第九十四話 デートとかくれんぼ
リーシェと一緒に転移した先は、ホランド公爵家の領地であるキリューの街だった。
街の規模としては、ジュール伯爵家のマゾルドの街と、ほぼ同じくらいのようだ。
その街の中心付近にある市場に、俺と大人リーシェはいた。
リーシェは俺と手を繋いでご機嫌であった。
「アルス! あれは何じゃろうの? 美味しそうな匂いがしておるぞ!」
リーシェに手を引かれて行った店先では、金串に刺した羊肉を炭火で炙っていた。確かに良い匂いがしている。ついさっき、ジュール伯爵家で朝飯を食べたばかりなのに、俺の胃袋は既に準備万端になっているようだ。
「アルス、これを食べたいぞ」
俺もそうだが、魔王様も既に腹が空いているらしい。まあ、子供リーシェの時には胃袋も小さくなっていて、食べたくても食べられないらしいからな。
俺は、店主に銅貨を支払うと、手渡された金串を一本持って、近くにある小さなテーブルにリーシェと並んで座った。
「アルス、わらわはこっち側から食べるから、そなたは、そっち側から一緒に食べようぞ」
「何で、そんなややこしいことをしなくちゃいけないんだ?」
「何でも言うことをきくと言ったのは誰だったかのう?」
「分かったよ! 食えば良いんだろ、食えば」
「にひひ、そういうことじゃ」
こぶし大の肉が三つ刺さった金串を縦にして、一番上の肉に俺がかぶりつくと、すかさず、リーシェが反対側から同じ肉にかぶりついた。当然、顔と顔が近づく訳で、肉を噛んでいると唇と唇もたまに接触する訳で、そして、市場にいる買い物客から好奇な目で見られる訳で……。
完璧にバカップルな俺達を見つめる痛い視線に耐えながら、俺は肉を食った。肉自体は柔らかくて美味かった。
そうなのだ。
イルダをホランド公爵家まで転移させるために、リーシェが提示した代償は、イルダが目覚めるまで、俺とデートをすることだった。
しかし、何で魔王様はデートなんてしたかったんだ?
「美味しいの、アルス」
無邪気に笑うリーシェの口の周りは肉の脂まみれとなっていた。しかし、その脂でテカテカと輝くリーシェの唇が妙に艶っぽい。
「ほら、口の周りが脂だらけじゃねえかよ」
俺は、懐から手拭いを取り出すと、それでリーシェの口の周りを拭おうとした。
「そんな布より、アルスの舌で拭き取ってたもれ」
「それは却下だ。これ以上、恥ずかしいことをさせるな」
「何でもすると言ったぞ~」
「……分かったよ!」
俺はリーシェを椅子ごと引き寄せると抱きしめて、リーシェの口の周りをペロペロと舐め回した。遠目には俺とリーシェが濃厚なキスをしているようにしか見えないはずだ。
しかし、これはこれで、けっこう、エロい気分になるな。
いかんいかん! まだ昼前だぞ! それに公衆の面前だ。俺は精一杯の自制心を働かせた。
「幸せじゃ~、ふふふ」
リーシェが本当に嬉しそうな顔をした。
そんな顔を見ると、何だか俺まで嬉しくなってくる。
しかし、こいつは魔王様なんだぞ!
自制心! 自制心だ!
その後、また、俺とリーシェは手を繋いで、市場の中をゆっくりと歩いた。
「アルス」
リーシェの顔を見ると、笑顔の中に少し影が差していた。
「前にも話したと思うが、わらわは目覚めた時、暗闇に一人でおった。わらわには、父親も母親もおらぬ。本当はいるのかもしれぬが、今さら知りたいとも思わぬ」
俺が過去の泉の水を飲んで見た夢や、眠れる砂漠の美女の存在、そして、その地方に伝わる神話から考えるに、リーシェは、神と大妖精との間の子で、救世主カリオンの妹のはずだ。そして、何らかの理由で地獄に堕とされたという。リーシェが目覚めたという暗闇が地獄なのだろうか?
「どうして、その話を今、するんだ?」
「もし、その時にアルスと出会っておれば、わらわは魔王にはなってなかったじゃろうなと、ふと考えてしまったのじゃ」
「どういう意味だ?」
「アルスがいてくれたら、こうやって、いつもデートをしていたじゃろうしな」
「暗闇でデートか?」
「それもそうじゃのう。暗闇じゃと、一緒に寝ることしかできぬの。まあ、それはそれで楽しいじゃろうが」
いやいや、俺の体がもたない。などという、ゲスな考えはひとまず置いた。
「お前が目覚めた暗闇とは、どこにあるんだ?」
「よく憶えてはおらぬ。殻のようなものに閉じ込められていたから、それを突き破って出たら、この世界じゃった」
「その暗闇を突き破って、お前は、どうして魔王になろうと思ったんだ?」
「特に理由はない。わらわのこの美貌を求めて襲って来る人族や魔族どもをいちいち討ち取っていたが、次第に面倒くさくなっての。最初からそんな連中を支配下に置けば、煩わしくないと思っただけじゃ」
たったそれだけの理由で、この世界のすべての種族を従えてしまったのか?
もっとも、それができる実力が、リーシェにはあったということだ。
「だが、お前が魔王になったことで、カリオンに討たれて、今に至るってことだろ? つまり、お前が魔王様のままだったら、五百年の時を経て、俺とこうしてデートすることもなかったということだ」
「そうじゃの。すごく間接的ではあるが、そういうことになるの」
「そういえば、カリオンって、どんな奴だったんだ?」
「何じゃ、藪から棒に?」
「お前は、実際に会って、戦ってるんだよな?」
「そうじゃ。わらわが戦って、初めて負けてしまった奴じゃ」
「カリオンは、俺達人族から言えば伝説の人物でしかないんだから、どんな奴だったのかなと興味があるんだよ」
「……フェアリー・ブレードで討たれた影響かのう? 少し記憶が曖昧になっておる。実は、カリオンの顔もよく思い出せぬ」
「そうなのか? ……そろそろ、イルダが目覚める頃じゃねえか?」
リーシェと出掛けてから、そろそろ小一時間、経つはずだ。
「そうかのう? もう少しアルスと歩きたいぞ」
「そういう訳にはいかねえよ! まあ、機会があったら、また、デートしてやるから」
「本当か? 二言はないじゃろうの?」
「ああ、約束する」
「アルスは、やっぱり良い男じゃのう!」
「お、おい! お前は十分目立ってるんだから、めったやたらと抱きつくんじゃねえ!」
俺は、通りを歩く人々からの痛い視線を直視することができなかった。
物陰に隠れてから、リーシェとともにホランド公爵家に転移すると、以前と同じ応接室に戻った。
相変わらず灯りもついておらず、薄暗い部屋の中のソファにイルダが横たわっていて、その横でコロンが犬耳幼女姿のまま、体を丸めるようにして居眠りしていた。
リーシェの拳骨がコロンの頭を「ぽかり」と殴った。
「痛い! って、魔王様!」
「何、眠っておるのじゃ?」
「も、申し訳ねえっす! この時間は、いつもお昼寝の時間だったので眠くて眠くて」
時間は、まだ昼前で、いつもなら子犬の姿のまま、寝ている時間帯だ。
「まあ、イルダには何も変わったところはないようじゃし、許してやろう」
そのイルダが少し身じろいだ。
「そろそろ目覚める頃じゃの。では、わらわとコロンは、あのオープンクローゼットに隠れておる。用事が終われば、また、イルダを眠らせてたもれ」
「分かった」
大人リーシェと犬耳幼女のコロンが、応接室に続いてある広いオープンクローゼットに入ると、ほぼ同時にイルダが目を開けた。
ソファに横たわっていたイルダは、見慣れぬ部屋で目覚めたことで、少し呆然としていたが、俺が側に立って、イルダを見下ろしているのに気づき、安心したかのような笑みを見せた。
「ここは……、キリューの?」
「ああ、ホランド公爵家の中だ」
「魔法士のリーシェさんは?」
「別にやることがあるらしくて、俺達を運んだら、すぐにいなくなったよ。でも、帰りの際には、また来てくれるそうだ」
「そうなのですか。いつもお忙しい方なんですね?」
「ああ、いろいろとな。起きられるか?」
「はい」
俺が差し伸べた手を握ると、イルダはソファから身を起こして、ゆっくりと立った。
「応接室……でしょうか?」
「そのようだな。とりあえず、俺達は公爵家に不法侵入していることには違いないし、見つかるといろいろと面倒だ。できるだけ、こっそりと行くぞ」
「はい」と返事をしたイルダが楽しそうに笑った。
「どうした?」
「何だか、かくれんぼみたいで、……すみません、緊張感がなかったですね」
「かくれんぼには違いないさ」
俺はドアに耳を付けて、ドアの外に人の気配がないことを確認してから、ゆっくりとドアを開いた。
そこは赤い絨毯が敷き詰められた廊下が真っ直ぐ伸びていた。廊下の右側にはドアが並んでいて、その反対側にはガラスがはめ込まれた窓が並び、その窓の両端には羅紗の長いカーテンが吊されていた。
その窓から外を見ると、そこは中庭のようで、その中庭を挟んで向こう側にも同じような造りの窓が見えていた。どうやら、この部屋は「コ」の字の形の屋敷の端っこにあるようで、部屋から真っ直ぐに伸びた廊下の先は左に折れていた。
「どうやら、この部屋は予備の応接室のようですね」
「予備の応接室?」
「はい、不手際などでお客様の訪問が重なってしまった時に、次順位のお客様に待っていただくための部屋です。飽くまで、こちらの不手際の際にだけ使用されるので、普段はまったく使われることがないお部屋だと思います」
やれやれ、高貴な方々は、たったそれだけのことに部屋を一つ作るのか。まあ、俺も来客が重なるほど人気があった訳じゃないから分からないけどな。
「ここは二階のようですけど、家族のお部屋は、おそらく、この上の階だと思います」
「それも貴族の認識として共通しているのか?」
「高い場所からの展望を楽しんでいただくのであれば別ですが、普通はお客様に何段も階段を昇らせることはないですし、防犯上の要請からも、その屋敷の家族の部屋は上の階にあると思います」
イルダに言われると、もっともだと思ってしまう。
いや、きっと常識で、そんな上流階級の暮らしぶりなどとは縁が無かった俺が知らないだけなんだろう。上流階級の家専門に忍び込んでいるエマに訊いても同じ答えが返ってくるはずだ。
「それじゃあ、とりあえず、階段を探そう」
「はい」
俺が先に立って、忍び足で廊下を歩く。
時間は十の刻くらいだが、廊下には、まったく人の気配がなかった。規則正しい生活をしているご主人様であれば、召使い達は正午の昼食の準備に追われているだろうし、寝坊助のご主人様であれば、今頃、ブランチの真っ最中だろう。そんな時間に廊下をうろついているのは掃除担当の召使いくらいのものだろう。
誰にも出会わずに廊下を進み、左に廊下が折れている所まで来た。少しだけ顔をのぞかせて曲がった先の廊下を見てみたが、そこにも誰もいなかった。
そして、廊下を折れてすぐの所に階段塔があった。イルダの予想に従い、上の階に上がると、その階も同じような廊下が延びていた。
「さあ、どっちだ?」
「そうですね。先ほどの応接室の真上の部屋辺りでしょうか?」
「それも何か根拠があるのか?」
「やはり、女性の部屋は端っこに作られることが多いですから」
アルタス帝国は女性だからというだけで差別するような政策を取ってなかった。その証拠に、女性であっても軍の士官になっている猛者もいるように、あらゆる職業に就く自由が認められていた。
しかし、その反面、アルタス皇室自身が女性皇族には帝位継承権を認めていなかったり、貴族社会において、女性は政略結婚の具として大事にされていたが、それは裏返すと、自分の生き方を選ぶ自由がないということで、庶民の女性よりも貴族の女性の方が虐げられていたとさえ言えるのだ。
だから、先ほどの予備の応接室の真上、一番端っこの部屋がホランド公爵家の令嬢の部屋ではないかと、イルダは推理をした訳だ。
「よし、行ってみよう」
その方向に向かって歩き出すと、前方でドアが開く音がして、賑やかな女性達の話し声が廊下に響きだした。
「イルダ! こっちだ!」
俺は咄嗟にイルダの手を取って、中庭側にある窓の両側に吊されている長いカーテンの裏側に隠れた。カーテンの裾は床まで届いていないから、俺達の脚は隠すことはできないが、他に隠れる所はなかった。
気づくと、イルダを抱きしめるような体勢になっていた。しかし、女性達の声はすぐそこまで迫っている。身動きなどできない。
幸いなことに、召使いらしき女性二人は、同僚の召使いの悪口に夢中になっているようで、俺達に気づくことなく、そのまま通り過ぎて行った。
その声が聞こえなくなってから、俺はイルダを離して、カーテンから出た。
「す、すまない。思わず抱きしめてしまって」
「い、いえ、そんなに嫌な気持ちはしませんでした。あの二人ももっとゆっくり歩いてくれれば良かったくらいです」
「えっ?」
「うふふ、何でもありません。行きましょう」
「あ、ああ」
俺とイルダは再び歩き出し、廊下の突き当たりまでやって来た。そこにも立派なドアがあった。
「さて、ここが令嬢の部屋かどうかをどうやって確かめるかな」
「私に任せてください。来客の振りをして、屋敷の中で迷ってしまったと言い訳をします」
イルダの気品と服装であれば、とりあえず、その言い訳は通用しそうだ。俺だと見るからに不法侵入者だもんな。
俺が、部屋の中からは死角になる位置に立つと、イルダがドアをノックした。
「どうぞ」
部屋の中から若い女性の声がした。
おそらく、当たりだったのだろう。イルダは、俺に笑顔を見せると、「失礼します」と言いながら、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の主を驚かせる訳にはいかないから、俺はイルダと一緒に部屋には入らずに、その後ろから様子をうかがっていた。
イルダが部屋に入ると、ソファに座っていた女性が顔を上げた。
豪華なドレスを着て、優雅に刺繍をしていたその女性は、ホランド公爵家の令嬢ルシャーヌで間違いないだろう。
ルシャーヌは、突然、やって来たイルダが誰か分からずに呆然としていたが、「お久しぶりです。ルシャーヌさん」というイルダの声を聞いて、目を見開いた。
「イ、イルダ様? 本当に、イルダ様なのですか?」




