第九十五話 引き裂かれた二人
「はい。イルダです」
イルダがしっかりと答えると、ルシャーヌは弾かれたようにソファから立ち上がり、その場で膝を折り、頭を垂れた。
「ルシャーヌさん、そのようなことは無用です! まずは、お顔をじっくりと見せてください」
そう言って、イルダは、ルシャーヌに近寄り、その手を取った。
顔を上げたルシャーヌの目には、涙が溢れていた。
「再び、イルダ様にお会いできるとは……」
その後は、言葉にならなかったようだ。
そんな感動のシーン真っ最中だったが、俺もいつまでも廊下にいる訳にはいかず、部屋の中に入り、ドアを閉めると、俺の存在に気づいたルシャーヌが少し怯えた表情を見せた。
「何者ですか?」
「ルシャーヌさん、心配いりません。この方はアルス殿といって、私を守っていただいている方です」
「この方が?」
まあ、どこからどう見ても旅の賞金稼ぎのなりをしてるんだ。元皇女様を守っているようには見えないよな。
「はい。ずっと逃避行をしている間、魔族などにも何度も襲われましたが、このアルス殿に、その都度、助けていただきました」
「そのようなご苦労を」
イルダとルシャーヌはひしと抱き合って、ひとしきり涙を流した。
「イルダ、あまり時間はないぞ」
昼時になると、この部屋にも召使いがやって来るかもしれないし、イルダがキリューの街に来ていることは、リゼルなどには知らせていない。そっちも昼の時間になると、ジュール伯爵家の召使いか、リゼル自らがイルダの部屋にそれを知らせに来て、イルダがいないことが分かると大騒ぎになってしまう。
「そうですね。ルシャーヌさん、少しお話をさせてください」
「お茶も出していませんが」
「私達は、こっそりとここに来ているので不要です」
「そうなのですか。でも、どうやって?」
「そのお話は後で」
「分かりました。どうぞ、お座りくださいませ」
ルシャーヌは、上座と思われるソファにイルダを座らせ、その対面にルシャーヌが座った。俺は、イルダのすぐ後ろに立った。
「私達は、昨日、マゾルドの街に到着し、今は、ジュール伯爵家にお世話になっています」
「……そうですか」
「最近は、エリアン殿とお会いになられていないそうですね?」
「会おうにも会うことはできません」
「エリアン殿は、今でも、アルタス帝国に忠義を尽くされているお方。今の帝国に臣従しているホランド公爵家の人間として、会えないということは理解できます」
「申し訳ございません、イルダ様」
ルシャーヌは座ったまま深く頭を下げた。
「その謝罪の意味は、ホランド公爵家が今の帝国の側について、我がアルタス帝国に弓を引いたことへの謝罪ですか?」
「はい」
「ルシャーヌさんが実際に弓を引いた訳ではないでしょう?」
「そ、それはそうですが」
「ならば、ルシャーヌさんが頭を下げる必要はありません。それに、私がここに来たのは、それを責めるためではありません。エリアン殿のことで確かめたいことがあったのです」
「……エリアンから何か言われたのでしょうか?」
「いいえ、私が勝手にしたことです。ルシャーヌさんはエリアン殿と許嫁の間柄でしたね? それもお互いに好き合っていたお似合いのカップルだと、私は羨ましく思っていたのですが?」
「……昔はです」
「やはり、その約束は取り消されてしまったのですね?」
「はい」
「でも、ルシャーヌさんの本当のお気持ちはどうなのですか?」
「私の本当の気持ち?」
「そうです! 今でもエリアン殿を好きなのではないのですか?」
「……いいえ」
その苦しげな表情は、口から出た言葉が本心ではないことを物語っていた。
「ルシャーヌさん! 私には本当のことを話してください! エリアン殿は、伯爵家当主であるにもかかわらず、まだ、ご令室を迎え入れていません。エリアン殿と話していて、それは、ルシャーヌさんへの想いがそうさせているのだと思いました。本当にお二人が愛し合っているのなら、エリアン殿からルシャーヌさんのお輿入れを申し入れたいともおっしゃっていました。今のホランド公爵家とジュール伯爵家との関係であれば、お二人が結婚なさることは無理かもしれません。でも、何もせずに諦めてしまうのは悲しすぎます!」
人のことなのに、ここまで真剣に考えてしまう。これがイルダなのだ。
「イルダ様のお心遣い、本当に嬉しいです。でも、駄目なんです」
「どうしてですか?」
「私には、もう新しい許嫁がいるのです」
「……」
ルシャーヌはカルダ姫と同じくらいの年齢だと言っていた。お輿入れの適齢期という頃だろう。そんな娘がいるのに、いつまでも昔の約束を守るほど、ホランド公爵もお人好しではないはずだ。
イルダだって分かっていたはずだ。でも、ルシャーヌのエリアンに対する強い想いがあれば、新たな婚約の話が来ても断っているはずだとの一縷の望みを持っていたのだろう。しかし、そのイルダの望みはあえなく崩れ去った。
「そうですか。……ちなみに新しいお相手は?」
「マインズ公爵家のザルツェール殿です」
落ち込んで目を伏せていたイルダがハッと顔を上げた。
ザルツェールは、イルダの従兄弟で許嫁だった男で、マインズ公爵家の嫡男だ。マインズ公爵は前皇帝の実弟であるにもかかわらず、寝返って今の帝国側についた野郎だ。
イルダの表情がさらに沈んだ。
イルダとザルツェールとの婚約は、前皇帝の鶴の一声で破談となったらしい。これは俺の推測だが、イルダの資質を見抜いた前皇帝が、イルダの体の中にフェアリー・ブレードを隠すことにしたからだろう。だから、ザルツェールとの婚約破棄は、イルダには何も責任がないのだが、自分とザルツェールとの婚約破棄が、回り回って、エリアンとルシャーヌを苦しませていることが心苦しかったのだろう。
「マインズ公爵家は、今の帝国でも重鎮中の重鎮。その公爵家からの申し入れに、我がホランド公爵家が首を横に振る訳にはまいりません」
ルシャーヌが言うとおり、同じ公爵家でも、相手は前皇帝の実弟の家系で、どう考えても向こうが格上だ。
しかし、マインズ公爵家は、アルタス皇室からもっとも最近に別れた貴族で、アルタス皇室の後継者がいなくなった現在、救世主カリオンの直系にもっとも近い家系だ。この大陸では、救世主カリオンの末裔ということが大きな意味を持つ。現在の皇帝のディアドラス家も何代か前に皇室から別れた家系で救世主カリオンの血を継いではいるが、直系というにはほど遠い。だから、ディアドラス皇帝もザルツェールの血を欲して、自分の娘をザルツェールに嫁がせて、その間の子を次の皇帝に指名し、自分はその子が即位できるまでの代理だという言い逃れをするものとばかり思っていた。だが、そういうことをするまでもなく、意外とディアドラス皇帝の基盤はしっかりとしているのかもしれない。
「私は、ルシャーヌさんの表情から、エリアン殿に対する気持ちは変わっていないことを確信しました。でも、ルシャーヌさんの苦しいお気持ちも分かりますし、公爵家の皆さんを不幸にすることも望んではいません。エリアン殿には、そのまま、お伝えしてよろしいですか?」
「はい。私も貴族の娘です。嫁いだからには、その家のために尽くす所存です。今まで、自分の中で悶々としておりましたが、エリアンに私の気持ちをお伝えしていただけるということであれば、もう何も思い残すことはございません。私は、これでエリアンへの想いを断ち切ることにいたします」
「ルシャーヌさん」
イルダとルシャーヌは、また抱き合って、ひとしきり泣いた。
これが貴族の家に生まれた女性の運命と言えば仕方がないのだろうが、それにしても残酷なことだ。
二人がそれとなく落ちついてきたことを確認した俺は、「イルダ、そろそろ」と声を掛けた。
「はい」と返事をしたイルダは、ルシャーヌの頬にキスをしてから、体を離した。
「では、私はこれにて失礼します」
「イルダ様は、これからどうされるのですか?」
「私の願いは一つだけ! アルタス帝国の再興です! そのために、この命を捧げる覚悟はできています」
「イルダ様の背負われる運命に比べれば、私の運命など些細なこと。どうして、このようなことに……」
また、涙を流すルシャーヌに、今度は、イルダが涙も見せずに凛とした態度で言った。
「私は自分の運命を呪ったことはありません。私が願いを果たせず命果てたとしても、それもまた運命でしょう。私は私の運命から逃げません」
「イルダ様は、昔から聡明な方でしたが、これほどまでに、お強い方だったとは思いませんでした」
「このアルス殿と一緒に旅をして、いろんな経験をしました。命を落とす危険にも何度も遭遇しました。だから、強くなれたのだと思います」
「イルダ様の願いが叶うようにお祈りいたします」
「それは、ホランド公爵家にとっては、良くないことだと思いますよ」
「そうなれば、それが私の運命でございましょう」
「それでは」
イルダは、もう一度ルシャーヌと抱き合ってから、ドアに向かった。
「ルシャーヌさん、私がここに来たことは、ご家族にも召使い達にも内緒にしてください」
「分かりました」
ルシャーヌが約束をしかと守ることは、その表情で確認できた。イルダも分かったはずだ。
俺が、ドアの外に人の気配がないことを確認してから、ゆっくりとドアを開くと、イルダは、ルシャーヌの顔を最後まで見ながら、後ずさりするように部屋から出た。
俺がゆっくりとドアを閉めると、イルダも気持ちの切り替えができたようで、「さあ、帰りましょう」と、しっかりとした口調で俺に言った。
イルダと二階の応接室に戻ると、転移魔法で転移する間は体の負担を軽減するために眠ってもらうという俺の言い訳を信じたイルダに、再び、「おやすみ薬」を嗅がせた。
あっという間に眠ったイルダをソファに横にして、リーシェがオープンクローゼットの中から出てくるのを待ったが、リーシェは一向に出て来なかった。
俺もしびれを切らしてオープンクローゼットの扉を明けると、中では子供リーシェと子犬のコロンが仲良く寝転がって眠っていた。
イルダが眠ることで、リーシェの封印は解けるが、それによって子供リーシェの姿から大人リーシェに強制的に戻る訳ではない。本来の姿に戻るという自らの意思があって、大人リーシェに戻れるのだ。
リーシェとコロンも待ちくたびれて眠ってしまったようで、封印が解けていることも気づかずに爆睡しているようだ。
それにしても、暢気な魔王様と犬耳幼女悪魔だぜ。
もっとも、これからジュール伯爵家に戻っても、イルダは小一時間眠る。そして、昼飯の時間までは、一刻以上の時間はあるだろうし、転移は一瞬だ。
俺は、リーシェとコロンもぎりぎりの時間まで眠らせてやろうと思い、しばらく、その寝顔に見入っていた。
子供リーシェは、見た目は女の子にしか見えないが、実は、股間には男性のシンボルが付いている。
そういえば、フェアリー・ブレードは、なぜ、リーシェを男の子にして封印をしているんだ?
リーシェの生まれながらの性別は女だ。それは本人も言っているし、俺もこの目でしかと見ている。リーシェの持つ強大な魔力を封印するためには、男の子に変えることが効果的なのだろうか? それだけ本来のリーシェの姿からは遠ざかるんだからな。もっとも、これは俺の想像でしかないが。
しかし、こいつら、まったく起きる気配がない。何で、こんなに熟睡してるんだ?
さすがにしびれを切らした俺は、子供リーシェの肩を揺さぶった。
「リーシェ! 起きろ! イルダはもう眠っているぞ」
目をこすりながら、子供リーシェが目を覚ました。
俺には幼女趣味はないが、くそ可愛いな。
……いかんいかん! こいつは可愛くても男なんだ。このまま、倒錯の世界に迷い込んでしまいそうだ。
まだ、少し寝ぼけ眼の子供リーシェは、すぐに大人リーシェの姿に変わった。
やっぱり、俺はこっちのリーシェの方が良い!
「ぐっすりと寝入っていたな」
「異様に眠いぞ。少し体もだるいの」
「さすがの魔王様もお疲れか?」
「おそらく、アルスがわらわをこき使うからじゃろうの」
「俺のせいかよ?」
「他に理由はなかろう?」
「分かったよ。とりあえず、俺とイルダをジュール伯爵家まで戻してくれ。戻ればすぐに昼食の時間だ。食い終わったら、ゆっくりと昼寝をすれば良い」
俺達もしばらくジュール伯爵家から外に出ることはできないだろう。
「そうするわ。では、行こうかの」
結局、子犬のコロンはその姿で爆睡したまま、リーシェに抱っこされて、俺とイルダとともに転移をした。




