第八十四話 妖精の里
「マインさん」
マインとナーシャの間に、イルダが優しく割り込んできた。
「私はイルダと申します。その泉の水を飲むと昔のことを思い出すと聞きました。私、事情があって、忘れていることがないのかどうかを確認したいことがあるのです。一口だけで良いですので、飲むことを許していただけないでしょうか?」
イルダの真摯な態度に、マインも表情を少しだけ緩ませた。
「残念だけど無理だね。あの泉の水は、私達以外の者が飲むことは禁止されているから」
これでは、せっかく、ここまで来た意味がなくなってしまう。
俺もイルダの隣に立って、マインに頭を下げた。
「俺からもお願いする! このイルダが過去の記憶を呼び覚ますことで、この大陸の運命が変わるかもしれないんだ」
「何それ? はったり?」
「違う! 本当のことだ!」
疑惑の眼差しで俺を見つめるマインに、俺は言葉を続けた。
「はっきりと言おう。このイルダは先の大戦で滅んだアルタス帝国の第二皇女なんだ。そして、イルダの体の中には、フェアリー・ブレードという魔力を封じる剣が隠されている。その取り出し方を、イルダが忘れている可能性もある。過去の泉の水を飲むことで、それを思い出すことができれば、再び、この大陸はアルタス帝国が平和に支配する世の中になるんだ」
俺は熱く語ったが、マインの関心は薄かった。それもそうだ。人族の世界の理など、この森に籠もって過ごしている妖精族には関係のないことだった。
「まあ、事情があることは分かったけど、私達には関係ないし」
ナーシャもイルダも、そして俺も、けんもほろろなマインの態度に為す術がなかった。
「マインとやら」
今度は、大人リーシェがマインの前にしゃしゃり出てきた。
「四の五の言わずに、過去の泉に案内せい」
「はあ? 私の言ったことが聞こえなかったの?」
後からしゃしゃり出てきて、傲慢な態度で要求をごり押しするリーシェの態度に、マインもぶち切れ寸前だった。
「おい! リーシェ! ことを荒立たせるなよ」
「どうしてじゃ? アルスに頭を下げられても大した価値はないが、皇女様が頭を下げておるのじゃぞ。それに応えぬのは、人族すべてに対する侮辱であろう?」
良いことを言いやがると、一瞬、思ったが、魔族のお前が言うべきことじゃないよな。
「だから、そんなこと、私達には関係ないし」
「関係ない? ほ~う。では、わらわ達がこの森でどこに行こうとも、そなた達には関係ないということで良いんじゃな?」
「勝手にしなよ」
マインは、どうせ過去の泉には行けないだろうと踏んでいるのか、ふてぶてしく答えたが、リーシェは、「では、そうさせてもらおう」と、負けじとふてぶてしく答えた。
リーシェは、足を踏ん張るようにして立つと、空に向けて右手を突き上げた。
すると、その上空の霧が渦を巻きだした。そして、その渦が大きくなるに従って、その渦の中心から霧が晴れていった。竜巻とは逆の渦巻き状の強風が、森の霧を吹き飛ばしてしまったのだ。
「……すごい」
風すらも自在に操るリーシェの魔法に、リゼルが呆然としながら呟いた。
いや、リゼルだけではない。俺達全員がそうだったし、マインも信じられないものを見たように、しばらく唖然としていた。
霧が晴れて、明るく晴れ渡った空から、木漏れ日が差してきた。
そして、周りの景色がシャボン玉を通して見ているように、歪んだり、玉虫色に光ったりしているのが分かった。おそらく、これが、リーシェが言うところの「泡状の結界」なんだろう。
「その小妖精は放っておいて、わらわ達は泉を探そうぞ」
「いえ、リーシェさん」
歩き出した大人リーシェをイルダが止めた。
「この森は、マインさん達、小妖精の大切な場所です。私達はそこにどかどかと踏み込んでいることには違いはありません」
イルダはそう言うと、再び、マインに向いた。
「マインさん、お願いです。この森の泉の水を一口で良いので、私達に飲ませてください」
イルダは深くお辞儀をした。その真摯な態度に、マインも困ったような顔をした。
「あんたの気持ちは分かるけど、私が判断できるようなことじゃないから」
「では、どなたに言えば、よろしいのでしょうか?」
「うちのおばば様かな?」
「おばば様……ですか?」
「うちで一番偉い小妖精だよ」
「その、おばば様に会わせていただくことはできませんか?」
「ねえ、マイン。ボクからもお願いするよ。さっき、うちのアルスが言ったとおりで、けっして興味本位で過去の泉の水を飲もうとしているんじゃないから!」
ナーシャもイルダに助け船を出した。マインも同じ小妖精の言葉に心を許したようだ。もちろん、リーシェの魔法の実力を見せつけられて、リーシェに逆らわない方が得策との計算も働いたはずだ。
「分かったよ。とりあえず、おばば様の所に案内だけはする。でも、泉の水を飲んで良いかどうかは、おばば様の判断に従ってもらうからね」
「けっこうです。その泉の水の責任者である方に断られたら諦めます」
「じゃあ、ついて来て」
マインは、背中の四枚羽を羽ばたかせながら、木々の隙間をすり抜けるように、ゆっくりと飛んで行った。ナーシャも同じようにしてマインの跡を追い、俺達は、空を飛んでいく二人の跡をついて行った。
リーシェが霧を吹き飛ばしてくれていたお陰で、深い森だがマインを見失うことなく追うことができた。
「リーシェ」
「何じゃ?」
俺は大人リーシェと並んで歩きながら、小声で話した。
「お前が言った、この森を覆っている巨大なシャボン玉の中にいるうちは、お前の封印が解けているんだな?」
「そのようじゃの。これは、さすがのわらわも知らぬ術じゃ。この秘密を暴くことができればのう」
リーシェの言葉に後には「イルダを傷付けることなく復活ができるのに」と続くことを期待した。イルダもリーシェも二人ともがいる世界。俺がそうなれば良いのにと思い描いている世界だ。
子供リーシェに変身している犬耳幼女のコロンが、手をつないで歩いていたエマから離れて、大人リーシェに近寄り、チュニックの裾を、つんつんと引っ張った。
大人リーシェが上半身をかがめるようにすると、子供リーシェが大人リーシェの耳元で二、三言囁いていた。
頭を上げた大人リーシェは、辺りを見渡すと、前を飛んでいるマインに向けて、少し大きな声を上げた。
「何かが燃えている匂いがするぞ!」
きっと、犬耳幼女のコロンが嗅ぎ取ったのを、大人リーシェに知らせたのだろう。
マインは、浮かんだまま、リーシェに訊いた。
「どこが?」
「あっちじゃ」
この頃になると、きっと、リーシェも臭いを嗅ぎ分けられたのだろう。マインが向かっていた先を指差した。
「……先に行くから!」
マインは、青い顔をして、その先の方向に飛んで行った。
「わらわ達も行こうぞ」
リーシェが、マインの跡を追うように駆け出すと、俺達全員がリーシェの跡を追った。
リーシェも、転移魔法を使えば、すぐに着けるのだが、きっと、俺達のペースに合わせてくれているのだろう。
少し進むと、森の木々の上に白い煙が上っていた。確かに何かが燃えている。マインの慌てようからすれば、きっと、小妖精の集落がある場所ではないのだろうか?
もう、マインの姿は見えなかったが、ナーシャに上空高く飛んでもらって、燃えている所の方向を教えてもらいながら、俺達は走った。
大きな樹木が生い茂っている森の中心部らしき場所まで俺達はやって来た。
向かう先には、隙間がないほど葉が生い茂り、まるで葉っぱの壁のようになっていたが、その葉をかき分けて行くと、開けた場所に出た。そこは、周りを葉っぱの壁で覆われた円形の広場のようになっていた。
そして、その中心に立っている大樹が勢いよく燃えていた。
その熱波が届かないくらいに離れた場所に、小妖精の一団がいた。その前には、剣を持った兵士らしき屈強な男五人が立ち、小妖精達に剣や槍を突きつけていた。
「てめえら! 何をしてる?」
俺が大声で叫ぶと、五人の兵士達は一斉に振り向いた。
「何だ? お前らも過去の泉を探しにやって来たのか?」
兵士の一人が、俺に向かって言った。
「ああ、それはそうだが、この火事は何だと訊いているんだ。お前達が火を着けたのか?」
「ああ、そうだ。この小妖精どもが変な術で俺達の命を奪おうとしたんだ。そのお返しよ」
「とりあえず、その剣を仕舞え!」
「ついでだから、こいつらに過去の泉まで案内させようと思ってな。どうだい、一緒に来るか?」
こいつらは俺の怒りも気づかない馬鹿どものようだ。
「あなた達! なんて酷いことをしているのです! 力に任せて強引に泉の水を奪おうとするなんて、強盗と同じではないですか!」
兵士達もいきなり現れて、自分達に説教をする女の子に驚いていたが、イルダの美貌にも目を見開いていた。
「元気が良いお嬢さんだ。俺達と一緒に行こうぜ」
「待て!」
イルダに近づいて来て、その手を掴もうとした兵士の手を掴んで止めたのは、大人リーシェだった。
「お主らは、そんな子供のような女が好きなのか? わらわなどいかがじゃ?」
イルダとは違った大人の女のフェロモンをプンプンとさせながら、大人リーシェが兵士らにウィンクをした。
「うほほ、もちろん、良いに決まってるぜ。このまま、夜まで一緒にいようぜ」
「それは良いのう。夜には何をしてくれるのじゃ?」
「男と女が夜にすることといえば、決まってるだろうよ」
「そうじゃのう、そうじゃのう! でも、……お主ら五人もおるではないか。わらわも五人一緒に相手をするのは嫌じゃ。誰か一人だけが良いぞ」
「だ、誰が良いんだよ?」
「この五人の中で一番強い男じゃ。わらわは強い男が大好きでな」
「よし! じゃあ、五人で勝負だ!」
兵士五人は、入り乱れて殴り合いを始めた。何て単純な連中なんだ。
大人リーシェが俺の顔を見てウィンクをしたのに気づいた俺は、「今のうちに火を消すぞ!」と言って、一角に固まっている小妖精達に近づいた。
その中にマインがいるのに気づいた俺は、「水はどこだ?」とマインに訊くと、それまで呆然としていたマインがハッと気づいたように「あそこに」と井戸を指差した。
「ありったけのバケツを持ってこい! みんなで協力して火を消すんだ!」
俺が井戸から水を汲み上げると、マインが持って来たバケツに水を入れて、それを並んだ女性陣や小妖精達が順番にバケツをリレーしていき、最後はダンガのおっさんが火まで近づいて、バケツの水を燃えている大樹に掛けた。
すぐに火の勢いは衰えてきた。
ふと、リーシェを見ると、「みんな、頑張るのじゃ!」と、脳天気に五人の兵士達に声援を送っていた。
リーシェの奴、完璧に面白がっていやがる。
しかし、あの兵士の身なりは、サリウムの総督府の護衛兵のものだ。その兵士達がどうして、ここにいるんだ?
バケツリレーを繰り返していると、まもなく、あちこちの枝でくすぶっていた煙も出なくなり、大樹の火は消えた。幹の表面は焦げていたが、中まで燃えてはいないはずだ。
目を転じて兵士どもの方を見ると、三人の兵士が顔を腫らして座り込んでいて、残りの二人が殴り合いを続けていたが、一方の兵士のストレートパンチが決まって、相手はそのまま倒れ込んだ。
勝者の兵士は両手を高々と上げて、勝利に自己陶酔しているようだった。
「さあ、お前は俺のもんだ!」
兵士は、リーシェを抱きしめようと腕を広げながら、リーシェに近づいた。
「待ってたもれ」
リーシェが腕を伸ばして、兵士を止めた。
「言い忘れておったが、一番強いということは、わらわも含めてということじゃった。お主はわらわよりの強いのか?」
「ははは、当たり前だ! 好きに俺を殴りにきてみろ?」
見た目、麗しい女にしか見えないリーシェが繰り出すパンチなど恐れるに足らぬと考えるのが普通だろう。俺は「ご愁傷様」と兵士の無事を祈った。
「そうか? そこまで言うのなら、遠慮なく殴らせていただこうかの」
リーシェは、仁王立ちしている兵士の前に立つと、兵士の腹にパンチを食らわした。見た限りでは、女がふざけて叩いた程度のパンチにしか見えなかったが、兵士はそのまま後ろに吹き飛んで、仲間の四人の兵士を巻き込みながら、広場の端まで転がっていった。
「ゲスめらが! わらわを抱いて良いのはアルスだけじゃ!」
「おい! 誤解を受けるようなことを言うな!」
イルダがしっかりと聞き耳を立てていて、俺も焦ってしまった。
「アルス殿とリーシェさんは、そんな関係だったのですか?」
イルダが少し悲しげな顔をして、俺に訊いた。
「違う! リーシェのいつもの冗談だ! そうだろ、リーシェ?」
――えっ?
今度は、リーシェが少し悲しげな顔をしていた。リーシェのそんな顔は初めてだった。
しかし、すぐにいつもの少しふてぶてしさを含んだ冷笑気味なリーシェの顔に戻った。
「そうじゃ、冗談じゃ。アルスはイルダのことが好きなんじゃもんな」
そのフォローは、それはそれで、いろいろと誤解を招くだろ!
「ア,アルス殿?」
「い、いや、まあ、そのとおりなんだけどな」
イルダが顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
くそ可愛い!
イルダに見とれていた俺が、ふと、大人リーシェを見ると、リーシェは、ぷいっと俺から顔を背けた。
何これ? これが修羅場ってやつなのか?
「あの~」
マインが声を掛けてきて、とりあえず、修羅場から俺の意識を戻してくれた。
「助けてくれて、ありがとう」
マインの後ろには、小妖精達が並んで立っていた。
リーシェの悪ふざけのお陰で、ここが小妖精の里だということを、すっかりと忘れていた。




