第八十話 無邪気な心で
「あれだけ暴走していたんだ。馬車がちゃんと動くかどうかを点検するから、ちょっと待っててくれ。せっかくだから、待ってる間に、その傷も治すか?」
「ここに医者がいるのか?」
カリアは、露骨に、貧民街の医者などには診てもらいたくないという顔をした。
「いや、うちの一行の小妖精が治癒魔法を使えるんでな」
「小妖精……」
今、この大陸は人族が支配をしていて、人々は城壁で守られた街の中で暮らしている。その中には、ごく少数だが、矮人のような亜人族もいる。しかし、貴族やその家来といった、街の中でも宮殿のような隔離された場所に生きている連中は、亜人族とのつきあいもほとんどないはずだ。唯一、元は人族だが血統と修行により魔法が使えるようになった魔法士を護衛として雇っているくらいで、本来は森で集団を作って暮らしている小妖精は初めて見たのだろう。カリアは、俺が呼んだナーシャを、目を丸くして見つめていた。
「こう見えて、なかなかの治癒魔法を使うんだ。その程度の怪我なら、あっという間に治してみせるぜ」
「で、では、お願いします」
カリアがナーシャに対して素直に頭を下げると、「任しといて」と胸を張ったナーシャは、羽を羽ばたかせて、カリアの顔の前に浮かぶと、その額に両手を当てた。
見る見ると傷が塞がっていくのを確認した俺は、カリアから離れて、もう大人しくなっている馬二頭に繋がれた馬車の近くに寄った。車輪などを見れば、特に壊れていないことはすぐに分かるんだが、俺はいかにも念入りに点検をしているフリをした。
俺がモタモタと点検しているのを見たイルダは、子供リーシェの手を引いて、ニコニコしながら、タズリとシャーリエに近づいて行った。
「イ、イルダ様」
イルダの考えが分かったリゼルが止めようとしたが、イルダはリゼルに笑顔を見せた。
「リゼルもやりますか?」
「い、いえ、しかし、お召し物が」
カリアと同じことを言っている。まあ、ご主人様の自由気ままな立ち振る舞いにひやひやするのが従者としての務めなのだろう。
「着替えもありますし、できるだけ汚さないようにします」
そう言うと、イルダは、サンダルを脱いで、長いドレスの裾をめくり、膝上までたくし上げると、子供リーシェと一緒に、泥んこ遊びをしているタズリとシャーリエの側にしゃがんだ。
「私達も混ぜてくださいね」
宮殿にいた頃は泥んこ遊びなどしたことないと言っていたイルダも、この旅で庶民の暮らしを目の当たりにすることが何度もあったはずで、どこかで泥んこ遊びをしているところを目にしていて、やってみたいと思っていたのだろう。
し、しかし……、一緒に旅をするようになって半年ほどになるが、いつも足首まであるドレスを着ているイルダの美しい生足を見たのは初めてのような気がする。
馬車の点検なんて、もう、どうでも良い! 俺はイルダの点検をしたいぞ!
などと、心の中で叫びながら、小さな子供三人と泥んこ遊びに興じるイルダの無邪気な笑顔に、皇女様とはまた違った魅力を見つけた気がした。
そして、子供リーシェも無表情ながら、子犬のコロンに泥を塗りたくっていたりして、泥んこ遊びを楽しんでいるようだ。
って、虐めだろ、それ!
それにしても、こいつら、正体は魔王様と犬耳幼女悪魔なのに無邪気すぎるだろ!
「ねえ、お姉ちゃんは、何というお名前なの?」
シャーリエが隣にしゃがんでいるイルダに訊いた。
「私は、イリスと言います」
タズリには「イルダ」と名乗ってしまったが、総督の娘に、さすがに「イルダ」と名乗る訳にいかず、公式プロフィールどおり「イリス」という偽名を名乗った。遊びに夢中になっているタズリも名前が違っていることに気づかなかったようだ。
「イリスお姉ちゃんのそれ、綺麗だね」
シャーリエが指差したのは、イルダがベルトに帯びているナイフだ。鞘には小さいが宝飾が施されており、派手ではないが、鍛冶屋が「良い仕事」をしているナイフだ。
シャーリエも総督の娘だけあって、宝石を見慣れているのか、目の付け所が違うようだ。
「これは、私のお父様からいただいた形見なんですよ」
「形見? 形見って何?」
「えっと、……もう二度と会えなくなる人からもらった、すごく大切な物のことを言うの」
「ふ~ん。じゃあ、シャーリエからイリスちゃんに形見をあげる」
「えっ?」
驚いたイルダにシャーリエが泥団子を差し出した。
「大切にしてね」
シャーリエは「形見」の意味を少し誤解しているみたいだが、イルダはそれを指摘することなく、笑顔で「ありがとうございます」と言って、両手で泥団子を受け取った。
「点検は、まだ終わらぬのか?」
馬車を点検するフリをしながら、その実、イルダの足を見ていた俺の近くに寄って来たカリアが、苛ついた様子で訊いた。額の傷はもう消えていた。
「慎重に確認しないとな。それとも何か? 帰る途中で車輪が折れて、また、怪我をしても良いのか?」
「それは嫌じゃが……」
「じゃあ、大人しく待ってろよ。それにしても、総督の娘が行方不明になってるというのに、総督府の兵士達はのんびりとしてるんだな。それとも、あんたら、兵士達に嫌われているのか?」
「そ、そんなことはない! こんな所にいるとは、思ってもいないのじゃろう」
それもあるだろうが、きっと、馬車から落ちた御者が、処罰されるのが怖くて、報告もせずにどっかに逃げているのだろう。
馬車の点検にたっぷりと半刻ほど掛けて、「大丈夫そうだ」とカリアに告げると、カリアは、「お嬢様! そろそろ、お帰りになりましょう!」と、まだ、泥んこ遊びをしているシャーリエを呼んだ。
イルダが、シャーリエに「もう帰りますか?」と訊いたが、シャーリエは「まだ、遊ぶ」と言って、更に半刻ほど泥んこ遊びをしたが、次第に疲れてきたのか、シャーリエの目がつぶれそうになっていた。
「シャーリエちゃん、そろそろ帰りましょうか?」
イルダの問いに力なくうなずいたシャーリエをカリアが抱っこした。シャーリエはすぐに眠ってしまった。
「こんなにお洋服を汚してしまって」
「でも、良い寝顔ですよ」
イルダが言うとおり、良い夢でも見ているかのように笑顔のシャーリエだった。
「そ、そうでございますね」
イルダの正体を知らないはずのカリアもイルダに対しては自然と丁寧な言葉遣いになっていた。カリア自身も気づいていないようだったが、イルダが持つ気品とか威厳が、俺の連れだというマイナス要素を打ち消して、なお、強く出ているのだろう。
「じゃあ、ちょっくら行ってくるから、みんなは、リゼルが言っていた宿屋にチェックインしておいてくれ」
二頭立て馬車の御者席に座り手綱を握った俺は、シャーリエを抱っこしたカリアを乗せると、馬車をスタートさせた。
俺も、今日、来たばかりの街で道を知らなかったが、総督府は街の中心の小高い丘の上に威容を誇っていたから、とりあえず、その姿が大きくなる方に馬車をゆっくりと走らせた。石造りの大きな建物が多くなって、街の中心部にやってきたはずだと思うと間もなく、前から五騎の騎兵が、明らかにこの馬車を目指してやって来た。こんな豪華な馬車を、見るからに総督府の人間ではない俺が走らせているのだ。誰かが総督府に通報したのだろう。
「止まれ!」
他の四人よりも少しだけ立派な鎧をまとった騎兵が、馬車の前に立ち塞がるようにして馬を止めた。その五人の騎兵部隊の隊長なのだろう。俺も手綱を引いて、ゆっくりと馬車を止めた。
「お前ら、総督府の者か?」
俺の方から問い掛けた。そうすることで、俺がこの馬車を盗んだんじゃなくて、送り届けてきたんだということを、先手を打ってアピールできる。
「そうだ。その馬車をどうした?」
「暴走していたんだ。中に小さな女の子も乗っているぞ」
「何!」
隊長は慌てて馬から降りると、馬車に駆け寄り、そのドアを開けた。
「お嬢様! カリア殿!」
「ヘリモルド!」
カリアが呼んだヘリモルドとはその隊長の名前なのだろう。
「カリア殿! お嬢様はご無事ですか? お怪我はございませんか?」
「服は汚れてしまっておるが、怪我はしておらぬ。少し疲れて眠られているだけじゃ」
「それは、よろしゅうございました」
ヘリモルドもよほど心配していたのか、泣きそうな顔をしながら喜んでいた。もっとも、心配していたのは、シャーリエのことよりも自分の将来のことなのかもしれないけどな。
ヘリモルド以外の騎兵が馬から降りると、剣を抜いて、馬車の前に広がった。
「事情を訊かせてもらおう! 大人しく、ついて来い!」
「何だよ、てめえら? 大事な大事なお嬢様を乗せた馬車を暴走させたのは俺じゃないぞ! 俺は馬車を止めて、てめえらの大事なお嬢様をお届けに来ただけだ! その相手に剣を抜いて脅すとは、どういう了見なんだよ?」
俺も御者席から飛び降りて、剣を抜かずに騎兵達に近づいて行った。
「逆らうか?」
「俺は剣を抜いてないだろ? 説明を求めているだけだ」
俺が迫った分だけ後ずさりする騎兵に、威圧するようにして言った。
「ヘリモルド、控えろ! その者が言うことはまことじゃ!」
カリアが馬車の窓から顔を出して、ヘリモルドを諫めた。
「ほれっ、カリアもああ言ってるぜ。良いのか、お嬢様の命の恩人に、そんな態度を取っても?」
帝国直轄領に所属する軍人は、皇帝直属の家来という意識が強くて、貴族領の軍人よりもプライドが高いと言われている。隊長ヘリモルドも悔しげな顔をしながら、口を開いた。
「分かった。誤解したことは謝罪する。そして、お嬢様を助けていただいた件については感謝する」
いかにも事務的な言い回しだが、俺も別に強請が目的で来たんじゃない。これ以上、ごねる意味はない。
「分かってくれたら良いんだよ。それじゃあ、確かにお嬢様を預けたぜ」
そう言うと、俺は踵を返して立ち去ろうとした。
「待て! 見たところ、旅の者のようだが、どちらに滞在しているのだ?」
「何だよ、その取り調べのような口調はよ?」
立ち止まり、眉を上げながら振り返った俺の顔を見た隊長ヘリモルドは、苦虫を噛み潰したような顔をして、「どちらに滞在されているのでしょうか?」と丁寧な言葉で言い直した。
「光月亭という宿屋に泊まろうと思っている」
「お名前は?」
「旅の賞金稼ぎをしているアルスだ」
隊長ヘリモルドが俺に近づいて来た。
「アルス殿のお陰で、お嬢様がご無事であったことを総督閣下にもお知らせする。閣下よりお礼の使者が行くかもしれぬことをご承知おき願いたい」
「まあ、別に礼を期待して助けた訳じゃねえから、いらねえよ。じゃあな」
俺は、再度、踵を返して、イルダ達が先にチェックインしているはずの宿屋に向かった。
街の住民に宿屋の場所を訊きながら、宿屋にたどり着くと、無事にチェックインできたようで、俺のチェックインも済ませてくれていた。エマは、街を見回ってくると言って、宿屋の前で別れたそうだ。
そして、みんなに声を掛けて食堂に集めると、シャーリエを、無事、総督府の軍人に引き渡してきたこと、総督から礼を述べる使者が来るかもしれないことを伝えた。
「アルス殿、お疲れ様でした」
「ああ、とりあえず、俺の名前しか言っていないから、総督からお礼の使者とやらが来たとしても俺を訪ねて来るはずだ。だから、イルダは表に出る必要はないだろう」
「分かりました。実際に、あの馬車を止めたのはアルス殿ですから、アルス殿が謝礼を受けてください」
「でも、イルダは総督に物申したいんじゃないのか?」
「それはそうですけど、エマさんの話を聞いて、私が物申したところで何も変わらないのであれば、それは単なる自己満足に過ぎないと反省をしたのです」
「仮に総督府にお召しがあれば、俺から総督に物申しておくさ。もし、相手が怒って剣を抜いてくれば、俺が総督を斬っても正当防衛になる」
「アルス殿。無茶はされないでくださいね」
食堂から廊下に出るドアがノックされた。
ドアを開けると、宿屋の小間使いが、俺に来客だと伝えた。
「総督府からの使者が、早速、来たのかもしれない。とりあえず、俺一人で会って来る」
そう言って、一人で宿屋のロビーに行った。
ロビーのカウンターにいた宿屋の主人が、ロビーに置かれているソファの一つをその視線だけで俺に知らせてくれた。そのソファに座っていた男が立ち上がり、ゆっくりと俺に近づいて来た。
隊長ヘリモルドよりも豪華な制服を着ている、その男は総督府警備部隊の責任者なのだろう。
いや、そんなことはどうでも良い。
俺は、その男から目を離すことができなかった。
会うのは久しぶりだったが、ほとんど変わっていない容姿と、その男が浮かべている微笑みに、俺も口角を上げざるを得なかった。
「アルス、やっぱり、お前だったな」
「ああ、生きていたんだな、オルカ」
※第九話でばらまいた伏線回収!




