第八十二話 幻覚の森
鍔と鞘が鎖で繋がっている剣!
まさに魔王リーシェが使っている剣と同じだ。
リーシェの封印が解けた時、その剣の鎖は難なく切れるが、リーシェが封印されると、剣は元どおり鎖で繋がれている。
子供リーシェと出会った時には、その不思議な剣がリーシェの出自を明らかにするものではないかと思われていたが、イルダがリーシェを手放す気をなくしていることもあって、最近は、その剣のことが話題に上ることもなかった。
それと同じ剣が、俺が世話になっていた旅芸人の一座にもあったらしい。しかし、その話を聞いても、まったく記憶が呼び覚まされることはなかった。そもそも、抜けない剣では剣舞はできないし、一座の他の者がそんな剣を使っていた記憶もまったくない。
「オルカ! その剣はどうした?」
「そこに捨てて行ったぜ。そんな役立たずの剣なんて、持ってても仕方ないだろ?」
確かにそうだ。抜くことができない剣を持っている実益なんて傭兵団には何もない。
「そうか」
「大事な剣だったのか?」
オルカは、俺のテンションの上げ下げに戸惑った表情で尋ねた。
「い、いや、実は、今一緒に旅をしている子供が同じような剣を持っているんだ。それが、どこの誰だか分からないその子供の身の上を証明するものかもしれなくてな」
「そうか。それは残念なことをしたな」
「もう二十年近く前の話だ。俺だって、当時、そんな剣なんて見たことはなかったんだから、オルカが気に病むことじゃないさ」
オルカが微笑んだ。真顔だと怖いオルカも笑うと愛嬌がある顔になる。そのギャップもオルカを慕う連中が多い理由の一つだろう。
「そういえば」
オルカが何か良いことを思い出したかのように、微笑みながら言った。
「何だ?」
「この街から北西に一刻ほど歩いた所に深い森があるんだが、その森の中に小さな泉があるらしい。その泉の水を飲むと、昔のことを思い出すと言われていて、『過去の泉』と呼ばれているんだ。アルスもそこの水を飲むと、昔のことを思い出すことができるかもしれないな」
「オルカも行ったことがあるのか?」
「俺が仕事をほっぽり出して行ける訳がないだろ? 俺の話は飽くまで伝聞だ」
まだ、陽も沈まないうちに、オルカとしこたま飲んで、宿屋に帰った俺は、酒臭い息を撒き散らしながら、みんなとの夕食に臨んでいた。その席には、呼んでもいないのに、エマもいた。
「過去の泉?」
予想どおりイルダが食いついてきた。
「ああ、何でもその泉の水を飲むと、忘れていた過去の記憶が呼び覚まされるんだってよ」
「アルス殿! 行ってみましょう!」
本当に即断即決の姫様だ。
「もしかしたら、フェアリー・ブレードの取り出し方を私が忘れているのであれば、それを思い出すことができるかもしれません」
確かにその可能性はある。
そもそも、フェアリー・ブレードだって、いざという時に取り出せなければ、まったく意味がない。だから、イルダは、父親たる皇帝から、フェアリー・ブレードの取り出し方を聞いている可能性が十分あるが、宮殿からの脱出時の混乱で忘れてしまっているのかもしれないのだ。
「しかし、伝聞でしかないということは、街から一刻という距離であるにもかかわらず、誰も行っていないということではないのか?」
「良いところに気づいたな、リゼル」
リゼルは、イルダが行きたがっている「過去の泉」が危険な所なのであれば、行くことを止めるつもりなのだろう。
「何があるのだ?」
「その森に入った者は方向感覚を失って、必ず迷子になるんだと。また、方磁石も正確に南北を示さなくなるらしい。だから、何刻も森の中を彷徨ってしまうが、森自体はそれほど広くはないから、結局、泉を見つけられずに森から出てしまうことが多いらしい」
「でも、『過去の泉』という名前が付けられるということは、実際に行き着いて、その泉の水を飲んだ人もいるということですよね?」
イルダは既に行く気満々だ。
「ああ、何人かはな」
「道に迷うだけなのか? 他に危険なことはないのか?」
一方のリゼルは、飽くまで慎重論のようだ。
「幻覚が見えることもあるらしいぞ」
「幻覚を見るなど、やはり危険では?」
「リゼル」
食い下がろうとするリゼルにイルダが優しい声を掛けた。
「リゼルが私の心配をしてくれているのは嬉しいのですが、フェアリー・ブレードの取り出し方が分かることに一縷でも望みがあるのなら、私は行ってみたいです」
「イルダ様がどうしてもと望まれるのであれば、反対はいたしません。私が全力でお守りいたします」
「ありがとう、リゼル」
イルダとリゼルは本当に良い主従だ。
「俺も全力で守るから心配するな」
「アタイも行くからね!」
置いて行かれるのか嫌なのか、思い切り手を挙げながら、エマが言った。
次の日。
朝食を食べた後、俺達は、サリウムの城門を出て、北西に向かった。オルカの言葉どおり、舗装されていない一本道を真っ直ぐ進むと、目の前に深い森が見えてきた。
道は、ここから真西に方向を変え、森を北に見ながら続いているが、俺達は、そこから森に入ることにした。
イルダと子供リーシェが乗ってきた名馬フェアードを木につなぐと、全員が徒歩になって森に入った。
先頭に俺、俺の頭上にナーシャ、次にエマ、その後に、子犬のコロンが入った抱っこ紐をぶら下げている子供リーシェ、そしてリーシェの手を引いたイルダ、ダンガのおっさん、しんがりにリゼルという順番で、縦一列になり歩いて行った。
森の中は薄暗く、入ってすぐに霧が立ち込めてきた。少し硫黄の匂いもする。この森の霧も温泉と関係があるのかもしれない。
「ダンガのおっさん! 方磁石はどうだ?」
俺は立ち止まり、後ろを歩くダンガのおっさんに尋ねると、懐から方磁石を出したダンガのおっさんは不審げな顔をした。
「何じゃ、これは?」
俺もダンガのおっさんに近づき方磁石を確認してみたが、まるで、やじろべえのようにフラフラと当てもなく揺れているだけだった。
「どうやら噂は本当のようだな。みんな、はぐれるなよ! 絶対に前の者の背中を見失うな」
再び歩き出し、森の奥に向かって行くと、次第に濃くなる霧で視界を遮られるようになってきた。
先頭を歩く俺は、五感を研ぎ澄ませながら、ゆっくりと歩いて行った。
「泉は森の中心にあるらしい。このまま、真っ直ぐ進めば近づけるはずだ」
オルカの話だと、森自体はそれほど広くはなく、真っ直ぐに突っ切れば、二刻ほどで通り抜けることができるという。しかし、自分達は真っ直ぐに進んでいるつもりでも、生い茂った木々を避けながら進んでいると、いつの間にか進路が変わってしまって、結局、森の中をぐるぐると回ることになって、一日掛けても森から出られないということもあるらしい。
草を踏みしめる音が微かに耳に届いた。
「止まれ!」
俺が大きな声で言うと、俺達一行は輪になるようにして立ち止まった。
大丈夫だ、全員いる。
「どうした、アルス?」
「前から何かが来ている」
ダンガのおっさんの問いに、俺は前方を注視しながら答えた。
その足音は次第に大きくなり、濃い霧の中から、人の二倍以上の高さがある大きな影が一つ現れた。霧をかき分けるようにして姿を見せたそれは、巨大な蝉だった。
六本ある脚の後の二本で立って、前の四本には槍や刀のような武器を持っていた。
「何だ、魔族か?」
リゼルがガウンの前をはだけて、いつでも火の玉を出せるような体勢を取った。
蝉の化け物は、武器を構えて、俺達に突進してきた!
「俺が行く!」
リゼルが火の玉を出す前に、俺が飛び出して、蝉の化け物が突き出した槍を払おうとした。
しかし、カレドヴルフはその槍を通り抜けるようにして空振った。
そして、蝉の化け物は次第にその姿を薄くして消えてしまった。
「これが幻覚か?」
俺が誰にともなく呟いたが、みんながうなずいた。つまり、みんながあの蝉の化け物を見ていたということだ。
「みんなが同じ幻覚を見るなんて不思議ですね」
さすがのイルダも興奮気味だ。
「そんな魔法があるのか、リゼル?」
「あるにはある。まだ戦乱の世の時代に、籠城している敵に幻覚を見せて、恐怖におののかせて開城させたという話があったと思うが、最近は聞いたことがない。今みたいなものであれば、魔獣の召還魔法を使えば、脅しだけじゃなく、実際の戦力にもなるのだから、みんな、そっちを使っているはずだ」
「そうすると、この森には時代遅れの魔法使いがいるかもしれないってことだな」
「その可能性はあるな」
俺は、もう一度、辺りを見渡してみたが、何かがいる気配は感じなかった。
「とにかく、また進もう」
「アルス殿、どっちに向かっていたのか、分かりますか?」
イルダの言うとおりだ。分からなくなっている。
蝉の化け物と大立ち回りをした訳ではないが、辺りの景色が霧でまったく見えないことから、自分達がどっちから来て、どっちに向かっていたのかが、まったく分からなくなっていた。
「くそっ! さっそく、迷子になっちまったか」
「霧だけじゃなくて、幻覚で惑わされてしまうのですね」
「とにかく森自体はそんなに広くない。決めた方向に真っ直ぐ進もう」
「どっちに行きますか?」
「イルダの勘だと、どっちだ?」
俺達一行のリーダーはイルダだ。こうなると、イルダが行くと言った方向に向かうしかないだろう。
「そうですね」
しばらく、周りを見渡したイルダは、自分の背中側を指差した。
「こっちに参りましょう。飽くまで私の勘でしかありませんけど」
「十分だ。行こう!」
俺達は、イルダが指し示した方向に、再び、歩み出した。
「ねえ、ちょっと待って」
エマの声に足を止めた。
「どうした?」
「さっき、あの木の向こう側に人影が見えたんだけど」
「また、幻覚か?」
「分からない。羽があったように見えたから妖精族みたいだったけど」
俺は反射的に頭上のナーシャを見た。
「だってよ。お仲間がいる気配はするか?」
「わかんない」
ポカンとした顔をしてナーシャが答えた。
ナーシャのように、人族と積極的に交わっている変わり者もいるが、基本的に、妖精族は、森で独自の集落を作って穏やかに暮らしている種族だ。だから、この森に妖精族がいても不思議ではない。
そして、魔王リーシェの魔力の強さを同じ悪魔が感じ取れるように、妖精族もお仲間の魔力を感じることができるはずだ。
「お前、本当は小妖精じゃないんじゃないか?」
「失礼だな! どこからどう見ても、可愛い小妖精でしょ?」
「可愛い」と付けた時点でダウトだ。
そんなことを言っていると、また、前から何かの影が迫って来た。
今度は、巨大な熊だった! ……いや、熊のぬいぐるみだった。
普通に子供が持っている熊のぬいぐるみが、そのまま巨大化したような奴が、先頭にいた俺に、いきなり殴り掛かって来た。
俺は咄嗟に身をかわして、熊の腕に斬りつけたが、やっぱりカレドヴルフは宙を斬った。
しかし、繰り返し俺に殴り掛かってくるパンチに風圧を感じた。また、俺が避けた熊のぬいぐるみのパンチが木に当たると、メキメキと音がして、その太い幹が折れた。
相手を斬っても剣は空を切るのに、相手が繰り出すパンチは幻覚じゃないだと!
あんなパンチをまともに食らうと死ぬぞ!
そんな俺の心配をよそに、熊のぬいぐるみが、更に五体が近づいてきていた。
リゼルが火の玉を放ったが、やはり、熊のぬいぐるみを通り抜けて行った。
どういうことなんだ?
こっちの攻撃はスルーされるのに、向こうの攻撃はしっかりと効いているなんて不公平じゃねえかよ!
「みんな、気をつけろ!」
と、一応、みんなに注意を促したが、俺自身も熊のぬいぐるみが繰り出すパンチから逃れるのに必死で、みんなを目で追うことができていなかった。
突然、目の前の熊のぬいぐるみが消えた。
辺りを見渡すと、他の熊のぬいぐるみも見えなかったが、みんなの姿も見えなかった。そして、さっきまで襲われていたことが嘘のように、静寂が辺りを包んでいた。
この深い霧で、みんな、離ればなれになってしまったようだ。
「おーい! みんな! 無事か?」
俺は、大声を上げたが、誰からも返事がなかった。
いくら、熊のぬいぐるみとの戦いに気を取られていたとしても、声が聞こえないほど遠くに離れたつもりはなかった。
しかし、辺りは深い霧しか見えず、みんながいる気配はなかった。
「イルダ! ナーシャ! リゼル! ダンガのおっさん! エマ! リーシェ!」
順番に名前を叫んだが、誰も返事をしてくれなかった。
嫌な予感が頭をよぎる。まさか、みんな、さっきの熊のぬいぐるみにやられたのか?
俺は、できるだけ遠くに行かないように、この周辺を回るようにして、森の中を駆け巡ったが、誰にも会わなかった。
「いったい、どうなってやがるんだ?」
俺はもう一度、大きな声で、みんなを呼んだ。しかし、返事はなかった。
だが、仲間の名前を呼ぶ自分の声を聞いていて分かったことがあった。
自分の声は自分の体で共鳴しているから聞こえるが、前に出ていない気がした。つまり、空気で声が消されているような感覚だ。
そうだとすれば、お互いの声が聞こえていないだけで、みんなは近くにいるはずだ。
俺は、今の位置から遠くに離れてしまうことがないように、注意深く辺りを彷徨いた。
突然、目の前に人影が現れた。背中のカレドヴルフの柄に手をやりながら、ゆっくりと進むと、霧の向こうから、やはり同じように用心しながら現れたのは、イルダだった。
「アルス殿!」
イルダは俺に駆け寄り、俺を抱きしめた。




