第一〇話、その2
お昼を回り、コミケ三日目が残り四時間を切った。目標のサークルがまずまず買うことができたし、後はどこを回ろうかな? 美由は妙子とレストランを出た。
「ねぇ美由ちゃん、これからコスプレ見て回らない?」
「うーん、そうね。あっ! いっけない買い忘れたサークルさんがあった!」
「ええっ!? 大丈夫なの?」
「完売してるかどうかもわからないけど、美由ちゃんごめん……」
「いいよ、まだ時間はあるから」
美由は妙子のドジっぷりが今日はちょっと大袈裟な気がして、東1ホールに戻る。開場から少し落ち着いた雰囲気だが、入場制限解除されたこともあってかお昼から来る人たちが入るから完売の可能性はある。
なぜなら残り物には福があるという言葉があるくらいだ。行き先は東1ホール、どこへ行くんだろうと思いながらついていく。
向かうとそこはお誕生日席に来て、目を疑った。
「あれ? 玲子先生?」
「あら、井坂さんじゃない。それに真島さんも」
美由は驚きを隠せずわなわなと震えていた、まさか玲子先生がサークル参加してたなんて。
「れ、玲子先生……まさかそんな、ロリコンものの薄い本描いてたなんて!!」
「違ああああう!! 私はただ手伝ってただけ!! 描いてたのはこの人よ!!」
玲子先生は必死でサークルに掲げたヤバイポスターを畳んで否定し、隣にいるガッシリした体型の眼鏡男に指差した。
「ごめんなさい、新刊全部完売しちゃった」
「お前、高校時代の同級生の教え子にロリコンものの同人誌売るのか?」
玲子先生の後ろで撤収準備をしてるもう一人の男が呆れた口調で言った。
すると零と鷹人がやってきた。
「こんにちわ、玲子先生。また会いましたね」
「桐谷君に……空野さん、これで揃ったかな? 紹介するわ。高校時代の同級生よ、彼が加藤一成君と後ろにいるのが佐久間直人君よ」
みんなで挨拶を交わす。大柄でガッシリした男が加藤一成で、後ろで撤収準備してる小柄な悪戯小僧がそのまま大人になったような男が佐久間直人だった。
「それと桐谷君、彼女連れて随分楽しんでるようね」
玲子先生は歯をギリギリと鳴らしながら嫉妬に満ちた表情で言うと、美由はそうだと微笑んで意地悪を思いつき、暴露した。
「玲子先生、昨日鷹お兄ちゃんと零ちゃん。ホテルの水族館で夜のデートしてイルカショーも一緒に見てましたよ」
「ちょっと美由、なに言ってるのよ!」
零は顔を赤らめながら焦ると一成も、嫉妬の眼差しで使い古しの言葉を言い放った。
「リア充爆発しろ……そうだ玲子ちゃん、俺が仇を討ってやる!」
「えっ? 具体的に何するの?」
玲子先生は虚を突かれたような表情になって訊くと、一成は不敵な笑みを浮かべながらスペースから出てきた。零を真っ直ぐ見てに指を差して言い放った。
「ああ、それはな! 桐谷君とその彼女さんをモデルにして、付き合い始めた彼氏君が僕みたいなキモオタのおっさんに彼女さんを陵辱・孕ませ・寝取られ本を、次のコミケで――ぶごっ!!」
「描いたらぶち殺しますよ……肖像権の侵害で訴えます!」
一成が言い終わる前に零は初対面の男だろうと関係なく、コミケカタログを至近距離から投げつけ、股間にクリティカルヒット! 一成の睾丸がブシュリと生々しく潰れる音がした。
「ううっ……表現の自由っても――」
言い終わる前に鷹人は獲物に接近する鷹のように、素早く背後に回り込んで一気に首絞めかかる。
「あごごごご、首の骨が折れるうぅぅぅっ!!」
「人間には二一五本もあるんですよ、一本くらいどうってことないじゃないですか? もっとも二度と描けなくなるかもしれませんが」
「ゆ゛る゛じでぐだざい゛」
顔が真っ赤になるまで首絞めてようやく解放すると、四つん這いになって苦しそうに呼吸する、直人はドン引きした様子で見ていた。
「うわぁ……なんちゅう殺人カップルだ」
「あれ、真島君から教わったのよ」
玲子先生が言うと直人は目の色を変えた。
「翔が教えたのか!? まさか、真島美由さんって」
「そうよ、真島君の妹よ」
玲子先生が肯いて言うと、直人と一成は言葉を失ったような表情になると、直人は感慨深そうに言った。
「確かに翔の面影がある……大きくなったなぁ、そうか高校三年生か」
「時の流れを感じるもんだな、あの時高校生だったオイラたちと赤ん坊だった君が……美由ちゃんが高校生とはなぁ……あの日のことよく覚えてるよ」
一成も懐かしそうにうんうんと肯きながら言う、玲子先生が飛行機の中で話してたことかもと美由が思い出すと、玲子先生も懐かしそうに話す。
「飛行機の中でも話したけど、私たちが高校生の頃よ。文化祭で真島君の両親が学校に遊びに来たの。赤ちゃんだったあなたを連れてね……私があなたを抱っこするとわんわん泣き出したのよ。あなたのお母さんがあやしても泣き止まなった……ところが神代さんが抱いてあやすとね、泣き止んだのよ。あれにはみんな不思議がってたわ」
彩さんのことは美由もよく覚えてる、いっぱい一緒に遊んで、泣いた時は慰めてもらって時には怒られたこともあった。
そうだ、翔お兄ちゃんと彩さんの結婚式の日、ウェディングドレス姿がとても綺麗で見惚れていた時、こんなことを言ってた。
「美由ちゃん、いつになるかわからないけど……赤ちゃんが生まれたらお姉ちゃんみたいに優しくしてあげてね」
「えっ? で、でも赤ちゃん泣いたらどうすればいいの?」
「あなたが抱いてよしよし、ってしてあげればきっと泣き止んで笑ってくれるわ。あなたがそうだったように」
あの言葉、そういう意味だったんだ。
「そうそう。卒業して翔は陸自、彩ちゃんは筑波の大学に行った後も、美由ちゃんのこと可愛がってたもんな。二年前にもう二度と帰らないって言ってたのに、ひょっこり日本に帰ってきた時は驚いたよ」
直人の言葉で美由は「えっ」と驚く、二度と帰らないって……ならどうして? 鷹人も微かに肯いて言う。
「はい、僕が高校に入ってすぐ熊本にやってきました。美由は今、翔お兄さんが買った呉服町のマンションに住んでいます……それから僕は翔お兄さんの所へ頻繁に出入りするようになりました」
すると一成は衝撃的な言葉を口にした。
「あれは驚いたよ……しかもこの時既に膵臓癌を患ってたのに周囲には言わないでくれって、オイラ達に強く言ってたな」
これにはみんな驚き、美由はショックを受けて玲子先生は一成に問い詰めた。
「どういうこと!? その時、知ってたら私が首根っこ掴んででも病院に連れて行ったわ!! どうして言わなかったの!?」
「いやさ、あいつが誠心誠意で頼んだの初めてだったんだ……オイラも理由を訊いたんだよ、そしたら可愛がってた妹が助けを求めてる……助けられるのは俺しかいないって」
一成の言葉で美由は高校一年の終わりに、兄があの時どうして帰ってきたのかと訊いた時「青春を過ごした場所に帰りたかった」と言ってた。でもあれは半分嘘で半分本当だった。
玲子先生もようやく長年疑問に思ってたことが、やっとわかったような顔で浮ついた声になる。
「そうか真島君、神代さんのことを思い出すのが辛いって……もう熊本に帰らないって言ってたのに……だから帰ってきたのね、愛する妹のために」
美由は兄にしてもらったこと、それが走馬灯のように駆け巡る。
新しい学校に連れて行ってくれたこと、新しい友達を作るために何度も背中を押してくれたこと、広い外の世界へと連れ出してくれたこと、生きていくために必要なことを教えてくれたこと、数えたらキリがなかった。
あの時から翔お兄ちゃんは病気に蝕まれる体に鞭を打って、自分のために尽くした。
じゃあ自分は兄に何ができたんだろう? 我侭や不満ばかり言って、でも本当はお兄ちゃんに甘えたくて、でも素直になれなくて、最後に言葉を交わした時はあんな酷いこと言っちゃった。
気が付くと体が震え、零が真っ先に異変に気が付いた。
「美由、大丈夫?」
「あ……あたし、翔お兄ちゃんになんて酷いこと言っちゃったんだろ?」
暑い中での熱中症による熱痙攣ではない。あたし、なんであんな酷いこと言っちゃったんだろう? その言葉が壊れたレコーダーのようにリピート再生され、いたたまれない気持ちが溢れ、気が付くと人混みを掻き分けながらあてもなく、そして人混みに流されていった。
「美由ちゃん! どこ行くの!? 美由ちゃん!」
妙子の制止はもう耳に入らなかった。
あの日マンションを飛び出した後、美由はスマホを部屋に忘れていることに気付いて戻ろうと思ったが、ほとぼりが冷めるまで繁華街をあてもなく彷徨い、結局帰ってきたのは夕方前だった。
マンションに帰ると、誰もいなかった。
「鷹お兄ちゃん? 翔お兄ちゃん?」
買い物にでも行ったのかな? リビングに入ると、テーブルには紅茶の入ったカップとティーポットが置きっ放しで中身はすっかり冷めていた。床にはカップが割れて破片が散乱していた。
どうしたんだろう……慌てて出て行ったのかな? 美由に不安と恐怖が入り混じったものが圧し掛かり、心拍数が上がって暑いのに寒気を感じた。急いで部屋に戻り、スマホをひっつかんで見ると大量のメッセージが入って全部がこう書かれていた。
美由! 翔お兄さんが倒れた! 危篤状態だ!
それで美由は鷹人に連絡し、すぐにタクシーで急いで病院に向かい。中に入ると受付付近で妙子が待っていた。
「あっ! 美由ちゃん! こっちよ!」
「た、妙ちゃん……翔お兄ちゃんが危篤って……」
「ついてきて! 速く!」
妙子も慌てた様子で病室へと向かい、扉を開けて入るとそこに医師や看護師の姿はなかった。
鷹人が悲しみを堪えるような顔で突っ立っていて、和泉さんは唇を噛み締めて俯いていた。
美由は一歩一歩、ベッドに近づいてその顔を見る。
鷲の様な鋭い目は閉じ、野生的な顔立ちは鳴りを潜めて穏やかで優しい兄の顔だった。
「最期まで……美由ちゃんのこと……心配してたよ」
絞り出すような震え声で和泉は言った。
「嘘よ……翔お兄ちゃんが、死ぬわけ……ないよ」
美由は歩み寄り、ベッドに眠る翔お兄さんの方ゆすろうと肩に手を置いたが、その体はすっかり冷たくなっていた。
「ねぇお兄ちゃん、起きてよ……もう我侭言わないから、ちゃんと言うこと聞くから! 今夜は大好きなステーキ作るから起きてよ! ねぇ!! 目を覚ましてよ!!」
いくらゆすっても起きない、鷹人がポンと肩を乗せて首を横に振る。
「もう……楽にしてやれ。翔お兄さん、末期の膵臓癌を患っていたんだ……最後の瞬間まで美由のことを――」
美由は鷹人の手を振り払って病室を飛び出した。
こんなことになるんなら、どうして言わなかったんだろう? 素直に、ごめんなさいも……ありがとうも……大好きって言葉も……。
美由はどこか人のいない場所に生きたかった。でもここはコミケ会場、どこに行っても沢山の人がいる、もしあの時翔お兄ちゃんの病気に気付いてたら……ここにいたのかもしれない。




