少年「僕」と夕方の月
バイトの帰り、いつもならしないはずなのに、その日は何故か空を見上げた。
黒く染まる東の空とは対照的な、茜色の西の空。
その境目に浮かぶ、夕月。
「おー、月だ、月」
呟き、僕は携帯をズボンのポケットから取り出した。
カメラを起動し、画面越しにその月を見る。
白んだ弓なりのその姿は、子供の頃に見た記憶の中のそれよりも小さく感じた。
カメラ越しだからだろうか。それとも、僕が大人になってしまったからだろうか。
ただ、これだけはハッキリと言えた。
夕月を見ても、感動なんてしていない事……
記憶の中に残る、初めて見た夕月への感想は覚えているのに、心は踊らない。
写真を撮り、SNSに上げる。友人が見るだろう写真へのコメントは「久々に見た」と言う味気ないもの。
いつからこんな感想しか浮かばなくなったのだろう。
いつから、月を見ても「月だ」としか言えなくなったのだろう。
昔は、もっと違う事を言ったはずだ。言った事は覚えているのに、その時の言葉が思い出せない。
胸の奥が、ジワリと淀む。
きっと、喫茶店のバイト中に見た、学生服の集団のせいだろう。
数十分前に見た、学ランを着た若々しい青年たち。
彼らはみな一様に、楽し気に話していた。友達と。
そして、聞こえてくる会話をBGMに僕は仕事をしていた。
勉強の事、部活の事、先生の事、クラスの女子の事。
好きだの好きじゃないだの。甘酸っぱい話が繰り返されている。
僕はと言えば、仕事の合間に寛ぎに来たサラリーマンや、買い物途中の女性に新商品を売り込む声をかけるだけ。
注文を受け、コーヒーを準備し、トレーに乗せて差し出す。
お金を受け取り、レジを開き、釣銭とレシートを返す。その、繰り返し。
久しく、好む好まないの話をした覚えはない。
淡々とした仕事、淡々とした毎日、淡々とした生活。
それが、いつの間にか「感動」すら失わせていたのかと思うと、やるせない気持ちになった。
「そう言えば……ガキの頃、月に行きたかったな」
口が、勝手に動いた。
その瞬間、自分の中から何かが飛び出し、歩道を駆けて行く。
それは、子供の頃に見た鏡の中の「僕」だ。七分丈のズボンを履き、五分丈の白いシャツを着ている。
首から下げたヘッドフォン。あれは僕のお気に入りのおしゃれアイテムだった。
「は? え??」
混乱し、口元を左手で押さえて目を見開く。
十五メートルほど先で、少年「僕」が僕を見た。そして、ニヤリと口角を上げて笑う。
伸ばされた左手が、僕を呼ぶ。ここまで来いよと言うように。
僅かに躊躇い、けれども、その不思議な光景に心惹かれた僕の足は、自然と前へ。
前へ、前へと踏み出し、気が付けば僕は、少年「僕」の背を追うように走っていた。
車一台がやっと通れる細い道を、時折振り返り招く「僕」を見失わないよう進む。
角を曲がり、気づけばもうすぐ取り壊される予定の古い団地へと差し掛かる。
そこで、少年「僕」は立ち止まる。
夢じゃないかと疑い、袖口で瞼を擦る。けれども、少年「僕」は消えない。
『ここで、昼間も月が出てるって教えもらったんだ』
二ッと、飛び切りの笑顔で少年「僕」が笑う。
僕は、記憶の中の、まだ人が多く住んでいた頃の団地を思い出し頷く。
『月には行けなかったけど、それでも悪くはないだろ?』
少年「僕」がそう言ってこちらを見る。そして、苦笑いを浮かべたまま、空気に溶けるようにして消えた。
月に行く夢は確かに叶わなかった。人類は未だ、月にも火星にも住んでいない。
地球の周りにはスペースデブリだらけ。月に住むよりゴミ回収が先だろうと思う。
悪くはないかと聞かれれば、僕は同意する言葉は浮かばない。
可もなく不可もなく、相変わらず僕は「僕」のまま。
「あれ……古仲くん?」
皮肉るようにそう心の中で呟くと、背後から声をかけられた。
また少年「僕」のようなものかと思い振り返り、固まる。
そこには、綺麗な女性が立っていた。
「古仲くんだよね? 私、覚えてる??」
嬉しそうに笑んでいる女性に矢継ぎ早に聞かれ、僕は首を傾げた。
覚えているかと聞かれるぐらい、長い間彼女と会っていなかったのなら……知り合いと言っても縁は遠い。
「小学校の時、ここの団地に住んでた三月 夕子って言うんだけど……」
覚えてないかな、と残念そうに女性は項垂れた。
その言葉にハッとし、「僕」が消えた場所を見る。
”『ここで、昼間も月が出てるって教えもらったんだ』”
教えてくれたのは、この団地に住んでいた彼女だったはずだ。
「覚えてる、覚えてる! 久しぶり。てか、髪の毛切ったんだ」
懐かしく感じ、僕は大人になった昔の友達に話しかける。ここまであったのにと腰のあたりを示すと、彼女は躊躇うように笑った。
「シャンプーが大変で、切っちゃった」
「そっかぁ。女の人は大変だなぁ」
「古仲くんは、あんまり変わってないね」
「……ガキのまんまって事? これでも、それなりに背は伸びたと思うんだけど」
「違う違う! その……空を見てる時の顔が、一緒だったから」
「………………」
指摘され、思わず頬に触れる。
「いつも、なんか楽しそうに空を見てたから……」
「昔は、ね。それより、三月はなんでここに? 引っ越したんだろ??」
尋ねると、伏し目がちに目を反らす。その様子が、なんだかとても寂しそうに見えた。
「ここ、来週から取り壊しが始まるらしくてね。見納めに」
「ああ……そっか」
「子供の頃はここで暮らしてたから、懐かしくて。今日はたまたま……近くまで来たから……」
「近くに住んでるの?」
彼女は首を横に振る。
「月、綺麗だよね」
彼女は空を見上げ、そう呟く。
次の瞬間、また自分の中から少年「僕」が現れた。
「僕」は彼女の隣に足を進め、こちらを静かに見つめてこう言った。
『寂しくなったら空を見ればいい。言ったよな』
「僕」に言われ、そんな気がしてきたので小さく頷く。
『大人になったらの大人って、いつだっけ』
それには首を傾げる。二十歳を過ぎた今も、大人になった気はしない。
『あの時、昼間の月以外も見てただろ』
その指摘に、僕の心臓が大きく跳ねた。
心臓が早鐘を打ち始め、掌に汗が滲む。久しく感じていなかった「もの」に、思わず視線が泳ぐ。
そして、昼過ぎの学生たちの会話を思い出した。
誰が可愛い、いいと思う、告れよ。などと言ったフレーズが脳内を過る。
「…………」
そして、カッと顔が熱くなり、思わず片手で口元を抑える。
昔、月を見た時に言った言葉を思い出した僕は、消え入りそうな声でこう、続けた。
「いや……今でもその……月より、三月の方が綺麗だと……思い……ます」
チラリと彼女を見れば、目を丸くした彼女が涙を流し、そしてはにかむ様に笑んだ。
その笑顔を見て、少年「僕」が消えた。消える際に、少女の姿もチラリと見えた気がしたが、それは気のせいだと思う事にする。
それから僕は、彼女と離れていた間の話をして、改めて友達になり、その半年後に告白をして付き合うようになった。
あの日、あの時、月を見上げてSNSに写真を投稿しなければ、きっとありえなかった未来だと思う。
昔の事を振り返ったから、僕の中の少年「僕」が現れた。そして、運命に導かれるように再開を果たし、子供の頃と同じように話すようになった。
感動は今も薄い。大人になって変わってしまったところは多い。
けれど、それでもあの日の僕にこう言いたい。
月に行けなくても、大人になっても、月はあの頃と同じように自分の真上にきてくれる。案外それで充分なのかもしれない、と。
初投稿です。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。