甘い衝撃
最寄りのバス停から家までの帰り道に公園がある。
近所の年輩の方々が定期的に集まって花の植え替えをしている小さな公園。
数日前通った時は、名前はわからないけれど白やピンクの可愛い花がいっぱい咲いていた。
数日前?いや、数週間前?ひょっとしたら数か月前か?
青い空の下で楽しげに咲いていた花たちの記憶はいつのものだろう。
ほぼ毎日通っているはずなのに、視界には入っているはずなのに、その変化に気づけない。
昔は違った。
父が庭の手入れをした日は必ず『綺麗になったね』と声をかけたし、母が植えた花のつぼみが開いたら、誰よりも早くそれを伝えた。
日々のちょっとした変化、とりわけ花や草木の変化に気づけることは心にゆとりがある証拠だと私は思っている。
「ただいま」
申し訳程度の狭い玄関で靴を脱ぐ。
横にはあまり綺麗とは言い難い黒の革靴。
「おかえり、今日はちょっと遅かったねー」
ゆったりとした話し方。
昔は聞いていて落ち着いたのに、今は時々もっと早く喋ればいいのにと思ってしまう。
「うん。風邪で休んだ人の分の仕事させられちゃって。流石に疲れた。ご飯ちょっと遅くなるけど今から作るから待ってね。」
「はいはーい」
スーツの上着だけを脱いで髪の毛を束ねる。
ロングヘアは総也の好みだ。
大学のゼミの飲み会終わり、たまたま同じ方向ということで一緒に帰った。
『林さんはショートより絶対ロングのほうが可愛いよ』
二人とも酔っていてつまらない話でも大笑いしていたのに急に私の目を見つめて総也は言った。
驚いて思わず動きを止めた私を見て『ほんとだよ』と言いながら微笑んだ彼に私はやられてしまった。
男の人のこんなに甘くてとろけるような笑顔を見たのは初めてだった。
ひょっとしたらこれが初恋なんじゃないかと思うくらいの幸せな衝撃を受けた。
それから暫くして付き合い始めて、お互いの就職を期に同棲を決めた。
「美味しい美味しい」
キャベツ、もやし、ほうれん草に、ベーコン…余り物で作るおかずを総也は美味しいと言ってくれる。
「こんなの家にあったっけー?」
炒められたエリンギを摘まみながら総也がたずねる。
「うん、野菜室の奥の方に。多分前のお鍋の残り。」
「あー、そっか。また鍋も食べたいねー」
共通の趣味は美味しいものを食べることだ。
仕事の休みが合えば、ネットで美味しいと評判のお店を探して総也の運転でランチに出掛けた。
でも最後に出掛けたのは三ヶ月くらい前のこと。
「ねぇ、また美味しいお店探してランチいこう?」
「うん、探しておくねー。」
三ヶ月くらい前にもこの会話をしたのを覚えている。
「ご馳走さま。先にお風呂入るねー。」
「うん、わかった。」
お風呂…いつから別々に入るのが普通になったんだろう。
総也はずっと変わらず優しい。
同棲も3年も続けば嫌なところや駄目なところが見えてきてもいいはずなのに総也にはそれがない。
掃除洗濯、たまに料理もしてくれる。
私は満たされてる。
そのはずなのに、この息苦しさは何だろう。
心に感じる寂しさは何だろう。
汚れを軽く落として洗浄機に食器を入れる。
勝手に洗ってくれるなんて、賢い子。
総也はずっと買うのに反対していたけれど、『片付けるのはどうせ私なんだから』と言うと、笑って仕方ないなぁと頭を撫でてくれたんだ。
そう、いつも最後は私の意見を聞いてくれる。
ぼんやり今までの総也とのことを考えながらコンロの下の扉を開く。
お醤油や、みりんなど大きめの調味料が並んでいるその奥に梅酒が数本そしらぬ顔で混ざっている。
そのうちの一本を取り出してグラスに注ぐ。
この琥珀色のとろりとした液体を総也は受け付けない。
なので私もできる限り飲まないようにしていたけれど、いつの間にかこうして一人の時間ができると飲んでしまうようになった。
こんなこと、総也は知らない。
何度注意しても靴を磨かないことに苛々しているのも、
疲れて帰ったとき、それに対しての気遣いが少ないことに憤りを感じているのも、
総也を恋人ではなくて、同居人と認識していることに気づいてしまったことも、
総也は何も知らない。
くいっと勢いよくお酒を喉に滑らせる。
美味しい。
何かつまめるものがないかと冷蔵庫に向かおうとした時、不意の事に足が止まった。
お風呂から出てきた総也が表情なくこちらを見ていた。
「沙夜、泣きそうな顔してる」
総也が何を言っているか理解できなかった。
「どうしたの」
「何が?普通だよ?」
どうしてそんなに見るの?
一人でお酒を飲んでいることを責めるの?
右目から涙がこぼれて頬を伝うのを感じる。
「沙夜」
「何?…わからないよ。」
思わず目を伏せる。
総也がバスタオルを洗濯物かごに投げ入れて、ゆっくり近づいてくるのを感じる。
…体が動かない。
総也はすぐ目の前で止まり、大きな手で私の顔を優しく上げた。
私の目をじっと見つめる。
瞳のもっともっと奥まで届きそうな視線。
「…知ってたよ」
「え?」
声がかすれる。
「知ってた。沙夜がどんな気持ちでいたか。でも、怖かったんだ。これ以上下手なことしてもっと沙夜が離れていっちゃったらって考えたら。」
「…」
「だから、それが余計に駄目だったのかもしれない。」
涙が次から次へと溢れ、私の頬と総也の掌の間の僅かな隙間に入り込む。
頭は混乱しているけれど、総也が話をどこへ持っていこうとしているか、それは、それだけははっきりわかる。
「ごめんね。俺、沙夜が大好きなんだ。我が儘なところもすぐ苛々するところもあるけど、そこも含めてずっと大好きだ。」
「総也…」
「でも、…だから、このままじゃ良くないんだ。沙夜が俺のせいで辛い思いをしてるなんて、やっぱり耐えられないよ。」
総也が私から離れようとしている。
今目の前にいる総也が、いなくなる。
「総也!私っ…!」
「沙夜、別れよう。」
総也の声が妙に遠くから聞こえる気がする。
目の前はもう殆ど何も見えない。
でも総也が何だか笑ってるようにも見える。
私の大好きなとろける甘いあの笑顔。
私が一生手に入れておきたかったもの。