第六十一話 迫り来る蹄の音
カンディボーギルを発った俺達は、そこから東北方向に歩いて十日の所にあるリャンペインという街に向かっていた。そこでイルダの姉カルダ姫の一行と落ち合うためだ。
今の帝国からカンディボーギルに派遣された使者の代表がザルツェールというイルダ達の従兄弟だったということを報告するとともに、今の帝国に関する情報を交換して、お互いに最新の情報を共有しておこうということだ。
今日は、カンディボーギルを発って九日目。
この辺りまでくると、密林というよりは草原という表現が的確な景色が広がっていた。ところどころに樹木が密生して生えているが、その他の場所は俺の膝辺りまでの高さの草が生い茂っていた。
リャンペインは、内陸部にあるカンディボーギルから陸路を運ばれた香辛料を船で運ぶための港街として発展した街なので、カンディボーギルからリャンペインには整備された街道が通じていて、草原の中を進む必要はなく、その旅はいつもより楽だった。
もっとも、香辛料は、通常、荷馬車で運ばれるから、カンディボーギルとリャンペインの間には宿屋がある街は二つしかなく、徒歩で移動する俺達は、何度か野営をしなければならなかった。
今日はリャンペインまで一気に行こうかと思っていたが、少し見通しが甘かったようだ。
ちなみに、リャンペインはリュギル伯爵という貴族の領地だ。
貴族の領地というのは、明確な境界線があるわけではない。領民は街や村にまとまって暮らしており、その周辺には農地や伐採林がある。そういった人々の生活範囲を超えると深い森が広がる。この辺りだと草原や密林だ。そこに迷い込んだ者は方角を失って迷子になるか、そこに潜む邪悪な存在に命を奪われてしまう。そんな誰も領地として欲しない地域は貴族領地の緩衝地として機能しているのだ。
俺達の背後から街道に長い影を落としていた太陽が沈むと、辺りは急に暗くなった。
「このままリャンペインまで行けそうにないな」
俺が名馬フェアードに乗っているイルダに振り向きながら言った。
「この付近には何もなかったのでしたっけ?」
イルダの言葉を受けて、ダンガのおっさんが、フェアードの手綱を腕に巻き付けながら、懐から地図を出すと、片手で器用に広げた。
「もう少し歩くと、リュウカという村がございます。リュウカからリャンペインまでは半刻という距離です」
ダンガのおっさんは、ここまで来ているのだから、一気にリャンペインまで行くべきと考えているようだが、夜中に旅をすることは昼間の何十倍も危ない。
「カルダ姫と会う約束は明日の昼だ。今日、無理してリャンペインまで行く必要はないだろう」
「そうですね。とりあえず、リュウカ村まで行きましょう。宿屋はないと思いますが、とりあえず人里ですから安心できるかもしれません」
イルダも俺の考えに賛同してくれた。イルダの考えが俺達一行の最終決定だ。
しばらく歩いていると、薄暗くなった木々の隙間から家の灯りがほのかに見えてきた。
どうやらリュウカという村のようだ。
大勢の人が暮らす街と違って、石や煉瓦作りではなく丸太を積み上げただけの簡単な塀で囲まれている。大勢の無法者に攻め込まれるとあっさりと突破されるだろうが、盗賊達もそんな労力を払っても、こんな小さな村では見返りとして得る獲物が少ないことは分かっている。それなら旅の商人を襲った方が何十倍も旨みがあるということだ。
俺達は丸太で作られた門まで行ったが、やはり既に閉じられていた。
「時間切れじゃったか」
「まだ、家々の灯りは点いている。少し大声を上げてみるか?」
「アルス殿。せっかくの夕餉の時間をお邪魔するのも悪いです。どうしても村の中で泊まる必要もないですから、今日はこの近くで野宿いたしましょう」
まあ、俺達はどこでも眠れるんだし、元皇女様がそう言うのであれば仰せのとおりに!
と言うことで、俺達は村の灯りが見える場所で野宿をすることにした。
干し肉と豆のスープという定番の夕食を食べると、もう後は寝るだけだ。
この辺りは、大陸の北部にある首都からかなり南にある地方で、夜もまったく寒くなかったが、朝、急に気温が下がることもあるから毛布は必須だ。そして、夜の闇は危険な連中が近くに来るまで分からなくしてしまう。だから、見張りを欠かすことはできない。俺とダンガのおっさん、そしてリゼルが二刻ずつ交替で見張りをすることになり、まず、俺が見張りに立った。
イルダの隣にリゼルと子供リーシェ、ナーシャの女性陣がまとまって横になり、子犬のコロンもその近くに丸くなって眠っていた。いびきがうるさいダンガのおっさんが少し離れた所に一人寂しく横になっていた。
俺は、みんなから少し離れた位置で焚いている焚き火の近くに、カレドヴルフを抱くようにして座り、五感を研ぎ澄まして辺りの気配をうかがった。
ここから見えるリュウカ村の灯りも次第に消えていき、最後の一軒の灯りが消えると、辺りは俺達の焚き火以外は暗黒の世界となった。空を見上げると月も厚い雲に覆われているようだ。
時々、木の葉や草が擦れる音がする。夜行性の獣が動いているのだろう。火を焚いている以上、獣が近づくことはない。それでも近づいて来るのは人族の無法者か魔族かだが、人が歩いて来る音は、いくら足音を忍ばせるように歩いたとしても分かる。少なくとも辺りに人の気配はなかった。
何も起こらずに一刻ほど経っただろうか?
不覚にも少しウトウトとして目がつぶれかけていた時、ガサッと人が草を踏んだ音で飛び起きてカレドヴルフを抜いた。
「私です。アルス殿」
イルダだった。毛布を両肩に引っ掛けるようにしてまとっているイルダが焚き火の光を浴びて、オレンジ色に輝いていて、その可憐な美しさに、初めてイルダに会った時のような新鮮な驚きがあった。
「何だ、驚かすなよ」
「すみません」
と言いつつ、イルダは嬉しそうだった。
「何か目が覚めてしまって眠れなくなってしまいました。ちょっと、おしゃべりさせていただいても良いですか?」
「ああ、大歓迎だ。実は、少し眠くなっていたところだ」
「良かったです」
俺が同じ場所に腰を下ろすと、その隣にイルダも座った。
何かいつもより近い気がするが……。
「アルス殿」
「うん?」
「いつもありがとうございます」
「何だよ、あらたまって?」
「リゼルとダンガも腕の立つ護衛ではありますが、道中何度となく不安に駆られました。アルタス帝国再興の日を迎えることもなく、路傍の露と消えてしまうのかと覚悟を決めたことも何度もありました。でも、アルス殿に守っていただけるようになってからは、道中、まったく不安がなくなりました。アルス殿のお陰です」
「まあ、これは因縁だろうな。俺もアルタス帝国が滅んだ時、帝国軍の中にいた。そして、賞金稼ぎに身をやつしていて、アルタス帝国の元皇女様と出会った。そして、俺はその元皇女様に惚れ込んでしまったんだ」
「えっ?」
「イルダが仮に男だったとしても、俺はイルダに惚れ込んでただろう。つまり、主人として仕えるに値する人物だということさ」
「そ、そうなんですか?」
何となくイルダの肩が下がった気がした。
「も、もちろん、女性としても魅力的だし、イルダと一緒に旅ができているだけでも幸せだぜ」
「アルス殿。もし、私が皇女でなければどうですか?」
「えっ、どういうことだ?」
「仮に、私が本当に商人の娘だとすれば、アルス殿は同じように一緒に旅をしてくれましたか?」
「当たり前だ! 俺は、イルダが男でも女でも、皇女様でも商人の娘でも酒場の女だったとしても同じように惚れ込んでいたはずだ」
「アルス殿。……そうですね。それがアルス殿でしたね。でも、すごく嬉しいです」
イルダが俺をじっと見つめた。
俺は柄にもなく照れてしまって、イルダから視線を外して空を見た。
やはり月は姿を見せていない暗い夜だった。
一匹の蛾が炎の光に誘われたかのように、俺達の周りを数回飛び回ると、焚き火に突入したようで、突然、焚き火がバチッと弾けるようにして、一瞬、火の粉が跳ねた。
「きゃっ!」
それに驚いたイルダがすぐ隣にいた俺に体をあずけるようにして抱きついた。
旅の身で香水など付けていないはずなのに良い匂いがした。
その後、訪れた静寂で気を落ち着かせたようで、イルダはゆっくりと俺から体を離しかけたが、すぐに体を止めて、顔を上げた。
イルダの顔は、イルダの瞳に俺が映っているのが分かるくらいの距離しか開いてなかった。
「……イルダ」
「……アルス殿」
何となくお互いの顔が近づいているような気がする。
リーシェと違って、思い切り抱きしめると折れてしまいそうなほど華奢な体つき。
ああ、そうだ。
この人は高貴な血を受け継ぐ方なのだ。俺が汚すことなど許されないんだ。
理性を取り戻した俺は、少し目線をそらした。
「む、虫が焚き火に飛び込んだようだな」
「あっ」
イルダも何かに気づいたように体を引くようにして、顔を離した。
「も、申し訳ありません! 断りもなく抱きついてしまって」
「いや、俺は嬉しかったぜ」
「ア、アルス殿」
「でも、イルダは俺にとって守るべき人なんだ。俺がイルダを襲う訳にはいかないよな」
「……」
「イルダは絶対に俺が守るからな」
「……ありがとうございます。でも」
「うん?」
「今は、少しだけ、こうさせてください」
イルダはもう一度体を俺の横にくっつけると、俺の肩に自分の頭を乗せた。
「どうしてか、分からないんですけど、さっき、アルス殿に抱きついた時、いやらしい意味ではなく、本当に心が安らかになる気がしたのです。今、もう一度、こんなことをさせていただくと、それは勘違いじゃないことが分かりました。どうしてなのでしょう? 本当にアルス殿の側にいると心が落ち着くのです」
リーシェと同じようなことを言っている。
リーシェも俺の体の匂いを嗅ぐと安心すると言っていた。イルダも、俺の体の匂いが原因なのかは分からないが、俺の側にいると安心すると言った。
やはり、俺もリーシェとイルダの二人の記憶に共通する何かを持っているのかもしれない。
俺はイルダの肩を優しく抱いた。イルダは何も言わなかった。むしろ、それに呼応するように更に俺の体に自分の体を密着させた。
リーシェが俺を誘っている時のように、いやらしい気分にならなかった。イルダを見てみると、気持ち良く眠っているかのように目を閉じたまま穏やかな表情のまま、俺の肩に頭を乗せていた。
俺とイルダは、しばらくの間、そんな体勢のまま、言葉を交わすこともなく、お互いの存在を確かめ合った。
俺の耳に蹄の音が微かに聞こえた。
まだ遠いが確かに蹄の音だ。それも一頭ではない。……少なくとも十頭以上はいる。
「イルダ」
俺がイルダを呼ぶと、イルダはすぐに目を開けた。別に眠っていた訳ではなかったようだ。
「馬だ。馬が何頭かこっちに向かって来ている」
「えっ? この時間にですか?」
「ああ」
まさに真夜中の今頃、大勢の馬で押し寄せてくるなんてのは、もう馬賊くらいしかいない。
馬に乗った強奪団のことで、馬賊が通り過ぎた後はイナゴに食い荒らされた畑よりも何も残らないと言われているくらいだ。
そんな連中がこちらに向かって来ている!




