第七話、その3
体勢を立て直すと、妙子、美由はボートに乗り込んだが今度は沖に戻れなくなり、美由は真っ先に異変に気付いた。
「ねぇ! なんか流されてない!?」
「うあっ、ちょっとこれヤバくない!?」
妙子も気付いて、動揺する。
「ああ、離岸流だな……零、横方向にボートを押してくれ、井坂さん美由、海岸と並行するようにボートを漕いで」
鷹人は落ち着いた表情をしていて慌てる様子もない、零は鷹人の言う通りボートを後部から押しながら泳いで美由と妙子も息を合わせる。
すると、流れは止まり穏やかになる。
「脱出できたな、岸に向かおう」
鷹人の言う通り、零はボートを押して泳ぐ。
どうにか岸に戻れたが、大分砂浜から離れて岩場に漂着すると、鷹人は岩場に登ってボートの紐を引っ張って手繰り寄せるとボートに乗った二人は岩場に上がる。
鷹人はシュノーケルとフィンを外してボートに放り投げると、手を差し伸べた。
「よし、さあ零、俺に捕まって」
「あ、うん」
零は鷹人の差し伸べられた右手を掴むと、思いっ切り引き上げてもらった。結構力強いんだと零は感心する、その表情は逞しい男の顔をしていた。
不安定な岩場だが助かった、零はホッと胸を撫で下ろして腰を下ろす。
「た……助かった……鷹人君、ありがとう」
「慌てず対処法を知っておけば大丈夫、あとは甘く見ないことさ。それと岩場には気をつけて、フナムシがそこらじゅうにいるよ」
「えっ?」
零が視線を降ろすと無数のフナムシが蠢き、気色悪くて寒気が走り、零の嫌いなゴキブリの数倍のスピードで逃げて行く姿に絶叫した。
「きゃああああああああっ!!」
「大丈夫よ零ちゃん、フナムシからしたら人間はゴジラよゴジラ」
妙子は平気な顔して岩場を歩き、美由は興味があるのか目で追い、零は怯えてながら慎重に歩いている。
それから四人でゴムボートを担いで砂浜に戻ることになる、足場の悪い岩場を裸足で歩いてるにも関わらず妙子は能天気に楽しそうだった。
「なんか、これ映画に出てくる上陸する特殊部隊みたいだね」
「米国海軍特殊部隊のこと? 翔お兄さんの仲間もそんな人もいたよ」
鷹人は言う、零は湿った潮風を肌寒く感じながら和泉と一輝も待つ砂浜に戻る。その間零は鷹人をすっかり頼もしく感じていた。
ボートを立て直した時、離岸流に巻き込まれた時、引き上げてもらった時、変な男の子だけど優しくて頼れる、去年もそうだった。
危ない所を翔お兄さんや玲子先生、鷹人君の三人でやっつけて助けてくれた。
「おかえり、災難だったわね」
浜辺に戻ると姉は特に心配した様子もなく、零は不満げに言った。
「少しは心配するかと思ったわよ」
「あら、でも鷹人君がいるから大丈夫だと思ってたわ」
和泉は腕を組んで言うと、鷹人も不満そうな顔をしていた。
「過信しないで下さい、あれでも平静を保つのに精一杯だったんですよ」
「でもお前スゲェよ、あんなに簡単にボートを立て直すんだから」
一輝が賞賛すると、鷹人は首を横に振った。
「あれは運がよかった……このまま流されてジョーズのエサになるかと思ったよ」
それでも零には頼もしく感じていた。
それから仕切りなおしで昼まで遊ぶと、一度キャンピングカーに戻って昼食を食べる。料理は鷹人と美由が料理していて温かい食事を作ってくれて、そしてまたお喋りしながら食事を楽しんだ。
食べた後、みんな早起きしたせいかコロリと昼寝してしまった。
鷹人も後部二段ベッドで水着のまま寝入り、アラームが鳴り響き目を覚ました。起き上がるとエアコンが効いていて少し寒いと感じた。
テーブルに設置された目覚まし時計(誰が持ってきたんだろう?)を見ると午後三時前でベッドを降りて背筋を伸ばした。
一輝は後部二段ベッドの下段でスマホを弄ってる……かと思ったらそのまま寝落ちしていた。
妙子と美由、零はバンクヘッド(運転席上の寝台)にもおらず和泉さんの姿もない。
そうだ……ちょっと昼寝するって言った時、起きたら先に行ってるってみんな言ってたな、と思い出す。
冷蔵庫からスポーツドリンクを飲んで水分を補給、パーカーを羽織り、ビーチサンダルを履いて外に出ると蒸し暑さはピークに達していた。
エアコンのスイッチが入ってなかったら間違いなく熱中症になっていたのかも? 空を見上げるとトビたちが「ピーヨロロロロ」と鳴きながら上空を旋回している。
鷹人はさっき遊んだ海岸に行くと親子連れとすれ違っただけで、人気はあんまりない。これもあの噂の影響なのだろうか? それとも交通の便が悪いのかもしれない、人気のない磯に行くとフナムシたちが我先にと逃げていく。
海岸に着くと零が一人、両足の太腿辺りまで海に入っていて遠くを見ている。このままどこか遠くに行ってしまいそうで、行くなら一緒に連れて行って欲しいと歩み寄った。
「零……?」
「あれ? 鷹人君? 妙子や美由たちとすれ違わなかった? あんまり遅いから呼びに行ったわよ」
「いや、すれ違わなかった。和泉さんもいなかった……一輝君だけだったよ」
どういうことだ? すれ違ったのは一組の親子ぐらいだ。鷹人は首を傾げたがふと気が付くと二人っきりだ、つい昨日のお祭りのデート以来だが果てしなく遠くに感じた。
「そう……まあすぐ戻るから鷹人君が戻ってきたら先に遊んでてだって」
「入れ違い前提か」
鷹人は周囲を見回すと人気も少ない。
「なぁ零……昨日思ったんだど……髪、下ろした方が可愛いよ」
「こんな感じ?」
零は結んでるゴムを取って右手首にリストバンドのように巻き、長い黒髪が潮風でユラユラとなびいて艶かしく微笑んだ。
「うん、その方がいい」
「やっぱり? 意外と単純ね」
鷹人は歩み寄り、潮の香りがする風にまるで背中を優しく押されるように感じながら鷹人はもう一度覚悟を決めた。
「零……もう一度言うね――」
「待って! わ、私から言わせて!」
えっ? 鷹人は「えっ?」と口を少し開けたが次の瞬間には肯く。
「私もね……鷹人君のこと、好きだよ」
鷹人は好きな女の子から一番聞きたかった言葉を耳にした。
世界が輝いて見えた、それは超新星が一生を終えて星空に最後の輝きを放つように。鷹人の目頭から熱いものが込み上げてきた。
「俺の……最初で最後の恋人になってくれる?」
「うん……だから、一緒になろう!」
零は肯いて手を伸ばす、鷹人の目から堪えていたものが溢れ出して思わず左手で口元を押さえ、右手で零の手を握った、これは嬉し涙だ。
嬉しい気持ちで泣くことってこういうことなのか? ああ……止まらない。
「もうまた泣いて、泣き虫な鷹人君……そんな泣き虫にはお仕置きよ!」
「ぶはっ!」
零にしょっぱい海水をかけられ、一瞬たじろぐがすぐに反撃に移る。
「やったな、零……容赦しないぞ!」
「捕まえて見なさ――ふうぁっ!」
言い終わる前に零は何かにつまずいたのか、派手な水しぶきを上げてうつ伏せに転倒した。
「しょっぱーい!」
すぐに起き上がって四つん這いになって顔を出す、この分なら大丈夫だろと鷹人は少し前屈みになって手を差し伸べると、零は全身を一八〇度回した。
その無防備な体勢は誘惑するのを通り越して、鷹人の全てを受け入れるという眼差しだった。
海水で潤った柔らかそうな唇、温かくてそれでいて安心できそうなはち切れんばかりの乳房、妖しく濡れた黒髪、鷹人はもう理性が壊れてしまいそうだ。零の伸ばした手を取った瞬間、ニヤッと悪戯を思いついたような顔になって思いっ切り引っ張られ、次の瞬間には波打ち際に叩きつけられた。
「しょっぱい!」
「えへへへっ! お返し!」
顔を上げると無邪気な笑みを浮かべる零が愛おしくて、もうお返しを決めていた。
「これで、決めてやる!」
「えっ! 鷹――」
嫌なんて言わせない! 鷹人は腕を零の背中に回して抱き寄せ、零の唇に触れようとした瞬間。
「きゃあああああっ!!」
「妙ちゃん、駄目だよ叫んだら!」
妙子の黄色い声と慌てた美由の声が響いた。それで鷹人はまたか、と思いながら声のした方向を向く。顔を真っ赤にしながらスマホを構えた妙子と必死で妙子の口元を塞ぐ美由、ニヤニヤしながらスマホを構える一輝、どこか達観したな笑みを浮かべて腕を組む和泉がいた。
「ちょ……ちょっと! どこから撮ってたのよみんな!」
零は顔を真っ赤にして動揺すると、一輝は胸を張ってドヤ顔になる。
「どこからって、零と鷹人が合流した時だからに決まってるだろ」
「ヒューヒュー桐谷君の言う通り、今年は猛暑だね」
妙子はニヤニヤしながら冷やかすと、鷹人は立ち上がって零も顔を真っ赤にしながら妙子に襲い掛かった。
「今すぐ動画を消せえええっ!!」
「邪魔しやがってえええっ!!」
鷹人は一輝に向かって襲い掛かり、そのまま夕方まで泳いだりして遊び倒した。
夕食は一輝とキャンピングカーで肉料理を作り、その後はくたくたになりながらも夜の海岸へと赴く。明かりはないので、鷹人と和泉が美由のマンションから持ってきたシュアファイアのライトを持って歩く。
「みんな、足下気をつけてね」
和泉が注意を促して一番前を歩くと一輝はその隣を歩いて、にこやかに言葉を交わしている。一輝も含めてみんなもう知ってる、和泉の心の中はいつも翔お兄さんがいて、一輝の恋心は報われることはないんだと。
その後ろに妙子は美由と手を繋ぎながら星空を見上げる。
「うわぁ凄い綺麗……東京や市内じゃこんなの見られないわ!」
「見える? はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガ、あれが夏の大三角よ!」
「夏の大三角……ねぇ妙ちゃん知ってる。昔の飛行機は星を見る人を乗せていたんだ。正確には航空士っと言ってまだGPSや無線航法がなかった時代……推測航法――飛んだ時間と時速を計算して、大まかな位置を割り出していた。それよりも正確な方法として天測航法というのがあったの……星が見える角度を測り、そこから位置を割り出したの……昔の飛行機は星に導かれていたの」
「へぇ……なんかロマンがあるけどなんか中二病っぽいね」
妙子も美由と楽しそうに話しながら歩く、それ翔お兄さんの受け売りだなと苦笑しながら鷹人は一番後ろを歩く。隣には零がいて、言葉を交わさず鷹人と手を繋いでいた。
心を通じ合った好きな女の子と手を繋ぐ。
至福の一時というのはこういうことかもしれない、ふと鷹人は喜代彦と中野さんが見てたらどんな反応するんだろう? それはもう永遠に訊くことはできない。僕は幸せになっていいんだろうか?
「零、僕たちってさ……」
「うん」
零はキュッと結んだ唇に笑みを浮かべながら肯いて、次の言葉を待つ。
「幸せになっていいのかな?」
「鷹人君、怒るよ」
表情は一転して、キッと鷹人を本気で睨む。
「鷹人君、山森君と中野さんのこと考えてたでしょ? わかるよ、私」
「うん、君に嘘は通じないね」
「鷹人君、山森君と中野さん……いつまでもウジウジしてたらきっと悲しむわ。いいえ、あの日の事件で亡くなった人たちはみんな、残された最後の時を幸せに過ごして欲しいときっと願ってるわ……だから、今を精一杯幸せに生きよう。それがエーデルワイス団なんだから」
そうか、零の言う通りだ、この今しかない今のために今を過ごそう。喜代彦や中野さんが笑って見守ってみてくれるように。




