第九十六話 倒れた魔王様
ジュール伯爵家のイルダの部屋に戻った俺は、まず、イルダをベッドに横たえた。
「わらわももう眠るぞ」
「ああ、ありがとうよ。助かったぜ」
「ふむ」
リーシェがこんな疲れた様子を見せるのは珍しい。
大人リーシェは、相変わらず爆睡している子犬のコロンを床に降ろすと、子供リーシェの姿に戻り、イルダの隣に潜り込んだ。
そのベッドの揺れで、イルダが目覚めた。ホランド公爵家でリーシェがなかなか起きずにいたので、ちょうど、イルダが目覚める時間になっていたようだ。
イルダはベッドに横たわったまま、俺の顔を見つめた。
「アルス殿。ここは……、ジュール伯爵家に戻ったのですね?」
「ああ、体は大丈夫か?」
イルダはゆっくりと上半身を起こした。
「はい、むしろ、睡眠が十分とれたみたいで気持ちが良いです」
「それは良かった。それで、エリアンには、さっきのことは?」
「できるだけ早くお伝えした方が良いと思います。ただ、執事のカノーさんの話によると、今日のお帰りは遅くなるとのこと。時間を見て、私からお話をしたいと思います」
「分かった。イルダに任せる」
「はい。それで、アルス殿」
「何だ?」
「ありがとうございました。私のわがままにつきあっていただいて」
「イルダの身の安全を守るというのが、俺とイルダとの契約だし、今となっては、俺の使命だと思っている。だから、トイレと風呂以外は、どこにでもイルダについて行くぜ」
「うふふ、分かりました。トイレとお風呂で襲われないように気をつけます」
昼時になると、カノーが俺達を食堂に案内してくれた。
「全部で六名でございますよね?」
昨日の夜は、エマがいたから七名だったが、今朝になるとエマがいなくなっていたから六名しかいなかった。
エマには、いろいろとイルダの密命をこなしてもらっているから、いつ戻ってくるか分からないとカノーには言っておいたので、エマの分は、とりあえず除いて用意をしたのだろう。
「申し訳ありません。リーシェが食欲がないと言ってて」
そういえば、いつもイルダの隣に座る子供リーシェがいない。
「分かりました。では、これより、ご昼食をお持ちします」
カノーが食堂を出て行くと、意外なことに、リゼルが心配そうな顔をしてイルダに尋ねた。
「リーシェはどうしたのですか?」
「分かりません。何か元気がなくて」
「旅の疲れが出たのかもしれないな」
俺もそれらしい推測を述べておいた。
リーシェが封印されている時は、魔法が使えないだけではなく、本当にただの子供なのだ。大人と一緒にずっと旅をしているんだ。疲労もたまっているだろう。
「次の移動先は、まだ決まっていませんし、しばらくは、ここでお世話になると思います。リーシェにもゆっくりと休んでもらいましょう」
昼食が終わると、各自、それぞれの部屋に戻ったが、すぐに俺の部屋のドアが乱暴にノックされた。
こんな礼儀知らずのノックをするのはエマくらいかと思ったが、そもそも、エマはノックして入ってくる奴じゃなかった。
いったい誰だろうと訝しみながらドアを開けると、いつになく慌てた様子のイルダが立っていた。
「どうした?」
「リーシェがすごい熱で!」
「何!」
俺はすぐにイルダの部屋に走った。
ドアを開けて、中に入ると、水に濡らした布を額に載せた子供リーシェが、赤い顔をしてベッドに横たわっていた。
ハアハアと息も荒い。見るからに苦しそうだ。布を取って、リーシェの額に手を置くと、とんでもないくらいに熱かった。
「昼食から部屋に戻ると、リーシェがすごく苦しそうにしてて、呼びかけても返事してくれないんです」とイルダが泣きそうな顔で言った。
「医者は?」
「カノーさんにお願いしました。伯爵家御用達の医師がすぐに来てくれるのとのことだったのですが」
そう言ってる側から、カノーが医者らしき者を連れて部屋に入って来た。
医者は、子供リーシェのチュニックの上半身をはだけて、脈拍を測ったり、打診をしたりしてから、リーシェの服装を整えると、イルダに向かって言った。
「最近、この街で流行っている『黒熱病』ですね」
「黒熱病?」
「ええ、原因はよく分からないのですが、主に子供が罹っている病気で、数日間、高熱が続き、熱が下がらなければ死に至ることもあります」
イルダが息を飲むのが分かった。
「原因が分からないというと、治療法は?」
ショックを受けているイルダの代わりに俺が医者に訊いた。
「まだ、研究段階でよく分かっていません。ただ、砂漠地帯に生息しているマンドンゴラという薬草を服用すると効果があるという報告があります」
マンドンゴラといえば、リーシェが「おやすみ薬」を作るために必要だと言って、砂漠の小国バルジェ王国の市場で手に入れた記憶がある。しかし、ここからバルジェ王国は遠すぎる。昼夜通して馬で駆けても片道二十日以上、往復だと二か月近く掛かってしまう。
「アルス殿、どうすれば」
さすがのイルダも、唯一の治療法であるマンドンゴラが入手困難という事実に直面して、呆然とした表情で俺に助けを求めるような視線を送ってきた。
「この辺りでマンドンゴラを扱っている薬屋を知らないか? 最近、流行っている病気なんだろ?」
「それが、……この街には、マンドンゴラは入って来ていません」
「どういうことだ?」
医者を怒っても仕方がないが、流行しているという病気の特効薬なのに、それが街にないということに、俺は苛立った。
「ご存じのとおり、この街はホランド公爵家の監視下にあり、この街の商人も他の街や地域から商品を輸入するには事前の申請が求められております。そのことを良いことに、キリューの街の商人達がホランド公爵家に願い出て、いくつかの輸入品をこの街に入れないようにしているという噂です」
医者に代わって、カノーが答えた。
「って、ことは?」
「おそらく、この街の薬屋は、マンドンゴラを仕入れることができていないと思います。キリューの街の薬屋には置いているかもしれません」
「キリューに行けば、手に入るのか?」
「黒熱病が流行りだして二か月近く経ってますから、入手しているはずです。もっとも相当、高価だと思いますが」
商人は利潤を追求することが第一の目的で、この辺りで流行っている病気の治療薬となる薬草を、この街の薬屋には手に入れさせることができないようにしておきながら、自分が仕入れた薬草をこの街の住民にも高価で買わせているのだろう。
しかし、そんなことに今、憤っている暇はない。まずはマンドンゴラを入手して、リーシェに服用させる必要がある。
「今から、俺がキリューに行って、マンドンゴラを探してくる」
「魔法士のリーシェさんに、また、お願いすることはできないでしょうか?」
「い、いや、少し離れた街に行く用事があるからと言ってたから無理だろう」
キリューの街には、さっき、行っていたばかりだが、転移魔法を使えるリーシェ自身がこんな状態だし、仮に封印が解けたとして、子犬のコロンも犬耳幼女悪魔に戻れるかどうか分からない。
今度は、自分の足で行くしかない。
「俺が馬でひとっ走りしてくる」
「アルス殿、私も行きます!」
「いや、イルダにとって、あの街は危険だ。リーシェの側にいてやってくれ」
「でも、ここにいても、私はリーシェに何もしてあげられません。苦しむリーシェの顔を見ながら、アルス殿の帰りをじっと待っていることは、とても耐えられません。私は、リーシェのためなら何でもします! させてください!」
最後は涙声になっていた。
イルダもじっとしていられないのだろう。
「とりあえず、みんなと話をしよう。リゼルは絶対止めるだろうぜ」
予想どおり、リゼルやダンガのおっさんは、イルダのキリュー行きに反対をしたが、イルダはどうしても諦めなかった。
その強い覚悟に、最後はリゼル達も折れた。
発熱して二、三日は大丈夫だが、それ以上、高熱が続くと命の危険が出てくるとのこと。
このマゾルドの街からキリューの街までは、馬で駆ければ半日という距離だ。首尾良くマンドンゴラを入手できて、夜通し駆けると明日の夜には帰ってこられるはずだ。
自分達の馬である名馬フェアードは、足が遅いということで格安の値段で売りに出されていたのを、魔王リーシェが退治した自称魔王様の討伐報酬で買ったものだ。今はその当時とは比較にならないほどの手持ち資金を持っているが、これまでずっと、イルダと子供リーシェを乗せて一緒に旅をしてきたフェアードに情も湧いて、もっと良い馬に買い換えようということは誰も言わなかった。
しかし、今回は早馬並みに駆けて行く必要がある。フェアードでは、残念ながら役に立たないだろう。
俺とイルダは、見るからにたくましい軍馬を伯爵家から借り、俺が手綱を握り、マゾルドの城門を出ると、西に向かって駆けて行った。
俺の背中には、馬から落とされまいと俺にしがみついているイルダがいる。
「イルダ! 疲れたら言ってくれ! 馬を止める!」
「休憩などしている気分ではありません! このまま、キリューまで行ってください!」
イルダのことだ。きっと、休憩を申し出ることはしないだろう。
それなら、できるだけ早くキリューに着いた方が良い。
俺は、馬にムチを入れた。
ジュール伯爵家の調教が良かったせいか、馬は疲れを見せることなく走ってくれて、その日の夕刻には、キリューの街に着いた。
まずは、最初の関門は城門の通過だ。
しかし、俺は楽観視していた。マゾルドの街では、今の帝国に対して表向きは臣従の態度を取っているが、不穏な動きを隠そうとしないジュール伯爵家を見張るという目的があり、その領地であるマゾルドの街に出入りする者は厳しくチェックされているが、ここは、今の帝国に臣従しているホランド公爵家の領地だ。自分達にとって危険だと思われなければ、通過を許してくれるはずだ。
城門の手前で、俺だけ馬を降り、イルダだけを乗せた馬の手綱を引きながら、門番の前に進み出た。
ここは変に隠し事をしない方が良い。もしかすると、俺達がマゾルドの街から駆けてきたことを知られているかもしれないのだ。
「一緒に旅をしている子供が黒熱病に罹って、今、マゾルドの街で寝込んでいる。その治療薬になるマンドンゴラという薬草はマゾルドの街では売られていないので、この街にやって来た」
俺の説明に門番の兵士も納得してくれて、すんなりと通してくれた。と思うと、一人の兵士が「待て」と、俺達を呼び止めた。
俺は、いつでもカレドヴルフを抜けるように用心をしながら、その兵士がやって来るのを待った。
しかし、兵士は、愛想笑いを浮かべながら俺の近くまで来ると、ひそひそ声で「マンドンゴラなら『満月堂』という薬屋に在庫があるはずだぜ」と俺の耳元で告げた。
「そうかい。おりがとうよ」
「礼には及ばねえよ。その代わり、門番のボルダンから紹介を受けたって、満月堂の店員に言ってくれたら良いからよ」
門番はゲスい笑顔を見せた。
そういうことか。
マゾルドの住民がどうしてもマンドンゴラを入手したければ、一番近いこのキリューの街まで来なければならない。今まで何人もそんな人がいたんだろう。そして、いち早くその事情を知り得る門番達は、特定の薬屋を紹介することで、紹介報酬を受け取っているのだろう。
胸くそ悪い気持ちになったが、今、目の前の兵士をボコる訳にはいかない。俺は、その満月堂の場所を聞き出すと、必ず「ボルダンという門番から紹介を受けた」と伝えると約束をして、その場所に向かった。
満月堂はすぐに見つかった。なかなかに大きな店構えの薬屋だったが、大勢の客のほとんどは店の中に入らずに、店の前でやるせなくたむろをしているように見えた。
イルダが早足で店に入り、カウンターの中にいた店員らしき男性に声を掛けた。
「マンドンゴラはこちらにございますか?」
「はい、ございますよ」
店員は、イルダの身なりを見て、これは買ってくれそうだと踏んだのか、店の薬棚から見覚えのある草を一束持って来て、イルダに示した。実物を見て、イルダの表情が少し和らいだ。
「黒熱病の治療に必要なのです。一人分、いただけますか?」
「今、黒熱病がこの周辺の街で大流行しておりまして、マンドンゴラも品薄な状態でございます。したがって、少々お高くなっておりますが?」
「おいくらでしょう?」
「お一人様分で百ギルダーです」
「えっ! これがですか?」
「はい~」
にこやかな笑顔の店員の顔が、一瞬、狐に見えた。
確か、バルジェ王国の市場で買った時には二束で四ギルダーほどだった気がする。その時も高いと思ったが、貴重な薬草なのだから、実際にそれくらいはしたのかもしれない。
しかし、今、店員が示しているのは、その四分の一ほどの量でしかない。そして、百ギルダーなんて、庶民が一年働いて得られる収入の額にほぼ等しい。もちろん、今の俺達にはそれを買えるだけの資金はあるが、それにしても理不尽すぎる。
「お願いです! それがないと息子が、息子の病気を治すことができないんです! 必ず、お金はお返ししますから、どうか、マンドンゴラを分けてください!」
突然、客らしき男性が店に乱入してきた。もちろん、暴れている訳ではなく、店員に頭を下げているだけだ。
「しつこいぞ、貴様! 金が払えねえのなら帰れ!」
体格が良くて顔つきが悪いお兄さんがどこからか出て来て、その男性を店の外につまみ出してしまった。おそらく、この店が雇っている用心棒だろう
イルダは明らかに怒っていた。
「イルダ! 俺もイルダと同じ気持ちだが、リーシェもマンドンゴラを待っているんだぜ」
俺の言葉で、イルダの脳裏にリーシェが苦しげな表情が浮かんだのだろう。
「そ、そうですね。でも、こんなの許せません」
そう言うと、イルダは俺に厳しい視線を向けた。
「アルス殿、とりあえず、ギルドの口座から百ギルダーを引き出してきましょう」
その顔は、素直に百ギルダー出して、マンドンゴラを買おうという顔ではなかった。




