夜想島
「おうおう。ずいぶん派手なご面相になったな、篠」
ドアを開けるや否や、山辺は目を丸くした。無機質な病室の空気が、山辺の登場で一気に明るんだ。
音を絞ったテレビを眺めながらベッドサイドのパイプ椅子に座っている片瀬に目を留め、小さく一礼する。
「連絡ありがとな、鈴木さん。うちの部下が世話を掛けて申し訳ない」
片瀬は立ち上がって、パイプ椅子をベッドの足元へとずらす。
「いえ、そんな。連絡すべきか迷ったんですけど」
「してくれて良かったよ。まさかこんなことになってるなんて想像もしてなかったし」
遠慮なくパイプ椅子にどっかり腰掛けて、山辺は凜花を見下ろした。
「大丈夫か? いや、どう見ても大丈夫じゃねえな。まあでも生きててなによりだ。全治どのくらいなんだ」
うとうと微睡んでいた凜花は瞬時に眠気を振り払って、なんとか身体を起こす。
「ご迷惑ばかり掛けて本当に申し訳ありません。だいたい三週間だそうです」
恐縮する凜花を、山辺は呵呵と笑い飛ばす。
「俺より坂井に礼を言っとけ。仕事を全部追っ付けてきたからな。あいつも心配してたぞ」
凜花は物静かな副編集長の顔を思い浮かべ、罪悪感で胸いっぱいになる。
「本当に申し訳ありません。なるべく早く仕事に復帰できるように、頑張って治します」
「それはいいけどよ。あんま無理すんな。カネは大丈夫なのか」
迷惑ばかり掛けているのに、自分を案じる山辺の懐の深さに凜花はしみじみ感じ入った。
「ええ。病院内にATMもあるそうですし、クレジットカードも使えるそうです。入院費は押し負けて契約した生命保険で賄えそうです」
「ああ、あのおばちゃんな。俺も契約したわ」
社内に出入りする生命保険会社の女性はやり手と評判だったが、まさか山辺まで籠絡していたとは、と凜花は少し笑った。
「なにか飲みますか、山辺さん」
気遣う片瀬に山辺は顔を向け、コートの内ポケットから小銭入れを出す。
「じゃあ缶コーヒー買ってきてくれるか。できたらホットのブラックで。兄ちゃんも何か飲みな。篠よりよっぽどひどい顔してるぞ。篠もなにか飲むか?」
五百円玉を片瀬に手渡しながら、山辺は凜花を振り返る。
「いえ、私は大丈夫です」
凜花の答えを聞いてから、片瀬は静かに退室する。
ドアが閉まった十秒後、山辺は声を潜めて尋ねた。
「あいつが片瀬高志だな。ずっとお前に付き添ってんのか」
「ええ。この近くにウィークリーマンションを借りたみたいです」
山辺は低く口笛を吹いた。
「そこまでされたら、さすがに振り払えねえな。それでそばにいることを許してんのか」
「許すもなにも。片瀬さんがいなかったら私は死んでいました。助けてもらったあとも、献身的に世話をしてくれて。これで文句なんて言ったらバチが当たります」
そこまで言って、凜花は夜想島に伝わる宗教のことを思い出す。
御番主や御神体の話のベースにもなっていたが、自分を助けてくれた漁師も神罰の存在を信じているようだった。
神は人を罰するものではなく救うものだという恭二郎の言葉が真実なら、かすみは何のためにあんなに苦しまなければならなかったのだろう。
「訊いていいのかわからないけど訊くぞ。なにがあった?」
凜花は沈む気持ちを抑え、考えを纏める。
本当のことは話せない。かすみが話していたことが事実なのか確かめる術はもうない。自分を焚きつけるために吐いた嘘だったという可能性もじゅうぶんあり得る。
もしも事実だったとしても、あんなに暗く重い秘密を打ち明けるには躊躇いがあった。
どう説明すれば正確に伝わるのかもよくわからない。
「細かいところはよく覚えていないんです。ただ、幸太郎の奥さんはだいぶ参っていたようでした。連れて行っていただいた島の最北端の断崖で急に様子がおかしくなって、止めようとしたらこんなことに」
言葉を選んで答える凜花を、山辺は物思わしげに見た。
「そうか。えらい目にあったな」
状況的に疑われても仕方がないのに、自分の言葉をすんなりと受け止めてくれる山辺に凜花は感謝した。
全くの嘘ではないけれど、まるっきり真実でもない。かすみの話は自分が墓場まで持って行けばいい。
ふと思いついて、凜花はほろ苦く笑った。
「同じように崖から落ちたのに、私は生き残りました。幸太郎は結局かすみさんを選んだんです。生きているときも、死んだあとも」
あの二人はそれほどまでに強く結びついていた。
殺したいほどの憎しみも、死んでしまいたいと心の底から強く望むほどの激情も、自分の中には見当たらない。かすみはそれを抱え、最終的に願いを遂げた。敗北感とまではいかないが、敵わないと思い知らされた。
「お前は片瀬に引き戻された。それじゃ駄目か」
凜花は少し考えた。
「どうでしょう。よくわかりません。わかったのは、人の心に宿る感情は、ひとつだけじゃないということです」
自分が片瀬に抱く感情も、かすみが幸太郎に抱いていたであろう感情も、相反するものを同時に含んでいる。
「そりゃまあそうだな。俺も奥さんと喧嘩すると顔も見たくねえって思うけど、実際に顔を見ないと物足りねえ。普通そういうもんなんじゃねえのか」
思わぬ惚気に凜花は笑う。今度は混じりけのない笑みだった。山辺の愛妻家ぶりは社内でも有名だが、まさかこんな所でも発揮されるとは思わなかった。
「ごちそうさまです。奥さまによろしくお伝えください」
凜花の答えに山辺はにやりとする。
「おう、そうするわ。さてと。そろそろ行くか。うまくすれば、奥さんが起きてるうちに帰れるだろうし」
そう独りごちると山辺は立ち上がった。
「ええっ。もう帰るんですか」
あまりにも短すぎる滞在時間に凜花は目を剥いた。山辺が来てから十分くらいしか経ってない。
「悪りいな。さすがに二日は空けられねえ。坂井が過労死する」
実にもっともな意見で、凜花はうなだれた。
多忙な身で九州日帰り弾丸ツアーをする羽目になった山辺にも心からの申し訳なさを感じているが、仕事の負担を一身に背負わざるを得なくなった坂井には、申し訳ないという言葉では到底言い尽くせない。一体どれほどの迷惑を掛けたのか考えると、自己嫌悪で身の置き所がないくらいだ。
「坂井さんにもよろしくお伝えください。戻ったら私からもよく謝ります」
山辺はニッと笑った。
「謝る必要なんかねえよ。こういうのはお互い様だ。帰ってくるとき、かるかん饅頭でも買ってきてくれればそれでいい。退院の日程がはっきりしたら連絡してくれ」
「わかりました。そうします」
神妙な面持ちの凜花に頷いて、山辺は退室しようとする。
ちょうどそのときドアが開き、両手に缶コーヒーを持った片瀬が現れた。
今にも出て行こうとする山辺を見やり、不思議そうな顔をする。
「おっ、グッドタイミングだな。これ飲みながら帰るわ。篠を頼んだぞ」
そう言って一本だけ片瀬の手から取る。片瀬は小首をかしげた。
「もう行かれるんですか」
「篠の無事は確かめたからな。ここまで来て篠の遺体とご対面なんてことにならなくて、本当によかった。ああ、釣りは取っておいてくれ」
山辺は凜花をかえりみた。
「あんまりごちゃごちゃ考えすぎんなよ。今はとにかく治療に専念しろ。いいな」
凜花は素直に頷いた。それから頭を垂れた。
「わかりました、そうします。こんなところまで来ていただいて、本当にありがとうございました」
山辺は缶コーヒーを持っていない手を軽く振り上げて出て行った。
片瀬と二人きりになって、病室はいきなり静まり返る。
「……座らないの」
立ち尽くしたままの片瀬に凜花は声を掛ける。片瀬は少し躊躇ってからベッドサイドに歩み寄り、山辺が座っていたパイプ椅子に腰掛けた。
「具合はどうですか」
気遣う片瀬に凜花は小さく笑んだ。
「さっきと同じ。痛くて臭くて動けない。絆創膏を貼ってるほっぺが痒い」
片瀬は手を伸ばし、凜花の頬にそっと触れる。
「跡が残らなければいいんですけど」
思いやりに満ちた言葉に凜花は軽く唇を噛む。それから口を開いた。
「どうしてここまでしてくれるの。前に自己満足だって言ってたけど、ここまでくると、そんな域を軽く超えてる」
指先を凜花から離して、片瀬は考え込むように目を伏せた。
しばらく黙り込んだあと、凜花の目を覗きこむ。
「だけどやっぱり自己満足なんです。最初は贖罪のつもりでした。次第に生きる目的になりました。篠さんが幸せに長生きしてくれれば僕はそれでいい。いつか光井さんに代わる、心の拠り所となる人が篠さんの前に現れるまではそばにいます」
それは片瀬ではないのか、と凜花は思った。
片瀬は守護霊のようにそばにいて、時期が来たら身を引くつもりでいる。
許せなくて離れるつもりでいたのに、実際にいなくなる日を考えると胸が詰まった。
凜花が意識を取り戻した翌日、二名の刑事が病室を訪れた。
そのとき片瀬は病院内のコインランドリーの洗濯をしに行っていて外していた。
二人は身分を明かすと、ベッドサイドに立って凜花を見下ろした。威圧感とまではいかないが、なんとなく気圧されて、凜花は緊張を覚えた。
「いやあ、大変な目に遭いましたね。お怪我の具合はいかがですか」
最初に口を開いたのは年嵩の刑事だった。物柔らかな雰囲気だが冷徹な目をしている。
その隣にいる刑事は三十代初めくらいで、病室の様子をさりげなく窺っている。
おそらく警察官としての経験はじゅうぶんに積んでいるのだろうが、年嵩の刑事と比べると、尖った内面を包み隠す術は、ほんの少し及ばない印象を受けた。
もしかしたらこれは事情聴取なのだろうかと気後れし、凜花は口ごもる。
警察から事情聴取を受けたのは初めてだった。職務質問を受けたことも、生まれてこのかた一度もない。母が亡くなったときに、ほんの少しだけ関わりを持ったが、それはあくまで被害者側としてだ。
「ええ、おかげさまでなんとか」
後ろめたいことはないけれど、かすみの話を口にするつもりはやはりない。
「そうですか。では、少しお話を伺っても?」
「ええ。でも、あのときのことはあんまり覚えていないんです。三日間も意識不明だったせいだと思うんですけど」
予防線を張る凜花に、年嵩の刑事は口角を上げた。
「では覚えている範囲で結構です。どうして東京からはるばる夜想島まで?」
おかしな受け答えをしないように、凜花は少し考えてから答える。
「以前同僚だった人が亡くなったので、お悔やみを言いに行ったんです。その人の奥様が島内の観光に連れていって下さって、そのときに何かあったんだと思うんですけど。あいにく、そのあたりの記憶が曖昧で」
「光井かすみさんですね。亡くなった光井幸太郎さんとは親しくされていたんですか」
この刑事たちはどこまで知っているのだろう、と考えながら凜花は頷く。
「そうですか。そうですよね。でなければこんな遠くまでいらっしゃらないでしょうから」
同棲していたことをこの警官たちが知っているのだとしたら、自分は嫉妬に駆られてかすみを突き落とした容疑者と目されているのかもしれない。
実際には、幸太郎のかすみへの想いをこれでもか、と知らしめられて、なけなしの嫉妬などとっくに喪失していたし、いつしか幸太郎はそこまでの情熱を抱く対象ではなくなっていた。
人の心はあまりに儚くて、どれほど強い感情でも、時間の経過とともに少しずつ薄れていってしまう。
交流が絶えて二十年以上経ってなお、幸太郎に対して強い感情を持ち続けていたかすみの情念に、あらためて凄みを感じる。
凜花は思い切って尋ねてみた。
「あの。かすみさんはどうなったんですか」
片瀬や看護師は凜花の精神状態を慮ってか、あの一件については何も語らない。凜花としても口にするのが憚られて、ずっと訊けずにいた。
だけど波間を漂っていたかすみの姿が脳裏から離れることはなかった。あのまま海に取り残されていたとしたら、あまりに哀しい。
年嵩の刑事は凜花に目を当てながら応じた。
「篠さんを島の診療所に運ぶ途中、他の船がかすみさんを見つけました。その翌日に葬儀が行われました」
「そう、ですか……」
それならまだよかったのかもしれない。
かすみの魂はあの光の道を辿って、幸太郎がいるであろう場所へと向かったのだろう。凜花はそう思った。
「かすみさんは御主人を亡くしてだいぶ情緒不安定な状態だったと、近しい人たちは異口同音に仰っていました。篠さんはどうお感じになりましたか」
近しい人たちとは誰だろう、と思いつつ、凜花は慎重に言葉を選ぶ。
「ええ。確かに参っているようには見えました。だけど私に親切にしてくれました。帰る予定だった日に船が欠航になったと知って、わざわざ旅館にまで来ていただいたし、買い物にも付き合ってくれました」
あれが自分の警戒心を解くための芝居だったとしても、優しくしてくれたことに変わりはない。
「なるほど。わかりました。お身体が大変な時にお話をして頂いて有難うございました。どうぞお大事になさってください」
話を切り上げられる気配を感じて、凜花はまばたきする。
「これって事情聴取だったんですよね? こんなにあっさり終わって大丈夫なんですか」
疑われているであろう自分が心配すべきことではないし、完全に余計なお世話だ。
そうとわかっていても、思わず訊いてしまった。
直球の質問に、年嵩の刑事が苦笑する。
「そんな、事情聴取と言うほどのものではありません。ですが人が亡くなっている以上、その場に居合わせていた人にお話を伺わないわけにはいきませんから」
そんなものなのか、と凜花は拍子抜けした。
疑われて執拗に質問されるのはイヤだけど、人が一人死んでいるのだ。
もう少し根掘り葉掘り訊かれてもよさそうなものだが、もしかしたら他の人の証言が多少なりとも作用しているのだろうか、と勘繰った。
立ち去ろうとドアへと向かっていた若い刑事が、ふと振り向いた。
「ああ。そういえば篠さんのお母様は、方舟の会の爆破事件でお亡くなりになっていたんでしたね。今回の件といい、お若いのに色々と大変な目に遭われているんですね」
身元を調べれば簡単にわかることだから、刑事が知っていても不思議はない。
それでも、不意に投げられた変化球に、どう応じるべきか戸惑った。
結局ありのままを言った。
「ええ、そうですね。だけどこうしてなんとか生きています。こうなって、自分が独りではないと気付かされましたし」
かすみに殺されそうになったとき、自分が死んで哀しむ人間などいないだろうと思った。
だけどそうじゃなかった。
ずっとそばにいてくれた片瀬はもちろん、東京からはるばる自分を見舞いに来てくれた山辺の有難味を、今回の件であらためて認識した。
年嵩の刑事がふっと笑んだ。
「どんな物事にもいいことがあるというわけですか。ずっと付き添ってくださる恋人もいらっしゃるそうですし。彼は今どちらに?」
恋人ではなくて方舟の会の次期指導者に指名された男です、とはもちろん答えない。
凜花は何気なさを装って微笑んで見せた。
「洗濯をしに、コインランドリーまで」
自分が神成聖光の息子と一緒にいると知ったら、この刑事たちはどう思うのだろう、と思った。
だけど他人は関係ない。肝心なのは自分の気持ちであり、片瀬の気持だった。
間違っていると言われたとしても、それを決めるのは他人ではないのだから。
「そうですか。優しい恋人がいらしてなによりですね。お怪我も早く良くなるでしょう。それでは、お邪魔しました」
刑事の姿が病室から消えたあと、凜花は身体の力が抜けるのを感じた。無意識に身構えていたのだろう。ほんの短い時間でどっと疲れた。山辺とそう変わらない滞在時間だったが、緊張のベクトルは全然違う。
それからかすみを想った。
たとえ罪を犯していたのだとしても、かすみを断罪することは自分にはできない。
それを決めるのは幸太郎で、たぶん幸太郎はかすみを許しているのではないか。
なんとなくそう思った。
恭二郎が見舞いに訪れたのは、凜花が意識を取り戻してから三日後の日曜日だった。
回復具合は目覚ましく、前日の土曜日には自分の足でトイレに行けるようになっていた。
もちろん松葉杖は必須だが、このまま行けば予定より早めに退院できるだろうと、医師から太鼓判を押されたくらいだ。
とは言え、ほんの少し歩いただけで疲れてしまう。恭二郎が見舞いに訪れたとき、凜花はうとうとしていた。
片瀬は倦まずにベッドサイドのパイプ椅子に腰掛けて、凜花のリハビリスケジュールを書いた用紙を眺めていた。
「お邪魔します。体調はいかがですか」
昼下がりの病室に現れた恭二郎の手には、小さな花篭入りの花束がある。
思いもよらぬ訪問者に、凜花は驚いて身を起こした。
「恭二郎さん! こんなところまで来ていただいてすみません」
「いえ、そんな。つまらないものですがどうぞ」
凜花を痛々しそうな目で見ながら、恭二郎は暖かい色合いの花束を差し出した。
片瀬が立ち上がって受け取り、枕元のサイドボードに花篭を置く。それからパイプ椅子を恭二郎に勧めた。
恭二郎は首を振ってベッドの足元に立ち、深々と頭を下げた。
「こんなことになってしまって、本当に申し訳ありませんでした」
凜花は慌てた。
「とんでもない。どうか頭を上げてください。恭二郎さんに謝っていただくことなんて、なにひとつありません」
実際に、恭二郎がいなければ自分は死んでいたかもしれない。
「だけど僕のせいです。かすみさんと兄の間になにがあったのか薄々察していたのに、僕は目を逸らしてしまった。きちんと追求していれば、篠さんがこんな目に遭うことなんてなかったはずです」
恭二郎は顔を上げながら思い詰めた口調で言った。凜花は恭二郎を見上げ、沈鬱な表情を認めた。
「あの一件は事故として片づけられそうです。通り一遍の捜査から、かすみさんと篠さんが足を滑らせて崖から転落したということで決着しそうな気配を感じます」
夜想島には物騒な事件などない、と言っていた誠治を凜花は思い出す。
これまでも、そしておそらくこれからも、あの島に事件は存在しない。
代わりに神と呼ばれる何かが存在し、様々な出来事を包みこんでいくのだろう。
「ここにも刑事さんが来ましたけど、近しい人たちがかすみさんは情緒不安定だったと話していたと聞きました。そのせいもあるのでしょうか」
凜花がそう言うと、恭二郎は口元を引き締めた。
「そうかもしれません。こうなった今となっては、実際にかすみさんが兄を殺したのか、真相は闇の中ですが。今回の件もあのときと同じように処理されていくのでしょう」
少し躊躇ってから、凜花は恭二郎に尋ねた。
「こんなことを訊くのはどうかと思いますが、恭二郎さんは幸太郎さんの件についてどうお思いですか?」
かすみが口にしていたことは、恭二郎にも話すつもりはない。ただ、恭二郎がどう思っているのかが気になった。
恭二郎は目を伏せ、それから一度は辞退したパイプ椅子に座った。大きく息を吸うと、凜花の顔を直視する。その眼は怖いほど真剣で、凜花は息を呑んだ。
「これから話すことは、口外しないと約束して頂けますか」
そこまで言うと、恭二郎は言葉を切った。凜花は頷いた。
恭二郎が何を話すつもりかはわからない。だけど何か重要なことであるのはわかった。
「僕は外しましょうか」
気遣う片瀬に恭二郎は首を振る。
「いいえ、片瀬さんもいてください。お厭でなければ」
片瀬は無言でベッドの隅に腰を下ろした。
しばらくの間、室内は沈黙に包まれた。やがて恭二郎が口を開いた。
「夜想島には古くから伝わっている宗教があると前にお話ししました。御番主や御神体の話は覚えてらっしゃいますか」
「ええ。かすみさんからも聞きました。その、御霊抜きのお話も」
躊躇いつつも凜花が言い足した言葉に、恭二郎は息をつく。
「そうでしたか。かすみさんはそんなことまで」
そう呟いて、恭二郎はメガネのフレームに指先で触れた。
「あの儀式で何があったのかも?」
「……かすみさんが途中で逃げ出したことですか」
恭二郎は問い返した凜花の顔に目を当てたまま軽く頷いた。
「そうです。かすみさんは逃げ出しました。彼女の立場からしたら当たり前です。かすみさんは当時、兄と付き合っていました。その人の父親に人前で抱かれるなんて、どう考えても非人道的なことです。宗教的にはどうでも、普通に考えたら許されることではない。それでもかすみさんは御霊抜きに臨もうとした。いずれは結婚するつもりでいた兄が早逝するのを防ぐためだったんでしょう。歳を重ねるにつれて、そのときの彼女の心境を思うと居たたまれない気持ちになりました。だけどあのときは、かすみさんの行動が理解できなかった。そして今現在でも、父を始めとする年長者たちには理解できていない。彼らからすると個人の気持ちより、しきたりを守ることが重要視されているからです」
訥々とそこまで語ると、恭二郎は深々とため息を吐いた。
「当時の兄もそうでした。御霊抜きから逃げ出したかすみさんに対して疑問を投げかけたそうです。兄からしてみたらあれはやり遂げるべき儀式で、それを中断したかすみさんが理解できなかったのでしょう。それをきっかけに破局しました。あの二人をふたたび結びつけたのは片瀬さんの存在があったからです。もちろん篠さんも」
思わぬ言葉に、凜花と片瀬は同時に首を傾けた。
「どうして私たちが」
口を開いたのは凜花だったが、同じ疑問は片瀬の表情にも浮かんでいる。
「篠さんのお母様になにがあったのか、兄から聞きました。どうして急に夜想島に戻ってかすみさんと復縁することになったのか、僕が尋ねたときのことです。あの事件は当然僕も知っていたので驚いたものです。もちろん僕は片瀬さんの存在も知っていました。想像もしていなかった現実を突然押し付けられて、そこから生活が一変したという話も聞きましたし、あの記事も読みました」
凜花は目を見開いた。
確かに、二十年も関係を断っていたかすみに、幸太郎が会いに行こうと思った理由は、気にはなっていた。
かすみを運命の人と思い定めていたとしても、二十年という歳月を経てから戻る決意をするには、それ相応のわけがあったはずだ。
自分と別れたことが、なにがしかの発端になったのかもしれないとは思っていたけれど、まさかあの記事の話がここで出てくるとは思わなかった。
「兄はあの記事を書きながら、逃れられない宿命に囚われる理不尽さをつくづく感じたと言っていました。篠さんと破局したあとかすみさんに会いに来たのは御霊抜きの件で彼女を責めたことを詫びるためだったそうです。兄は兄なりに、割り切れない思いをずっと抱え続けてきたのでしょう。かすみさんはその謝罪を受け入れて、それから二人は、空白の二十年を埋めるように急接近しました。長年避けていた島の暮らしに戻るのを良しとしたくらいに、兄のかすみさんに対する気持ちは強かったんだと思います」
そういうことだったのか、と凜花は納得する。次に疑問が湧いた。
「幸太郎さんは御霊抜きについてどう思っていたんですか? 私の感覚からすれば、好きな女性が他人と性交渉を余儀なくされたうえ、それを目前にしなければならないというのは、精神的に相当きついと思うんですけど」
凜花の問いに、恭二郎は視線を宙に定めた。
「そこのところについて兄と話したことがないので、正確なところはわかりません。ただ僕の見たところでは、御霊抜け直後の兄は相反する理由から、かすみさんに複雑な感情を抱いていたような気がします。御神体だった彼女が儀式を途中で投げ出したことに対する疑問と、恋人だった彼女が自分の前で他の異性……それもよりによって自分の父親と性的な行為を受け入れようとしていたことに対しての不快感。どちらも理解できなくはありませんが、兄はかすみさんにその気持ちをぶつけるべきではなかった。絶対に」
幸太郎には幸太郎なりの苦しみがあったと凜花は初めて知った。
それが幸太郎にとっての逃れられない宿命だったのかもしれない。
そこから逃げ出そうとして一度は島を捨てたけれど、結局は戻ってきた。かすみがいたからだ。どんなことがあっても二人は離れられない運命にあったのだろう、と思った。
「もっとも、そんなことを言える立場にないことはわかっています。僕はなにもしなかった。疑問を持っても、ここではこれが当たり前なのだから、と目をつぶり続けてきました。僕だけじゃなく、この島の住人は、ずっとそれを良しとしてきました。だけど、もう変わらなきゃいけない。そういう時期に来ているんです。ようやくそれに気が付きました」
恭二郎はそう言うと、目元をきりっと引き締めた。
「もうじき僕は父の跡を継いで御番主となります。この島に伝わる信仰を守り続ける意思はありますが、変えるべきところは変えていきます。それが僕に課せられた宿命なのかもしれません。宗教は本来、人の救いとなるべきものです。決して人を苦しめるためのものではない。生涯を賭けて僕はそれを証明していきます」
「私を助けてくださったときも、そんなようなことを仰ってましたね」
朦朧とする意識の中でも、恭二郎のあの言葉は強く凜花の記憶に焼き付けられた。
凜花に視線を合わせ、恭二郎は頷く。
「あのとき悟ったんです。本質を見失ってはならないって。今もそう思っています。今回の件を無駄にしないために、僕ができることはそれなんじゃないかって。御霊抜きにしても、見直す時期に来ているのはとっくにわかっていました。いくら儀式とはいえ、僕は幼い女の子と交わる気には、どうしてもなれません」
凜花は恭二郎を見返した。
恭二郎が言っていたように、幸太郎の死の真相が明らかになることはないだろう。
殺人を告白した当人は亡くなってしまったし、島民たちはきっと事をつまびらかにするのを良しとしない。
第三者が知れば、幸太郎は殺され損ではないか、と思うかもしれない。
だけど、この出来事が何かを変えるきっかけになるのなら、幸太郎の死は無駄にはならない。
それが正しいか間違っているかはわからないけれど、何かが変わることによって、苦しむ人が減るのなら、それでいいのではないかと思えた。
気遣う言葉を残して、恭二郎も三十分としないうちに病室を後にした。
片瀬と二人きりになった凜花はサイドボードに残された花篭を眺めながら、さっきまでの話を思い返していた。一人で抱え込むにはあまりに重い内容で、傍らにいた片瀬に声を掛ける。
「ねえ、どう思った? 恭二郎さんの話」
恭二郎が現れる前と同じようにリハビリのスケジュールに目を落としていた片瀬は凜花を見た。
「篠さんは?」
問い返されて、凜花は口を噤む。それからため息を吐いた。
治療以外にすることのない長い時間でできることは限られている。
凜花は今回の出来事をずっと頭の中で反芻していた。それで気が付いた。
人はそれぞれ地獄を背負って生きている。
自分は近しい人を喪い続けて、よりによってその原因となった人間の実子に複雑な感情を抱く破目になった。
片瀬は彼の与り知らぬところで起こった事態に苦しめられて、それまでの生き方を捨てることを余儀なくされた。
幸太郎は脈々と受け継いだ立場ゆえに、愛した女と幸せに生きることができなかった。
かすみは避けられない宿命に飲み込まれ、最終的に命を落としてしまった。
大半は自身に咎のないことなのに、それを背負わざるを得ない状況に陥ってしまった。
「よくわからない。恭二郎さんを肯定的に捉える気持ちもあるし、幸太郎やかすみさんが気の毒な気もする。かといって、かすみさんが幸太郎を殺したのなら許せないし、法に裁かれるべきだったんじゃないかって気もするし、裁くのは法じゃないんじゃないかとも思うし、とにかく全部がぐちゃぐちゃで」
心の内をそのまま打ち明けた凜花から目を離さずに、片瀬は口を開いた。
「僕にもよくわかりません。あの話をどう受け止めるべきか、どうすれば正しいのか、正しいって一体なんなのか。だけど時間を巻き戻せない以上、できることは限られています。恭二郎さんの選択を間違っているとは、僕は思えません」
「そうだね。私もそうは思えない」
戻れないなら進むだけで、進む先の正しさは人それぞれ違う。たったひとつの正解など存在しない。
もしも存在するのなら、それはより多くの人が幸せになれる方法なのではないか、と凜花は思った。
神と呼ばれる存在は、時によって人を幸せにすることもあるのかもしれない。
だけど最終的に自分を幸せにできるのは自分だけだと悟った。
その方法は人によって違う。当たり前だ。背負っている物がそれぞれ異なるのだから。
「片瀬さんの選択って何? 影となり日向となり私を支えて、他に私を支えてくれる人が現れたら姿を消すこと?」
片瀬は凜花から目を逸らさず、微かに頷いた。
「それぐらいしか出来ることがありません」
「それじゃあ私の気持ちはどうなるの。いきなり現れて、勝手な判断で消えて。それで私がどう思うかなんて、お構いなしなの」
食って掛かるように訴える凜花に、片瀬は静かな眼差しを向けた。
「それなら聞かせてください。篠さんの気持ちを」
「わからない。自分でもおかしいと思うけど、許せないって思う気持ちも、いなくなったら寂しいって思う気持ちも本当で、どっちかひとつだけじゃない」
これじゃあまるで駄々をこねてる子どもみたいだ、と凜花は頭の隅で自分に呆れた。
いつから自分はこんなふうに片瀬に甘えるようになっていたのだろう。
初めての大怪我で無意識のうちに気弱になって、身近にいる人間に依存しているだけなのかもしれない。
自分の立場を嵩に取るようにして片瀬を拘束しつづけるのは、ただのエゴでしかないとわかっている。
亡き母が片瀬の身元を知ったら、どう思うのかも気になるところだ。
一緒にいるべきではない理由ならいくつでも思いつくのに、それでもいてほしいと願うこの気持ちに名を付けるとしたら、執着か、甘えか、依存か、エゴか。
それとも、それらすべてをひっくるめた感情なのか。
しばらく黙っていた片瀬が口を開いた。
「それなら、わかるまで篠さんのそばにいます。勝手に消えたりしません。約束します」
「本当に?」
「本当に。もともと篠さんの怪我がよくなるまで一緒にいるつもりでした。ゆっくり考えてください」
途端に安堵する自分の現金さに凜花はさらに呆れたが、片瀬の言葉に甘えて、ゆっくり考えることにした。
自分なりの正解を探すために、少しでも長く生きよう。凜花は片瀬を見返しながらそう思った。
それは図らずも片瀬の望みと一致している、と不意に気付いた。
どういう結末を迎えるにしても、生きていれば感情を書き換える機会はいくらでもある。
わからないことばかりのこの状況で、それだけははっきりとわかった。