第八十三話 イルダとリーシェ
「心配しました。もう二度と会えなかったらどうしようかと……」
イルダは、俺の胸に顔を埋めながら、最後は涙声になっていた。
「ああ、俺もだ。イルダも他のみんなとはぐれてしまったのか?」
「はい。いつの間にか、みんな、いなくなってしまって……。いくら声を上げても誰も返事をしてくれないし」
「どうやら、声は、この霧に溶けて消えていってしまっているようなんだ」
「そうなのですか?」
イルダは、俺を抱きしめたまま、顔を上げて、俺を見上げるようにして見た。それで自分がどんな格好をしているのかに気づいたようで、顔を赤らめながら、俺から離れた。
「申し訳ありません。思わず抱きついてしまって」
「俺は、むしろお礼を言いたいくらいだぜ。このままずっと、イルダを抱きしめていたかったくらいさ」
「ア、アルス殿」
照れるイルダを、今度は俺が抱きしめたいくらいだが、今は先にやるべきことがある。
「とりあえず、みんなを探さないとな」
「そ、そうですね。でも、先ほどアルス殿が言われたみたいに、声が聞こえないのならどうすれば?」
「とりあえず、この周辺を歩き回るしかないだろう。こうやって、イルダとは会えたんだ。他のみんなとも会えるはずだ」
「そうですね」
「じゃあ、行くか」
俺が一歩踏み出すと、俺のマントをイルダが引っ張った。
「アルス殿、それでは、また、アルス殿を見失ってしまいそうです」
「ああ、そうか。じゃあ」
俺は、イルダの手を握った。イルダも少し握り返してくれた。
「これで行くか?」
「は、はい」
こうやって、イルダの手をじっくりと握るのは初めてだ。
白くて、柔らかく、そしてこんなに小さな手の女の子にアルタス帝国の命運が託されているのだ。
体内にフェアリー・ブレードを隠し持つイルダに、もしものことがあれば、アルタス帝国は完全に終わる。しかし、フェアリー・ブレードをその手にできれば、帝国再興も夢ではないだろう。魔王様ですら手出しができなかったフェアリー・ブレードの力を目の当たりにした俺はそう確信していた。
俺とイルダは手をつないだまま、辺りを歩き回ったが、誰にも会わなかった。
「あの熊のぬいぐるみのような敵に襲われた場所から、みんな、そんなに離れていないとは思いますけど?」
「ああ、この霧が隠してしまっているだけで、すぐ近くにいるはずだ」
その濃い霧の中に誰かの影が見えた。
「リゼル? リゼルなの?」
大人の女性のような影だったことから、イルダが声を掛けた。
返事はなかったが、その影は、ゆっくりとこっちに向かって来た。
そして、霧をかき分けるように姿を見せたのは、……大人リーシェだった。
リーシェは、イルダの姿を見て呆然としていた。もちろん、俺もだ。
イルダが眠っていないのに、どうしてリーシェの封印が解けているんだ?
一方、イルダは別の意味で呆然としていた。
「あなたは?」
イルダの問いに、俺は咄嗟に「リーシェじゃねえか!」と大きな声で言った。
「ア、アルスか。こんな所で何をしておるのじゃ?」
さすがの魔王様も棒読みで返事をした。
いったん、俺の顔を見た後、マジマジとリーシェの顔を見つめたイルダは、また、俺の顔を見た。
「アルス殿、こちらが魔法士のリーシェさんなのですか?」
「そ、そうだ。そういえば、初対面だったな」
イルダは、リーシェの真正面に姿勢を正して立った。
「初めてお目にかかります。イルダと申します」
優雅に膝を折って挨拶をしたイルダに、リーシェは手短に「リーシェじゃ」と名乗った。
イルダは笑顔で会釈をしたが、また、リーシェの顔をマジマジと見つめた。
「わらわの顔に何かついておるかのう?」
「い、いえ、申し訳ありません。あまりにお綺麗な方なので、つい見とれてしまいました」
そのイルダの台詞を聞いて、リーシェが相好を崩した。単純な奴だ。
「そ、そうかの? イルダも綺麗じゃぞ」
「ありがとうございます。でも」
「何じゃ?」
「リーシェさん、以前にどこかでお会いしましたでしょうか?」
「いいや。初めてのはずじゃが。どこぞで会った記憶があるのか?」
「はい」
イルダはしっかりと答えた。
何と言っても、イルダは、子供リーシェといつも一緒にいる。子供リーシェと、今、目の前にいる大人リーシェとが同一人であると気づかれるかもしれない。
「そういえば、うちのリーシェは大丈夫でしょうか? リゼル達なら自分で何とかできるかもしれませんが、リーシェは……」
イルダの可愛い「弟」である子供リーシェは、何を考えているのか分からない無口キャラだけに、この霧の中に一人ではぐれてしまって困っているのではと、イルダも急に心配になったようだ。
「そなたらのリーシェなら心配はいらぬ。ここに」
大人リーシェが振り返ると、霧の中から子供リーシェが出て来た。今日は犬耳も綺麗に隠しているようだ。
「リーシェ!」
イルダが思わず駆け寄り、膝を折って子供リーシェを抱きしめた。
「良かった」
子供リーシェは、イルダにとって、もはや、カルダ姫同様、残された数少ない肉親と言って良いほど親愛の情が溢れる存在なのだ。
「あとは、ナーシャとリゼルとダンガのおっさん、そして、エマか。リーシェはその四人を見なかったか?」
「残念ながらの」
「しかし、これはどういうことなんだ? これも幻覚なのか?」
「結界を張られておるの」
「結界?」
「そうじゃ。一人一人が、音の遮断される透明な泡の中に閉じ込められているようなものじゃな。小さな泡が重なり合う程度に近づくと、一つの大きな泡になるじゃろう? 今、この四人は、そういう状態なのじゃ」
「お前の魔法で、その結界を破ることはできないのか?」
「できぬこともないが」
「じゃあ、早くやってくれよ」
「まあ、後での」
俺は大人リーシェが考えていることが分かった。
イルダが眠っていないのに自分の封印が解けている原因を調べたいのだ。それが分かれば、フェアリー・ブレードによらずに、自分の封印を解けることができるかもしれないからだ。
「しかし、他の連中が心配だ」
「心配いらぬ。この近くにいる。わらわが探し出してくれるわ」
リーシェは、ナーシャらの気配を探知しているのか、深い霧のあちこちに首を回した。
「こっちじゃ。みんな、離れるな。離れすぎると、また、一人一人の泡に戻ってしまうぞ」
大人リーシェの跡をついていくと、人影が見えた。その人影は一目散に大人リーシェに抱きついてきた。
「わおっ! お姉様、会いたかったよ~」
エマが、これ幸いとばかり、必要以上に大人リーシェの体をまさぐっていた。
「くすぐったいのじゃ」
まったく、くすぐったくなさそうな表情でエマを剥がした大人リーシェは、また、あちこちと見渡してから、深い霧の中に歩を進めた。俺達も大人リーシェを見失わないように跡についていくと、今度はナーシャが見つかった。
「アルス!」
ナーシャが一目散に俺の元に飛んで来たが、思いの外、速度が速くて、ナーシャを抱きそこねた俺は、ナーシャに思い入り胸を頭突きされてしまい、しばらく声を出すことができなかった。
「大丈夫か、アルス?」
まったく心配などしていない声のトーンで大人リーシェが訊いてきたが、とりあえず大丈夫だと声を絞り出した。
リーシェは、そんな俺を置いて、また歩き出した。俺達もリーシェとはぐれないように、すぐに跡を追った。
「イルダ様!」
すぐに見つかったリゼルとダンガのおっさんが一目散にイルダの元に駆け寄り、お互いの無事を喜び合った。
こうやって全員が見つかると、エマが俺の隣に素早く移動してきて、自分の口を俺の耳に近づけて囁いた。
「それより、どうなってんの、アルス?」
もちろん、大人リーシェが封印されていないことだ。
「いや、俺もよく分からないんだ」
リーシェだって分かっていないのだ。俺が分かるはずもない。
「リーシェさん」
イルダが大人リーシェを呼んだ。今まで見たことがないから、何だか新鮮な光景だ。
「先ほど、リーシェさんが言われたことからすると、今、私達は一つの大きな泡の中にいるということですね?」
「そういうことじゃ」
「それは誰かが故意にそうしているのですか? それとも、この森での現象として自然に起きているのでしょうか?」
「さっきの熊のぬいぐるみは誰かが故意にやっておるのじゃろうが、この結界はよく分からぬな」
「あの熊のぬいぐるみは、誰かが操っていたのか?」
「おそらくの」
「何のために?」
「我々を過去の泉に行かせたくないのじゃろう。我々に危害を加えようという意思は感じられなかったから、驚かせて諦めさせようとしているのじゃろう」
「しかし、リーシェ。さっきの熊のぬいぐるみは、実際に俺達を攻撃してきたぞ」
「そう思わせただけじゃ。あの熊も幻覚にすぎず、ぬいぐるみが木を叩いた時に木が砕けたのは、木を砕く魔法を併せて発動しただけじゃ」
やはり、あの熊のぬいぐるみは実体のない幻覚だったのか。しかし、あの熊のぬいぐるみが叩いた樹木を別の魔法で破壊することで、あの熊のぬいぐるみが本当に叩いて破壊したように欺かれていたということだ。
「じゃあ、いったい誰が?」
「本人に訊いてみるか?」
「えっ?」
リーシェが、いつの間にか手にしていたムチをしならせた。
虚空を舞ったムチが、それまで存在に気づかなかった者の足首に絡みつき、宙に浮かんでいたそいつを地面に叩きつけた。
そいつは、ナーシャと同じ、小妖精族の若い娘だった。
「いつの間にか、気配を隠して、我々の泡の中に入り込んでおったわ」
その小妖精は、足首に絡んでいたムチがはずれると、上半身を起こして、「いて~」と言いながら、地面に打ちつけた膝小僧をさすっていた。
ナーシャと同じように背中に透明な四枚羽を持つ小妖精で、身長も同じくらいだ。ということは、目の前にいる小妖精も見た目は子供のように見えるが歴とした大人だということになる。
俺は、その小妖精に近づき、しゃがんで話し掛けた。
「おい! お前が俺達に幻覚を見せていたのか?」
「知らない」
俺は、ぷいっと横を向いてしらばっくれる小妖精の脳天を片手で掴んで、無理矢理、俺の方に顔を向けさせた。
「知らないってことはねえだろ? じゃあ、何でここにいたんだ?」
「ちょっと! 首が痛い!」
「当たり前だ! 俺達を危険な目に遭わせておいて、何を言ってるんだ?」
「アルス、ボクに任せて」
ナーシャが俺の肩をとんとんと叩いて、俺の前にしゃしゃり出てきた。
ナーシャは、相変わらず座ったままの小妖精に話し掛けた。
「ねえ、ボクはナーシャって言うんだ。君の名前は?」
「私はマイン」
同じ小妖精のナーシャから話し掛けられて、マインも少しは気を許したようだ。
「マインは、この森に住んでいるの?」
「そうだ。あんたは、この人族達と旅をしているのか?」
「うん。ボクは生まれた時には近くに誰もいなくて、それから、ずっと一人なんだ」
小妖精は、通常は、森の中に集落を作り、他の種族とは交わることなく生活をしていて、ナーシャみたいに人族と旅をしたり、街で暮らしている小妖精もいることはいるが、ごく少数だ。
そして、小妖精は卵から生まれる。人族と違って、生まれた時から歩くことができるし、羽で飛ぶこともできる。
ナーシャは、イルダ達と出会う十五日ほど前に知り合って、俺について来るようになったが、その時に聞いたナーシャの身の上話によると、森の中で卵から生まれた時、周りには誰もいなくて、仕方なく、その森の木の実などを食べながら一人で暮らしていたが、森を通り掛かった矮人の行商人に街に連れて行ってもらってから、すっかりと街の生活に魅了されて、森から出ることにしたとのことだった。
しかし、街で暮らすには金がいる。そこで、治癒魔法が使えることをセールスポイントとして、賞金稼ぎのグループに入り、小銭を稼いでいたそうだが、俺と出会う直前に、その賞金稼ぎのグループは、アルタス帝国最後の大戦に傭兵として参加するために解散をしたことから、新たな賞金稼ぎのグループを求めて、あちこちの街を彷徨っているうちに、俺と出会ったということのようだ。
「そうなんだ」
マインがナーシャを哀れむような顔をした。
「でもね、一緒に旅をしている、この人達は、みんな、良い人達なんだよ。だから、ボクらはマインが怒るようなことをしてはいないと思うんだけど?」
マインが眉根を寄せた。
「この森に入って来たこと自体が許せないんだ」
「どうして? 森が小妖精にとって大切な場所だということはボクも知っているけど、ボクらは森を壊していないでしょ?」
「でも、泉の水を狙っているんだろ?」
「過去の泉のこと?」
「この森に湧き出る泉のことを、ここに来る人族は、みんな、そう呼んでいることは知っている」
「やっぱり、泉はあるんだ! その泉の水を飲むと、過去のことを見ることができるって、本当なの?」
「答える必要はないね」
マインが、ぷいっと、ナーシャから顔を背けた。




