第九話、その1
第九話、最後の夏の大決戦:前編。
この日の最高気温は三七度、天気は快晴と色んな意味で絶好のイベント日和だった。
朝の六時少し前に起きてホテルのレストランで朝食をたっぷり摂り、六時半にはホテルを出て品川駅の京浜東北線に乗り、隣の大井町駅で降りて東京臨海高速鉄道、通称:りんかい線に入った頃からだった。
「すっげぇ! 人多くね!?」
地下五階のりんかい線二番ホーム、前方よりの所で一輝は興奮気味だった。
「ここの人たちみんなオタクなんだ……翔さんもこの中にいたのね」
カンカン帽を被り、クラブマスターのサングラスをかけた和泉は感慨深そうに言う。
「う、なんか臭っ……ねぇ、あの人前日お風呂に入ったのかしら?」
零はすぐ前のまるまると肥え太った男から発せられる汗と発酵した様な臭いに顔を顰め、鷹人も普段運動してなくて昨日は風呂に入ってないな、と確信した。
初めての参加で驚きを隠せない一輝、和泉、零とは対照的に美由、妙子、達成、夏那美は落ち着いてる様子だった。
「ねぇねぇ達成君はどこを回るつもり? 地図見せて!」
「ああ、どこだっていいじゃない。夏那美も回るところあるでしょ?」
夏那美に地図を覗き見されそうな達成は、恥ずかしそうに必死で地図を隠す。妙子は精悍な笑みを浮かべていた。
「ふっふっふっ……この程度で驚ろくのはまだ早いわよ、ねぇ美由ちゃん!」
「う、うん。まだ始まってもいなから」
美由は肯く、毎年楽しみにしているという感じでらしい。鷹人はトンネルの向こうから電車のエンジン音と拭いてくる風を感じながら電車を目で追う。
やがて減速しながら電車がホームに入ると、一輝は満員電車に興奮してる。
「うわっ! 人スゲェ! 乗れるのかよこれ」
「大丈夫、これくらいなら乗れるよ」
達成は爽やかな笑顔で言う、真ん中の車両は満員で前方と後方は比較的空いている。尤も乗車するとギュウギュウ詰めで奥まで揉みくちゃにされ、鷹人は零の手を放すまいと握る。
「ちょ――こんなに乗るの!? お姉ちゃんも東京の会社にいた頃そうだったの!?」
「都内の通勤ラッシュ、いいえそれ以上よ零。楽しみだわ、いろんな意味で」
和泉はこの状況下で東京の会社に勤め、毎日嫌というほど味わった朝のラッシュ帯を懐かしんでるような様子だった。
大井町駅から国際展示場駅までの所要時間は約一五分、国際展示場駅に到着して降りると長いエスカレーターを上る。懐かしい、だけど昔と変わらない安心できると同時に心が躍る光景。
「昔のままだな」
改札口を抜けて、コミケの象徴である逆三角の東京ビッグサイトに翔お兄ちゃんはきっとそう言うだろう。
「昔のままよ……翔お兄ちゃん、今度は新しい友達と一緒に来たよ」
「いい、みんな! 間違っても東館方面には向かわないように、三日間通しで西館方面から行くわよ!」
妙子は周囲の人口密度に負けないくらいの大声で言うと、一輝が返す。
「何でだ!? 最初に行く所は東1ホールじゃないのか!?」
「東館側は危険よ、周りに建物やコンビニがない。冬は東京湾から冷たく強い潮風が、夏は直射日光とアスファルトの照り返しで焼けた鉄板の上よ! ツィッターかバッカニアを見て、もう既に何人か倒れたらしいわ!」
美由はいつもとは考えられないくらい、自分でも驚くほど饒舌になっている。零もスマホの画面を見て驚きの表情を見せた。
「嘘! もう倒れた人いたの!? 何これ!? 気温が四〇度越え!?」
「こんなのまだまだ序の口だよ、零……何度も言うけど地方大会の時みたいに無理をしないで。今日から三日間はあの時より過酷だ」
「うん、もう倒れたりしないわ」
鷹人に言われて零も引き締めた表情で肯く、地方大会の時に倒れかけたことがある零は熱中症対策をしっかりしていた。
一日目、七時過ぎに到着した一行は最後尾に並ぶ。一キロくらい離れた夢の大橋が最後尾になっていて、直射日光が眩しく周囲の人たちは座って大きめのタオルやパーカーのフードを被って陽射しを凌ぎ、団扇や扇子をパタパタと扇ぎ、時には冷却スプレーで体を冷やしている。
翔お兄ちゃんと最後に行ったのは……いつの頃だったかな? 二〇一八年の冬に、その後は東京オリンピックや翔お兄ちゃんのことで行けなかったけど。
美由はスタッフの注意に耳を傾けて注意事項を聞くと列が確定する。八時三〇分頃、つまり今から一時間前後にまでには列を離れてトイレに行ったり、日陰で体力の温存しても構わないのだ。
遅れれば最後尾から並びなおすことになるが。
「いいみんな、余裕持って……遅くても一〇分前には戻ってきてね。あとわかってると思うけど走らないようにね」
美由の言葉で一度解散、みんなそれぞれでトイレに行ったり、木陰で体力を温存したり、コンビニに行った。
美由は長いトイレで用を足した後、すぐに戻ろうとする。途中、零と鷹人が公園のベンチに座っていて零に手招きされた。
「ねぇ今日の美由ってさ、いつもとは考えられないくらい饒舌だと思うわない」
「僕もそう思うよ。毎年楽しみにしていたイベントだからね……翔お兄さんが生きてたらきっと喜ぶと思うよ」
鷹人の言葉で美由はあの日のことを思い出す。
「美由、僕の学校に行かないか?」
一年生の終わり、東京の実家に久し振りに帰ってきた翔はそう言って思わず俯いてた顔を上げた。
中学三年生の夏休みの終わり、ふとしたきっかけでいじめが始まって我慢しながら何とか近くの公立高校に行けたが、いじめの中心人物が一緒のクラスになってたちまちクラスメイトを扇動、前よりも酷く、陰湿で凄惨ないじめに遭った。
そしてまともに学校に行けずに引き篭もり、必要な出席日数と単位だけ取っていた日々を過ごしていた時だった。実家に帰省した翔は両親から事情を聞いて、部屋に入った時に単刀直入に言ったのだ。
「細川学院高校だ。僕の母校で今も僕の担任が先生をしてるし、同級生もいる。東京より不便だがきっと良くしてくれる、決めるのは美由だ」
そして美由は狭苦しい東京から逃げるように、熊本に移り住んだ。結果的に妙子や零、一輝や優乃にも出会って友達になり、こうやってエーデルワイス団をやっている。
「どうしたの美由?」
零に声をかけられてハッとして顔を上げた。
「えっ!? ああ、ごめんね。零ちゃん……二つお願いしていい?」
「うん、いいわよ。できる範囲でだけど」
「鷹お兄ちゃんのことお願いね、結構無茶するから」
それが一つ目のお願いで、零はたちまち笑いがこぼれる。
「あっはははははっ、もう付き合わされたわよ! 先生から逃げる時に壁を登ったり、川に飛び降りたりしてさ!」
「し……仕方ないだろう、逃げるためだったんだから!」
「そうね。会場で玲子先生に遭遇したらどんな無茶をするのか楽しみだわ。もう一つのお願いは何かな?」
零が訊くとこれも鷹人のこと、それもプライドに関わるものだったから少し恥ずかしげに言った。
「三日間、鷹お兄ちゃんと回るんだよね?」
「ええ、勿論よ」
「だから……エッチなものを買ってもドン引きしないであげてね」
「ふぅ~ん、そうか鷹人君も一八歳だからそのつもりだったんだ」
零はニヤけて弾丸も弾きそうな、柔らかく細い唇を引き伸ばし、小悪魔のような笑みを浮かべ、鷹人は「余計なことを言うな!」と言いたげに恨めしそうに美由を見る。
「まっ、鷹人君も男の子だしね! どんなのが好きなのか、今から楽しみだわ」
「ハードでエグイものだったらどうするの?」
「大丈夫大丈夫、鷹人君純情だから!」
零は人差し指で鷹人の頬をプニプニと指でつつく、鷹人は頬を真っ赤にしていて何も言えない様子だった。
やれやれ、美由が余計なこと言ったから考えがバレちゃったな、特に三日目は回るサークルが集中して零にはとても見せられない。
時計を見るともうすぐ列に戻る時刻で鷹人は見回すと零、美由、妙子、夏那美、達成、和泉……マズい! 一輝が戻ってきてない! 鷹人は列に一輝の姿がないことに焦り始めると、八時二九分にやっと一輝が小走りで戻ってきた。
「悪いみんな! 遅くなった」
鷹人はホッと胸を撫で下ろし、零は呆れた表情で言う。
「遅刻ギリギリなの相変わらずね、こりゃ地球が滅亡しても治らないわ」
「もう、一人だけ最後尾から入り直すつもり?」
妙子も安堵の表情を浮かべた時だった。
「遅い!」
美由はキリッとした表情で凛とした声でビシッと言い放った。メンバー全員が驚いた表情になり一輝も驚いた表情で謝る。
「わ、悪い。コンビニでアイス買おうとしたら混んでて、買ったらトイレに行きたくなったんだ」
「三上君一〇分前には戻ってきてって、それに……走らない! もしここや会場内でみんなが走ってたらぶつかって怪我するわ。走ってぶつかって転んだり、他の人を巻き込んだりしたらただじゃ済まないこと……三上君わかってるはずよ」
「す……すまん、悪かった」
「うん、気をつけてね。会場内は文字通り戦場だから」
美由は凛々しい笑みを浮かべて肯く、これには零も驚いていた。
「大人しい美由があんなに荒らげて厳しく言うなんて、初めてね」
「うん、美由は普段オドオドしてるけど本当はとても頑固な性格なんだ」
鷹人は翔お兄さんの一周忌の日のことを思い出す。




