出発前
出発の前、子供達が出掛けた後に、やる事もなくリビングに転がる亘の事など、存在しないかのように気にもかけずに由美子は忙しく動き回っていた。妻の、ただ普段通りの動きひとつひとつが、亘にとっては、嫌味のように感じられ、転がっている事すら苦痛になり、とうとう家の中にいる事にも耐えきれなくなると、用も無いのに外に出た。
庭と呼ぶには余りに狭い、家を取り囲む僅かな敷地には、約1年放置された雑草達が誇らしげに、成長した姿をこれでもかと見せつけてくる。今までなら、除草剤を撒いて枯らして終わらせていたが、時間を潰す為に亘は、草むしりをしようと思い立った。軍手だけを用意し、スウェットのズボンにTシャツという軽装のまま、考えもなくむしり始めた。
放置しすぎた名も知らない草花を、何のためらいもなく抜いていく。成長しすぎた立派な草は、根が深くまで張り巡らされ、両手で力の限り引っ張っても抜く事が出来ずに途中で引きちぎれた。スッキリしない気分は、若い芽を楽々引き抜く事で晴らしつつ、家の周りの雑草を片付けていった。
午前中からすでに陽射しは強く、露出した肌に熱が射し込んでいく。頭全体から汗が吹き出し、顔を伝って滴り落ちていたが、Tシャツの腹の部分をタオル代わりに汗を拭き取る。娘に見られたら嫌がられそうな仕草をした事を軽く反省しつつ、また作業に取り掛かる。
ひと呼吸入れる為に立ち上がるたび、腰がミシミシと軋むのを、うぅっ、と小さく唸りながら体をのけ反らせた。そんな事を何度か繰り返しながら、2時間近くも作業を続けていた。
気が付くと早くも日焼けした事が分かるほど腕は赤くなっていた。はめていた軍手を外し、日焼け跡を確認していると左腕に蚊に刺された跡を見つけた。それは気付いた途端に痒みを感じさせるもので、亘は猛烈な痒みを抑える為に、爪を思い切り食い込ませ、バツ印の跡を付けて応急処置をした。
ようやく殆んど綺麗に抜き終わり、罪の償いを終えたような気になって、ひとり勝手に気を良くして亘は家の中へと戻る。
すると由美子は、すれ違いざまに「くっさい」と呟いた。労いの言葉を期待したわけでは無かったが、そんな酷い呟きを投げ掛けられるとは思いもよらない事で、それに対し言い返す事すら出来ない亘は一瞬、全てを捨て去りたいという気に駆られてしまった。
亘はそのまま浴室へと向かい、シャワーを浴びる。汗と土と草の臭いと汚れを充分に洗い流してから、再びリビングへ向かうと、リビングとは境目のないダイニングのテーブルの上には、ひとり分の昼食が用意されていた。由美子が食べ終えた事は、シンクを覗き確認できた。
「食べていいの?」
バスタオル1枚を腰に巻いた格好のまま、恐る恐る聞く亘に、由美子は感情のこもっていない声で答える。
「どうぞ。その前に服着て」
「はいはい。分かってる……ますよ。すいません」
どうにも低姿勢で居続けなければバツが悪いように感じられ、可笑しな言葉になってしまう亘。逆に由美子は上からの物言いでなければならないかのような感覚に陥っていて、上手く感情を表現出来なくなっていた。
暑い中での作業を終えた亘にとって、用意されたトマトの冷製パスタは有り難かった。急いで服を着て、直ぐ様食べ始めると、何も言わずに麦茶をコップに注ぎ、テーブルに置く由美子の優しさを、無言の中でも亘は確認できた。そして先程の“全てを捨て去りたい”と思った気持ちを心の中で撤回する。
言葉など無くても伝わる事がある。
しかし、言葉が無ければ伝わらない思いもある。
この後の予定を考えると、食欲も無くなりそうだったが、久々の肉体労働の後では、食欲の方が勝っていたようで、10分もかからず食べ終えてしまった。