夜想島
鈴木は湯気の立つマグカップをふたつキッチンテーブルに置くと、仏頂面でパスタを黙々と食べる凛花の向かいに腰を下ろした。
その場所はかつて幸太郎の席だった。そう思って凛花は心が引き千切れそうになる。
マグカップをひとつ手に取ると、鈴木が口を開いた。
「自炊はしないんですか」
「冷蔵庫を見ればわかるでしょ」
凛花は素っ気なく答える。一人になってから、ほとんど料理をしなくなった。
自分のためだけに作る食事ほど味気ないものはない。外で適当に済ますかコンビニ飯やレトルトを食べて、サプリメントで栄養を補っている。
「光井さん、篠さんのハンバーグは絶品だって言っていました」
パスタを巻き付けていた手が止まる。
あれは母直伝のレシピだった。教えてくれた人も、喜んで食べてくれた人ももういない。
「他にはなんて?」
「それは元気になってから」
つれない返事にカッとなる。凛花はフォークをテーブルに叩きつけた。
「もう元気だって言ったでしょ! 私がどうなったら元気だって判断するつもりなの!」
「ちゃんと食べて、よく眠って、きちんと生きようとしたら」
「たった今そうしてるじゃない」
「強制されてではなく自主的にです」
「じゃあ、なに? 私はあなたに毎朝毎晩電話で報告しなくちゃいけないの? いま食事を摂りました、これからお風呂に入ります、もう寝ます、だから元気になりましたって」
「その必要はありません。光井さんからの伝言を伝えられる状態になるまで、ここに住みますから」
しばしの沈黙が訪れた。
「住むって誰が」
ぽかんと尋ねる凛花に、鈴木は当然のごとく応じた。
「僕がです」
もう一度沈黙が訪れる。今度はさっきより少し長めだった。
「私の都合とか気持ちは全く無視して? もしかして新手の押し込み強盗?」
「違います。早く出て行ってほしいなら、早く元気になればいい。とりあえず、それ全部食べてください」
憤然と尋ねる凛花に、鈴木はマグカップを口に運びながら言った。
反論する気も失せて、凛花はフォークを手に取った。
言いなりになるのは心の底から腹立たしいけど、幸太郎が自分に言い残したことがあるのなら、どうしても聞いておきたかった。
凛花が食事を終えると、鈴木はすぐに食器を洗った。それからコートを羽織った。
「ちょっと買い物してきます。なにか必要な物は?」
「とくにない。ていうか買い物なんかしなくていいから、そのまま出て行って」
「たぶん三時間くらいで戻ります。では」
どこまでも噛み合わない会話に、凛花はため息を吐く。
玄関の鍵が掛かる音がした。ということは、自分はここから出られない。三秒後くらいにそう気付く。このマンションはオートロックではないし、鍵を掛けずに外出するのは、あまりにリスキーだ。
鈴木だけでも手いっぱいなのに、この上さらにわけのわからない人間が入ってきたら、困るどころの騒ぎではない。
「なんなの、もう……」
ひとりごちると凛花はソファに横たわった。食べてすぐ寝ると牛になるというけれど、なれるものならなってしまいたい。その辺の草でも食んで一生を終える。きっと、考えることも悲しむこともない。
山辺か警察に電話して、今のこの奇妙な状況を説明しようかと思ったけれどやめた。
もうどうでもいい。なにもかもが面倒だ。殺したいなら殺せばいいし犯したいなら犯せばいい。そう思い極めて、凛花は目を閉じた。すぐに浅い眠りが訪れる。
そして克明な夢を見た。忘れたくても忘れられない、あの日がたちまちに蘇った。
「ねえ。どういうつもりなの、あの記事」
ソファに寝転がってテレビを眺めていた幸太郎は、帰宅してきた凛花の問いに、身を起こして座り直した。
「どれのこと」
表情をあらため、凛花を見上げながら問い返す。凛花は固い表情を崩さずに言った。
「訊かなくてもわかってるんじゃないの、方舟の会について書いたやつだって。よく書けるね、お母さんを殺したカルトの関係者に対してあんなこと」
テロ事件の数週間後、神成聖光やテロに関わった幹部たちは逮捕され、方舟の会は事実上の指導者を失ったが、解体することはなかった。
方舟の会の広報担当者は会見を開き、新たな指導者として、かつて方舟の会に所属していた女性信者と神成との間に生まれた男性を指名した。
強引な勧誘や終末思想をはらむ危険な信仰から方舟の会をマークしていた公安庁ですら、想像だにしていなかった人物だったという。神成が関係を持った女性信者は無数にいて、その一人一人を辿ることはほとんど不可能だった。
指名された男性の母親は資産家の一人娘で、美しい人だったという。神成から深く寵愛されていたが、脱会後は会に関わることなく、二年ほど前に病死していた。
神成との間に出来た男性は元女性信者の両親とともに暮らしていた。
母親の美貌を受け継いだ白皙の美青年で、出生だけでなくその外見からも注目を浴びるようになった。
未成年だったので顔写真や名前が公にされることはなかったけれど、インターネットの普及した現代では隠しきることなどできない。通っていた大学も中退せざるを得なくなったと聞いた。
当たり前の事だ。神成の血を引く者が、のうのうと暮らしていいはずがない。それなりの罰を受けて然るべきだ。
そう思っていたから、凛花は幸太郎が書いた記事を読んだとき、はらわたが煮えるという言葉を体感した。
「なにあれ。神成の血を引いてるってだけで迫害されるべきではないって。テロを起こすような集団を率いていた人間の息子だよ? 危険視されてなにがおかしいの」
感情を抑えながら話していても、怒りのあまり手が震えた。
対する幸太郎は真っ直ぐに凛花を見た。
「本人には全く非のないことで責めるのはおかしいよ、りんたろう。咎められるべきは罪を犯した人間だけだ」
凛花は目を見開いた。いつもなら鷹揚に折れる幸太郎が持論を曲げない。こんな反応が返ってくるのは予想外だった。幸太郎の諭すような声色に怒りが募り、凛花は声を荒げた。
「おかしいのは幸太郎だよ! あいつの父親は私のお母さんを殺したんだよ? なんで庇うようなこと言うの!」
「べつに庇ってるわけじゃない。だけど……」
なおも言い募る幸太郎を前にして、凛花の中でなにかがすっと冷めた。
「もういい、なにも聞きたくない」
凛花は幸太郎の言葉を遮ると、静かに言った。
「出て行って。幸太郎が出て行かないなら私がここを出て行く。もう一緒に暮らせない」
幸太郎は目を見開いた。わずかに口ごもると、確かめるように尋ねる。
「……それは、別れるっていう意味?」
「これ以上一緒にいたら、どんどん嫌いになる。きっと憎む。私は幸太郎を許せない」
即答する凛花に、幸太郎は問いを重ねた。
「三年も一緒に暮らしたのに?」
「そうだよ。三年も一緒に暮らしていたのに私の気持ちをわかってくれないんなら、いないほうがずっとマシ」
「本気で言ってるのか」
「同じことを何回も言わせないで」
幸太郎はため息を吐いた。直情な凛花に今はなにを言っても無駄と悟ったのか、黙って部屋を出て行く。
その後ろ姿を凛花は絶望的に見送った。ほんの少しでも同意して、歩み寄る姿勢を見せれば撤回するつもりだったのに、幸太郎は話し合うことなく立ち去ってしまった。
私の頭が冷えるまで、どこかに行くつもりなのかもしれない、と、ぼんやり考えた。
冷えたのは頭ではなく気持ちだった。
幸太郎には幸太郎なりの考えや信念がある。そのくらいわかっている。
だけどそんなの取っ払って、今は私に寄り添っていて欲しかった。
こういうときにこそ、いつもの包容力を発揮してほしかった。そう望むのは、そんなに我儘なのだろうか。
溢れ出してきた涙を凛花は乱暴に拭った。泣いたってなにも変わらない。頭ではわかっているのに止められない。もう一緒にはいられないと思う一方で、幸太郎を想うこの心をどうすることもできない。矛盾する感情に胸を掻き乱される。
何年もの間、幸太郎を愛してきた。わかり合えないと諦めた今もなお、それを拭い去ることは不可能だ。
だけど愛しているからこそ、愛していた母を害した集団の関係者を庇う幸太郎をどうしても許せない。
二人で積み上げてきた日々や思い出が一瞬のうちに消え去る様はあまりに儚く、とても現実のものとは思えなかった。
毛布を掛けられる感触で、凛花は眠りから覚めた。薄く瞼を開けて、大きな手とカーゴパンツを目にする。瞬時に鈴木の存在を思い出した。
「……出て行ってって言ったのに」
その大きな手は、小さく呟く凛花の頬に触れた。そっと拭われて、凛花は自分が眠りながら涙を流していたことに気付く。
「チェーンロックを掛けられてるかと思いました」
「いいアイデアをどうもありがとう。次からそうする。ティッシュ取ってくれない?」
鈴木はローテーブルの上に置かれていたボックスティッシュを差し出す。凛花は身体を起こすと、何枚か抜き取って鼻をかんだ。壁時計を見上げると二十時を廻っていた。
「携帯電話、充電しっぱなしになってましたけど。通報しなかったんですか」
涙の理由を尋ねることなく、鈴木は別のことを訊いた。
「面倒だったから」
凛花は立ち上がってティッシュペーパーをゴミ箱に捨てた。それから床に置かれた買い物袋と、使い込まれたボストンバッグに目を留める。
「なにこれ」
「食料品と僕の荷物です」
鈴木は床に腰を下ろし、毛布を几帳面に畳みながら答える。
「それはなんとなくわかる。私が訊いてるのは、どうしてあなたの荷物がここにあるのかってこと」
「篠さんの服は僕には小さすぎるので」
「そりゃそうよ。そんな馬鹿でかいのに、私の服なんて着られるわけないじゃない。貸すつもりもないし。つまりそのバッグには、あなたの着替えが入ってるのね。本気でここに住むつもり?」
「夕飯、なに食べたいですか」
凛花は小さくため息を吐く。噛み合わない会話にも、いいかげん慣れてきた。
ソファに戻って座ると、床で胡坐をかいている鈴木と目線が合った。
「ちょっと確認させて。あなたは幸太郎が私に言い残したことを伝えに来た。理由はいまいちわからないけど、今それを伝える気はない。私が自主的に寝食するようになるまで、ここに住むつもりでいる。そういうことで間違いない?」
「話をまとめるのが上手ですね」
「褒められても嬉しくない。いくらなんでも滅茶苦茶すぎるし、あなたの価値観を押し付けられても困る。それに、私はべつに元気がないわけじゃない」
「積極的に身を守る気力もないのに?」
そう言いながら、鈴木は凛花にゆっくり覆いかぶさってきた。
そろそろ隣人たちが仕事を終えて帰宅する時間だ。大声を出せば誰か気付いてくれるかもしれない。そう思ったけれど、凛花はあえてそうしなかった。
振り払うこともせず、無表情に鈴木を見返して口を開いた。
「レイプするなら、そのあとは私を殺して。殺してくれるなら好きにして構わない」
鈴木の顔からは、どんな感情も窺えなかった。ガサガサした大きな両手のひらが首筋に廻される。そこから互いの体温が伝わりあった。外から帰ってきたばかりだからだろうか、その手はひんやりしていた。
少しずつ力が加えられるのを感じても、凛花は身動きひとつしなかった。私はこうやって死ぬのか、と思った。
不思議な感覚だった。感情は波打たず、恐怖もない。これから起こるであろうことを、ただ静かに受け入れるだけだ。いつもは気にも留めない壁時計の音だけが耳を占め、時間が止まっていないことを知らせている。
「どうして抵抗しないんですか」
鈴木の視線も声も静かで、なぜか悲しげだった。凛花は何も応えなかった。
理由なんて鈴木がさっき言っていたとおりだ。自暴自棄という言葉は強すぎるけれど、どうなっても構わないという虚無感が、抗う気持ちを遙かに上回っている。
ふいに手の力が緩んだ。大きな両手のひらが首筋から肩まで辿って、凛花の身体を起こしながら抱きしめる。性的な欲望の一切感じられない、柔らかい抱擁だった。
「僕は篠さんを傷つけるつもりなんてない。試すような真似をしてすみませんでした」
耳元で囁くと、鈴木は身体を離して凛花を横たえた。丁寧にたたんだ毛布を広げて掛けて立ち上がる。
「もう少し横になっていてください。辛いもの以外で食べられないものはありますか」
「……べつにないけど」
なんだ殺さないのか、と凛花は思った。安堵感はない。ただうっすら残念なだけだった。
その日から鈴木は凛花の部屋に住みついた。
慣れというのは恐ろしいもので、三日もすると凛花は勝手に転がり込んできた同居人の存在を気にしなくなった。
決して受け入れたわけではない。
ただ、いてほしくないとも、いてほしいとも思わない。
鈴木は凛花に不埒な真似はせずに、こまごまと世話を焼いた。太い手指で器用に料理を作り、手際よく家事をこなす。押しかけ女房ならぬ、押しかけ旦那だ。
毎朝六時に起きて作業着に着替え、朝食と昼食用の弁当を二人分用意し、凛花が朝食を摂るところを確認してから、自分で作ってきた合鍵でしっかり施錠して部屋を出る。
夕方になると食料品を片手に帰宅し、シャワーを浴びてから洗濯機を回し、合間に夕飯を作る。
夜は十二時には大きな体をソファに押し込めるようにして眠る。絵に描いたような規則正しい生活態度だった。今日もいつも通りで、今は夕食を作っている。
土日や雨の日はどこにも行かずに部屋の掃除をしていた。おそらく土木作業員のような仕事をしているのだろう。鈴木の普段の服装や、帰宅した直後の濃い汗の匂いから凛花はそう推察していた。
凛花はなにもしなかった。ずっと引きこもっているのに、まとまった休みが取れたら読もうと積んでいた本に手を触れることもない。かといって外に出る気にもなれなかった。
仕事に追われているときは、忙しい合間を縫って近場で楽しめるプレイスポットや評判のいいレストランへと仕事の下調べを兼ねて足を運んでいた。
凛花が書く記事は、おもに都内近郊に勤めている人が気軽に楽しめるイベント情報や、グルメ情報を紹介するものだ。
それなのに時間が有り余っている今は、どこかに行こうという気力が湧かない。
あれほど心血を注いでいた仕事のことすらロクに考えられないし、生活を楽しもうという気分になれない。
朝は鈴木に起こされるから目覚め、日中は見もしないテレビを流しながらソファでうつらうつらし、空腹を覚えると弁当を食べ、漫然と夜を迎えた。鈴木に強引に脱がされるのは真っ平ご免なので、風呂も毎晩使った。
そうしていると一日は瞬く間に終わり、あっという間に一週間が過ぎた。
もしも一人だったら今よりずっとひどい生活をしていた。凛花はそう確信していた。
引きこもった挙句、孤独死する単身者の気持ちが今ならわかる。なにもしたくないし、どこにも行きたくない。食事なんてどうでもいいし、化粧をしたり身綺麗にする必要性も感じられない。
どうして自分はこんなふうになってしまったのだろう、とぼんやり考える。
母が亡くなったとき精神的に参ってしまったのは当然だとしても、今回は少し違う。
冷静に考えれば、かつて一緒に暮らしていた男が亡くなっただけだ。しかもその男は、他の女と結婚している。別れた男の死にこんなに打ちのめされている意味が、自分でもよくわからない。
初めて生活をともにした男だったからかもしれない。
幸太郎がかつて他の女と付き合っていたことがあるのは知っているけれど、自分にとって幸太郎は初めてで、特別な男だった。
依存していたつもりはない。だけど母親と同じくらい、心の拠り所になっていたのは確かだ。
記事の一件があってからほとんど会話を交わすこともなく、二人は関係を終えた。
幸太郎は何度か話し合おうとしたが、自分がそれを跳ね除けた。母を殺した集団に関わる人物を庇う記事を書いた男と話すことなど何もないと思ったからだ。
頑なな態度に、幸太郎はやがては話し合いを諦めた。
今にして思えば話し合うべきだった。ぶつかり合って傷つけ合えば、すっぱり断ち切れたかもしれない感情は、中途半端に終わったせいで今も燻ったままだ。
幸太郎がこの世からいなくなって、話し合う機会は永遠に失われてしまった。このままずっと幸太郎に囚われ続けるのだろうかと暗澹たる気持ちになる。
「どうして死んじゃったのかな」
頭の中でぐるぐる廻っている言葉が、うっかり口から洩れた。向かい合って夕食をとっていた鈴木の手が止まった。
「光井さんのことですか」
珍しくまともに会話が成立した、と思いながら凛花は頷く。
四六時中一緒にいても、話すことはあまりない。鈴木は寡黙な男だった。必要があれば普通に話すけれど、それ以外はずっと押し黙っている。一週間も同居しているのに、名字以外は何も知らないくらいだ。
普段の食事の際も、互いに黙々と箸を動かしている。きっと鈴木にとって、食事中の楽しい会話というのは生活の一部ではないのだろう。凛花としてもとりたてて鈴木と話したいわけではないので、ほとんど無言を貫き通していた。
「いくらなんでも早すぎる」
無視するのもあんまりだろう、と凛花は簡潔に応じる。鈴木は箸を置いた。
「知りたいですか」
主菜の豚肉の生姜焼きに手を伸ばそうとしていた凛花は首を傾げた。
「なにを」
「光井さんがどうして亡くなったのか」
凛花も箸を置いた。適切な答えを自分の中に探る。
「知りたい。崖から落ちて亡くなったのは知ってる。だけどどういう状況で、どうやって亡くなったのか、亡くなるまで幸太郎がどうやって生きていたのかを知りたい。知ったところで幸太郎が生き返るわけじゃないんだけど」
澱のように溜まっていた気持ちを言葉に変換して、初めて自分の欲求を把握した。
鈴木はほんの少し笑んだ。言葉だけでなく感情表現にも乏しいこの男が表情を露わにするのは珍しいことだった。
「初めてですね、篠さんが何かを望むのは。いい傾向です」
「それはどうも。じゃあ幸太郎の伝言を教えて」
「夜想島に行ったことはありますか」
はぐらかされるのは予想していたから、もはや腹も立たない。凛花は首を振った。
「一緒に暮らしてたとき、幸太郎の生まれた島に行ってみたいって言ったことはあるけど、結局行けなかった」
付き合うようになってから同棲を始めるまでは凛花の就活や卒論でなかなか時間が取れなかったし、同棲と就職が同時期だったので、なにかと忙しくて二人揃って旅に出る余裕などなかった。
それに幸太郎はあまり帰省したがらなかった。
中学を出てから島に戻ったのは数えるほどだと言っていたし、実際に知り合ってから別れるまでの間、一度も帰省していなかった。
島での暮らしや実家の話もほとんど聞いたことがない。なにかの拍子に弟が一人いると話していたぐらいだ。
もっとも、男性なんてそんなものなのかもしれない。他の男性と暮らしたことがないから、その辺の事情はよくわからない。
「鈴木さんは一人暮らしなの」
そういえば目の前にいるこの男はどうなんだろう、と凛花は尋ねる。鈴木の顔からかすかに浮かんでいた笑みが消えた。
「今は篠さんと二人暮らしです」
「そうじゃなくって、自分の家は?」
「どうして急にそんなことを」
探るような目つきになった鈴木に、凛花は戸惑った。
尋ねたことに答えないのは普段通りだけど、問い返してくるのは珍しい。
「男の人ってあんまり実家に帰ったりしないのかなって思っただけ。幸太郎がそうだったから」
鈴木は凛花から視線を外して箸を取った。
「それは性別とは関係なく、人それぞれじゃないですか」
この男に質問した自分が馬鹿だった、と自嘲しながら凛花も箸を手にする。
食事を再開したあとは言葉を交わすこともなく、二人は静かに夕食を終えた。
「夜想島に行ってみますか」
いつもなら食べ終えた食器をすぐに下げて洗い始める鈴木が、ふいに口を開いた。凛花は無言で鈴木を見返した。
「さっき篠さんが言ってたことを、ずっと考えていたんです。光井さんが住んでいたところを訪ねて弔問すれば、篠さんの中で区切りがつくかもしれません」
一考に値する意見だった。しばらくして凛花は口を開いた。
「行けるなら行ってみたい」
自ら命を絶つつもりがない以上、いつまでもこんなふうに立ち止まってはいられない。
どうすれば元の自分に戻れるのかわからないけれど、もしかしたら幸太郎を弔うことがそのきっかけになるのかもしれない。
凜花の表情を観察するように見つめていた鈴木は頷いた。
「わかりました。光井さんのご家族の都合が良ければ、あさって出発でどうですか。ちょうど初七日も終わっている頃合いでしょうから」
尻ポケットからスマートフォンを取り出ながら、鈴木が尋ねる。
「あさって?」
ずいぶん急だな、と凛花は驚く。
「すみません。さすがに明日だと僕の仕事の都合がつかないので。先に先方に連絡を入れておきましょう」
どんどん進んでいく話に戸惑いながら、凛花は口を挟む。
「待って、べつに明日行きたかったってわけじゃないんだけど。それに私、幸太郎が住んでいたところも連絡先も知らない。別れてからは音信不通だったし、携帯の番号も削除しちゃったし」
っていうか私が夜想島に行くのと、この人の仕事の都合って一体なんの関係があるの、と訝しんで、すぐに答えに行きついた。
「光井さんから、夜想島での住まいは教えてもらっています。家の電話番号も。奥さんがご在宅なら連絡が取れるはずです」
「鈴木さんも行くつもり?」
太い指でスマートフォンを操作していた鈴木が、当たり前のように応じた。
「お悔やみを言いに。とりあえず電話してご都合を聞きましょう」
鈴木は番号を選択して通話ボタンを押す。凜花はそれを止めることなく、息を呑んで鈴木を見た。数秒後、鈴木は口を開いた。
「もしもし、光井さんのお宅ですか? ……夜分すみません。鈴木と申します。失礼ですが、奥様でしょうか? ……このたびは、本当にご愁傷様でした」
電話口の向こうには幸太郎の家族、おそらく妻がいる。
凛花は胸がざわめくのを感じた。
同じ男を愛して、結果的に失うことになった。ただの離別でもあんなに苦しかったのに、死別となれば、どれほど辛い思いをしたのだろう。しばらくして通話は終わった。
「……奥さん、なんだって?」
鈴木はスマートフォンのディスプレイから凜花に視線を移す。
「光井さんのご実家に確認してから掛け直してくれるそうです。なんでも喪主は光井さんのお父上で、遺骨もご実家にあるらしいので」
遺骨というワードで、幸太郎の肉体がもうこの世にないと、あらためて思い知らされる。
涙が出そうになったが、他人に弱いところは見せたくない。凜花は何度か深呼吸をして、なんとか気を落ち着けた。鈴木が案じるように眉を寄せて自分を窺っているのに気付き、ことさらに平静を装う。
「そう。でもなんで? 普通なら喪主は奥さんだし、遺骨は自宅に置くんじゃないの」
声が震えなかったのは我ながら上出来だ、と凜花は自画自賛する。鈴木は凜花の様子に触れることなく、淡々と会話を続ける。
「理由は話していませんでした。急な電話で立ち入ったことを訊くのも、ちょっと」
「そりゃ駄目よ、もちろん。まあきっと、色々と事情があるんだろうね」
鈴木と同じくらい淡々とした声を心がけて応じると、凜花は言葉を継いだ。
「……幸太郎の奥さんって、どんな声? 会ったことはある?」
「いいえ、ありません。直接話すのも初めてです。綺麗な声の人でした」
「そっか。きっと綺麗な人なんだろうね」
「篠さんも綺麗ですよ」
思わぬ返しに、凜花は呆気にとられる。胸中に渦巻く様々な感情が一時停止した。
「どうしたの、お世辞なんか言って。なんか変な物でも食べた?」
「思ったことを言っただけです」
口重な鈴木がこんなことを言うなんて、ますますおかしい。凜花は首をひねった。
きっと鈴木なりの慰めなのだろう、という結論に達したころ、鈴木のスマートフォンが震動した。鈴木は素早く通話ボタンを押す。
幸太郎の妻は二人の訪問を了承し、あさっての正午ごろ実家に来るように言うと実家の住所を告げた。鈴木は立ち上がって、壁に掛けたカレンダーの隅に住所を書きとめる。
それから再びスマートフォンをいじり始める。しばらくして口を開いた。
「夜想島の旅館をチェックしたら、当面の間じゅうぶん空きがあるみたいです。とりあえず、あさってから二泊三日でシングルを二室押さえておきました」
あまりの手際の良さに、凛花は舌を巻いた。
「ずいぶんと手早いこと」
凛花の感想に応じず、鈴木はスマートフォンの操作を続ける。数分後に口を開いた。
「夜想島行きの船は鹿児島県の川内港と串木野港から出ているようです。鹿児島までは飛行機か新幹線で行けますが、新幹線でいいですか」
「なんで? 飛行機のほうが早いでしょ」
それまですらすら応じていた鈴木が口ごもった。三秒ほどして再び口を開く。
「……すみません、飛行機は苦手なので。それに、新幹線で行っても、二時間くらいしか違いません」
思いもしなかった道行きが瞬く間に決まっていく。鈴木がいなければ、きっと幸太郎の生まれ育った島に行こうなんて思いつきもしなかっただろう。
「ありがとう」
ふいに感謝の言葉が口をついた。一週間も一緒にいて、初めてのことだ。鈴木は軽く目を見開いた。
「なにがですか」
あらためて問われると気恥しい。凛花は鈴木から目を逸らす。
「ちょっと言ってみただけ」
つっけんどんに呟いてから、横目で鈴木を窺う。鈴木は無表情だった。
「僕のしていることは全部、ただの自己満足です。篠さんは感謝なんかしなくていい」
それは確かにそうだけど、と思いつつ、凛花は鈴木の口調の硬さに違和感を覚えた。