夜想島
管理人に事前に連絡してあったので、部屋へは合鍵で入ることができた。
凛花はモッズコートを着たままソファに倒れ込んだ。ひどく疲れていた。
カーテンは開けっ放しになっていたので、鈍い外光が部屋を満たしている。まだ十四時前なのに、夕方のように薄暗い。
髪はぼさぼさだし、昨日ざっとシャワーを浴びただけだから臭っているかもしれない。一昨日の夜から食事もろくに摂っていない。だけど、なにかしようという気になれない。
幸太郎がここを出て行った日も強い喪失感に見舞われたけれど、今の比ではなかったし怒りもあった。それに男と別れたくらいで駄目になるなんて、プライドが許さなかった。
顔だけ動かして、本棚に飾られたフォトフレームに目をやる。
大学の卒業式に袴姿で撮った写真は、母と一緒に写った最後の一枚だ。撮ってくれたのは幸太郎だった。
小学二年生のとき、父親を事故で亡くしてから、ずっと親ひとり子ひとりの二人三脚で生きてきた。
母は喪が明けて間もなく結婚前に働いていた職場に復職し、凛花を育て上げてくれた。
残業の多いハードな勤務で、一人で留守番する時間も長かったけれど、自分に不自由な思いをさせぬよう必死に働く母に対し、寂しさを口にしたことは一度もない。
凛花は家事の一切を受け持ち、勉強も懸命に励んだ。合間にする読書が唯一の息抜きで、架空の世界を描く小説より、この世のどこかに実在する素敵な事を紹介する雑誌を好んだ。
凛花の就職が決まったあとも、母は同じ職場で働き続けた。
もう少しラクな勤務先に変えればいいのに、と気遣う凛花に笑って言った。
「だって凛花が結婚して孫ができたら、いろんなものを買ってあげたり、一緒にいろんな場所に行きたいもの。それで? 幸太郎さんとはいつごろ結婚するつもり?」
思えば、あの頃が一番幸せだった。
バイト先で知り合った幸太郎と、就職を機に同棲を始めることになって、母は幸太郎をとても気に入っていた。
どうしてあのときもっと強く転職を勧めなかったのだろうと今でも悔やんでいる。
出勤中の地下鉄で母を襲ったのは、爆発するゴミ箱だった。凛花が正社員として入社して二年ほど経った頃で、クリスマスを目前に控えた寒い日だった。
死者一名、負傷者五名を出したその事件のたった一名の死者は凛花の母だった。
警察の捜査の結果、方舟の会という新興宗教によるテロであったことが判明した。
預言者でもある教祖の神成聖光を信じ、その教えを守るものだけが、いずれ訪れる終末を生き延びることができる。死したあとは楽園に行ける。
そんなありがちで胡散臭い教義を心から信じられる人間がどうして存在するのか、今でも理解できない。神成が、この世の終末とやらを、ちゃちな爆弾ひとつで作り出すなんて馬鹿げたことを思いついたのかも。
凛花は小さく身震いした。室内は冷え切っているのに、起き上って暖房を入れる気力もない。
いつまでも倒れ込んでいるわけにはいかない。だけど立ち上がり方を忘れてしまった気がする。
このまま眠ってしまったら、きっと風邪を引く。
どうでもいいか、と凛花は思った。どうせ一ヶ月間の休職なのだ。体調を崩したところで誰にも迷惑をかけない。
もしもこのまま何も食べずにいたら、両親や幸太郎のいるところに行けるのかな。
漠然とそんなことを考えているうちに、浅い眠りに落ちていた。
目が覚めたのは肌寒さのせいか、それとも無意識に異変を感じ取ったためか。
ゆっくりと覚醒し、薄く目を開けた凛花は、仄暗いリビングの出入り口に人が佇んでいるのを認めた。心臓が大きくドクンと脈打った。
体格から判断するに、男性なのは間違いない。薄手の黒いダウンジャケットとカーゴパンツに身を包んだシルエットは岩のように逞しい。
人間は驚きすぎると声も出ないと、凛花は二十八歳にして初めて知った。
不法侵入、不審者、変質者、押し込み強盗、強姦魔。
物騒な単語が次から次へと浮かんでは消える。どれも有難くない。有難くないというより、あってほしくないことばかりだ。
なにかおかしなことがあったら俺に連絡しろ。警察に通報してもいい。
山辺の言葉も浮かんだけれど、スマートフォンがどこにあるのかわからない。
昨日、幸太郎のことを検索したのは覚えているから、きっとリビングのどこかにある。
だけどこんな至近距離に侵入者がいるのに、今すぐ探し出して電話を掛けるのは不可能だ。
なにかしなくちゃ、なにをされるかわからない。そうわかっているのに、今の自分がしているのは馬鹿みたいに目を見開き、ソファの上で身体を強張らせることだけだ。
凛花を凝視していた男が、ふいに口を開いた。
「大丈夫ですか」
いかつい男が電気を点けながら穏やかに尋ねた。
凛花は幾分ホッとした。問答無用で襲い掛かってくる暴漢でなかったことは、不幸中の幸いと言えなくもない。少なくとも今のところは。
「……大丈夫かどうかは、残念ながらあなた次第。あなた誰? なんでここにいるの」
なんとか冷静を保てたけれど、ようやく出た声はかすかに震えている。
凛花はそんな自分に怒りを覚えた。今は怯えている場合じゃない。大声を出して、この男と闘う場面だ。
「鍵が掛かっていませんでした。いま掛けましたけど」
鍵を掛けたかどうかなんて覚えていない。部屋に辿りついた直後は、とにかく横になりたい一心だった。常の自分にあるまじき不用心さにさらに腹が立ったけれど、当然のような男の口ぶりに、怒りの矛先が変わる。
「鍵が掛かっていなくても、不法侵入していい理由にはならないでしょ」
返ってきたのは、意外にも素直な謝罪だった。
「すみません。昨日のことがあったので、つい」
「昨日のこと?」
問い返している途中で思い当たる。
「あなた、鈴木っていう人なの」
男は頷いた。凛花はわずかに警戒を解く。はっきりとした身元はわからないながら、とにかくこの男が誰なのかだけはわかった。
「うちのボスに幸太郎と私の共通の知人だって言ったみたいだけど、あなたのことなんて全然知らない」
「光井さんから、篠さんのことを聞いていました」
淡々と告げられて、凛花は胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「幸太郎から? 私のこと、なんて言ってた?」
それまで凛花の問いに応じていた男……鈴木が、初めて逡巡した。それから、ふいに気付いたように室内を見渡す。
「ずいぶん寒い部屋だ。エアコンをつけましょうか」
凛花の返事を待たずにリモコンを操作する。かすかに軋む音を立て、エアコンが温かい空気を吐き出し始めた。それから鈴木は横たわったままの凛花に歩み寄った。屈みこんで、凛花の額にそっと手を伸ばす。
初対面の男に触れられて、凛花は本能的な嫌悪を覚えた。咄嗟に鈴木の手を振り払って睨みつけ、あらためて容姿を目の当たりにする。
よく日に焼けた顔には無精ひげが散らばっていて、意外と整った造りをしている。年齢は自分と同じくらいか、少し下に見える。やや長めの黒髪は癖っ毛で、ラフな印象だ。
「熱はなさそうですね。それどころか冷え切っている」
凛花の反応を意に介さず、鈴木は立ち上がってリビングを出て行く。
凛花は半身を起こした。そのまま出て行ってくれ、と切実に願ってから、山辺の言葉をを思い出す。たとえ幸太郎の知り合いだったとしても、勝手に押し入ってくるなんてどう考えてもおかしい。山辺に連絡するより、確実に警察に通報すべき案件だ。
固定電話を引いておけばよかったと後悔しながら立ち上がってスマートフォンを探す。
屈みこんで床を見渡すと、テレビとソファの間に置いたローテーブルの下に転がっているのを発見した。
スマートフォンを手にしたとき、バスルームから水音がした。凛花は思わず振り返る。
なんであの人、他人の家にずかずか上り込んだあげく、勝手にバスルーム使ってんの?
呆気にとられていると、鈴木が再び現れた。
凛花からスマートフォンを取り上げて画面を見る。バッテリーは残り七パーセントだ。
「充電器は?」
「寝室にあるけど、さっきから一体なにをしてるんですか。勝手に入ってきて」
「風呂を沸かしました。早く温まらないと風邪を引く」
言っていることは正しいけれど、今の状況は正しくない。正しくないというより異常だ。
「指図しないで。っていうか、なんでここにいるの。今すぐ出て行って」
言い返しながらスマートフォンを取り戻そうとして、凛花は手首を掴まれた。外見に見合った男の力にハッとする。鈴木はスマートフォンをコートのポケットにしまうと、おもむろに凛花を抱え上げた。
犯される。
シンプルな恐怖に頭が真っ白になる。凛花はすぐに我に返って、捕獲された野生動物のように必死に抗った。
「離して! なにするの! やめて!」
精一杯もがいても逃れることはできない。鈴木はそのままバスルームへと向かう。暴れる成人女性一人を抱えているのに、足取りは全く揺るがなかった。
脱衣所に着くと、鈴木は出口をふさいで立ちはだかった。
「自分で脱ぎますか」
「馬鹿言わないでよ! なんで私が脱がなきゃいけないの!」
あいにくバスルームに窓はない。換気できないのは不便だったけど、防犯上、外から覗かれる恐れがなくて良いと思っていた。ただし今の状況では最悪だ。
鈴木は小さくため息を吐くと、モッズコートに手を掛けた。
「ちょっと失敬」
ひと言断ってモッズコートを床に落とす。それからワンピースの裾を掴んで一気に脱がせた。瞬く間に衣服を剥がれているうちに、凛花の胸に諦めと無力感がふっと宿った。
この時間帯だと隣人たちのほとんどは仕事に出ているし、施錠された密室では誰の助けも期待できない。鈴木との体格差や体力差も明らかだ。大声を上げて抵抗したところで、余計に痛めつけられて殺されるだけだろう。
だけど、それも悪くないのかもしれない。見知らぬ男にレイプされたり痛い目に遭わされるのは死ぬほど厭だけど、実際に死んでしまえばきっとなにも感じなくなる。力尽くで屈服させられた屈辱も痛みも、この胸を蝕む喪失感も、なにもかも全部。
私は幸太郎と時期を同じくしてテレビのニュースになるのだろうか、と思うと、可笑しくすらあった。
鈴木は抵抗を止めた凛花を測るように見つめ、バスルームに引っ張り込む。
「ゆっくり温まってください」
促されるまま、まだ三分の一ほどしか湯量のないバスタブに入る。それを見届けると、男は静かにバスルームを出て行った。凛花は首を傾げる。なにもされないに越したことはないけれど、不可解だった。
もうどうでもいいや、と凛花は勢いよく湯を吐き出す蛇口を投げやりに眺めた。
なにがなんでも生き延びようとする気力が湧いてこない。ほんの二十八年間生きてきただけだけど、あまりに多くを失ってしまった。
父親を亡くしたときは、もちろん悲しかった。
大切な人を人生で初めて失って、当たり前に訪れると疑わなかった未来が当たり前でなかったことを知った。
理不尽に母を奪われたときは、悲しさと同じくらいの怒りがあった。
それを受け止めてくれた幸太郎は、自分にとって特別な男性だった。
それまでにも友達以上恋人未満な男性は何人かいたけれど、本当の意味で深い関係になったのは幸太郎だけだ。
肉体的な意味合いだけでなく、精神的にも結びついていると思っていた。
だからこそ許せなかった。
ぼんやり思いを巡らせながら蛇口を眺めていると、バスルームのドアが開いた。
「なんで止めないんですか」
誰だかわかるから凛花は振り返らなかった。数秒後、ブラックデニムが視界を横切る。靴下は脱いだようで、きれいに切り揃えられた足の爪が見えた。
身じろぎひとつせず無反応な凛花の横に、鈴木は立った。蛇口を閉められて、バスタブから湯が溢れ出していたのに気付いた。
「頭だけ、こっちに出して」
声は聞こえるけれど、なにを言っているのか理解できない。微動だにしない凛花に業を煮やしたのか、鈴木は実力行使に出た。凛花の首筋に手を添え、バスタブの外に頭を出させると、シャワーをあてて髪を洗い始める。
バスタブに顔を付けられて溺死させられるのだろうか、と思っていた凛花は、内心首を傾げた。
行動は総じて強引なのに、武骨な手指は意外なほど優しかった。コンディショナーを念入りに洗い流すと、指に絡みついた髪を排水溝に流して口を開いた。
「いつまでも浸かっているようなら、身体も洗いますけど」
淡々とした鈴木の言葉に、凛花はカチンときた。
「なんなの、ゆっくり温まれって言ってたくせに。身体くらい自分で洗えます!」
それもそうか、という顔をして鈴木は出て行く。
あまりにも淡白な反応に凛花は拍子抜けした。あの男は一体なんなんだ、とあらためて思った。
女性として当然の心配をしたけれど、今のところ自分に害をなす様子はみられない。
もしかしたらものすごく潔癖症なレイプ犯で、風呂に入れてから暴行するつもりなのかもしれない。
好きにすればいい。積極的に逃げるつもりはない。生殺与奪権は鈴木にあるし、いっそ殺してほしいくらいの心境でいる。
人生最後の入浴になるかもしれないので、丁寧に全身を洗って風呂を出た。清潔な下着と、さっきまで着ていたワンピースを身につける。温まって身繕いしたら、気持ちが落ち着いた。
バスタオルで頭を拭きながらバスルームを出ると、鈴木はキッチンに立っていた。コートを脱ぎ、黒いタートルネックのセーターの袖をまくっている。その腕は凛花の脚とほとんど同じくらいの太さだ。服越しにも、しっかりとした筋肉がついているのがわかった。それが見せかけだけでないのは身を以て知っている。
「……おなかすいたの?」
殺されても構わないと思ってから、鈴木に対する恐怖心が消えた。
鈴木は幾つか買い置きしてあるパスタソースを手にして振り返った。
「クリーミー蟹トマトソース、具材ごろごろボロネーゼ、二種のチーズの本格カルボナーラ、スパイシーアラビアータ。どれがいいですか」
凛花は壁時計を一瞥した。十六時すぎだった。ランチには遅くディナーには早い半端な時間だ。もっともこれだけしっかりした体格なら、一日三回以上食べても不思議はない。
「私に訊かないで。あなたが食べたいのにすれば」
「僕が食べるわけじゃないので」
「じゃあ誰が」
「篠さんが」
当然、といった面持ちで応じる鈴木に、凛花は困惑した。
この男の言動が全く理解できない。どういうつもりでここにいるのか興味が湧いてきた。
「ねえ。目的は何?」
「今は篠さんに食事をさせること、でしょうか」
ぐらぐら煮立ったパスタ鍋に塩を入れながら鈴木は言った。
「質問を変える。なんのためにここに来たの? 昨日も今日も」
苛立ちを抑えて凛花は尋ねる。
「客観的に考えてみて。あなたがしていることはなにもかもおかしい。共通の知り合いがいるだけの他人の部屋を二日連続で訪ねて勝手に入ってきて、問答無用で脱がせてお風呂に入れて、頼みもしないのに食事の準備までして。わけがわからなさすぎる」
「問答無用で脱がせてはいません。ひと言断りました」
どうでもいい訂正を入れてくる鈴木に、凛花は眉を逆立てた。
「ひと言断ったって、ちょっと失敬って言っただけでしょ! ちょっとどころか、大いに失敬だし!」
パスタを一束手にしていた鈴木は、凛花の言葉を吟味するように視点を宙に定めた。それから凛花を見た。
「言われてみれば、確かに。すみませんでした」
「謝るより質問に答えてよ」
忍耐力を掻き集めて尋ねる凛花を、鈴木は凝視した。
「髪を乾かさないと風邪をひきますよ」
ごもっともな意見ではある。ただし、この状況で気にする人間はそう多くないだろう。
「そんなのどうでもいい。っていうか不法侵入してきた得体の知れない男性を前にして、そんなこと気にする女がいると思う? 何をされるかわからないのに」
パスタを調理台に置き、火を止めると、鈴木はゆっくり凛花に歩み寄ってきた。
無造作に凛花の手を掴むと、ソファまで連れて行って座らせる。
「ドライヤーはどこですか」
「バスルーム。って、ちょっと! 私の話聞いてた?」
「聞いてます」
バスルームへ向かう後姿に飛び蹴りを喰らわせたい衝動に駆られたけれど、座ってみて初めて自分が疲れていることに気付いた。凛花は深くため息を吐く。
たとえば幸太郎のことはただの口実で、無施錠で寝ていた不用意な女性宅に暴行目的で侵入してきたのだとしたら、とっとと目的を果たせばいい。なにをしたいのか全くわからないのが不気味だった。
まもなくドライヤーを手に戻ってきた鈴木は凛花の後ろに立ち、髪を乾かし始めた。
「ねえ! 自分で乾かせるから!」
温風とともに吐き出される騒音に負けないよう、凛花は声を張る。聞こえていないはずはないのに、鈴木はなにも答えない。
無防備に背中を晒しているから、首を締められて殺されたり、押し倒されてレイプされる可能性はじゅうぶんある。そうとわかっていても、凛花はそのままでいた。
数分後、乾いた髪を手櫛で整えると、鈴木はドライヤーをローテーブルに置いてキッチンに戻った。コンロの火を点け、凛花を見る。
「一番栄養がありそうなのは、具材ごろごろボロネーゼですね。これでいいですか」
凛花は会話を成立させるのを諦めた。この男には質問に答える気がないらしい。
なにがしたいのか、なにが目的か、幸太郎が自分のことをなんと言っていたのか、尋ねたことのなにひとつ、回答が得られていない。
「アラビアータ以外ならなんでもいい」
「嫌いなんですか」
「辛いの食べられない」
「それなら買わなければいいのに」
「だいぶ前に、うっかり買っちゃったの。幸太郎が好きだったから」
冷静な指摘にぽろりと応じてから、凛花は後悔する。何年も前に別れた男が好きだったものを買っておくなんて、未練たっぷりで痛い女以外の何者でもない。
鈴木はそれについて特にコメントせず、パスタを鍋に放り込んだ。
「どこで幸太郎と知り合ったの」
どうせまた答えないんだろうな、と思いつつも凛花は尋ねた。
「場所はよく覚えていません。ただ僕は、光井さんのおかげで救われました」
凛花はまばたきした。鈴木は自分の予想をことごとく裏切る。
「救われたってどういう意味で? 幸太郎、なにしたの」
「一番最初に訊かれた質問の答えですが、光井さんはあなたを心配して、りんたろうは大丈夫なんだろうかって言ってました。別れたあともずっと」
だいぶタイムラグのある返答に、凛花は胸が強く締め付けられるのを感じた。
懐かしい呼び方だった。幸太郎は気が強く男勝りの自分を、りんたろうと呼んでいた。
鈴木は確かに幸太郎の知り合いなのだろう、とようやく信じられた。
「光井さんには、なにも返せませんでした。代わりに篠さんに、その恩を返します」
「恩を返すってなに? まさか私の気持ちを無視して勝手に人の領域に踏み込んできて、一方的に世話を焼くことじゃないわよね?」
「脱衣所で急に大人しくなったのはどうしてですか」
凛花の皮肉に、鈴木は静かに応じた。
「抵抗したって無駄だから。力ではあなたに敵わない」
「それなら、不法侵入してきた得体の知れない男のいるリビングに戻ってきたのは? 逃げ出すことだってできたのに」
鈴木はパスタソースをレンジに入れながら言葉を連ねる。
「たぶん篠さんは自暴自棄になっている。どうなったって構わないって、そう思っている」
図星を突かれ、凛花は一瞬言葉に詰まる。
「僕はそんな簡単に、生きることを篠さんに諦めてほしくない」
凛花は突然理解した。理由はわからないけれど、この男はたぶん私を生かそうとしている。そう考えれば、いままでの滅茶苦茶な言動も納得できる。
まったく余計なお世話だった。
「本当に帰ってくれない? これ以上ここにいるようなら通報する。恩なんて知ったことじゃないし、私が生きようが死のうが、あなたには一ミリも関係ない」
「関係あります。僕は光井さんからあなたへの伝言を預かっている。それを伝える義務がある」
凛花は息を呑んだ。
別れて三年経ってなお幸太郎を引きずっている自分と同じように、他の女と結婚したあとも、幸太郎も自分のことを、ほんの少しは想っていてくれたのだろうか。
幸太郎が何を伝えようとしていたのか知りたい。反射的にそう思ってから、鈴木の行動パターンを振り返って冷静になる。
「どうせ教える気なんてないんでしょ。さっきから質問をはぐらかしてばっかりのくせに」
鈴木は物思わしげに凛花を見た。
「篠さんが本当に元気になったら教えます。絶対に。お約束します」
「そう。それならたったいま元気になりました。はい、早く教えて」
ムキになる凛花に、鈴木は無表情に言った。
「元気なら食べられますよね」
鈴木の言葉が終わるのとほぼ同時にレンジが鳴った。凛花はむくれた。