夜想島
我が目を疑うとはこのことか。疑っているのは目だけではない。耳もだ。
シャワーを終え、リビングで朝の情報番組を眺めながら髪を拭いていた篠凛花は、他人事のように考えた。手は止まり、視線はテレビの画面に吸い込まれている。十一月初めの肌寒い室内にバスタオルを巻いただけの姿でいるのに、気温など気にならなくなった。
『男性が崖から転落して死亡しているのを、付近の住人が発見しました。
五日午前六時前、鹿児島県薩摩川内市夜想島の山中で、フリージャーナリストの光井幸太郎さん(三十歳)が頭から血を流して倒れているのを、通りかかった付近の住人が見つけました。
光井さんは仰向けに倒れた状態で、頭部に傷があり、その場で死亡が確認されました。
検死の結果、死因は頭部を強く打った外傷によるものだったことがわかりました。
光井さんは現場から徒歩五分ほどの所に住んでいて、争った形跡はなかったということです。警察は、事件と事故の両面で調べを進めています』
今日は六日だから、およそ二十四時間前のことだ。まずそう思った。話題がとっくに変わっても、ほんの短いニュースが頭の中をぐるぐると占めている。
昨日の深夜に校了したとはいえ今朝は九時から企画会議で、出勤時間が迫りつつある。それなのに身体が動かない。
仕事を疎かにしたことは一度もない。夢だった出版社の採用試験は全滅だったけれど、大学二年からバイトしていた編集プロダクションに正社員の職を得て、情報誌の編集に携われたのだ。それから六年間、有給休暇もほとんど使わず、仕事に没頭してきた。
女手一つで育て上げてくれた母を思いもよらぬ出来事で失った後だって、忌引き休暇の翌日から、いつも通り出勤していた。
それは幸太郎がいたからだ。他人には弱さをさらけ出せない自分でも、幸太郎の前では思いっきり泣けた。たった二歳年上なだけだったのに、幸太郎には歳に見合わぬ包容力があった。涙が止まるまで抱きしめていてくれた。
それなのに、その幸太郎が亡くなるなんて。
そんなわけがない。昨日は日付が変わってから帰宅して、四時間しか眠っていない。だからきっと抜けきらぬ疲労のせいで見間違えた。そうに決まってる。
髪先からぽたぽた垂れる水滴に頓着せず、凛花は震える手でスマートフォンを取った。
光井幸太郎で検索してみる。ニュースと全く同じ内容の記事がヒットして、凛花はその場に膝をついた。
かつてはこの部屋で一緒に暮らしていた。三年前に別れてからは一度も会っていない。
だけど、と凛花は思った。
気持ちに蓋をして目を逸らしてきたけれど、私は心のどこかで幸太郎が戻ってくるのを待っていた。仕事を言い訳にして、ずっと新しい恋へと踏み出さずにいた。
未練たらしくて女々しい自分にうんざりしながらも、ずっと幸太郎を引きずっていた。
一年ほど前にフェイスブックのタイムラインで、幸太郎が生まれ故郷の九州の離島で結婚したと知ったときには、想像以上の精神的ダメージを受けた。
そんなの本当は大したことじゃなかった、と今さらわかった。
遠くに引越そうが、他の女と結婚しようが、幸太郎は生きていた。今は違う。
百六十五センチの自分とさしてかわらぬ小柄な体も、決してかっこよくはないけれど笑うと愛嬌のある顔も、全く飲めないのにどんな飲み会でも一番の盛り上げ役になる明るい人柄も、日常生活でもコミュニケーション力の塊みたいにオープンで人を魅了するおおらかな性格も。なにもかも全て、この世から消え去ってしまった。
ふいに息苦しさを覚え、凛花は喉元を抑えてうずくまった。
この感覚は知っている。四年前、思いもよらぬ形で唐突に母を亡くした直後も、同じように過呼吸を起こした。
あのときは幸太郎が、落ち着くまでずっとそばにいてくれた。それなのに今は一人だ。
息ができない。苦しい。苦しい。幸太郎。どうしてそばにいてくれないの? どうして亡くなったりしたの? 答えの出ない問いで、頭の中がいっぱいになる。
凛花は浅く不規則な呼吸を繰り返しながら倒れ込んだ。いつしか意識を失った。
「あれ? 篠はどうした?」
色校や資料が乱雑に積まれたデスクから、編集長の山辺遼平はオフィス内を見渡した。
あと数分で企画会議が始まる。いつもなら一時間前には出社しているはずだ。どんなにハードなスケジュールでも交通機関の遅延以外で凛花が遅刻したことはないし、そういう場合は必ず連絡を入れてくる。
「まだ出社してないみたいです。寝坊でもしたんじゃないですか」
半年前に入ったバイトが軽く応じる。山辺はバリバリと頭を掻いた。三年前、四十代に突入したころから、短く刈りあげた髪に白いものが目立ってきた。ついでに腹も出てきた。
「馬鹿。三十九度近く熱を出しても、親が死んでも、時間通りに出社するようなやつだぞ」
勤務時間が不規則で、離職率の高いこの業界で生き残っていくのは生半可なことではない。体力と根性と熱意が平等に求められ、プライベートは無きに等しい。凛花はバイトの期間を含めたこの八年もの間、真摯に仕事に取組み、着実に実力を身に着けてきた。
これが入社後初の寝坊である可能性はもちろんある。それならべつに構わない。
もしもそうじゃなかったら?
何年か前に同棲を解消してから、凛花が一人暮らしなのは知っている。深刻な急病や、トラブルに巻き込まれて身動きの取れない状態にある可能性もじゅうぶん考えられる。
以前、年若い同業者が就寝中に突然死したのが脳裏をよぎった。
凜花は自宅に固定電話は引いていないので、携帯電話にかけてみる。応答はない。山辺は舌打ちをし、副編集長の坂井に声を掛ける。
「坂井。今日の会議は俺抜きで進めておけ。あとで報告をまとめて伝えろ」
自席でパソコンに向かっていた坂井は視線を上げた。山辺より一つ年下の坂井は思慮深く落ち着いた男で、同性のパートナーがいる。数秒の間を置いて、坂井は口を開いた。
「どうかしたんですか」
「篠と連絡が取れない。ちょっと様子を見てくる。住所を出してくれ」
坂井は無言で目を見開き、すぐに社員リストから凛花の住所をプリントアウトした。
「ありがとう。なるべく早く戻る」
山辺は紙を鞄にしまって出て行こうとし、すぐに引き返してコートを手に持った。上着なしでは厳しい季節だ。コートを羽織りながら、急ぎ足で駅へ向かう。
凛花に対して男女としての特別な感情は一ミリもない。十年以上連れ添った妻と、来年中学校に入学する一人娘以上に大切な存在など、この世に存在しない。
けれど自分が娘を持つ父親だからだろうか、職場で紅一点の凛花を、ついつい気にかけてしまう。甘やかしたことは一度もないつもりだが、右も左もわからない状態から主戦力にまで這い上がってきた凛花は大切な同僚だ。
苛々しながら三十分ほど電車に乗り、地図アプリを頼りに凛花の家を探しあてた。
駅前の商店街を通り抜け、十五分ほど歩いたところにある四階建てマンションだ。
くすんだ外壁の色などから、だいぶ年季が入っているのがわかる。凛花の部屋は二階だった。マンションの前でスマートフォンをチェックする。もしも凛花が出社していれば、本人もしくは坂井から連絡が入っているだろう。
着信履歴はなかった。念のため、もう一度凛花の携帯電話を鳴らす。留守番電話に切り替わる前に通話終了ボタンをタップした。
階段を駆け上がってドアの前に立ち、インターフォンを連打した。反応はない。
山辺は息を切らしつつ眉をしかめた。よくない兆候だ。さらに連打する。やはり無反応だった。思い余ってドアをガンガン叩いた。
「おい篠! 山辺だ! いるんなら出て来い! 篠!」
呼び掛けても変化はなかった。管理人か大家に連絡を取って鍵を開けてもらうしかない。
そう考えながら振り返ったとき、山辺は人の姿を見い出した。おそらく隣人なのだろう。隣室の前の通路で山辺を窺っている。
がっしり背の高い、二十代前半の男だった。黒いモッズコートとカーゴパンツを身に着け、きりっと整った顔はよく焼けている。その外見から、肉体労働者だろう、と判断する。
どことなくひっそりとした雰囲気で、黒ずくめの服装も相まってか影法師を思わせた。
「お隣のかたですか。朝からお騒がせしてすみません。部下が出社してこなかったもので、様子を見に来ました」
軽く頭を下げる山辺に、男は小さく首を振る。
「僕はここの住人ではありません。共通の知人が亡くなったので、篠さんは大丈夫か心配になって寄ってみました」
豪快そうな見た目に反して慇懃な口調だった。山辺はまばたきし、おうむ返しする。
「共通の知人が亡くなった?」
「ええ、光井さんという人です。今朝のニュースで知って、それで」
「光井? 光井ってまさか、光井幸太郎ですか? ジャーナリストの」
男の言葉に被せるように山辺は尋ねた。男は頷いた。山辺の口から呻き声が洩れた。
光井はかつて山辺の部下だった。独立してフリージャーナリストになったあとも、年に数回は連絡を取っていた。出身地の島に戻ってからは顔を合わせる機会が激減したけど、今も友人と呼んで差支えない関係だ。凛花の同棲相手だったことも山辺は知っていた。
山辺の焦燥が濃くなった。何年も前に別れた男に殉じるとは考え辛いが、二人は睦まじく暮らしていた。ショックを受けて、おかしなことを考える可能性も否定しきれない。
光井は凛花を大切にしていたし、凛花は光井を頼りにしていた。互いに愛し合っていた。
あんなことがなければ今ごろ所帯を構え、子どもの一人や二人くらいいたかもしれない。
山辺はもう一度ドアを叩く。それから男を見た。
「ハチ公よりきっちり出社する篠が無断欠席するのも、こんなに連絡がつかないのも、ただごとじゃありません」
男は口元を引き締めた。
「管理会社に連絡しましょう。集合ポストのそばに電話番号が書いてありました」
そんなものによく気付いたな、と、山辺はこんな場合にも関わらず感心した。管理人室が見当たらないことは認識していたけれど、集合ポストになんて目もくれなかった。
山辺は男とともに一階まで引き返し、管理会社に電話を掛けた。
しばらくすると作業着姿の管理人が現れた。小太りで、見るからに人の良さそうな男だ。
三人は足早に凛花の部屋に向かった。管理人が眉を曇らせながら鍵を開ける。
「篠さん? いらっしゃいますか?」
ドアを開けながら管理人が呼びかける。反応はやはりない。幸いチェーンはかかっていなかった。自分たちは凛花の死体の第一発見者になるのでは、と山辺は縁起でもないことを考え、ぶるぶる首を振る。
山辺の後ろに控えていた黒いモッズコートの男が素早く室内に入った。
頑丈そうなブーツを履いたまま奥へと突き進む。大きな体に見合わぬ俊敏な動きだった。
「おい、あんた!」
呼び止めたあと山辺は管理人と顔を見合わせ、それから男の後に続いた。靴は脱いだ。
テレビの音が漏れ出すリビングにおっかなびっくり入った山辺は、先に入った男が屈みこみながらモッズコートを脱ぎ、倒れ込んでいる凛花に掛けているのを目にした。
下に着ていたVネックのセーターも黒だった。黒が好きなのかもしれない。
現実逃避的にどうでもいいことを考えてから、山辺は恐る恐る尋ねた。
「……篠は大丈夫か」
男は頷いた。床に膝を突いて、日に焼けて荒れた手のひらを凛花の手首に添える。
凛花の顔は真っ白で血の気がない。風呂上りに倒れたのだろうか、モッズコートの下から素肌がのぞいていた。山辺は慌てて目を逸らした。
「とりあえず、呼吸や脈はしっかりしているようです。救急車を呼んでください」
男の言葉に、呆然としていた管理人は慌てて携帯電話を取りだして一一九を押す。
今の状態や詳しい住所を伝える管理人を横目に、男は凛花からそっと手を離した。
凛花に掛けたモッズコートのポケットからスマートフォンや財布などの私物を取り出し、立ち上がって山辺を見た。
「すみません、僕はもう行かなければ。図々しいお願いで恐縮ですが、篠さんがどうなったか、後で教えていただいてもいいですか」
「名前と連絡先を」
男は鈴木と名乗り、携帯の番号を告げると静かに退室した。部屋を出る前に、凛花を振り返る。案じるような、想いのこもった眼差しに、山辺はなぜかドキリとする。
鈴木とほぼ入れ違いに救急隊員が現れた。手際よく凛花を搬送し、付近の救急病院へと運び込む。同乗した救急車の中で、山辺は鈴木と名乗った男について考えた。
光井と別れて何年も経つから、凛花に新しい恋人がいても不思議はない。もしくは鈴木が一方的に想いを寄せているだけなのかもしれない。
二人の関係性は不明だが、鈴木の気持ちだけは明らかな気がした。
精密検査の結果、凛花は心因性の過呼吸を起こし、蓄積した疲労もあって意識を失ったものと診断が下された。身体上の異常は認められず、一晩入院して栄養剤の点滴を打たれ、翌日には退院した。たっぷり眠ったせいか、体調だけはだいたい元通りだ。
「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありませんでした」
会計を終えた凛花は山辺に深々と頭を下げた。
編集長として多忙を極めているのに、自分のために二日も時間を取らせてしまった。
文字通り身ひとつで入院したため入院費を立て替えてもらう破目にもなってしまったし、山辺の妻に着替えの用意までしてもらった。ユニクロの値札がついたスウェット地のワンピースと下着、厚手のタイツなどだ。大きめの黒いモッズコートだけは新品ではないようで、人の着た気配がある。見覚えはないけど山辺のものだろうか、と凛花は思った。
値札はモッズコートのポケットにしまった。あとで洋服代を返さなければならない。
「そんなの気にすんな。それとお前、しばらく休職しろ」
出口に向かいながら山辺は言った。山辺の後を歩いていた凛花は驚いて立ち止まった。
「休職……ですか。それってもしかして」
私はもういらないって遠まわしに言っているんでしょうか。そこまで口に出せず、語尾は尻すぼみに消える。振り返った山辺は、強張った表情の凛花に軽く笑う。
「深読みすんな、馬鹿。言葉どおりの意味だ。お前は入社してからずっと突っ走ってきた。お母さんをあんなふうに亡くした後もずっと。自覚してなかっただけで、いろんなものが鬱積してたんだろう。だからしばらく休んで英気を養え」
言葉に詰まって、凛花は俯いた。山辺の心遣いが有難かった。
「ただし一ヶ月だけだ。年末進行から逃げられると思うなよ」
にやりと笑う山辺に、凛花はぎこちなく口の端を上げた。
「ありがとうございます。わかりました、そうします」
昼前なのに薄暗いとは思っていた。外に出て、小雨が降っていると凛花は知った。列を作るタクシープールに着くと、山辺は一万円を手渡した。恐縮する凛花を笑い飛ばす。
「やるわけじゃない。入院代も含めてあとで返してもらう。ああ、服は返さなくていいぞ」
そう言うと、思い出したように首を傾げた。
「そういえば、鈴木って男とどういう関係だ」
凛花もつられて首を傾げる。
「鈴木という男性は何名か知っていますが、どのかたでしょう」
「そっか、よくある名字だもんな。俺の言ってる鈴木は二十代後半くらいのガタイのいい兄ちゃんで、お前と光井の共通の知人だ」
何気なく出た幸太郎の名に、凛花は倒れ込むほどの絶望感と喪失感に再び見舞われる。それを何とか押し隠し、淡々と応じた。
「共通の知人は数名いましたが、別れてから全員と縁遠くなってしまいました。それに、その特徴に見合う、鈴木という男性はいません」
山辺は痛ましそうに凛花を見た。
「光井のこと聞いた。お前、大丈夫か」
凛花は答えに詰まる。全然大丈夫じゃないけれど、弱い部分を他人に露わにするのには抵抗がある。たとえ信頼する上司が相手でもだ。だから代わりに尋ね返した。
「その鈴木という男性がどうかしましたか」
凛花の気持ちを察したのか、山辺はそれ以上言及しなかった。
「いま着てる黒いコート。それ、そいつのだ」
凛花は視線を落とした。たしかに袖を通したとき、山辺の物にしては大きすぎる気がして、不思議に思っていた。
「昨日、お前の部屋の前で出くわした。共通の知人を亡くしたから心配で来てみたって言ってた。それが光井だったってわけだ。いち早く室内に入って、半裸で倒れ込んでたお前にそのコートを掛けてやってた。救急車を呼ぶよう管理人に言ったのもそいつだ」
凛花は幸太郎をなんとか思考から振り払い、記憶を辿る。どう考えても、そんな知人などいない。心配して部屋を訪れるほど親密な男性も、ひとりも思いつかない。
「全く心当たりがありません。誰なんでしょう、その人」
薄気味悪くてモッズコートを脱ぎ捨てたくなったけれど、他人のものだ。
山辺は訝しむように目を眇め、短い髪をがしがし掻きむしった。
「そうなのか? そんなにおかしなやつでもなさそうだったけどな。そいつは本当にお前を心配してた。今日退院することを電話で知らせたけど、まずかったかな」
ようやくタクシーが凛花の番になった。
「なにかおかしなことがあったら、すぐ俺に連絡しろ。警察に通報してもいい。とにかく今日は真っ直ぐ帰って、ゆっくり休め。これは上司としての命令だ。いいな」
押し込むようにタクシーに乗せ、山辺は凛花に言い含めた。
凛花は、なんとか笑みのようなものを作ってみせた。
「わかりました、そうします。本当に、いろいろありがとうございました」
行き先を運転手に告げ、風景の流れる車窓を見るともなしに眺めながら、凛花は鈴木という男について考えを巡らせた。どうしてその男は私の自宅を知っていたのだろう。
幸太郎と一緒に暮らしていたから、共通の知人だとすれば知っていても不思議はない。
問題は、思い当る人物が一人もいないことだ。
もしかしたら共通の知人ではなく幸太郎の友人で、自分とはあまり関わりがない人なのだろうか。だとしたら、わざわざ自分を案じて訪ねてくる意味が分からない。
しばらく考えたけれど答えは出なかった。凛花はため息を吐いて、軽く目を閉じた。
難しいことは考えたくない。というより、なにも考えたくなかった。