その男、萩尾大楽
2017/9/16 改稿
その男が暖簾を潜ると、迷わず店の隅の席に座った。
江戸、谷中新茶屋町の居酒屋〔喜七〕である。
土間席に机が六つ。ただそれだけの小さな店なので、筋骨逞しいその男が入って来ると、妙な息苦しさを私は覚えた。
「いらっしゃい」
私は呟くように言った。決して愛想は良くない。元来こんな風で、それでもいいという客だけ来ればいいと思っている。
男は潮焼けした顔をこちらに向けると、にぃっと笑んだ。
よく笑う男だ。それでいて、ふと見せる表情に、近寄り難い深い翳りを見せるから不思議だった。
「喜七、達者かい?」
「へぇ、お陰様で」
「そりゃ結構なこった。俺は風邪気味でね」
「まぁ、朝晩はすっかり寒うなりましたから」
「気を付けねぇとな。いつまでも若くねぇ」
男は、萩尾大楽という。歳は私より幾つか下の、三十余歳。谷中天王寺裏に、萩尾道場という町道場を構えている剣客である。生国は知らない。流派は萩尾流と称しているが、自らの姓を付けているだけに、本当かどうか知れたものではない。
しかし、萩尾道場はただの町道場ではない、という事だけは判る。用心棒を斡旋する、座のようなものなのだ。実力・人品共に確かな門人を派遣する事で、萩尾道場は繁盛している。口入屋とも契約し、仕事に困る事は無いというのだ。
故に浪人は萩尾道場に入門したがるが、腕だけでなく人柄も見られるので、合格する者は少ないという話だ。
「お陰で、人手不足だよ」
そう言ったのは、大楽の右腕を務める寺坂という男だ。
寺坂は、この新茶屋町に住んでいるので、よく飯を食いに来るのである。
そして大楽は、この店の用心棒だった。年に三両。それで、何かあれば駆け付けるという事になっている。
三両は安い。そう言ったが、大楽はそれでいいと言った。いつも何かあるわけではないのだからだという。確かに、大楽の厄介になる事は滅多にない。年に一度か二度、それも酔客を叩き出すというぐらいだ。
谷中で、萩尾道場に用心棒を頼んでいる店は多かった。まるでヤクザのようでもあるが、本人は商売だと言っているし、谷中界隈では評判もいい。ここ一帯を仕切る金兵衛一家というヤクザは、大楽を苦々しく思っているようだが、如何せん萩尾道場は強く手出しが出来ないというもっぱらの噂である。
「酒を萩尾さんに出してくれ」
酒器や皿を引いてきた律に私は声を掛け、奥の板場に引っ込んだ。
律は姪である。兄夫婦の子であったが、コロリで両親が亡くなると、養女として引き取ったのだ。今年で十七になる。日に日に美しくなる年頃だった。
(婿探しは、まだ早いだろうな……)
大人しいが気が付く娘で、客の評判もいい。結婚をしていない私にとって、唯一の家族である。いずれは、この店を婿と継いで欲しいとも思っていた。
私は、厚揚げを醤油と酒、そして生姜などで煮込んだものを皿によそった。
「これもな」
「あい」
律が煮込みと酒が乗った盆を抱え、表に出て行く。
私は、焼き場を一瞥した。弟子の久助が、秋刀魚を焼いている。私はその様子を腕を組んで、ただ眺めていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
表が騒がしくなったのは、それから暫く経っての事だ。
私は慌てて板場から飛び出ると、若い男が律に絡んでいた。
(またか……)
ここ最近、律に対し執拗に言い寄っている男だ。名を利吉といい、金兵衛の三男坊である。律とは同じ歳で、前から目を付けていたという。
相手が相手だけに、どうしていいものか悩んでいた。大楽に相談するのもいいが、その後に報復があるのではと思うと、容易に決断は出来なかったのだ。自分一人ならどうなってもいいのだが、律に危害が及ぶ事だけは避けたい。
しかし、こうも続くと我慢も限界だった。私は気短な性質で、若い頃は喧嘩もよくしたものだった。
「やめてください」
利吉が嫌がる律の腕を掴んだ。その時、私の中で何かが切れる音がした。手が包丁に伸びそうになる。が、それを止めたのは、大楽の一声だった。
「おいおい、兄さん」
猪口を置いた大楽は、ゆっくりと立ち上がった。そして私に向け、さりげなく片目を瞑る。心配するな、という事だろうか。
「何でぇ、お前は?」
「俺を知らねぇのかい、坊主」
「はぁ? てめぇのようなサンピンなんざ知らねぇな」
「そうかい。まぁ俺は、ここで飲んでる浪人でな。娘さん、嫌がってるぜ」
と、大楽は利吉の横にどかっと座ると、その肩に手を回した。
「やい、この手を離しやがれ」
「お前が娘さんの手を離したらな」
「誰が、お前なんぞに従うかってんだ。俺は金兵衛一家の身内」
「あ?」
野太い声で、大楽が話を遮った。思わず、利吉は律の腕を離す。律は慌てて奥へ引っ込んだ。
「男は女に優しくねぇとな」
「お、お前、俺が誰だか」
すると、大楽が嗤った。その凄みに、利吉は下を向いた。どうやら、すっかり縮み上がっているようだ。
「親や看板の名で戦っちゃ、男はお終いだぜ」
「……」
「男ってもんは、自分の顔で戦うもんだぜ、坊主。さっ、続きは外で話そうや。ここじゃ迷惑だからね」
大楽は利吉の首根っこを掴むと、無理矢理引き立たせた。
肩に手を回して外へ連れ出していく。このまま、金兵衛の所へ行くのだろうか。報復の心配もあるが、大楽なら大丈夫だろう。この男は特別なのだ。私は、何となくそう思った。