み取れない顔つきをしている。
「もう大丈夫。泣いたらなんだかすっきりしちゃった」
思っていたよりもずっとさばさばした声が出た。あながち強がりではないことを、凜花は自ら感じ取る。鈴木は測るような目で凜花を見返した。凜花も鈴木を直視した。
「ねえ。どうしてこんなに優しくしてくれるの」
「前にも言ったはずです。僕の自己満足だって」
即答する鈴木に凜花は食い下がった。
「それにしたって、いくらなんでも度を越してる。他になにか理由があるんじゃないの」
「なんて答えれば篠さんは納得するんですか」
「本当のことを答えてくれれば」
鈴木は凜花から目を逸らした。
「そろそろ食堂に行かないと、夕飯抜きになりますよ」
現実的な指摘だったが、今はそれより重要なことがある。
「そんなのどうでもいい。答えて」
手を伸ばせばすぐ届くくらい近くにいるのに、なにを考えているのかわからないのがもどかしい。鈴木は凜花に目をあて、小さく頷いた。
「わかりました。夕飯を食べたら教えます。光井さんからの伝言も、今夜全部」
ため息まじりの呟きに、凜花は目を瞠った。
初めて現れたとき、元気になったら幸太郎からの伝言を教えると鈴木は言っていた。
今の自分が元気いっぱいに見えるとは、とても思えない。なぜこのタイミングなのかがよくわからない。
あれだけのらりくらりとかわし続けてきたのに、今になって話そうと思ったのはなぜなのだろう。
真意を探るように鈴木の目を覗きこむ。見つめ返す目からはなにも読み取れない。凜花はついさっき眺めた夜の海を連想した。
暗くたゆたって光の差さない海の中はどうなっていて、鈴木はなにを秘めているのだろう。幸太郎からの伝言を伝えたら、本当にいなくなってしまうのだろうか。
一刻も早く出て行ってほしいと願っていたのに、いなくなることを寂しく感じる理由が自分でもわからない。頭の中が、次から次へと湧きあがる疑問符で一杯になる。
「行きましょう」
すでに部屋を出ている鈴木に促され、凜花は歩き出した。
食堂に向かいながら、あれほど知りたかった幸太郎の伝言よりも鈴木のことばかり考えていると不意に気付き、凜花は愕然とする。
ある感情が芽生え始めているのを、稲妻の落ちる速さで自覚した。
愛した男を悼む旅だったはずなのに、この男に対してこんな気持ちを抱く破目になるとは想像だにしなかった。
「どうしたんですか」
扉の前に立ち尽くす凜花を鈴木は振り返る。どういう顔をしたらいいのかわからない。急速に頬が染まるのを感じ、凜花は俯いた。
食堂はがらんとしていた。壁時計を見ると二十時を廻っている。他の宿泊客は、とうに食事を終えて部屋に引き上げたのだろう。
夕食の膳には前日と同じく、海の幸を主とした料理が並べられていた。
給仕に来た宿の女性が、心配そうに凜花を見る。四十代後半だろうか、優しげに垂れた目が印象的だった。
「具合はいかがですか? もし食べられなさそうなら、何か他のものをご用意しますけど」
凜花は自分を省みた。泣き疲れて眠った後、化粧直しもしないでここに来てしまった。
そのうえ顔が火照っている。傍目には病人と映っても不思議はない。
「大丈夫です、ちょっと疲れただけなので。今日も美味しそうですね。なんだかおなかが空いちゃった」
なるべく明るく答えると、女性は眉を開いた。
「それなら良かったです。どうぞゆっくり召し上がってください」
そう言い終えるのとほぼ同時に、強い風が窓を揺らした。雨音も強まる一方だ。女性は再び眉を寄せる。
「荒れてきましたね。明日は欠航になるかもしれません」
恭二郎も同じことを言っていた、と凜花は思い出す。
土地の人間が二人も懸念しているのなら、フェリーが運航しない可能性はだいぶ高いのではないだろうか。
「欠航になるかどうか、いつわかるんですか」
「明日の朝一番には。船が出なければ、ぜひここにお泊りください。空きはありますから」
とりあえず野宿は免れた、と安堵する。予定より滞在が長引いても休職中の身だ。差し障りがあるわけではない。
「ありがとうございます。そうします」
凜花の答えに女性は微笑み、静かに立ち去った。鈴木と二人きりになると、今まで感じたことのない気恥しさを覚えた。
鈴木が多弁でなかったことがせめてもの救いだった。話しかけられたら、おかしなことを口走ってしまうかもしれない。自覚したばかりのこの気持ちをどうすべきか、凜花は計りかねていた。
いつも以上に会話がないまま、夕食は終わった。せっかくの手が込んだ料理を、凜花は食べた端から忘れた。
鈴木と差し向かいでいるのを面映ゆく感じる。一週間以上そうしていたし、すっぴんもぐしゃぐしゃの泣き顔も、なんなら裸までみられている。なにをいまさら意識しているのか、と自嘲する。答えはわかっていた。自分が変わってしまったせいだ。
宿泊しているフロアに辿りつくと、鈴木は凜花の部屋の前で立ち止まった。
視線に促され、鍵を開けて部屋に入る。続いて入ってきた鈴木が鍵を掛けて、緊張はさらに高まった。密室に二人きりというシチュエーションには慣れているはずなのに、妙に落ち着かない。
鈴木は広縁に行って腰を下ろす。凜花もそれに倣って鈴木の正面に座る。
暴風雨は激しさを増していた。静まり返った室内で、凜花は鈴木を注視した。鈴木は間に置かれた机に目を落としていた。
「自分から尋ねておいて、こんなこと訊くのはおかしいってわかってる。でも、どうして今なの? 鈴木さん最初に言ってたでしょ、私が元気になったら幸太郎からの伝言を話すって。今の私が元気一杯に見える?」
沈黙に耐えられなくなった凜花が口を開くと、鈴木はようやく凜花を見た。その表情は物憂げだった。
「もう大丈夫だって、さっき篠さんが言っていたので。それにこの一週間、食事もきちんと摂っていたし、ここまで来るほどの気力もある。この旅が終わったら、篠さんの家から出て行きます」
いきなり切りだされた別れに凜花は息を呑んだ。
引き留める権利はもちろんない。勝手に現れたのだから勝手に消えるのは当たり前だし、好意で世話を焼いてくれていたのを当然だとも思ってない。鈴木は淡々と話を続ける。
「篠さんに謝ることがあります。僕はふたつ嘘を吐いていました。ひとつめは、光井さんからの伝言なんてなかったこと」
大前提を根底から覆す告白に、凜花はぽかっと口を開く。
「じゃあなんのために私の家に? 伝言を伝えるためだけに住み込むって言うのもワケがわからなかったけど、理由もなく、ここまで面倒をみてくれるメリットってなに」
「メリットなんてありません。僕は自分のためになにかを望んでいい人間ではないので」
眉を寄せて凜花は鈴木を見た。この男がなにを言っているのかわからない。
「ふたつめの嘘です。僕の名字は鈴木じゃなくて片瀬です。フルネームは片瀬高志」
眉間の皺は深くなる。どうして名を偽る必要があったのか、どうして今それを打ち明けたのか、理解できない。なんと訊こうかと考えて、結局シンプルな問いになる。
「なんで偽名なんか」
鈴木……片瀬は……初めて言い淀んだ。
「僕の名前に覚えはありませんか」
首を傾けることで凜花は応じた。
片瀬高志という名は記憶にない。少なくとも知人ではなさそうだし、思い当たる人間は誰ひとりいない。
「それならこう言いましょうか。僕の父親は神成聖光です」
ひゅうっと大きく息を吸い込みながら、凜花は目を見開いた。
心臓がどくどくと震えて、指先が瞬時に冷える。片瀬はそれ以上なにも言わず、じっと凜花を見ていた。
神成聖光は忘れたくても忘れられない。おぞましい、憎んでも憎んでもなお飽き足りない忌まわしい名だ。
あんな馬鹿げた爆発騒ぎを神成が企てなければ母は今でも生きていたし、きっと幸太郎を失ったりしなかった。
方舟の会が神成の息子を後継者として指名したとき、未成年ということで実名が出ることはなかったけれど、インターネット上でたちまち暴かれていたことは知っている。
ただし、凜花はそういった情報には一切触れなかった。母を殺した集団に関わる情報など何ひとつ知りたくなかったからだ。
「……嘘でしょう?」
呆然と呟く凜花に、片瀬は沈鬱な表情で首を振る。
「僕は光井さんのインタビューを受け、それから親しくなりました。僕の境遇に同情してか、光井さんはとても優しくしてくれた。あまりにも唐突に世界が変わってしまった僕は、光井さんの言葉にどれほど救われたかわからない。いずれ恩返しをしたかったのに、まさか亡くなってしまうなんて……」
凜花は嘆く片瀬を無言で凝視した。そういう縁だったのか、と腑に落ちた。
腑に落ちないことももちろんある。どうして自分の家に押しかけて勝手にあれこれ世話を焼いたのか、なぜ今このタイミングでそれを打ち明けたのか、意図がつかめない。様々な考えが脳内を駆け巡っているのに、なにもまとまらない。
吹き荒れる雨風が窓を打ちつける音だけ響く室内で、凜花は必死に考えをまとめた。
あの忌々しい教団の後継者に指名された男が、自分に構いつける理由はなんなのだろう。
しばらくして、ようやく思いつく。
「わかった。私を勧誘する気で近づいたんでしょ、あのクソみたいな新興宗教に。被害者の娘を懐柔したら、父親が減刑されるとでも思った?」
「違います。僕は方舟の会とは一切の関わりを断っているし、あの男を父親と思ったことなど一度もない」
即座に否定し、片瀬は言葉を継ぐ。
「僕の父親が誰なのか、教団が会見したあの日に初めて知りました。母は墓場まで持って行くつもりだったそうです。あの会見のあとに病死してしまいましたが、良かったのか、悪かったのか、今もわかりません。こんなことになると知らないままのほうが幸せだったのかもしれません」
「じゃあなんで? なんで私に近づいたの? なんで私の世話を焼いたりしたの」
疑問を口にしながら不意に閃く。
「まさか贖罪のつもり?」
片瀬は小さく頷いた。
「僕にできることはなんだろう、とずっと考えていました。全く無縁で生きてきたにしても、神成聖光は生物学上の父なので」
「ふざけないでよ!」
凜花は一喝し、片瀬を睨めつけた。
「そんな話、信じられると思う? それに、もしもそれが本当だとしても、私が許そうが許すまいがお母さんは生き返らないし、神成のしたことはなかったことになんかならない。っていうか、本当に私が許すと思った? どんだけおめでたいのよ」
ひと息にまくしたてると、荒く息を吐く。頭の芯が痺れるほどの怒りが込み上げ、その辺にある物をこの男へ手当たり次第に投げつけたり、机をひっくり返したいという暴力的な衝動に駆られた。
すんでのところで思い留まる。そんなことをしたってなんにもならないし、旅館の人に迷惑をかけるだけだ。
「許されるなんて思っていません。ただ篠さんが心配だっただけです。僕の父親のせいでお母さんを亡くして僕のせいで光井さんとも別れて。光井さんと同棲していたマンションに今も住んでいたから篠さんの所在はわかっていたし、たまに遠くから篠さんを見ていました。光井さんが亡くなったと知って、僕は……」
「なにそれ、ストーカーじゃん。気持ち悪い。そんな話聞きたくない。今すぐ出て行って。二度と私に関わらないで」
堰を切ったように言い募る片瀬を凜花は冷たく遮った。
片瀬は口を閉ざし、のろりと立ち上がる。部屋を出るとき、凜花を振り返ってなにか言いかけた。
視界から消えるのを見届けようと、まなじりを吊り上げて片瀬を凝視していた凜花と目が合った。視線が重なり合って、片瀬は口を閉ざす。
静かに扉が閉ざされ、凜花は苛々と立ち上がった。内側から鍵とチェーンを掛け、ベッドの上にどすんと座る。ふつふつ湧きあがる怒りでどうにかなりそうだ。
ついさっき自覚したばかりの淡い想いは霧散していた。
弱っているときに優しくされて容易く好意を抱くなんて、単純な自分に腹が立った。
片瀬の目的はそれで、弱みにつけ込めば自分がいずれ入信するとでも思っていたのだろうか。
だとしたら大成功だ。もし打ち明けられなかったら、自分はきっと仄かな好意を募らせていったに違いない。そこまで考えてふと疑問を抱く。
なぜ片瀬は自分の出生を隠し通さなかったのだろう。
黙っていればバレなかったことを、ご丁寧に口にした理由がわからない。
凜花は苛々と髪を掻きむしった。何ひとつ理解できないし、何も考えたくない。
自分が大切な人たちを失う原因となった男の息子と一緒に暮らして、しまいには気持ちを許してしまったと思うと吐き気がした。
なんという一日だったのか、と絶望する。
愛していた男に、自分より大切に想っていた相手がいたと知っただけでもダメージを受けたのに、それを上回るほどの告白をされた。
自宅にいたら気分転換に飲みに行くこともできたが、あいにく勝手のわからない離島だ。しかも悪天候ときている。旅館の中をうろつけば片瀬と顔を合わせる可能性がある。あの顔は絶対に見たくない。
寝よう。寝るに限る。それ以外ない。
そう思い極めて凜花は立ち上がる。気が高ぶっていて上手く眠れるか自信がないけれど、早く眠ればそのぶん早く明日が来て東京に帰れる。
ここにいる間は片瀬の姿を目にしないわけにはいかないが、東京に戻ったら二度と自分に関わらないよう通告するつもりだ。もしもそれが守られなければ通報する。
不法侵入している時点で犯罪だし、それが神成の息子となれば警察も深刻に捉えてくれるだろう。
今後の方針が決まったところで、凜花は寝るしたくと帰りじたくを始める。
十時半発の船に乗る予定だから、朝食の時間も含めて目覚ましを八時半にセットした。
帰路で片瀬と顔を合わせなければならないと思うと気が重いが、ほんの半日ほどの辛抱だ。その後は二度と会うつもりはない。
部屋のバスルームで機械的にシャワーを浴び、備え付けの寝間着に着替えて髪を乾かす。
鈴木……いや、片瀬に髪を乾かされたことがあった、と思いだし顔を顰める。
こまごまと自分のためにしてくれたことの全てを忘れたい。片瀬の存在をなかったことにしたい。
ベッドに潜り込み、凜花は目を閉じる。疲れのせいか、たちまち睡魔が訪れて意識が溶けていった。
スマートフォンのアラームで意識を取り戻しながら、雨の音すごい、と凜花はぼんやり思った。
目覚めは最悪だった。
泣きすぎたせいで頭が重苦しいし、顔はむくんでいる。瞼は腫れぼったくて、目の周りがひりひり痛む。それでも空腹を覚えるのにげんなりした。
片瀬と食堂で顔を合わせるかも、と思うと憂鬱だったが、あまり遅くなると旅館の人に迷惑を掛けてしまう。手早く身繕いをして、化粧も早々に部屋を出る。
凜花の心配は杞憂に終わった。食堂には凜花のぶんだけ食事がセットされていて、片瀬を含め、他の宿泊客の姿はもうない。
「あら。体調は良くなりましたか」
出てきた宿の女性に尋ねられ、凜花は笑みを作る。
「はい、もうすっかり。遅くなってすみません」
「大丈夫ですよ、まだ朝食の時間帯ですから。お連れ様は早く目が覚めたそうで、早々にお越しでしたけど。今、ごはんとお味噌汁をお持ちしますね」
作り笑いが強張るのを凜花は感じた。片瀬を思い出すと気分が悪くなる。
だけどそれも今日までだ。東京に帰れば二度と会わずにすむよう、色々と打つ手がある。
湯気の立つ食事を持って来た女性が、思い出したように凜花に言った。
「ああ。そういえば昨日お話しした件ですけど。フェリーが欠航になってしまいました。もう一泊されますか? お連れ様はそうされるそうですけど、お客様はどうするかわからないから確認したほうがいいと仰っていたので」
凜花は箸を取ろうとしていた手を止める。気怠さに気を取られ、迂闊にも船の運航状況のことなど失念していた。
外を見ると朝なのに薄暗く、大粒の雨が窓に打ちつけているのが見えた。
予約から何から片瀬にまかせっきりにしてしまったので、他に旅館があるのかもわからないし、あったとしても空きがあるかわからない。調べればすぐにわかることだが、移動するのも億劫だった。
「はい。お願いします」
女性は笑顔で頷くと立ち去った。一人になった途端、ずんと気が沈んだ。
少なくともあと一日は片瀬と同じ屋根の下で過ごさなければならない。ざあざあ降りの雨と景気よく吹き荒れる風が恨めしい。
することもないので朝食をゆっくり摂り、つけっぱなしになっているテレビや、窓越しの景色を眺める。今日の予定はなにもない。天気が回復して明日こそ東京に戻れるように、祈りを捧げるくらいだ。
温かいものを食べたら、少し気分が良くなってきた。
部屋に戻るとき、片瀬の部屋の前を足早に通り過ぎる。片瀬は部屋にいるのだろうか、いま何を考えているのだろうか、と思ったが、慌てて振り払う。あの男に関わるつもりは金輪際ない。
施錠した部屋で、ほっと息を吐く。それからぽすんとベッドに横たわった。
もう一泊することを余儀なくされて着替えが足りないけれど、どこに買いに行ったらいいのかわからないし、念の為に持って来た折り畳み傘だけでは心もとないので、外出する気にもなれない。部屋を出て片瀬と顔を合わせるのも絶対に厭だ。
このままごろごろして過ごそうか、と思っていると、備え付けの電話が鳴った。
何事かと取ると給仕をしてくれた女性からだった。凜花を訪ねてきた人がいるという知らせで、それはかすみだった。
急いでロビーに出て、凜花はすぐにかすみの姿を認める。華奢な身体を水滴のついた紺のレインコートに包んでいた。覗く脚はすんなり細い。かすみは生真面目な顔で凜花に会釈した。
「こんにちは。昨日はお越し頂いて、どうもありがとうございました」
この悪天候で、わざわざ訪ねてきた理由を測りかねたけれど、凜花はとりあえず笑みを作って会釈を返した。
「いえ、そんな。こちらこそありがとうございました。どうしてここが?」
凜花の問いに、かすみは微笑した。
「この島で旅館と言ったら、ここくらいしかありませんから」
そう言うと、かすみはちょっと首を傾げた。
「フェリーが欠航になって、なにかお困りじゃないかと思ったので来てみました」
凜花は少し驚いた。かすみが自分を気に掛けてくれるとは想像していなかった。
確かに替えの下着類をどこかで調達したかったけれど、土地勘も出掛ける気力もなく、昨日着ていた下着を手洗いすればいいか、と思っていた。
「そのためだけに、こんな雨のなか来てくださったんですか」
凜花の問いに、かすみはこともなげに答えた。
「ちょうど今日は日曜日で、仕事が休みだったので」
ありがたい申し出だった。凜花は好意に甘えることにした。
「すみません。できれば買い物したいと思っていました。図々しいお願いで申し訳ないんですけど、着替えの買えるお店まで連れて行っていただいてもいいですか」
かすみは頷いた。
「ええ、もちろん」
「ちょっと待っていてください。すぐに出掛けるしたくをしてきます」
凜花は急いで部屋に引き返すと、上着を羽織って折り畳み傘とバッグを手にする。
片瀬の部屋の前を通るとき、警戒して気配を窺った。部屋からは物音一つしなかった。寝直しているのかもしれない。自分には関係のないことだ、と目を逸らす。
五分ほどしてロビーに戻ると、かすみは不思議そうな顔になった。
「鈴木さんは一緒にいらっしゃらないんですか」
「ええ、まあ」
正確には鈴木ではなく片瀬だが、凜花は訂正しなかった。
上手く説明するのは至難の業だし、わざわざ話す必要もない。
曖昧に微笑む凜花にそれ以上の追及はせず、かすみは車寄せに停めた白の軽自動車へと案内した。
建物からの移動は傘を差す間もないくらいわずかで、車の中は暖められていた。
助手席に腰を落ち着けて、凜花はホッと息をついた。かすみは運転席でレインコートを器用に脱ぎ、軽くたたんで後部座席に置いた。滑らかに走り出すと、タイヤが派手な水しぶきを上げた。
「衣料品の売っている店まで、どのくらいなんですか」
悪天候にも動じない、危なげのないハンドルさばきに感心しながら凜花は尋ねた。
「ここから車で片道二十分ほどです。田舎で驚くでしょう?」
柔らかな声でかすみが応じる。初対面の印象と比べると、ずいぶん朗らかで打ち解けた雰囲気だ。
そこはかとない敵意を感じたのは気のせいだったのだろうか、と凜花は思った。
もしくは気分が優れなかったのかもしれない。
無理もない。夫を亡くして弱っているところに未知の訪問者を迎えるなんて、ストレス以外の何物でもないだろう、と申し訳なくなる。
「でも良い所ですよね。急な欠航には参りましたけど、かすみさんのおかげで島内を見ることができたし、逆によかったのかも。ちょうどいま休職中で、一日二日予定が狂っても、あんまり問題ないし」
かすみはちらっと凜花を見た。
「休職中?」
口を滑らしたことに気付いたが、もう遅い。凜花は答えを捻り出す。
「ええ。オーバーワークで体調を崩してしまって。ご覧のとおり、今はすっかり良くなったんですけどね」
嘘ではない。倒れた直接の原因は幸太郎の件だったけれど、仕事の過労も影響していると医師も言っていた。
「そうだったんですか。大変でしたね。いつまでお休みなんですか」
「あと二~三週間くらいは」
かすみは思案するように目を細め、しばらくして口を開いた。
「お疲れでなければ、これから島内の観光をしませんか」
凜花は小首を傾げた。
「これからですか」
「ええ。せっかくこんな遠くまでいらしたんだし、気分転換にどうでしょう。こんな僻地には似つかわしくないほど雰囲気のいいカフェが最近できたんです。日曜日もやっていますし、ここからそう遠くありません。天気がよければ、お勧めの観光スポットもご案内できたんですけど」
「でも、そこまでしていただくなんて」
恐縮する凜花に、かすみは口の端を上げた。
「お気になさらないでください。お買い物のついでです。もちろん気が進まないのなら、無理にとは……」
「行きたいです。かすみさんがご迷惑でなければ」
食い気味に応じる凜花に、かすみは声を立てて笑った。
「それなら、ぜひ」
笑ったかすみは華やかで、人を惹きつけるものがある。
幸太郎がこの人のもとに戻ったのは仕方のないことだ、と凜花は諦めの境地で悟った。
たとえ元々の関係性がなかったとしても、可愛げがなく意地っ張りな自分より、気遣いができて可憐なかすみを選ぶ。
この人は知らない。知らせるつもりもない。私たちには同じ男を愛したという共通点があることを。
決して欺いているわけではない。ただ黙っているだけだ。そう思いながら、凜花は車窓の外に目をやった。