第2話 『降臨』
魔獣。魔物の様に、元々は動物だった生き物に魔力が障って変化するのとは違う。魔道の乱れによって湧いた魔障気が集合する事で顕現する生命体だ。正真正銘、有害物質のみで構成された化物である。
そしてその危険度は、並みの魔物を遥かに凌駕する。
「二人は!?」
切羽詰った様子でオルフェリスは声を上げる。
彼の視線が捉えたのは、立ち竦んで動けないロエルとノエルの姿だった。
無理もない。
二人のすぐ側に顕現したのは、漆黒の巨人。全長およそ三メートル程はあるだろう巨体は、筋骨隆々という言葉がよく似合うような筋肉質だった。丸太のように太い腕と脚を持ち、六つに割れた腹筋が恐ろしい。爛々と光る眼は、ロエルとノエルの小さな身体をしっかりと捉えていた。
『巨人・黒丸』。
顕現する魔獣の中でもメジャーな巨人型の一種だ。
「ちょっと待てよ、オイ!」
このままではロエルとノエルの小さな身体が、『黒丸』の太い腕に叩き潰されるだろう。
どう考えても、そうされて二人が生き残るビジョンは見えない。
状況は最悪。
二人は『黒丸』を見上げ、目尻に涙を浮かべて身体を震わせている。
「クソッたれが……!」
目の前に突きつけられた現実を恨むように呻いたオルフェリスは、次の瞬間に走り出していた。右手に握っていた木剣を逆手に持ち変える。
黒丸の視界には、ロエルとノエルしか入っていない様子だった。
すぐ側の獲物を見て、その眼に歓喜の色を浮かべた奴は、ゆっくりと太い腕を持ち上げた。
そして、それを無情に振り下ろす。
「うォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
その腕が二人の少女を叩き潰す事は無かった。
必死の形相で飛び込んだオルフェリスが二人の少女を抱きかかえ、前方に飛んだ。
直後、黒丸の腕がブンッ! と空を切って振り下ろされる。
轟音と衝撃が発生した。
黒丸が叩いた地点を中心に、地面は全方向にひびを入れていく。
オルフェリスは抱きかかえた二人の無事を確認した後、直ぐに立ち上がって二人の背中を強く押した。
「二人は今すぐに町に戻って雇われの冒険者を呼ぶんだ! ここは俺が何とか黒丸を引き付けるから、早く逃げろ!」
「で、でも、お兄さんは!?」
「大丈夫」
オルフェリスは二人を安心させるために、力強く返した。
「俺が二人の背中を守ってやる。だから、早く!」
黒丸は、オルフェリスの姿を見て苛立たしそうに喉を震わせる。新たな獲物が現れたことに対する喜びよりも、邪魔をされたことへの怒りの方が優ったらしい。
ロエルとノエルの二人は、オルフェリスの必死の剣幕を見て息を呑み、走り出した。
途中、ポニーテールを揺らすロエルが顔だけで振り向いて叫んだ。
「お兄さん、絶対に死なないで!」
「……ああ!」
ゆっくりとした動きで向き直る黒丸を見据えながら、オルフェリスは笑ってそう返した。
二人の背中が遠ざかる。
それを視線だけで確認したオルフェリスは、表情から余裕を無くして舌打ちした。
「とは言ったものの……全く、参った」
武器は決して丈夫ではない木剣一本と身体一つ。
ちょっとした切り傷を塞ぐ程度の力しかない治癒術式は役に立たない。
おそらく才能と言うモノがないのだろう、攻撃系の魔術は一切扱えない。
ロエルとノエルが町の冒険者を呼んでくるにしろ、それなりに時間は掛かるはずだ。
「ザッと状況確認してみたが、最悪じゃねえか」
冷や汗を流して吐き捨てるように言った。
それと同時、うるさいなんてレベルじゃない、衝撃波か何かと間違えるような咆哮を上げた黒丸は、巨大な身体を動かしてオルフェリスに向かって走り出した。
脚の長さからして、人間から見れば規格外だ。十メートル程あった距離が一瞬で縮められ、目の前が黒一色に染まる。
「――ッ!?」
大きく目を見開いたオルフェリス。
瞳に映ったのは持ち上げられた黒い腕だった。
そしてそれは、無情にも振り下ろされる。
その瞬間、オルフェリスは無意識の内に横へと跳んでいた。過度の危険性に頭の中が真っ白になっていた彼だったが、命を守ろうとする脊髄反射反応はしっかりと働いたらしい。
一瞬前に彼が立っていた地面に黒丸の腕が叩きつけられる。それによる衝撃波がオルフェリスの身体を薙ぎ払った。
「がァっ!?」
背中から地面に落ちたオルフェリスは苦悶の表情で呻いた。肺から空気が絞り出された彼は、酸素を求めて必死に喘ぐ。
だが、黒丸はそんな挙動を待ってあげるなんて真似はしない。
眼だけで喘ぐ小動物を追った黒い巨人は、すぐさま身体の向きを変えて吹き飛んだオルフェリスに向かって歩き出す。
「かはっ、ちょ、待――ッ!?」
苦しむオルフェリスはこれ以上寝ていてはまずいと立ち上がり、背を向けて走り出す。
逃げ切れるはずがない。
黒丸の一歩は、オルフェリスの三歩と同様の距離を進む。
案の定すぐに距離と詰められた彼は、黒丸の一挙一動を見逃さぬように目を見開いた。
拳を握った黒丸が、それを振りぬく。
「おァァァああああああッッッ!!!」
迫りくる死への恐怖心を振り払うべく絶叫したオルフェリスは、横に跳んで大勢を低くする。続けて木剣を逆手持ちにしていた右腕を左腕で抑え、振りぬかれた腕の側部に突き立てた。
バキンッ! と。
使い古した木剣は容易く折れ、凄まじい衝撃が右腕を襲った。
「痛ァあッ!?」
腕が折れてどこかにいってしまったのではないかと思わせるような鈍い激痛に顔をしかめる。視線を向けてみれば、右肘から先がおかしな方向へと折れ曲がっていた。更に手首は真横に倒れ、肉が裂けた所から白いモノが見えた。そこから血が溢れていく。
理解しがたかった。
理解したくなかった。
普通にしていれば絶対になりえない右腕の惨劇に頭が真っ白になる。
自分の腕の二つの関節が、それぞれおかしな方向に折れ曲がっているという現実味のない状況を見て、オルフェリスの脳は『痛み』と言う感覚を一瞬の間忘れていた。
「……んだ、これ?」
呆けた表情で声を漏らすオルフェリス。黒丸と言う敵の存在すらも一瞬忘れ立ち尽くした彼は、さらなる追撃を受ける。
空振りした拳を手刀に変えた黒丸が、それを振るった。黒い残像を残して速く鋭く振るわれた手刀は、折れ曲がった右腕がつながる肩に下段から斬りかかる。
男にしては細い、オルフェリスの肩から先が宙を舞った。
「――あ?」
気が付いた時には、オルフェリスの身体も同様に吹き飛んでいた。
凄まじい衝撃に身体は宙に浮き、まるでゴムボールの様にバウンドする。
絶叫が草原に響き渡った。
断ち切られた右腕がくるくると空中で旋回し、やがて力なく地に落ちる。既に身体から離れた右腕の断面、そして腕の宿主である少年の肩にはプツプツと赤い液体が弾け、やがて勢いよく噴出した。
身体の右側から発生する激痛は『熱』となり、それはオルフェリスの身体を焼き焦がすような勢いで全身に駆け巡る。
倒れた彼の周りには既に大きな赤い沼が出来ていた。下敷きになった雑草も赤く染まっている。
「嘘、だろ……?」
掠れた声でそういうオルフェリスの視線は、真っ直ぐに自信の右腕――否、今はもうただの肉塊でしかないモノに向けられていた。
下手をすれば意識を失ってしまいそうな激痛に、唇を噛んで対抗する。
流れ出ていく血が気持ち悪い。身体から力が抜けていくこの感覚は、出血に伴うものだろう。このまま倒れていれば、出血多量で絶命するのは免れない。
無意識下で痙攣する身体無理やりに動かそうと試みる。しかし、残った左腕は役に立たず、明滅する意識と歪む視界が右腕の傷口を抑える事を許さなかった。
――これはマジでヤバイかも……。
身体を焼き尽くすような熱は未だに消えない。いや、おそらくこのまま死ぬまで終わらない。目を閉じてしまえば、次に瞼を持ち上げる力なんてもう無いと確信した彼は、必死に目を見開いて元凶を睨みつけた。
黒い巨人は無様に倒れるオルフェリスを見て、もう彼は逃げる事ができないと悟ったのだろう。ニヤリと笑った黒丸は、今までよりもゆっくりとした動作で歩き出す。
「クソッたれが……」
キンとした耳鳴りが耳鳴りが脳を劈く。
朦朧とする意識は、もう終わりだと彼に伝えていた。
黒丸はオルフェリスにトドメを刺した後、きっとすぐにでも新たな獲物を探して町に向かって動き出す。
「ロ、エル、ノエル……」
後はもう、あの双子が町に雇われた冒険者や魔術師の人を呼んでくれて、この魔獣を倒してくれる事を祈るしかない。
――俺は、死ぬだろうけど……。
地面が冷たい。身体も冷たい。出血量が凄まじい所為か、身体が異様に軽く感じる。今なら冗談抜きで風に吹かれただけで宙を舞ってしまいそうなくらいに。
せめて平凡な自分は、柔らかなベッドの上で、平凡なりに人生を全うした満足感を得て、痛みを感じずに安楽死――と言うのが理想だったのだが、もうそれも叶わないだろう。
でも。
――最後に二人を助けられて、良かった……。
胸いっぱいの満足感を感じ、迫る死に抗わず身を委ねようと目を閉じかけた、その時だった。
光が天空から降り注いだ。
金色の粒子を撒き散らし、黒丸からオルフェリスを守る様に。
見ているだけで痛みを忘れ、心地の良い癒しの感覚に包まれるような、そんな光。
そしてオルフェリス=ウォーカーの耳に、澄んだ美しい声が届いた。
「やっと……」
少女のものに聞こえるその声からは、大きな安堵の色を感じ取れた。
降り注いだ一本の光はやがて全方向に拡散していき、巨大な丸型になったそれは唐突に弾ける。
光の中から現れたのは、神が手掛けた芸術品か何かなのではないかと錯覚させる様な、神秘的な美しい少女だった。輝く銀髪に金色の瞳、見た目は幼く十四から十五歳程のモノだが、妙な威厳を感じる。
そして、その少女は小さく整った唇を動かし、言葉を紡いだ。
「我は治癒神エルシア。オルフェリス=ウォーカー、君を助けに来た」
未来が、変わった。