第九十八話 迫り来る帝国軍
マンドンゴラを調合した薬を服用した翌日には、リーシェの熱はみるみると下がっていった。
その間、イルダはリーシェにずっと付きっきりだった。
また、ジュール伯爵家の当主エリアンは、昨日、俺達が出て行ってから帰って来たが、イルダの気持ちを察してか、まだ、顔を見せてなかった。
だから、イルダはルシャーヌのことをエリアンに話していないはずだ。
もっとも、急いでエリアンに伝えなければならない話でもない。もう、どう転んでも覆らない話なのだ。リーシェの容態がここまま落ちついてくれば、イルダも時間を見て、エリアンに話をするだろう。
一方、俺は、イルダに代わって、キリューの街でネルフィに言われたことを、リゼルに伝えた。
「ネルフィがそんなことを」
「ああ、あいつは、やはり、俺達の正体を見破っていた。しかし、マゾルドに入る時も、昨日も何も言わず俺達を見逃した。やはり、あいつは俺達の味方なんじゃないのか?」
「私も五年ほど会っていないから、何とも言えないが……。しかし、そうだと信じたい」
リゼルも戸惑っているようだった。
ネルフィは、リゼルと同じ師匠に教わった魔法士だったが、リゼルは姉弟子のファルとともにアルタス帝国皇室付きとなり、ネルフィもアルタス帝国への仕官を望んだが夢は叶わず、結局、ホランド公爵家に仕官した。その時には、リゼルとネルフィの間に確執も生まれたようだ。
そして、今、そのホランド公爵家は、今の帝国に臣従している。だから、間接的ではあるが、ネルフィもアルタス帝国に弓を引いた側の人間ということになる。しかし、ネルフィはホランド公爵家に忠誠を誓っているだけであって、その本心は、アルタス帝国に向いているのではないだろうか?
俺とリゼルが食堂でそんな話をしていると、エリアンが青い顔をして入って来た。
かなり殺気だった顔だ。
「イルダ様は、リーシェさんの治療で忙しいと思いましたので、アルス殿のところに来ました」
「何だ? 火急の用か?」
「帝国が密かに、大軍をこのマゾルドの街に向けて差し向けたとの情報が入りました!」
「何だと! それは本当か?」
「はい! 今しがた帰って来た密偵が、五日後にはこの街に着く所まで来ている約二万の軍団を確認しています」
二万といえば、戦争をしに来ているとしか言いようがない。単に威圧や示威のために莫大な費用を掛けて、大軍を寄せる意味がないからだ。
「目的は、やはり、この街か?」
「それも我が密偵が、下っ端の軍人から話を聞いて確認しました」
エリアンの密偵はかなりの能力を持っている。それはまさしく、指揮官の能力が高い証拠だろう。
「しかし、事前通告もなしにか?」
「我がジュール家が密かに軍備を整えていることを隠蔽する時間を与えないためでしょう」
「エリアン、こっちの兵数は?」
「制限上は、五千ですが、実際には七千ほどです」
二千人もの兵力を密かに増強していたのか。今の帝国から言わせると、明らかな反逆行為だ。だが、七千の兵をもってしても、約三倍に当たる二万の兵に勝てる訳がない。
遠征してくる帝国軍は、武力を背景に、ジュール伯爵家の反逆行為を白日の下に暴き出し、このまま伯爵家を取り潰すつもりなのだろう。
「どうする、エリアン?」
「このまま黙って降伏するような屈辱を味わうくらいなら、戦って死すのみです!」
「しかし、この街の住民達は?」
「もちろん犠牲にできません。我々の方から打って出ます!」
「無茶だ! 籠城戦なら、まだ、勝ち目もあるだろうが、野戦では万に一つも勝ち目はないぞ!」
「承知の上です。アルタス帝国滅亡とともに死すべきであったのに、ホランド公爵家の口添えを得て、生き長らえる恥を晒しているのも辛いこと。いっそ、華々しく散ってご覧にいれましょうぞ!」
本当に惚れ惚れする男だ。
この決死の覚悟は、イルダが説得をしても覆ることはないだろう。それに、ルシャーヌの婚約の話を聞くと、エリアンは、ますますもって、その覚悟を決めるはずだ。
エリアンは戦場で確実に死ぬ。捕らえられそうになれば自決するだろう。
「アルス殿。イルダ様に、明日のうちには、この街から出て行かれた方が良いとお伝えください」
「しかし、リーシェの黒熱病が完治するかどうかだな。まあ、だいぶ良くなったらしいから、明日には動けると思うが」
「イルダ様は、絶対にこの街にいたらいけません。なぜなら、迫り来る帝国軍の将軍は、ザルツェールだからです」
「何だと!」
ザルツェールは、前皇帝の実弟であるマインズ公爵家の嫡男でイルダの従兄弟でもある。マインズ公爵家は、そんなアルタス皇室にもっとも近い家柄であるにもかかわらず、真っ先に今の帝国側に付いて、今の帝国でもそれなりの家格を守っているらしい。
そして、ザルツェールは、イルダの許嫁だった男だ。商都カンディボーギルでイルダにも会って、イルダが生きてることをその目で確認している。
その時に見せた未練がましい態度や、アルタス帝国の元皇女が生きているといって、警戒を厳重にさせていることから言っても、ザルツェールは、イルダをその手にしたいと考えているはずだ。いくら、ホランド公爵家のルシャーヌと新たに婚約をしていると言っても、帝国軍の将軍という地位にあれば、今は何の地位もないイルダを妾のようにすることだってできるはずだ。
だから、ザルツェールが、マゾルドの街にイルダがいると知れば、その兵力に物を言わせて、徹底的にイルダを探し求めるだろう。
エリアンが言うとおり、イルダは早くこの街を出て行くべきだ。この街から出て、広い大陸を流浪している限り、捕らえられる恐れは低い。
夕食の席。
エリアンは、迫り来る帝国軍への対応で忙しいようで同席してなかったが、子供リーシェが二日ぶりに顔を見せ、スープを腹に入れるくらいには回復を見せていた。
そのリーシェの隣には憤慨しているイルダ。
この街を出て行くことをエリアンが勧めていることを話したが、予想どおり、イルダは首を縦に振らなかった。
「しかし、イルダが残っていて、何になる? 敵を利するだけだぞ」
俺もリゼル達も、エリアンの助言に従うように、イルダを説得した。
「エリアン殿を見捨てろというのですか?」
「それがエリアンの意思だ」
「納得できません!」
「良いか、イルダ。カルダ姫とイルダは、アルタス帝国復興のためには欠けてはならない存在なんだぞ。分かっているよな?」
「そ、それは……」
「エリアンは違う。そりゃあ、イルダにとっては、失いたくない幼馴染みではあるだろうが、そんな私情で自分を危なくするな」
「そんな私情などと!」
イルダが珍しく俺に怒った声を上げたが、最後は涙声でかすれてしまった。
聡明なイルダのことだ。分かっているのだ。しかし、イルダ自身が納得できていないだけなのだ。
「イルダがこの街に残っていて、仮に帝国軍に捕らえられたら、街を守るために打って出ることにしているエリアンの気持ちも無駄にすることになるんだぞ」
エリアンが野戦をするということは、この街を戦場にしたくないということの他に、エリアンが戦っている間に、イルダにできるだけ、この街から離れてほしいからだ。
「こんな、こんなことって……」
顔を伏せて、嗚咽するイルダの悲しい気持ちそのままに、窓の外ではしとしとと雨が降りしきっていた。
次の日。
ジュール伯爵家の謁見の間の玉座に座ったエリアンの前には、帝国の派遣軍からの使者として、三人の騎士が並んで立っていた。
玉座の背後にある深紅のカーテンの後ろには、俺とイルダ、リゼルが隠れて、その使者からの口上を聞いていた。
「ジュール伯爵家におかれては、皇帝陛下のご厚情により安堵された身分であるにもかかわらず、制限されている以上の兵士を雇い入れていること、間違いないか?」
「身に覚えがござらん」
エリアンがすっとぼけて言った。
もっとも、使者達もエリアンがすんなりと認めるとは思っていないだろう。
「なれば、ここに貴公が小分けにして発注した鎧甲冑の注文をまとめた報告書があるが、三千を越える数。五千の兵士の半分以上の鎧甲冑を新品に更新していることになるが、これはどういうことだ?」
「これまで古いものをやりくりして使っていたが、さすがに使用に耐えられなくなってきて、いざ、帝国から派兵の要請があった場合に、みすぼらしい装備では、帝国に対しても失礼に当たると思い、思い切って更新をしたにすぎぬ」
「新たに増強した兵士に割り当てたものではないと申すか?」
「兵士を増強しているという直接の証拠があるのか? あればお見せ願いたい」
エリアンめ、本当に肝が据わってやがる。堂々とした受け答えからして、顔色も表情もまったく変わっていないだろう。
「この街にやって来た剣士や元兵士どもを積極的に勧誘して仕官させていると聞くが?」
「兵数の総量が規制されていれば、質の向上を追及すべきは当然のことなり。何ら後ろめたいところはござらん」
「ならば、この街に駐留している兵士を逐一数えさせてもらっても良いか? そして、ジュール伯爵家の武器庫もすべて開示されたい」
「貴族の軍備はその家の最高機密事項だ! その開示を強要される権限が、そなたらにあるのか?」
「皇帝陛下の命である!」
「他の貴族達も等しくそのような命令に服しているというのであれば、我がジュール伯爵家も喜んで従おう。しかし、ありもしない嫌疑を掛けられた上、そのような理不尽な命令には従えぬ!」
「皇帝陛下の命に逆らうか?」
「そのような命令は聞いたことがござらん! 皇帝陛下だからといって、好き勝手できるものではないはず! 私の答えはこれ以上、変わることはない!」
「では、その命をもって潔白を証明されるが良い!」
「望むところだ!」
使者が憤慨して謁見の間から出て行くと、俺達も背後のカーテンからエリアンの前に出て行った。
「お聞きになったとおりです。明日には、帝国軍はこの街を攻めて来るでしょう。早朝にはこちらから打って出ます」
「エリアン殿……」
「イルダ様、最後にこうやって、イルダ様にお会いできて幸せでした。忠誠を尽くしたままで死ねるのですからな」
「エリアン、まだ死ぬと決まった訳じゃねえぞ」
「そうです! 最後だなんて言わないでください」
もうイルダの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「私だけが生き延びるということは、私が兵達を見捨てて逃げるということ。私は最後まで卑怯者と後ろ指を指されるような不名誉だけは受けたくありません」
くそっ! 俺は、男色の趣味は持ち合わせていないが、このエリアンなら抱かれても良いと思うくらいに気持ちが良い男だ。将来、アルタス帝国が再興したときも、イルダが全幅の信頼を寄せることができる腹心になれるはずだ。
何とか、エリアンだけでも助けることはできないだろうか?
いや、そもそも、この戦いに勝利することができないだろうか?
――できる!
魔王リーシェだ。この大陸で唯一無二の強大な力を持つ魔王様なら、二万の軍勢など蹴散らしてくれるはずだ。
しかし、リーシェが協力してくれるだろうか?
俺達は、ただ、この街から逃げれば良い。それで俺達の身の安全はとりあえず保証される。自ら死地に赴こうとしているエリアンを助けることなど、魔族のリーシェにとっては他人事にすぎない。
「イルダ様、我々も明日早朝にここを発ちましょう」
リゼルが冷静に告げた。
リゼルだって、はらわたが煮えくりかえるほどに怒りを覚えているはずだ。しかし、ここにいれば、イルダが捕らえられるのが確実である以上、その危険から主人たるイルダを遠ざけなければならない。従者として当然のことを言っているだけなのだ。
「イルダ様、今宵の晩餐は、ゆっくりと楽しみましょうぞ」
エリアンにとっては、最後の晩餐になるはずだ。
伯爵家の使用人達も明日には暇を出されて、それぞれの家に帰るようだ。執事のカノーだけが最後まで残ると言っていて、殉死をする覚悟が垣間見えた。
夕食の席上。
エリアンとイルダは幼き頃の話で盛り上がっていた。
ルシャーヌとの想い出を胸に、エリアンは死地に旅立とうとしている。その想い出をより鮮明なものにしておこうというのかもしれない。
一方、俺は、ほとんど病状が治まり、食欲も戻っている子供リーシェを見た。無表情ながらも俺が見ていることに気づいたようで、今晩、俺の寝床に転移して来てくれるだろう。
俺は、魔王リーシェに帝国の軍勢を蹴散らしてもらおうと考えている。
リーシェは千年も生きている魔族だが、人族と同じ感情を持っている。そんなリーシェなら、俺の、というより、イルダの頼みをきいてくれるのではないだろうか?
俺は、その微かな望みに懸けるしかなかった。




