亘。夫として男として。
「どうしましたか?」
「家に電話してくれ。金がなくなった。ここには泥棒がいるから、迎えにな、来るようにな、ヒロシにな、あんた、電話してくれるか?」
施設の受け付けまで、車椅子を両手でこぎ猛スピードで走らせてやって来た男性が訴えていた。
薬を配達し、検品してもらっている間、その老人と施設の相談員である女性のやり取りを、亘は眺めていた。
介護老人保健施設、通称「老健」と呼ばれる施設には、介護を必要とする高齢者が入所している。この、認知症の入所者の訴えをどう切り返すのか。
「そう!それは大変ね。じゃあ、ヒロシさんに電話しますね」
「おぉ、そうか!あんた、ヒロシの電話の番号は知ってるか?」
「えぇ、大丈夫、知ってますよ。柳井健治郎さんのご長男さんでしょ?知ってますよ!」
「あぁ、頼む頼む。早く、早く来るように言ってくれよ」
「早くですね。分かりました、伝えます。でも、もしかしたら今は仕事で忙しいかもしれない。お昼の時間になったらかけてみようと思いますけど、いいですか?もうすぐ、ですよ。それまで柳井さんもお昼を召し上がってて下さい。もう、準備出来てると思いますよ」
しゃがみこんで、その男性よりやや目線を下げた体勢から話をしていた女性が立ち上がると、乗っていた車椅子を押しつつ、話を昼食のメニューへと変えながら食堂のある奥へと誘導して行った。
似たような光景を何度も亘は目にしていた。
「大変ですねぇ。いやぁ、俺には出来ないわ」
検品していた事務長である大橋に話しかける。
接待の際に、施設の経営者でもある先生のお供をさせられる大橋とは、懇意になっていた。接待以外でも二人で飲みに行くようになり、双方の家庭の事情なども知る中だ。似たような境遇で、大橋の方はすでに不倫という道を選択していた。この手の話は、昔からの友人には出来ないでいたが、関係に多少距離のある人間に対しての方が、何故だか打ち明けやすかったのだ。亘が長い間“我慢”している事を知る大橋は、彼女を見つめる亘の様子を見て、情報を耳打ちする。
「杉山サン、今ひとりモンだよ。32だったかな。バツイチ」
亘を“仲間”にすべく、職員の個人情報を漏洩するのはいかがなものかと思いながらも、大橋からの情報が頭から離れなくなっていた亘は、施設の相談員である杉山佳那への想いを募らせていった。以前から気になる存在であった事は確かだ。老人に向けられる穏やかな優しさの奥に感じられた艶かしいオーラ。そんな風に感じるのは、自分がそんな目で見ているからだと、気付かせてしまったのは間違いなく大橋だった。
その後、異業種交流会と名打ち、大橋によって開かれた言わばオトナの合コンにより、亘と佳那は距離を縮めた。
それから2年もの間、家族に知られずに関係を続けてきた。佳那から自分と一緒になって欲しいと言われた事はなかった。離婚を求める様子も無かった事に甘えたまま、ただ月に数回の逢瀬を重ねる日々。
もしも、離婚を迫られていたら……。佳那を選ぶのか?
今ある家族を捨ててまで、守りたいと思える存在なのか?
佳那との関係により得られたものは、肉体的な満足だけではなかった。罪悪感とも違う、由美子を思いやる気持ちのようなものが大きくなり、日々当たり前のように家事をこなす妻に感謝できるようになっていた。
肉体的な満足は、精神的な安定をもたらしていたのだ。
由美子に拒絶されなければ、こんな事にはならなかったはずだと、自分で自分を擁護する気持ちもあった。
自分の稼ぎだけで、贅沢は出来ないながらも家を建て、家族を養っている。不自由な事は何もない。それでいいではないか。
このまま、このままの状態がベストではないのか?
単なる我が儘、由美子にも佳那にも甘えているだけの、子供の思考。汚らわしい裏切り者、最低の人間。世間はそう評価するだろう。
しかし現実は、実際の人間など、そう綺麗に生きられる者ばかりではない。それすらも言い訳に過ぎない、と言えるのか?
拒絶され続けた事は、浮気を正当化してはくれない。
2児の父親であるならば、夫であるならば、我慢し続けるしかなかったのだ。死ぬまで性欲を押さえ付けておかなければならなかった。だが、亘には、それが、出来なかったーーー。