第七十八話 貧民街の暴走馬車
エマは、いつになく神妙な顔をして俺に近づいて来ると、少年の胸ぐらを掴んでいた俺の手をはがした。
考えてみれば、エマも盗賊で、この少年とやっていることは同じだ。
しかし、エマは、裕福な者に犯行予告をした上で盗みを実行し、手に入れた金銭を貧困にあえぐ人達に分け与えている義賊として、庶民達にも人気の盗賊だ。この少年も義賊の仲間なのだろうか?
「こいつはお前の知り合いなのか、エマ?」
「違うけど、そのお金がないと、みんな、飢えてしまうんだよ」
「どういうことだ?」
エマは、俺の問いには答えずに、自分の懐から銀貨を一枚出して、少年に差し出した。
「ほら、これはアタイからのプレゼントだよ。それでお腹を満たしな」
まさか、スリをした自分にお金を与えてくれるとは思ってもいなかったようで、少年も用心深くエマを見た。
「アタイはエマって言うよ、あんたは?」
「……タズリだ」
「タズリか。なかなか良い腕をしてるけど、旅の人を相手にしちゃ駄目だ。金を奪うのなら、この街で贅沢に暮らしている連中から奪いな」
それは子供に対する教育として適切なのだろうかと、少し疑問もあるが、自分のしたことを許してくれると分かったのか、タズリも表情を和らげて、エマが差し出していた銀貨を受け取った。
「分かった。旅の人には二度と手を出さないよ」
「ああ、そうしな」
エマに背中を押されたタズリは、二、三歩、よろけるようにして前に出ると、振り向いて笑顔を見せた。
「エマ、ありがとう!」
「ああ」
笑顔で手を振るエマに見送られながら、タズリは走り去って行った。
その姿が見えなくなるまで見送ったエマは、俺達の方に体を回して振り向いた。
「みんな、久しぶり!」
「元気そうだな、エマ」
「元気元気! みんなも変わりなくて良かったよ」
「それで、さっき、お前が言ったことだが」
「ああ、実際に見てもらった方が良いだろね。アタイについといでよ」
エマが背を向けて歩き出すと、俺達はその跡をついて行った。
エマは、街のはずれに向かっていた。
石畳だった道路は未舗装となり、それまで、ほとんどが石造りの家だったのが、木造の家が多くなってきて、更に歩くと、次第に、その木造の家も傾いたり、壁に大きな穴が開いたりしている小さな家が多くなってきた。
少し屎尿臭もする、そこは貧民街だった。
貴族領の街には、どこにも貧民街がある。領主の実入りになる税金を納めることができない住民でも、男であれば兵力になるし、女も働き手として役に立つ。領主の中には、貧民街の女性達を、兵士の性欲のはけ口にさせている奴もいると聞く。虫酸が走るほど嫌なことだが、そうでもしないと生きられない人がいることは隠しようがない現実なのだ。
そういうこともあり、税も納められない貧民であっても街から追い出すことなく住まわせている領主が多く、そんな住民達は貧民街で肩を寄せ合うようにして暮らしている。
ここは帝国直轄領だ。もちろん、帝国直轄領でも貴族領でも、住民の暮らしは同じで税の負担もそれほど変わるものではない。しかし、少なくともアルタス帝国は、住民の反乱を極力抑えるという目的もあっただろうが、その直轄領の住民に厚い保護を施しており、貧民街が作られることはなかったはずなのに、このサリウムには、いつの間にか貧民街ができていたようだ。先の大戦で、この街は戦禍に巻き込まれはしなかったはずだが、街の支配者が変わり、混乱をしていたのは想像に難くない。その混乱の間に職を失った住民が保護も受けられずに貧民へと落ちていったのだろう。
「帝国直轄領にこんな街が……」
イルダも言葉を失っていた。先の大戦が終わって、もう半年以上過ぎているが、完全な復興ができていないことに腹を立てているようだ。
「アタイは十日ほど前に、この街に入ったんだけど、どうやら、ここの総督は街の福祉よりも首都への貢ぎ物に目が行ってるようだね」
「今の総督は、確か、グレイドウルと言っていたと思いますが?」
直前に寄った街で仕入れた情報を元に、イルダがエマに訊いた。
「そうだよ。話によると、四か月ほど前に首都から赴任してきたようだけど、税率を勝手に上げて、しかも取り立ても厳しく行うようになったんだよ。ここができたのは、それからだよ」
帝国直轄領は、基本的にどの街も同一税率だ。税率に差を付けると、高い街から低い街への住民の移動が起きるし、それを防止しようとすれば、その軍備にも余計に費用が掛かる。この街の総督グレイドウルが税率を上げているというのが本当であれば、首都に黙って、こっそりと上げているのだ。その上げた分の差額を自分の懐に入れているのだろう。
もっとも、帝国直轄領の税金のピンハネは、どこの総督も大なり小なりやっていることだ。総督を二期連続で務めれば、首都に御殿が建つと言われているくらいだからな。
俺は、周りを見渡してみた。
大きな道路の両側に無秩序に建てられている家々は、廃材などを使っていて古びて見えるが、建てられてからそれほど日は経っていないようだ。
そしてここは、街の高い城壁のすぐ近くで、ほとんど陽が当たらない場所だ。昨日は雨が降ったのだろうか、道路や空き地には、あちこちに水たまりができているのが見えた。水はけも良くないようで、元々は住むには適さない空き地か何かだった所に人々が勝手に家を建て、住み着いていったのだろう。
しかし、これほど規模の貧民街が、わずか四か月の間にできてしまうなんて、度が過ぎていると言うしかない。
家の前に力なく座り込んでいる住民達が、貧民街のメインストリートを歩く俺達一行を見つめていた。イルダの格好からは、裕福な一行だと分かるはずだが、俺達を襲おうという雰囲気はなく、無気力さによる治安が保たれていた。
俺達の前を、小さな子供達が歓声を上げながら横切って行った。その向かう先には人垣ができていた。みんな、小さな子供達だ。
「順番だぜ! パンはまだあるから、みんな、ちゃんと並べよ!」
人垣の真ん中にいたのは、大きな袋を持ったタズリだった。タズリは集まっていた子供一人に一つずつ小さな丸いパンを手渡していた。パンを手にした子供達は嬉しそうな顔をして人垣から離れていき、あちこちで仲良しグループを作って、嬉しそうにパンを食べていた。大人達は、そんな子供達の様子を優しい顔をして眺めていた。大人達の様子からして、同じように腹が減っているだろうに、自分達が子供の食料の奪い合いをしないだけの理性は働いているようだ。
手持ちのパンを配り終えて、顔を上げたタズリは、エマがいることに気づいた。
「エマ……だったよね? さっきはありがとう! これは、さっき、エマからもらったお金でちゃんと買ったんだからな」
「分かってるよ。タズリ、あんたはパンを食べたのかい?」
「後で食べようと思って、ここに入れてるよ」
タズリは、そう言って、胸のポケットを押さえた。
「そいつは良かった。そう言えば、タズリ。この人には、まだ謝ってなかったんじゃないのかい?」
「あっ……」
タズリは顔を赤くしながら、俺の近くまで来ると、「さっきはごめん」と小さな声で言った。
「いや、俺には、実質、被害はないから気にするな。それより、俺はアルスと言う。こちらのお嬢さんの護衛をして旅をしている」
タズリがイルダを見ると、イルダは、ベールと取って、タズリの正面で膝を折り、視線を下げて「こんにちは。私はイルダと言います」と挨拶をした。
タズリは恥ずかしげにうなずいただけだった。
「タズリ君、ちょっと、お話をさせていただいて良いかしら?」
タズリは「うん」とうなずいた。
「アルタス帝国の時代には、みんな、ちゃんとご飯を食べることができていたと思っていたのだけど、違うのかしら?」
「うん、おいらは生まれた時から独りぼっちだったけど、前の総督の時には、食料の配給があって、おいらも飢えることはなかったよ。でも、今の総督に替わってから、食料の配給はなくなっちゃったんだ」
やせこけた住民を見ると、そのとおりなのだろう。
「じゃあ、みんな、どうやって暮らしているの?」
「ときどき、総督府から人足の募集が掛かる時もあるけど毎日じゃないから、みんな、お店の残飯を譲ってもらったり、この建物の裏で野菜の栽培もしてるんだ」
屎尿臭は畑に撒いている肥料の匂いだったようだ。この密接して建っている建物の一角を農地にしているようだが、そんな狭い農地で住民全員の胃袋を満たすだけの栽培量があるはずがない。
それにしても、この小さなタズリは、今までずっと一人で生きてきているのか?
俺も親を知らない捨て子だったが、赤ん坊の頃に旅芸人の一座に拾われて、そこで育った。その一座が次の興業先に移動する最中に山賊に襲われたが、たまたま通り掛かった傭兵団に助けられ、アルタス帝国軍の募集に応じて首都防衛の軍団に編入されるまで、その傭兵団で育った。つまり俺は、タズリと比べると、ずっと幸せだったということだ。
タズリのスリの腕はかなりのものだ。誰の世話になることもできないタズリが、やむにやまれず身につけた技なのだろう。
「アルス殿」
イルダが険しい顔で俺を見た。何を言いたいのかは、もう分かる。
「総督を斬るか?」
「それで、今の状態が改善されるのならやむを得ません」
「今の帝国に正面から喧嘩を吹っかけることになるぞ」
「それはそうなりますけど、この方々を救うには、それしかありません!」
このお姫様の美しい心は、目の前の惨状を許すことができないのだろうが、元皇女のイルダが生きていて、しかも帝国の家来である総督を殺すといった反逆を企てて実行したことが白日の下にさらされることになる。それはアルタス帝国の再興を目指すという長期的な戦略という観点から見れば無謀なことだ。
「総督一人を斬ったところで、すべてが元どおりになるってことはないよ」
エマがイルダに諭すように言った。
「今、この街で甘い汁を吸っているのは、総督一人じゃないんだ。この街の役人とか、取り巻きの商人とかも同じで、仮に総督が替わったとしても、よほど聖人君子の総督が来ない限りは、そいつらの甘言に乗って、結局、同じことになるだろうね」
さすが世間の裏の裏も知り尽くしているエマだ。俺もそう思う。頭をすげ替えたからと言って、これまで染みこんできた不正の構造が一掃される訳はないだろう。
「とりあえず、みんなが飢えない程度にはアタイが何とかする。イルダさんは、もっと力を蓄えてから抜本的な解決をしておくれよ」
イルダの素性も知っているエマが気を使って言ってくれた。それで、イルダの気持ちも少しは落ち着いたようだ。
「そうですね。腹立たしくてなりませんが、私の力は、まだこの街一つも救うことができないのでしたね」
本当に落ち込んでいるように、イルダが伏せ目がちに言った。イルダにしてみれば歯がゆくてたまらないのだろう。
「しかし、どうやって食料を配給するんだ?」
「ここの金持ちから奪った金を、例えば、タズリに預けて、毎日、パン屋でパンを買ってこさせることもできると思うんだ」
エマからもらった銀貨を独り占めすることなく、それで買ったパンをみんなに分け与えていたタズリなら、エマが考えているような仕事も進んでやってくれるだろう。
「盗賊を応援するのも変だが、エマならやってくれるだろう。それで相手方は決めているのか?」
「当然、総督さ。他にはいないだろ?」
まあ、そうなるよな。
突然、馬のいななきが聞こえてきた。
未舗装の道を土埃と轟音を上げながら、飛ぶように走って来ている二頭立ての馬車が見えた。馬車の作りは相当豪華で、支配層あるいは富裕層の馬車だろう。しかし、その御者席に御者はおらず、その馬車が暴走しているのが分かった。その暴走馬車が俺達の方に向かって来ていた。
「道の端に寄れ!」
俺は、みんなにそう言うと、馬車の前に立ち塞がった
「アルス! 大丈夫かい?」
珍しくエマが俺を心配してくれた。
「ああ、心配するな!」
俺は、少しだけ横にずれると、背を向けて、走って来た馬車とのタイミングを併せるように走った。
暴れ馬が俺のすぐ横を併走するようになった。もちろん、馬の方が速いから、馬がドンドンと俺の体を追い抜いて行くと、誰もいない御者席が横に見えた。タイミングを図り、横っ飛びに馬車に飛びつく。そして、振り落とされないようにしながら、何とか、御者席にたどりつくと、すぐに手綱を強く引いて、ゆっくりと馬車を止めた。
すぐにイルダ一行とエマが駆け寄って来た。
「アルス殿、大丈夫ですか?」
「ああ、見てのとおりだ」
「ねえ、中に誰かいるよ」
いつの間にか、俺達の近くまで来ていて、馬車の扉の窓から、中をのぞき込んでいたタズリが言った。
俺は急いで御者席から降りて、馬車の側面に回り、ドアを開いた。豪華な内装の椅子には、ともに豪華な衣装をまとった老女と幼女が突っ伏していた。
「おい! 大丈夫か?」
馬車の中に入った俺は、まず、老女の体を揺さぶってみた。老女は幼女を抱きしめるようにしていて、どこかで打ったのか、額から血が流れていた。もっとも、かすり傷で、気を失っているのは、馬車の暴走で気が動転したからだろう。
「ここはどこ?」
老女の体の下から、幼女が不安げな顔で俺を見ていた。女の子は、綺麗な金髪で鼻の周りに少しだけそばかすがある可愛い顔立ちをしていた。
「怪我はないか?」
女の子はゆっくりとうなずいた。
俺はとりあえず老女の体を横にずらして、女の子の体を自由にしてやり、女の子を馬車から降ろした。
女の子が着ている仕立ての良いドレスも破れてはなく、本当に怪我はないようだった。
「お前の名前は?」
「アルス殿! 相手は小さな女の子ですよ!」
イルダが怒ったように俺の名前を呼ぶと、女の子の前にしゃがみ、目線を同じくした。
女の子は、子供リーシェやタズリよりも背が低い、本当にまだ幼い子だった。
「あなたのお名前は?」
小さな女の子には、こういう口の利き方をするのですと言いたげに、俺を横目で見ながら、イルダが尋ねた。
「シャーリエ」
「シャーリエちゃんね。可愛い名前だね。あの馬車は、あなたのお家の馬車でしょ?」
イルダが指差した馬車を見て、シャーリエはうなずいた。
気がついたら知らない場所で、大勢の知らない大人に囲まれていて、緊張するなという方が無理だ。シャーリエは、不安げな表情を崩さなかった。




