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夜想島  作者: 綾稲 ふじ子
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夜想島

『夜想島は薩摩半島の西岸から三十キロメートルほど沖合に位置する人口一千名弱の島で、おもな産業は漁業と観光業です。

今でこそ過疎化の進むこの島は、かつて海上交通や貿易の要衝として栄えていました。

遣唐使船が漂着したり、異国の船が接近してくるなど、異国の文化と接する機会に恵まれていたのです。

十六世紀半ばにキリスト教の宣教師が上陸して布教した際、比較的すんなり受け入れられたのは、それも一因だったと考えられます。島民たちは進んで洗礼を受け、キリシタンとなりました。

自然環境の厳しい離島で、様々な労苦に傷めつけられていたのも大きかったのかもしれません。

立地的に冬は比較的温暖ですが、夏の終わりから秋に掛けて台風に見舞われることが多く、痩せた土地で細々と農業や漁業と営んでいた島民たちは、そのたびに大きな打撃を被ってきました。救いを求めるのは人として当然の心理だったのでしょう。

 それまではただ小島と呼ばれていたこの島は、やがて耶蘇の住む島、耶蘇島と呼ばれるようになりました。

江戸幕府によってキリスト教の禁教令が発令されてからは、夜想島と表記されるようになりました。

禁教令が解かれるまでの二百六十年間、キリシタンは時の権力者の弾圧に苦しめられました。

厳しい責めに耐えかねて仏教に改宗する者、キリスト教の教えに殉じて命を落とす者のほか、表向きは仏教に改宗し、密かにキリスト教の信仰を守り続ける者もいました。俗に言う潜伏キリシタンです。

夜想島の島民もそうでした。年に一度役人の前で踏み絵を踏み、仏教徒としての義務を果たしつつも、キリスト教の教えを守り続けました。

そして他の地域とは殆ど交流のない集落で、キリスト教の教義に仏教や民間信仰と結びついた新たな宗教を生み出したのです。信教の自由が認められたあとも正式のカトリックに改宗することなく、独自の信仰を継承してきました。

秘められた信仰は、鹿児島司教区の教会で発見された外国人宣教師の書簡によって明らかになりました。

今現在も島民のほとんどはその信仰を守り続けていますが、外部につまびらかにすることはなく、その全容は謎に包まれています』


 東京駅で購入して何度も読み返した、九州の離島が幾つか載っているガイドブックから目を離すと、凛花は滑らかに進むフェリーの窓越しに外を眺めた。

夜想島はまだその姿を現さない。水平線の上に何隻かの船がうっすらと見えた。

日は傾きかけ、冬晴れしていた空はゆっくりその色を濃くしている。

 いつの間に、こんなに日が短くなったのかと驚く。幸太郎のニュースを見てから、ちょうど十日経った。ほんの短い期間なのに、なにもかもが変わってしまったような気がする。

「あとどのくらいで着くんだっけ」

 振り向いて尋ねると、鈴木は船内に設置された大型テレビから目を離して凜花を見た。

「十九時ちょうどに到着予定ですから、一時間半後くらいには」

最大四百名の旅客と何台ものトラックや乗用車を同時に乗せられる規模のフェリーは、シーズンオフの平日ということもあってか、人の姿はまばらだ。

聞こえるともなく耳に入る会話の断片やイントネーションから、他の乗客のほとんどは島に住んでいる人だとわかる。

鈴木は凛花の真後ろに陣取っていた。隣席には二人とも荷物を置いている。二泊三日なのでそれほど多くはない。凜花は大きめの旅行鞄と小ぶりのショルダーバッグに加えて、手土産に買った幸太郎が好きだった煎餅の詰め合わせの入った紙袋、鈴木はバックパックのみだ。

せっかく空いてるんだから、こんな近くに座らなくてもいいのに、と凛花は思ったが、取り立てて口にするほどのことではないので何も言わなかった。

「移動に丸一日かかっちゃうんだね。だから幸太郎はあんまり帰省しなかったのかな」

 いなくなってしまった人を想っても、以前ほどの痛みは感じない。胸の奥がぎゅっと詰まって息苦しくなるし、埋められない喪失感は確かにあるけれど、息ができなくなるほどの悲しみは少しずつ薄まりつつある。

それには鈴木の存在も無関係ではないのかもしれない。

当人は自己満足だから感謝なんかしなくていいと言っているけれど、ずっとそばにいて、なにくれとなく世話を焼き、旅の手配までしてくれた。

フェリーに乗る前もさっさと二名分の乗船名簿を記入して、乗船券を購入してくれた。どうしてここまでしてくれるのか不可解だった。

 幸太郎に恩があるとは言っていたけれど、幸太郎は鈴木に何をしたのだろう。

「ねえ。鈴木さんと幸太郎って、実際のところはどういう関係だったの」

 鈴木はテレビへと視線を戻す。

「友人関係です」

 凛花は鈴木を凝視した。

「本当にそれだけ? もしかしたら、なんか特別な関係だったんじゃないの」

鈴木は再び凜花を見た。

「特別な関係ってなんですか。まさか肉体関係があったとでも疑ってるんですか」

「……あったの?」

 恐る恐る問い返す凛花に、鈴木はため息を吐く。

「あるわけないでしょう、そんなもの。どうして今さらそんなことを」

「だって不思議なんだもん。いくら恩を感じていたからって、ただの友達が昔同棲してた相手の面倒をここまでみるなんて不自然だし」

「光井さんと僕に肉体関係があると考えるほうが、よっぽど不自然じゃないですか」

 もっともな意見ではあるけれど、やっぱり納得がいかない。凛花は身を乗り出した。

「じゃあなんで」

 こうやって踏み込んだ話をするのは珍しい。一週間以上一緒にいたのに、交わした会話はそう多くないし、新幹線ではガイドブックを読んだり眠ったりしていた。そのせいで今は頭がすっきり冴えている。

「傍から見れば篠さんのほうがよっぽど不思議なんじゃないですか。別れて何年も経った男性のことで、あんなにまでも落ち込むなんて」

 いつものごとくはぐらかされているのは承知の上で、凛花は本心を吐露する。

「正直に言うと、自分でも意外だった。確かに幸太郎は私にとって特別な人だったけど、関係はとっくに終わってたし。たぶん、終わりかたがあんまりよくなかったせいかもね」

「終わりかた?」

凛花は躊躇った。鈴木がなにをどこまで知っているのかはわからない。自分の傷に触れない言葉を選別する。

「価値観の相違が原因で別れたんだけど、私はあまりに腹を立てていたから、幸太郎とまともに話し合うことを最後まで避けたの。ニュースを見て、もう二度と会えないって思ったとき、信じられないくらい後悔した。心の奥底ではずっと執着して、依存してたことを思い知らされた。おかしいよね。幸太郎はとっくに他の人と結婚してたのに」

 引きこもっていた間、ずっと自分の気持ちを分析し続けて辿り着いた結論だった。

 山辺の言っていたとおり、気付かぬうちに溜めこんでいた感情が幸太郎の死をきっかけに吹き出して制御できなくなってしまった。それであんな廃人のような状態になってしまったのだろう。こうしている今もなお、喪失感と虚しさは胸に留まっている。

 張りつめていたものが一気にほどけて、どうやったら元の自分に戻れるのかわからない。

「光井さんを今でも好きですか」

 静かに尋ねられて、凛花はしばらく考えた。

「わからない。許せない気持ちと楽しかった頃の記憶がぐちゃぐちゃで」

 明日の昼、幸太郎の妻だった人と会う。自分はどういう気持ちになるのだろう。それもわからない。

 わかっているのはただ一つ、幸太郎とわかりあう機会が永遠に失われたことだけだった。


 夜想島には定刻通りの十九時に着岸した。とっぷり日は落ちて、あたりは暗闇に包まれている。港から旅館までは事前に送迎バスを頼んでいた。辺りを見回してすぐにバスを見つけた。

運転手は五十がらみの気さくな男で、島訛りのある言葉で出迎えてくれた。他に乗客はない。連休でもなんでもない時期外れの平日に、さほどメジャーでない島を訪れる人間はそう多くはないのだろう。宿泊客は自分たちだけなのかも、と凛花は少し心配になる。

「観光かい?」

 運転手に尋ねられ、凛花はなんと答えればいいかと口ごもる。先に口を開いたのは鈴木だった。

「知り合いが亡くなったので、お悔やみを言いに」

 運転手は驚いたように目を見開き、バックミラー越しに二人を見た。

「ああ、あんたらが幸ちゃんの……」

 知人であることを思いがけず言い当てられ、凛花はまばたきした。

「幸ちゃんって、光井幸太郎さんのことですか」

 念のため問い返すと運転手は頷いた。

「まだ若かったのになあ。誠治さんも気落ちしてた。せっかく帰ってきたのにって。ああ、誠治さんっていうのは幸ちゃんの父親だ」

「幸太郎さんのご家族をご存じなんですか」

「この島の住民は、みんな顔見知りみたいなもんだし、古くから島に住んでて光井さんを知らん者はない。旅館に寄ってから光井さんの家に行くんかい?」

「いえ。明日の昼ごろ、幸太郎さんのご実家にお伺いすることになっています」

「そっか。そんなら俺が家まで送っていこう」

気軽に応じる運転手に凛花は戸惑った。

「え、でも運転手さん、お仕事があるんじゃ」

「仕事の合間にほんのちょっと抜けるくらい大丈夫だ。その時間なら送迎もないし。ほら、着いたぞ」

 到着したのはそう大きくはないけれど、きちんとした観光旅館だった。駐車場に何台か車が止まっている。他にも客がいるようだ、と凛花はなんとなくホッとする。

 バスを降りた途端に冷たく澄んだ風が吹き付けた。

旅館の周辺はほとんど灯りが見当たらない。見上げると信じられないほど多くの星が瞬いていた。

鈴木が手早くチェックインを済ませ、各々部屋に荷物を置いたあと、二人は夕飯を食べに行った。

 食堂では初老の夫婦や、退職者と思しき男性のグループの二組が楽しげに酒食に興じていた。休日だとまた少し違うのかもしれないが、若い人の姿は見当たらない。

 案内された席にはあらかた料理が並べられ、間もなく刺身や汁物などが運ばれてきた。新鮮な海の幸を中心としたメニューは目にも舌にも美味で、凛花は普通に観光旅行に来たような気分になってしまった。

 向かい合って無言で食事をとる自分たちは、他人の目にはどう見えるのだろう、と凛花は考えた。倦怠期のカップルとでも映るのかもしれない。

 そういえば幸太郎とゆっくり旅行をしたことはなかったな、と思い出す。

自分が学生のときはなかなか予定が合わなかったし、お互い社会人になってからは仕事に追われて、日帰りの旅がせいぜいだった。

どんな慌ただしい旅でも、とても楽しかった。旅行だけではなく、幸太郎と一緒にいた日々はいつもそうだった。幸太郎を許せていたら、今もそれは続いていたのだろうか。

 幸太郎は自分と別れた後、他の人を妻に迎えた。どういう女性なんだろう、と思った。

そして結婚を決める過程で、幸太郎は自分のことを少しも思い出さなかったのだろうか、とも。

「ねえ。幸太郎の奥さんについてなにか知ってる?」

 焼き魚の骨を丁寧に外していた鈴木は、指先をお手ふきで拭いながら口を開く。

「かすみさんという人で、幼馴染みだったとは聞いてますけど。詳しいことはなにも」

「そっか、かすみさんって言うんだ」

 初めて聞く話だった。もしかしたら生まれ故郷の島に戻ってきたのは彼女のためだったのかもしれない。そんな想像に凛花は胸を締め付けられる。

 自分にとって幸太郎は良くも悪くも忘れ難い存在だけど、きっと幸太郎にしてみれば、自分は取るに足りない存在だったのだ。

「気になりますか、奥さんのことが」

 刺身の盛り合わせに手を伸ばし、海老のしっぽを取りながら凛花はぼそぼそ応える。

「それもあるけど。私、幸太郎をあんまり知らなかったんだなって思って。ほんの三年くらい一緒に暮らしてただけの赤の他人だし、幸太郎は自分のこと話したがらなかったし。それなのに実家にまで押しかけてもいいのかなって、ちょっと考えちゃった」

「光井さんは篠さんを大切に思っていましたよ。本当に」

 凛花は海老を手にしたまま、鈴木を見つめた。視線に促されるように、鈴木は言葉を続ける。

「別れた原因は光井さんから聞いています。自分がそばにいることで篠さんを傷つけるなら、一緒にいないほうがいい。そう思って離れたって言っていました」

 鈴木がこんなに踏み込んだ話をするのは珍しい。旅先の空気に、多少は口が軽くなっているのだろうか。話に引き込まれながらも凛花は驚いていた。

「なにそれ、意味がわからない。どういうこと」

 鈴木はお手ふきを置き、考えをまとめるように視線を落とした。それから凛花を見た。

「光井さんは自らの信念に基づいて、篠さんの母親が亡くなった事件に関連した記事を書いたそうです。考えを曲げることはできなかったけど、篠さんの気持ちは痛いほど理解できた。結果的に篠さんを傷つけて、その溝を埋められなかったのは今でも後悔している。そう言っていました」

「……それが幸太郎が私に残した伝言?」

「いいえ、違います」

「伝言はまだ教えてもらえないの」

「ええ。食べないんですか」

 指摘され、凛花は海老を口に運ぶ。濃厚な甘みが口中に広がって溶けた。

「幸太郎はどうしてそんなにあの記事にこだわったんだろう。あれを書くことが私よりも大事だったのかな」

 鈴木は箸を取り、無言で食事を再開する。イレギュラーなお喋りモードはもう終わったらしい。

食事を終え、部屋に戻って一人になると、凛花はベッドの上に寝転がった。十日近く引きこもっていたせいもあってか、旅の疲れがどっと出てきた。

 このまま目を閉じていたら眠ってしまう。凛花はなんとか起き上り、服を脱ぎ始めた。大浴場まで行く気力はさすがにない。部屋に備え付けのバスルームで久しぶりに薄く施した化粧を落とし、シャワーを浴びる。

ふと、鈴木と初めて会った日のことを思い出した。

いきなり服を剥かれて強制的に入浴させられるというワケのわからない出会いだったが、もしも鈴木がいなかったら、自分はここに来ようなんて思わなかっただろう。人生というものは先が読めない。

読めないのは鈴木もだ。どういうつもりであれこれ世話を焼くのか、なにを考えているのか、いまだにわからない。最初は迷惑な侵入者でしかなかったのに、いつしかその存在に慣れて、心の内を打ち明ける相手になってしまった。

幸太郎からの伝言を伝えたら鈴木はどうするのだろう、と凛花は思った。出て行ってほしかったはずが、いつしか傍にいるのが当たり前になってしまった。

いなくなったら平穏を取り戻すのだろうか。それとも寂しさを覚えるのだろうか。

髪を乾かしながら、考えるともなくそんなことを考えた。


 翌朝、鈴木と食堂で食事を摂ったあと、凛花は一人で旅館の付近を散策した。

鈴木はバスの運転手が指定した十一時半まで休むと言って部屋に戻った。

到着したときは暗くてわからなかったが、旅館は高台に建っていて、部屋や食堂だけでなく、庭からも海が臨めた。

この海を見ながら幸太郎は育ったのか、と考えながら、凛花は黒いダウンコートのポケットに手を突っ込み、あてもなく歩き出した。

葬儀に参列するわけではないから正式な喪服は持ってこなかったけれど、今日の装いはダウンコートに加えて黒のニットとカジュアルすぎない黒いスカート、黒タイツにブーツだ。いつでも黒づくめの鈴木と一緒にいるとペアルックになってしまいそうだった。

晴天だった昨日とは打って変わって、太陽は厚い雲に覆われている。東京よりは暖かいけれど、身を竦めるほど風が吹き付け、髪を乱して体温を奪っていく。

旅館の出入り口をしばらく行くと見晴らしの良い公園に出た。片隅にひっそりと宣教師上陸地と刻まれた古い石碑がある。裏面には十七世紀の初頭、海外から布教に訪れた神父や修道士を偲んで建てたものだと刻まれていた。

凜花は石碑から目を逸らして歩き始める。

信仰のために命を賭して、こんな遠い島まで訪れた宣教師が理解できない。

宣教師のみならず、信仰に従って生きている人間に対しても同じ感想を持ってしまう。

新興宗教のみならず、多くの宗教は現生利益より死後の世界での幸福を重視する傾向にある。

死んだ後どうなるかなんて知るすべもないのに、なぜそんな不確かなものを信じられるのか、それよりも現生で幸せになる努力をどうしてしないのかが不可解だった。

防風林に囲まれた道沿いを進むと、やがて海岸に出た。凛花にとって海は身近なものではない。惹きつけられ、砂に足を取られながら波打ち際を目指す。

水際に立った凛花は、寒々しい景色に身震いした。

この島で幸太郎の魂は漂っているのだろうか。

凍てついた海を眺めながらそんなことを考えて哀しくなる。一切の関わりを断ってしまったけれど、かつては愛し合っていた人だ。

「篠さん」

 どれほど立ちすくんでいたのか、聞き慣れた声に凛花は振り返った。

 黒いダウンジャケットを着た鈴木が小走りに近寄ってくるのをぼんやり見つめる。

鈴木は凜花の二の腕を掴んで抱き寄せた。タックルしてくるラグビー選手のような勢いで、凛花は一瞬息ができなくなった。

「ちょっ、痛い! 何? いきなり何するの。離して!」

 色気もへったくれもない抱擁に凛花はもがく。鈴木は力を緩めることなく視線を落とした。荒い呼吸と感情を静めるように、黙って凜花を見つめている。額に玉のような汗が浮かんでいるのを凛花は認めた。

「……篠さんこそ、何をしようとしてたんですか」

 咎める語調に、凛花は鈴木の腕の中できょとんとする。

「何って、ただ海を見ていただけだけど」

 答えながら、ふと閃く。

「まさか入水自殺でもするとでも思った?」

 鈴木は凛花の身体から手をほどくと、二の腕を掴んで歩き出す。鈴木の手が微かに震えているのを、服越しに感じた。

「そんなことしないから。変な勘繰りやめてよ」

 口を真一文字に引き結んで足早に進む鈴木に腕を引かれるまま、凛花は歩く。ふと疑問が湧いた。

「なんで私のいる場所がわかったの」

「……旅館の窓から、篠さんが見えたから」

「それで慌ててここに来たの。私が死ぬんじゃないかって」

 鈴木はなにも答えない。旅館に戻るまでは、どちらも口を開かなかった。宿泊しているフロアに着くと、鈴木は当然のように自室に凛花を連れ込んだ。

「私の部屋、隣なんだけど」

 抗議には耳を貸さず、鈴木は凛花をベッドまで引っ張っていって座らせた。

当然連想される次の行動に、凛花は身を強張らせた。

ひとつ屋根の下で生活してきた十日余りで、鈴木が手を出そうとしてきたことは一度もなかった。それは油断を招くためだったのか、と凛花は歯噛みする。

鈴木はベッドから上掛けを剥ぐと、凛花に巻きつけて、背後から抱き締めた。

「……何してるの」

「くちびるが蒼いので」

 言われて初めて鈴木が自分を温めようとしていることに気が付いた。

「寒いところにいて冷えただけ。大袈裟なことしないで」

 きちんと口紅を塗っておけばよかった、と悔やんでも手遅れだ。体温も声も身体に直接触れて決まりが悪いけれど、振りほどこうにも力の差は歴然としている。

凛花は抵抗を諦めた。きっとしばらくすれば解放されるだろうし、強制的に脱がされてバスタブに放り込まれるより遙かにマシだ。

 達観するようにそう考えてから、もしもいま同じことをされたら、と思った。

 慌てて首を振る。ベッドの上で抱きしめられているときに考えるべきことではない。

「まだ寒いですか」

 震えと勘違いしたのか、鈴木が尋ねた。

「違う。本当に大丈夫だから、もう離して」

 鈴木は少し力を緩めると、凛花の顎をそっと掴んで振り向かせ、くちびるをまじまじと眺めた。直に触れる感触とあまりに近い距離に、凛花は頬に血が上るのを感じた。

「顔が赤いですけど、熱でも」

「そうじゃなくて。こんな至近距離に男性がいたら落ち着かない」

 抗議しながら、あらためて鈴木を男として認識する。

初めて気が付いた、と言わんばかりに、鈴木は凛花から手を離してベッドから降りた。

「すみません。気が動転していました」

 ようやく身動き取れるようになった凛花は、布団を剥がしながら首を傾げる。

「なんで鈴木さんが動転する必要があるの」

 鈴木は答えず、測るように凛花を見ている。いつも通りの無表情だが、わずかに耳が赤い。外が寒かったからかな、と思ったあと、ふいに他の可能性に辿りついた。

「ねえ。もしかしたら私が好きなの」

 尋ねたあと、急に恥ずかしくなる。自意識過剰な女と嗤われても仕方ない。

 鈴木は嗤わなかった。怖いくらい真剣な顔で凛花を凝視し、それから答えた。

「僕には篠さんを好きになる資格なんてありません」

「資格? なにそれ」

 ぽかんとする凛花から顔を背け、鈴木は備え付けの瞬間湯沸かし器に水を入れに洗面所へ向かった。

「温かいお茶を淹れます。それを飲んだらロビーに行きましょう。そろそろ送ってもらう時間です」

 結局、私のことはどう思ってるんだろう。釈然としないけれど、それ以上追及する気にはなれず、凛花は生返事をした。


 運転手は約束の時間にロビーに現れた。車寄せには軽の自家用車が止まっている。運転手のものなのだろう、車内は微かに煙草の匂いがする。凛花と鈴木は礼を述べ、言われるままに後部座席に並んで座った。

空間を空けて座ってもなんとなく気まずくて、凛花は車窓の外に目をやり鈴木の存在を意識しないようにした。鈴木は常の無口さを発揮して何も言わない。

「それにしてもこんな遠くまで、よく来たなあ」

 車を出してしばらくすると運転手が言った。

「幸太郎さんと同僚だったので。職場のみんなもショックを受けています」

 嘘ではないけど正しくもない説明に胸が疼く。かつて同棲していたと答えれば色々詮索されるだろうし、よく知らない人に喧伝する必要はない。

なにより幸太郎は結婚していた。余計な情報は口にしないほうが賢明だ。

「そおかぁ。あれだろ、東京の出版社だっけ。お姉さんすごいね」

 正確には編集プロダクションだけど、わざわざ訂正することもないか、と凛花は黙って微笑んだ。

「幸ちゃんもすごいけどな。長男のくせに島を捨てたって激怒してた誠治さんも、東京の出版社に勤めたから結局は諦めてたよ。本心から許したわけじゃなかったんだろうけど」

 東京で生まれ育ち、母親以外の親族とはあまり接点なく生きてきた凛花には、家を継ぐというのがどういうことか、感覚として理解できない。

「ここの人たちはみんな、家を継ぐために島に残るんですか」

 凛花の問いに、運転手は前方から視線を外すことなく器用に首を振る。

「残る者もいるけど、おおかたは中学卒業と同時に島立ちして、外の高校に行って就職先を探すねぇ。ここには高校もないし、島での仕事は限られてるからな。だけど光井さんみたいに立派な家だとそうもいかんだろう。血筋を絶やすわけにはいかんしなあ」

 ますます理解できない話になってきた。幸太郎の実家が立派だというのも初耳だ。

「もしかしたら幸太郎さんは、世が世なら殿さまだったとか……?」

 恐る恐る尋ねると、運転手は呵々と笑った。

「この島には殿さまなんかいねえよ。ただ、なんて言うんかなあ、昔この島のお庄屋さんだった家柄で、今も自治会長と消防団長をしたりしててねえ。みんな一目置いてるんだ」

 つまり島で一番の名家なのだろう、と凛花は解釈する。

「あの子はいい子だったよ。活発で頭がよくて、気性も真っ直ぐで。なのに人懐っこいところがあってなあ。だから幸ちゃんが跡を継がずに東京に残るって言ったとき、みんな驚いたし、がっかりもした。まあ、恭ちゃんが継いでくれたから良かったんだけどな」

「恭ちゃんって、幸太郎さんの弟さんですか」

 実家の話をあまりしなかった幸太郎が唯一話してくれたことを思い出し、凛花は尋ねた。

「そうそう。幸ちゃんと違って物静かな子だよ。小っちゃい頃から本をよく読んでたから物知りで、今は島の郷土資料館の館長さんだ」

 話をしつつも、運転手は曲がりくねった山道を確かな運転ぶりでぐんぐん登っていく。

 下を向くと酔いそうなので、凛花は車窓の外を眺めていた。雑然と生い茂る木々や竹藪に覆われた斜面の合間に、ときたま海が見えた。

 やがてこじんまりとした家の立ち並ぶ集落へと出た。昼日中なのに人の気配はあまりない。旅館の周辺では島民らしき人の姿や行き交う車があって、それなりに活気があったのに、と凛花は思った。

 もっとも、立地条件が全然違う。港近くの海岸と、車で三十分ほど山道を行かなければ辿りつけない森に包まれた集落とでは、住人の数に差が出るのは当たり前だ。

秘境という単語が凛花の脳裏をよぎった。この辺に住んでいる人はどこで買い物をするんだろう、と要らぬ心配をしてしまう。

 集落の中心地と思しき開けた場所に、このひっそりとした集落に不釣り合いなほど大きな寺があった。車はその前で止まった。

「え? 幸太郎さんのご実家ってお寺だったんですか」

「いんや。光井さんちの本家はこの寺の隣だ」

 凜花の問いに扉を開けながら運転手が答えた。凛花と鈴木も扉を開けて外に出た。緑が香って、清浄な空気に包みこまれる。凛花は深呼吸をした。

 運転手が先に立ち、勝手知ったる様子で高い石垣に覆われた立派な門構えの家へと入っていく。二人はあとをついていった。門をくぐってすぐ平屋の家屋を見い出した。門構えに見合った造りで、広々とした外観だ。庭木はどれも形よく整えられて美しい。

「おーい、清恵さーん。幸ちゃんの友達を連れて来たぞぉ」

 呼び鈴を押すことなく、運転手は引き戸の玄関を開けた。あまりのフランクさに凛花はちょっとしたカルチャーショックを受ける。

 まもなくしてエプロン姿の女性が出てきた。六十代半ばくらいだろうか、控えめに化粧をした品の良い顔立ちはどことなく幸太郎に似ている。凛花は瞬時にそう思う。穏やかな微笑の似合いそうな顔には憔悴の色が浮かんでいたが、運転手の姿をみとめると、かすかに笑みを浮かべた。

「まあまあ、昭三さん。ありがとうございます」

 運転手は首を振る。

「大したことじゃない。この時間はそれほど仕事もないからな。もう行かなきゃいけないんで、帰りは送れないけど……」

「大丈夫です、恭二郎が送っていきますから」

「そんなら良かった。じゃあ、誠治さんによろしく」

 清恵の答えに運転手は眉を開き、凜花と鈴木をかえりみた。

「そんなわけなんで、これで」

凛花は慌ててお辞儀をする。

「すみません、送っていただいて助かりました。ありがとうございました」

運転手が立ち去って三人になると、清恵は凜花と鈴木に深々と頭を下げた。

「遠いところをどうも有り難うございます。幸太郎の母でございます」

 凛花も頭を下げ、用意してきた言葉を口にする。

「突然にお邪魔して申し訳ありません。篠と申します。このたびは急なことで、大変ご愁傷様でした」

「鈴木と申します。光井さんにはお世話になりました」

 鈴木の挨拶を聞きながら凛花が頭を上げると、ちょうど奥から若い女性が出てくるところだった。目のぱっちりした、可愛らしい印象の人だった。もともと色白なのだろうが、透き通るほど青白い顔をしている。地味な紺のワンピース姿に包まれた身体は、ぽきりと折れてしまいそうに細かった。

「光井の妻です。お越し頂いて、主人も喜んでいると思います」

 淡々と言って一礼すると、凛花を直視する。

「篠と申します。この度は、大変ご愁傷様でした」

視線をかわすように頭を下げながら、凜花はお悔やみを述べる。

この人がかすみさん、と思った。

幸太郎の妻がどういう人なのか、ずっと気になっていた。実際に目の当たりにすると、想像していた以上に胸がざわめいた。

かすみの目は奇妙に平坦で表情がない。もしかしたら自分がかつて幸太郎と暮らしていたのを知っていて、わざわざ昔の女が押しかけて来たと不快に感じているのかもしれない。

やはり来るべきではなかったかと、今さらながらに凜花は心配になった。

「どうぞお上がりください」

 清恵に促されて家に上がる。案内されたのは年季の入った仏壇が鎮座する奥まった和室だった。仏壇を背に、座卓の上座で胡坐をかいている男性は、恰幅も肌の色つやも良い。脂ぎったところは一切なく、そこはかとない育ちの良さが滲み出ている。

この家の家長、つまり幸太郎の父親なのだろう、と凜花は推測する。

用意されていた席は出入り口から近い向きの、男性に接する位置だった。

凜花は上座を鈴木に譲り、隣に置かれた座布団に腰を沈める。かすみは凜花の隣の、出入り口から一番近い末席に座った。

鈴木の正面の席は空席で、凜花の正面には銀縁の眼鏡をかけた青年が端座していた。

グレイのVネックカーディガンの下に着た白いシャツは、アイロンがぱりっとかかって清潔感がある。

青年の隣はふっくらした柔らかい雰囲気の女性だった。耳下できれいに切り揃えられたボブヘアーや、さりげなく身に着けている茄子紺のワンピースから洗練された印象を受けた。胸には薄いピンクのカバーオールを着た赤子を抱いている。身近に小さな子どもがいないので正確な年頃はよくわからないが、おそらく一歳くらいだろう、と凜花は見てとった。赤子は大人しく母の胸に抱かれている。

清恵が湯気の立つ湯呑みを凜花と鈴木の前に置いて鈴木の正面の席に座ると、上座の男性が口を開いた、

「こんな片田舎までよくお越しくださいました。幸太郎の父です。こちらは次男の恭二郎と嫁の美春、それから孫の百合です」

 風采の良い紳士の慇懃な挨拶に、凛花は恐縮した。撫でつけられた豊かな銀髪の下の顔は、やはり幸太郎との血の繋がりを感じさせる。

恭二郎もそうだ。掛けている眼鏡のせいか、一見すると幸太郎とあまり似ていないように感じるけれど、顔の輪郭や醸し出す雰囲気が同じだった。

どちらかというと幸太郎は誠治似で、恭二郎は清恵似だ。三度目になる挨拶を口にしながら、凜花は頭の隅でそう考える。用意してきた香典と手みやげを手渡すと、誠治が静かに言った。

「どうか幸太郎に線香をあげてやってください」

 凜花と鈴木は立ち上がって仏壇へと進む。遺影に選ばれたのは最近のもののようで、海を背景に満面の笑みを浮かべる写真だった。記憶にあるより日に焼けて、少し皺が増えたその顔は愉しげに見えた。きっとここに戻ってきてから、幸せな日々を過ごしていたのだろう。

それなのに、本当に亡くなっちゃったんだ。そう思うと胸に迫りくるものがあり、凜花は仏壇の前に立ちすくんだ。

横に立った鈴木が先に線香に手を伸ばし、灯されたロウソクから火を取って線香立てに挿した。手を合わせて何ごとか祈っている姿は真摯だった。

「篠さんも、どうぞ」

 凜花はようやく線香を手に取った。遺影を眺めながら線香を供え、手を合わせる。

 目を閉じても幸太郎の顔が浮かんで涙が出そうになる。

 私はどうしてもあの記事が許せなかった。今もそれは変わらない。

 だけど幸太郎が死んだってニュースを見たとき、自分でも驚くくらいショックだった。

 忘れたと思ってた過去に一瞬で引き戻された。

 どうして死んじゃったの? 本当にもう二度と会えなくなっちゃったの?

 幸太郎は私のことどう思ってた? 鈴木さんにどんな伝言を残したの?

 次から次へと湧きあがってくる想いと問いに足を取られて身動きできない。

「篠さん」

 鈴木から短く声を掛けられ、ようやく目を開けられた。横目に映る鈴木の案じ顔に頷きかけて、凜花は席に戻る。

「幸太郎と親しくされていたんですか」

 誠治の問いに、凜花はさっきと同じ答えを返す。

「はい。幸太郎さんの元同僚だったので」

 誠治はなにか言おうとして、思い直したように言葉を切る。数秒の間の後に、再び口を開いた。

「ということは、出版社にお勤めですか」

「正確には編集プロダクションですが。仕事内容としてはだいたい同じです」

「幸太郎が退職してから何年も経っているのに、わざわざお越し頂くとは」

 訝しむ気持ちはわかるが、妻が同席しているこの場で幸太郎と同棲関係にあったなんて言えるわけがないし、言うつもりもない。

「退職されたあとも弊社の雑誌に寄稿されていましたから。編集長の山辺も、この度のこと、大変哀しんでおりました」

 凛花は滑らかに答えた。嘘ではない。直接やり取りしていたのは山辺だったが、凛花が携わっている雑誌に短いコラムなどを載せていた。

「そうでしたか、私はあまり目を通していなかったもので。幸太郎は面倒をおかけしていなかったですか」

「いえ、そんな。幸太郎さんの文章、私は好きでした」

 別れる原因になった記事以外は、と凜花は心の中で付け足した。

幸太郎は時事ネタをおもとした記事を書いていたが、人柄を表すおおらかな視点の文章は読者からの評判も良かった。

「鈴木さんも同じところにお勤めですか」

 誠治の追及先が変わって、凜花は密かに胸を撫で下ろした。

「いえ、僕はただの友人です。光井さんには良くして頂きました」

「失礼ですが、篠さんと鈴木さんは……」

 濁された語尾の先に、二人の関係を推し量っているのを感じる。お茶に手を伸ばそうとしていた凜花は固まった。

矛先が二人の関係にまで及ぶとは思わなかったが、よく考えたら当然の疑問だった。

こんな離島まで連れ立って来るなんて、何かある仲だと勘ぐられても仕方がない。

 否定しようとして、はたと気付く。鈴木と付き合っていることにすれば幸太郎との関係を疑われなくてすむのではないだろうか。

「ええ。一緒に暮らしているんです」

 鈴木が口を開く前に、凜花は素早く答えた。横目で鈴木を窺うと、目が合った。大きく見開かれた目は珍しく感情丸出しで、驚きが張り付いている。凜花はせいぜい可愛らしく小首を傾げてみせた。鈴木はなにか言いかけてやめた。

「それはいい。お二人にはこれから先、輝かしい未来がある」

 誠治の口調は寂しげで、凜花は胸を突かれた。長男を亡くしたばかりの父親を前にして口にすべきではなかったか、と反省する。

 微妙な沈黙がその場に漂う。破ったのは清恵だった。

「簡単なものをご用意したので、お口汚しでしょうが召し上がっていってください」

 柔らかくそう言うと、すっと立ち上がる。美春とかすみもそれに従った。間もなく出てきたのは散らし寿司や煮物など、心尽くしのものだった。お清めにと酒も用意されていたので、一杯だけ相伴にあずかる。恭二郎と美春は口にしなかった。美春が第二子を身籠っていると、そのとき知らされた。

 美春は神奈川出身の二十八歳で離島巡りが趣味だった。四年前に夜想島を訪れて資料館で恭二郎と出会い、そこから一年間の遠距離恋愛を経て結婚した。

結婚後は跡取りの恭二郎ととここで暮らしていると、百合に離乳食を与えながら言った。

「実家からこんなに離れたところに住むなんて想像していませんでしたけど、きっと運命だったんでしょう。出会ったのも、結ばれたのも」

 隣席の恭二郎が微かに笑んだ。妻と子に当てる目線は優しい。腹がくちたのか、百合が満足げな笑い声をあげる。幸太郎の死によって設けられた席が、ほんのりと和やかな空気になった。

「子どもは良いものです。いるだけで空気が明るむ」

 誠治の感想に、恭二郎の笑みは濃くなる。

「春にはもっと明るくなりますよ。騒々しくもなりますが」

「そうだな」

 静かに箸を置く音で、父子の会話が止まった。かすみだった。

「申し訳ありません。少し頭痛がするので、中座させていただいてもいいですか」

 そう言うと立ち上がって、自らの食器を手にして下がろうとする。かすみの食が進んでいないことに隣席の凜花は気付いていた。夫を亡くしたばかりのかすみに、この空気は耐え難かったのだろうか、と案じる。

「家まで送っていきましょうか」

 恭二郎の申し出に、かすみは首を振った。

「大丈夫、一人で帰れます」

「ねえ、かすみさん。あなたさえ良ければ、ここに住まない? 一人ではなにかと心細いでしょうし、部屋ならあるわ」

 気遣う清恵に、かすみは口の端をわずかに上げる。

「いいえ、結構です。どうかそんなお心遣いをなさらないでください」

 そう言うと、ぽつりと言葉を継ぎ足す。

「私が幸太郎さんを殺したんですから」

 凜花は耳を疑った。この人は一体何を言っているのかと、かすみを見上げる。目が合った。表情のない顔の中で、瞳は昏い光を湛えていた。

かすみは挑むように目を逸らさない。敵意を感じた気がして凜花は自問する。私はこの人に対して何かしただろうか。何も思いつかない。顔を合わせてからのこの短時間で挨拶以外の会話はないし、余計なことを言った覚えもない。

それとも、やはり幸太郎と自分の関係を知っているのだろうか。

「かすみさん、あんたまたそんなことを。あれは事故だったろう」

 誠治の声に、凜花は視線を動かした。誠治は困惑した顔で凜花に言った。

「驚かせて申し訳ない。この島には古い言い伝えがあって、かすみさんはそのことで自分を責めているんです。幸太郎は事故でした」

 かすみは誠治に顔を向けた。どういう表情を浮かべているのか、凜花の位置から窺い知ることはできない。誠治はかすみに頓着せず言葉を連ねた。

「ここは平和な島で、物騒な事件が起きた事など一度もありません。駐在さんもすることがなくて、毎日釣りをしてるくらいですから」

 殺人の告白でなかったかと凜花は安堵した。たしかに、のどかなこの島に物騒な事件など似つかわしくない。

言い伝えがどういうものかはわからないが、愛しい者に先立たれたあと、残された者が自らを責めるのは理解できる。

自分もそうだった。悔いたところで母が生き返るわけではないのに、自責の念を止めることができなかった。

仕事を辞めるようにもっと強く言っていれば、母はまだ生きていたかもしれない。今でもそんな風に考えることがある。

「そうでしたか。どんな言い伝えがあるんですか」

 凜花の問いに、誠治は笑んだ。

「なに。外の人間からしたら、つまらんことですよ」

 かすみは音を立てずに部屋を出て行く。ゆらりと歩くその姿はまるで幽霊のようだ、と凜花は思った。

 一名欠けた空間には白々とした空気が漂って、会食はまもなくお開きとなった。

 辞去の挨拶をすませて家を出て、恭二郎が車を廻してくるまでの短い時間、凜花と鈴木は車寄せで二人きりになる。待ちかねていたように鈴木が口を開いた。

「篠さん。さっきはどうして……」

 そこまで口にして言い淀む。凜花は鈴木を見上げた。言いたいことはわかっている。

「本当のことでしょ。一緒に暮らしてるんだから」

 風が強く吹いて髪を巻き上げる。ここに来たときより雲は重く空を覆いつくし、今にも雨が降り出しそうだ。露出している首筋や顔の体温が奪われる。手のひらも冷たい。手袋を持ってくればよかったと後悔しながら、凜花は両手をダウンコートのポケットに入れた。

「でも、あの答えだと僕と篠さんが」

「同棲中のカップルだって思われる? いいじゃない、別に。ああ答えたおかげで幸太郎との関係を追及されなくてすんだんだし」

 反論を遮ってあっさり応じる凜花に、鈴木はため息を吐く。

「篠さんはそれでいいんですか」

「二度と会うこともない人たちに、どう思われたって構わない。鈴木さんは困る?」

 二人の視線がかち合った。鈴木はなにも答えない。瞳の奥には困惑以外の感情が揺らめいている。それが何かを知りたくて、凜花は鈴木をじっと見つめた。鈴木は目を逸らした。

「……車が来ましたよ」

 言われなくともタイヤが砂利道を進む音は聞こえていた。凛花も鈴木から目を離した。

 恭二郎の車はSUVで、後部座席にはチャイルドシートが設置されている。

運転席のウインドウが開き、恭二郎が顔を覗かせた。

「狭くて申し訳ないんですけど、後部座席に座ってください」

 凜花はドアを開け、後部座席の中ほどに座る。鈴木も続いて乗り込みドアを閉めた。

「すみませんね、助手席はほとんど荷物置き場になっていて」

 言われて覗き込むと大きなトートバッグか置かれていて、紙おむつや玩具が入っていた。

「いいえ、とんでもない。送って頂いてありがとうございます」

 大柄な鈴木とチャイルドシートに挟まれて居心地がいいとは言えないが、文句は言えない。触れ合う体温を意識しないように、凜花は恭二郎に話しかけた。

「色々あってお疲れでしょうに、ご面倒を掛けて申し訳ありません。レンタカーかタクシーで来ればよかったですね」

 恭二郎は慣れた様子で細い道を進みながら、バックミラー越しに凛花を一瞥した。

「大丈夫ですよ。それに初めて来る人に、ここの運転は難しいでしょう。タクシーの数も限られているし。一応バスもありますけど、一日に数本です。なにぶん田舎なので」

「でも良い所ですよね。自然が豊かだし」

「確かに自然は豊かですが、コンビニすらない田舎です。妻はここに越して来てしばらくの間、だいぶ戸惑っていました。今ではすっかり慣れたようですが」

 妻を語る恭二郎の口調は柔らかい。心からの愛情を感じ取れて、凜花は羨ましくなる。

 生活環境が大きく変わっても、恭二郎がいれば美春は大丈夫だろう、と思った。

 それからかすみを思う。結婚して数年のうちに夫を失ったその心情は計り知れない。

「かすみさんは大丈夫でしょうか。お食事もあんまり進んでなかったようですけど」

 凜花が案じると、恭二郎は眉を寄せた。

「もともと細い人なのに、兄が亡くなってからさらに痩せてしまいました。母や妻が食事を持って行っても、あまり食べていないようです。無理もありません。せっかく一緒になれたと思ったら、あんなことになって」

「結婚されて二年くらいでしたか」

 かさぶたを剥がす心境で凜花は尋ねる。別れた男がその後どうなっても関わりないはずなのに胸が疼く。凜花の心中など知る由もないであろう恭二郎は頷いた。

「ええ。でもそれだけじゃない。この狭い集落で生まれ育って同い年となれば親しくなって当然ですが、あの二人は昔から親密な関係でした」

 胸の疼きは痛みに変わる。想像していたとおり、幸太郎はかすみのためにここへ戻ってきたのかもしれない。知りたくもない思い出話は続いていく。

「年子ですが、外遊びを好む兄と、本の虫だった僕が一緒に遊ぶことは、ほとんどありませんでした。仲は悪くなかったんですけどね。かすみさんも活発な質ではなかったのに、兄のそばについて離れませんでした。兄も遊びに行くときは、必ずかすみさんを呼びに行ってました。幼いころからずっとです」

「昔から親しかったんですね」

 黙り込んでいるのも妙なものかと打った相づちに胸を掻きむしられ、凜花は俯いた。

「そうですね。中学に入ったすこし後までは」

 恭二郎の答えに顔を上げる。根掘り葉掘り聞くのは不調法だろうか。相手が話しているから構わないのだろうか。しばしの葛藤の後、凜花は口を開いた。

「なにかあったんですか」

「たぶん。詳しいところまでは知りませんけど」

 曲がりくねった山道を慎重に下りながら、恭二郎は答えた。

「ところで篠さんは、この島についてなにかご存知ですか?」

 唐突な話題の変換に凜花は戸惑う。今の話とどうつながるのかはわからないながらも、ガイドブックで得た情報を頭の中でまとめて口に出した。

「ええと。漁業と観光業がおもな産業で、人口は一千名ちょっと。昔は遣唐使船が来たり、キリスト教の宣教師が来たことがある歴史ある島で、隠れキリシタンがいたってことくらいです。ガイドブックからの受け売りですけど」

 素直に打ち明けると、恭二郎は口角を上げた。

「そのガイドブックなら僕も読んだことがあります。あれに書かれていたように、隠れキリシタンの信仰は今も続いている。僕もその信者のひとりです」

 凜花は目を瞬かせる。

たしかにガイドブックに、島民のほとんどが信仰を守っていると書かれていた、と思い出す。外の人間にそれを明らかにすることはない、とも。

「言っちゃって大丈夫なんですか、それ」

 恐る恐る尋ねる凜花に、恭二郎は笑んだ。

「もちろん。信教の自由が認められている現代で、隠す必要なんかありませんから。少なくとも僕はそう思っています」

「そう思っていない人もいるんですか」

「そうですね、年長者は大体。その筆頭が父です。篠さんは隠れキリシタンについて、なにかご存知ですか」

 凜花はしばらく考えた。

「幕府に禁教令を出されたあとも隠れて信仰を続けていた人たちですよね。それから最近、長崎の隠れキリシタン関連のものが世界遺産になったことくらい」

「厳密に言うと、世界遺産になったのは長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産です。禁教時代に、密かにキリスト教の信仰を続けた者が潜伏キリシタン、禁教令が解かれてからも正統のカトリックに改宗しなかった者が隠れキリシタン。そういう違いがあります」

 恭二郎はいったん言葉を切った。もう一度バックミラー越しに凜花を一瞥する。

「この島で生まれた者のほとんどは隠れキリシタンですが、べつに特殊な人間というわけではない。みんな真面目に学校に行って、働いて、恋をして、結婚する。ただ古い信仰を受け継いだだけの普通の人たちです」

 言い終えるころ、視界に海が開けた。曇天に水面が鈍く光り、波が白く弾けている。

「強いて違いを上げるとすれば、幾つかの特殊な習俗や神事を守り通していることです。たとえば、この島にはマリア観音や聖母子を描いた掛絵などを祀る代わりに、幼い女の子を聖母マリアに見立てて御神体として拝むという風習が昔からありました。どんなに小さくてささやかでも物品を隠し通すのは困難ですが、人を拝んでいるぶんには言い逃れがしやすいですから」

 幸太郎とかすみの話がどうして隠れキリシタンについてのレクチャーに発展したのかは不明だが、初めて耳にする風習に、凜花は興味を覚えた。

「幼い女の子は、みんな御神体になるんですか」

 恭二郎はハンドルから右手を離し、眼鏡のフレームに触れた。

すぐに手をハンドルに戻しながら滑らかに答える。

「いいえ。御番主……神事を取り仕切る長のことですが……によって一人だけ選ばれます。御神体になるには幾つか条件があって、信者であることが第一条件です。それから、年齢は三歳くらい。聖母マリアを宿すということで落ち着きがあって見目良く健康な女児が良いとされ、指名された者はそれを拒むことはできません。役を解かれるまで御神体としての役割を果たします」

「なにをするんですか」

「特別なにかをするというよりも、人々が祈りを捧げる対象になるんです。神事の際には必ず御番主の隣に、聖母マリアの化身として控えている。御神体は存在するだけでいい。というより、必ず存在しなければならない。神を宿す依り代や、島の人間の心の拠り所として必ず。もちろん今もいます」

「へえ。どんな子なんですか?」

 凜花の問いに、恭二郎は静かに笑んだ。

「来年小学校に上がる、大人しい女の子です。彼女も今までの御神体と同じように、よくやってくれています」

 凜花はため息を吐いた。現代の日本に、こんな風習の残る地域があるとは思わなかった。

「祈りを捧げるとか、神様を宿すとか。なんだか私にはおとぎ話みたいに聞こえます」

 恭二郎は小さく笑った。

「外の人間からしたらそうでしょうね。さらにおとぎ話じみた話をしましょうか。御神体だった女性が後に結婚すると、相手の男性は早逝してしまうという言い伝えがあります。聖であった存在を穢すという行為に対して神罰が下るためだそうです。そしてかすみさんは、かつて御神体でした」

 ようやく話が繋がった、と凜花は思った。きっとさっきのかすみの発言は、その言い伝えを踏まえてのことだろう。

「でも。キリシタン禁制の時代からそういう風習があったっていうことは、御神体を務めた人はかすみさんだけじゃないんですよね? 御神体だった女性と結婚した男性は、本当に全員早死にしたんですか」

「もちろんそんなことはありません。現にかすみさんの母親もかつては御神体でしたが、御主人は今でも息災です。むしろかすみさんの母親のほうが若くして亡くなっています。かすみさんが小学生の頃でした」

 即座に否定されて安堵したが、凜花はかすみのバックボーンを知って切なくなる。

自分も母を亡くした身だが、成人後ということもあって、なんとか耐えられた。幼少期の多感な年頃に母親を亡くすのとは、おそらく少し違う。

あの線の細さや、危ういほどに儚なげな雰囲気には、きっと様々な理由があるのだろう。その最たるものは幼いころから親しくしていて、時を経て結ばれたばかりの夫の死だ。

自分がかすみだったら不幸の理由を考えてしまう。そして、自分自身に原因を見い出してしまうのかもしれない。

「かすみさんは中学校に上がる少しあと御神体としての役目を終え、その直後に兄と疎遠になりました。三年前に兄が戻ってくるまでの二十年、たぶん一度も会っていなかったんじゃないかと思います。兄は島に帰るとその足でかすみさんを訪ねて、それからはずっと一緒にいました。離れていた時間が嘘だったかのように、ずっと」

 自分は幸太郎にとってほんの通過点に過ぎず、かすみが運命の恋人だった。そう思い知らされたようで、凜花はたまらない気持ちになった。

許せなかったのも意地を張って拒み続けたのも全て自分で、幸太郎は悪くない。

あんな記事を書いたことは今でも許せないけれど、彼には彼の考えがあったのだろうから仕方のないことだ。

それなのに、こんなにも胸が痛くなるなんて、自分はなんて身勝手なんだろう、と自嘲する。

 旅館の車寄せに静かに停車すると、恭二郎は身体をひねって凜花と鈴木を見た。

「今日は兄のためにお越しいただいてありがとうございました。きっと兄も喜んでいると思います。どうぞお気を付けてお帰りください。いつ東京に戻るんですか?」

 凛花は笑みを形作った。

「明日です。こちらこそ、良くして頂いてありがとうございました。みなさんによろしくお伝えください」

 こんな形で幸太郎の家族と顔を合わせることになるなんて、三日前までは想像だにしていなかった。そしてこれが最後だろう。ほんの短い時間だったけれど、自分はきっと今日この日を忘れられない、と思った。

 車を降りると水滴が額にあたった。見上げると重苦しい雲が流れていくのが見えた。

「降り始めましたね。今日の午後から明日にかけては雨の予報でしたけど、思っていたよりも荒れそうだな。フェリーが欠航にならなければいいんですが」

 フロントガラス越しに空を見上げながら恭二郎が言った。凜花は恭二郎を振り返る。

「雨が降ると欠航になっちゃうんですか」

 恭二郎は凜花に微笑みかけた。

「さすがに雨のたびに欠航にはなりませんけどね。海が荒れて運航に支障が出ると、船を出せなくなってしまうんです。今夜のうちに治まることを祈っています。では」

 鈴木がドアを閉めると、車は滑らかに走り出した。その姿が完全に見えなくなるまで、凜花はその場に立ち尽くして見送った。水滴は雨粒へと変わり密度を増していく。

「篠さん。部屋に戻りましょう」

 鈴木に声を掛けられて、凜花はようやくのろのろ歩き出す。

 フロントで鍵を受け取り、連れ立って部屋に戻る。開錠して入ろうとしたとき、不意に二の腕を掴まれた。

「大丈夫ですか」

 凜花は鈴木を見上げた。いかつい顔に浮かぶのは案じる表情で、真っ直ぐ凜花を見つめている。人前で弱みを見せまいとずっと気丈に振る舞っていたはずなのに、決壊するのはあっという間だった。

 目の奥が熱くなって涙が溢れ出す。

空いた手で慌てて拭おうとして、その腕も掴まれた。

次の瞬間、抱き寄せられた。服越しに感じる体温と揺るぎなく包み込む肉体に、張りつめていたものが一気に緩んでいく。なんのための涙か自分でもわからないのに、込み上げる嗚咽を抑えきれない。

声を上げて泣き出した凜花を抱き締めたまま、鈴木は身体を滑らせて室内に入り、施錠する。入ってすぐのところでへたり込んだ凜花に正面から覆いかぶさり、凜花が落ち着くまで背を撫で続けていた。

凜花の気が静まったのは部屋が暗くなったころだった。

静かな室内には激しく打ちつける雨音だけが響いている。戻ってから何時間経ったのかわからない。胸に長く澱んでいた激情を吐き出して、全身が萎えている。

「……ごめん。鈴木さんの上着に涙とか鼻水とかつけちゃって」

 凜花はぽつんと言った。鈴木の胸に顔を埋めていたせいで、上着はすっかり湿っている。

鈴木は凜花の両肩にそっと掴んで顔を覗きこむ。それから立ち上がりながら、凜花の腕に手を掛けて立たせた。

「しばらく横になっていてください」

 凜花は素直にベッドに横たわった。瞼からくちびるにかけて肌がひりひりするし、喉も頭も痛い。こんなに泣いたのは母を亡くしたとき以来で、幸太郎が亡くなってからは初めてだ。

鈴木は冷蔵庫から出したミネラルウォーターをベッドサイドに置き、濡れタオルを凜花の目の上に乗せた。

「夕飯の時間を遅くしてもらえるように、フロントに伝えておきます」

「行かないで。ここにいて」

 立ち去る気配を感じた瞬間、勝手に言葉が零れた。

すぐに思い直す。鈴木には、すでに多大な迷惑を掛けている。なにを甘えたことを言っているのか、と恥ずかしくなった。

これ以上我儘を言ってはいけない。そう思って取り消そうとした直後、ベッドのふちがへこむのを感じた。手のひらの上に武骨な手のひらが重ねられる。

無言で寄り添う存在に無条件に満たされた。直接触れる肉の感触と温かさは心地よく、凜花は滑り落ちるように眠りに落ちていった。


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