第五話、その4
ここに来るのは卒業以来? いや三年生の夏休み以来だろう。
「懐かしいわね、ここで空野さんはいつもピアノを弾いていた。合唱部のピアノ奏者としてね」
玲子先生は音楽室でピアノの前に佇む和泉の姿を見て、懐かしそうに微笑んでる。
和泉は変わらないピアノの感触に思わず口元が緩みそうだった。
そうだ、あれはまだあるかな? ふと思い出しながら訊く。
「あの、準備室に入ってみてもいいですか?」
「勿論、いいわよ」
玲子先生の許可を貰って準備室に入る。中は吹奏楽部が使う金管・木管楽器のケースが所狭しと置かれていて、相変わらず散らかってる。踏んだりぶつけたりしないように避けながら、楽譜や音楽関連の書籍がぎっしり並べられてる棚に身を寄せる。
埃かぶってる本もあり、長い間読まれてない痕跡を表していた。
この本、あの時もあったからきっと今もあるはず。和泉は記憶を頼りにそれを探すと記憶の場所にあったノートを掴み、ゆっくり引っ張り出すと五線ノートが出てきて名前が書かれていた。
『空野和泉』
「あった……よかった、まだ残ってた……いえ、ずっと待ってたんだね」
和泉は忘れていた大切なものを思い出し、心の底から込み上げてくる嬉しさを全身で、五感で感じながら五線ノートを開き、埃が舞う。ページをめくるごとに手描きの音符が書かれて作曲した時の光景が蘇る。
あの時は合唱部でピアノに専念していて、みんなとは馴染まずに自分の殻に閉じ篭って作曲していた。さよならも言えずに置いて行った友達を思い続けるために、でもそれで高校生活をフイにしてしまった。
合唱部のピアニストとして評判は良かったが、近づく人を拒絶した。友達も恋人も作らずにピアノだけが、和泉の高校時代の全てだった。
そして高校三年生の時にふと、自分は過去に縛られていたことに気付いてもう自分に近づく人はいなかった。何もかも手遅れだと悟り、その日に合唱部をやめて孤独な高校生活を大学進学のために費やし、音楽とは無縁の孤独と後悔の生活を送った。
嬉しさと同時に高校時代に感じた孤独が入り混じり、複雑な気持ちでいると玲子先生は訊いた。
「これ、もしかして和泉さんの楽譜?」
「はい、昨日弾いた曲は……そうか、未完成だったんですね」
和泉は五線ノートの終わりを捲ると、最後の一曲は半分もできてない状態だった。そりゃわからないわね、と苦笑する。
すると玲子先生も当時の噂を思い出したのか、納得したような表情になる。
「当時、作曲が趣味って聞いたけど……やっぱり本当だったんだね」
「はい、部活の合間に作曲してたの本当だったんです……昼休みや放課後に毎日作曲して練習してましたから」
和泉は後悔の念となってる出来事を思い出す。
二年生の文化祭前に合唱部が発表する曲を悩んでた時、部長や顧問の先生が「空野さんが作詞作曲した曲を歌おう」と強く推し進めた時に断固として拒否、そしてみんなの前で心無い言葉をぶつけてしまった。
『どうしてそんなことしなきゃいけないの!? あなたたちのためなんかに作った曲じゃないわよ!! 誰も……誰もあたしの曲に触らないで!!』
それ以降、合唱部のみんなは誰も近づこうとせず出された課題曲を完璧にこなし、コンクールの時に上位に入賞しても喜ばず。高校三年生の夏休み前に受験勉強に集中したいと言って退部した。
誰も止めてくれる人もおらず、後悔と孤独の痛みだけが残った。
弾いてみよう、和泉は音楽室に戻るともう一人の先生が入ってきた。
「遅くなってすみません、あら! 空野さん? 空野和泉さん?」
「高森先生?」
和泉は卒業以来に会う担任の先生を懐かしく思いながらも、顔に増えた皺と白髪が月日の流れを感じさせる、あの日から随分遠くまで来たものだ。
高森先生は嬉しそうな目で歩み寄り、その手を取る。
「卒業以来ですね、元気にしてましたか?」
「ええ、いろいろありましたけど」
そう言うと、高森先生は嬉しそうに微笑む。
「空野さん、なんだか丸くなった気がします」
「えっ?」
和泉は思わず声が出てしまった。自分はそんなに変わってないような気がするがと思ってた時、今まで朗らかだった玲子先生の声色が変わった。
「これで揃いましたね」
緊張に満ちた口調になっていて和泉は自然と表情が強張る。
「高森先生、真島翔君と神代彩さん……覚えてます?」
「ええ、綾瀬先生の同級生でしたね、それが?」
高森先生は首を傾げながらも真摯に聴こうとする姿勢、真っ直ぐ玲子の顔を見る。その顔は職場の後輩としてではなく、かつての教え子として聞こうとしてる。和泉にはそう見えると玲子先生は和泉にも話しを振る。
「和泉さんも、真島君や神代さんから高校時代の話しは聞いたことある?」
「えっと……翔さんはあまり話してくれませんでしたけど、彩さんは色々話してくれました。翔さん、彩さん他に二人の友達といつも四人で過ごしたって」
和泉は彩から聞かせてもらった話しを思い出しながら言うと、ふとその時の彩の言葉を思い出すがそれを言う間もなく玲子は話す。
「高校時代、真島君と神代さん、それから柴谷太一君と中沢舞さんの四人でグループを作っていました……他のクラスメイトたちとは付かず離れずの距離を保ち、体育祭の日も、文化祭の日も、修学旅行の日も……一緒でした。夏休みや冬休みの時も……四人は一緒に行動をともにして一緒に勉強したり、祭りに出かけたりして……」
そこまで聞けば単なる仲良しグループとも言える、和泉はまるで今のエーデルワイス団のようだと感じてると高森先生は「はっ」と何かを思い出して言った。
「待ってください! 当時の細川学院高校は……」
「そうです、今の理事長先生に変わるまで校則は今より厳しかったこと……覚えてますよね?」
玲子先生の言葉に和泉はふと思い出した、在学中に聞いた話だったが和泉が入学してくる二年前に理事長先生が急死して変わり、大幅な方針変更と校則の見直しが行われたことを。
「勿論です、あの時は反発する生徒は沢山いて大変でした。男女交際の禁止、休日に私用外出時も制服、頻繁な持ち物検査に休日は繁華街でボランティアの方たちと見回り……今では考えられませんね」
高森先生は苦笑する、和泉にはちょっと想像がつかない話しだった。玲子は話しを続ける、和泉は薄々と感じ始めていた。
「今なら言えますけど、彼ら四人はそれぞれで交際してましたし……休日は先生に見つからないように服装を工夫して外出、年に三回は四人だけで旅行……高校三年生の夏休みや年末年始でもやめませんでした」
「驚いたわ……あの時だったら間違いなく退学ね。確かにあの四人の子たち生徒指導の先生方にマークされてたけど……結局卒業まで捕まえられなかったわ、逃げ足の速い生徒も沢山いましたからね」
「そうです高森先生、あの子たちは堅苦しく、狭い教室ではなく……教室の外、いいえ学校の外に居場所を見出して……神代さんたちは作ったんです」
「まさか……神代さんたちは」
高森先生も確信したのか、動揺を隠せない様子だった。
「そうよ、神代さんたちが作ったのよ! たった四人で規範を強いる大人たちに反抗するための秘密結社……エーデルワイス団を!」
玲子の言葉に和泉は彩の言葉を知っていた。
筑波の航空宇宙開発研究所で会い、それから思い出話した時に一度だけ。
『高校の頃、あの学校に入った時ね……うわぁ入る学校間違えちゃったって思ったの、そんな時にね。涼宮ハルヒって読んだことある? あの破天荒な女の子のお話し、それを読んでヒントになったの……名付け親は翔君よ、エーデルワイス団って』
「あの話し、本当だったんだ……」
和泉が呟くと玲子は肯いて、問い詰める。
「そう、柴谷太一は卒業後に不可解な死を、神代彩はあなたも知ってる通り筑波の航空宇宙開発研究所の事故で、中沢舞は去年祖父母の介護を苦に自殺、真島翔はその年の八月に膵臓癌……エーデルワイス団の創設メンバーはみんなはこの世を去った……四月に現れた時はまるで亡霊が現れたような気分だったわ、そしてその亡霊の子どもたちが全国で増殖し続けてるわ」
そうエーデルワイス団は日本全国にまで広がっている、それもこうしてる間にも。
「だから、和泉さん……あなたエーデルワイス団のこと知ってるんでしょ?」
「あ……あたしは何も知りません、あのルールまで教わってなかったから……」
和泉は首を横に振って否定すると、勢い良く音楽室の扉が開き、汗ばんで慌てた表情の男子生徒が入ってきた。
「高森先生、玲子先生! すぐ来て下さい! 下で男子生徒が……倒れました!」
「ええっ!? その子は?」
高森先生が訊くと、男子生徒は自信なさげに名前を言った。
「確か……三年三組の桐谷って名前です」
「鷹人君!?」
和泉がそう呼ぶと、玲子先生は目を見開いて両手を口元に当てて震え、動揺を露にした。
「そんな……桐谷君が……まさか」
「綾瀬先生、落ち着いて下さい! すぐに一緒に行きましょう! 私や他の先生もいますから!」
高森先生は動揺する様子もなく冷静に諭すと、和泉は真っ先に音楽室を飛び出した。




