第四十三話 眠れる王子にキスを!
「どうした、リーシェ?」
「えっ?」
俺の呼び掛けに、ハッと我に返ったように目をぱちくりさせながら、リーシェが俺を見た。
「泣いてるじゃねえか」
「……」
リーシェは、自分の頬に手をやって、初めて自分が泣いていることに気づいたようだ。
「あいつに何かしてやられたのか?」
「……」
リーシェ自身、泣いている理由が分かっていないようだ。
これ以上、リーシェを問い質しても、まともな答えは返って来ないだろうと思い、もう一度、「眠れる砂漠の美女」に視線を戻した。
――よく見ると、リーシェに似ているような気がする。
二人とも絶世の美女だということは、顔のパーツが似通っているのかもしれないが、それにしても姉妹のようにさえ見える。
「わんわん!」
突然の犬の鳴き声に、みんなが驚いた。
毛足が長い子犬がリーシェの足にじゃれついていた。その子犬の首には、リーシェがコロンにはめたはずの鈴が付いた首輪が締められていた。
「お、おい! これって?」
「……コロンじゃな」
俺の問いに、リーシェが子犬を抱き上げながら答えた。
「どう言うことだ?」
「静かなる眠りを妨げたコロンにお仕置きをしたのじゃろう」
「眠りを妨げた? ……ということは?」
「これも、あやつの仕業じゃ」
リーシェは、もう一度、大妖精を見上げた。
「おそらく、コロンの時間を遡らせおったのじゃろう」
「はあ? どういうことだ? 分かるように言ってくれ!」
そもそも「時間」って何なんだ?
「分かるようにと言われても、わらわも、そうとしか答えることができぬ。コロンは三百年生きた犬が元々の姿で、魔法を手に入れ、悪魔になった。その元々の犬の姿に戻っただけじゃ」
「コロンだけがか?」
「そのようじゃの」
コロンを抱きかかえながら、リゼル、エマ、そしてリリアを順番に見たリーシェが再び大妖精に視線を戻した。
「時を遡らせる魔法など、さすがのわらわも初めて見たわ」
「そんなにすごい魔法なんだ?」
「それはそうじゃろう? 勝負に負けそうになったら、勝負が始まる前に遡ることで何度でも勝負ができる。つまり負けないということじゃ。繰り返しその魔法を発動することで、老いる前の自分に戻ることもできる。永遠の若さを手に入れたも同然ということじゃ」
――永遠の若さ。やはり、これが「眠れる砂漠の美女」なのか。
俺も大妖精をじっくりと見てみた。
目を閉じたまま、まったく身動きしていない。
「こいつは生きているのか?」
「生きているのか死んでいるのか分からぬ。しかし、こやつがここに閉じ込められる前に残したと思われる魔力が、ここへの侵入者を阻もうとしているようじゃ」
「ということは、俺達を襲って来た骸骨剣士やライコンもこいつが?」
「そうじゃ。残留させた魔力でそこまでさせるとは、わらわも初めて聞いたわい」
無敵の魔王様でさえ驚く魔力を持っている、この「美女」はいったい誰なんだ?
魔王リーシェを泣かせる、この「美女」は?
「お前が泣いたことも、こいつのせいか?」
「……それは分からぬ」
はっきりとは分からないまでも、リーシェには何かしらの心当たりがあるような気がした。
もしかしたら、あの大妖精によって、過去の記憶が呼び覚まされて、泣いてしまったのではないのだろうか?
魔王様がポロポロと涙を流すほどの悲しい出来事が、昔、あったのだろうか?
しかし、当のリーシェは、そのことに触れられたくないようで、抱きかかえていたコロンを地面に降ろすと、ゴシゴシと拳で目を擦って涙を拭った。
そして、いつのも冷笑を浮かべたリーシェに戻った。
「おそらくじゃが、死者の谷の王室廟でミルジャが弾かれたことや王子が昏睡していることも、こやつの仕業じゃろう」
「何のためにだ? 王子は、ここに侵入しようとした訳じゃあねえだろ?」
「何故かは分からぬ。しかし、わらわとリゼル、そして、コロンとマモン以外の魔力は、こやつから出ているものしか感じられぬ。それも比較にならぬほど大きい。つまり、こやつの魔法以外に原因はないということじゃ」
「じゃあ、王子を目覚めさせるにはどうすれば良いんだ? こいつの息の根を止めるしかないのか?」
「そうじゃのう……」
それ以外にリーシェも考えが及ばなかったようだが、リーシェが放った稲妻さえも簡単にはね返してしまう水晶に包まれ、また、今、この場所に残っている魔力だけでも桁違いに大きいという「眠れる砂漠の美女」の息の根を止めることなんてできるとは思えない。
そもそも息をしているのかどうかも分からない。
「あれは?」
エマが指差した先を見ると、「眠れる砂漠の美女」の背中が後光のように輝いていた。
光は徐々に明るくなっていって、眩しくて目を開けていられなくなった。
光が少し収まり、目を開くと、豆粒ほどの大きさの物が、ほのかに光りながら宙に浮かんでいた。そして、その物は、ゆっくりとリリアの手元に降りて来た。
両手でその物を受け止めたリリアは、それを手に取って、俺達に見せた。
キラキラと輝く物は、向こう側が透けて見えるほど薄かったが、微細で色とりどりの迷彩模様が綺麗に輝いていた。
(それを飲ませなさい)
俺とリーシェは、思わず目を合わせた。また、声なき声が聞こえた。
俺とリーシェ以外の者には、その声は聞こえていないようだ。
「リーシェ、今のは?」
「分からぬ。分からぬが……」
リーシェは「眠れる砂漠の美女」を見上げた。
「こやつのような気がするのう」
「リーシェ。こいつのことは本当に知らないのか?」
「嘘を言っても仕方があるまい。どうしても思い出せぬのじゃ」
――リーシェは嘘を言っていない。
この「眠れる砂漠の美女」を「知らない」とではなく「思い出せない」と言った。
リーシェは、この「眠れる砂漠の美女」を知っていたが、忘れているのだ。記憶のどこかに引っ掛かっているのかもしれないが、思い出せないのだろう。
「アルス」
リリアが俺を呼んだ。
「これって、あの大妖精の羽じゃない?」
リリアが持っている物と、「眠れる砂漠の美女」の残っている羽の模様が似ていた。その薄さは、羽だと言われると納得できる。
ちぎれているような左側の羽の根元部分が少し欠けて飛び出して来たとしか思えなかった。
「そのようだな。その羽の欠片を王子に飲ませると良いらしいぜ」
「これを?」
「どうして知っているのだ?」
リゼルの問いに「それしかできることがないじゃないか!」と啖呵を切った。
俺は、さっきの声を信じることにした。
「とりあえず、みんなの元に戻ろう」
「わらわは、この縛っている三人を飛ばして運ぶから、そなたらは先に戻っておれ。そなたらが戻った後には出入り口の岩も元に戻しておく。そうしないと、この大妖精の怒りは収まらぬだろうからの」
あの粉々になった岩をどうやって元に戻すつもりなんだ?
まあ、不可能という言葉が嫌いなリーシェなら、きっと可能なんだろう。
リーシェの言葉に従い、俺とリゼル、エマ、そしてリリアは、イルダ達の元に戻ることにした。
水晶の広間から出る前に、振り向いて、リーシェを見ると、リーシェは「眠れる砂漠の美女」を見上げながら、ゆっくりと近づいて行っていた。
何かしら懐かしさを感じているような顔をしていた。
邪魔をしてはいけないという気分になり、水晶の広間を出て、来る時に通った通路を戻って行った。閉まっていたはずの出入り口も全部開いていた。
王室廟がある広間まで戻ると、イルダもアドル王子もまだ眠っているままだった。
子供リーシェもナーシャに手をつながれて、ちゃんといた。
ナーシャとダンガのおっさんは、俺達の顔を見ると、ほっとした顔を見せたが、ホデムが切羽詰まった顔をして、俺に駆け寄って来た。
「殿下に魔法を掛けた魔族は退治できなかったのか? 殿下はまだ目覚められないぞ!」
「それはな」
俺は、リリアに手を伸ばして「眠れる砂漠の美女」の羽の欠片を受け取ると、それをホデムに示した。
「これを王子に飲ませると良いらしい」
「何だ、それは?」
「眠れる砂漠の美女の羽の欠片だ」
「眠れる砂漠の美女の羽だと?」
「ああ、どんな病気や怪我も治してくれるはずだろ?」
「確かにそんな噂があるが……」
「信じられないのなら仕方がないな。しかし、他に手段はないぜ」
しばらく悩んでいたホデムは、俺の手から羽の欠片を取ると、しゃがみこんで王子の上半身を抱えていた兵士から王子を奪い取るようにして、その上半身を抱えた。
そして、羽の欠片を眠っている王子の口元に持っていった。
「殿下! これをお飲みください!」
ホデムが体を揺らしながら王子に呼び掛けてもまったく反応がなかった。
「やむを得ません! ごめん!」
ホデムは、片手で王子の頬をつかむと、顎を下に引っ張って、無理矢理、王子の口を開かせようとした。
少し開いた口に、羽の欠片を押し込んだが、王子は、意識を戻さぬまま咳き込んで、羽の欠片を吐き出してしまった。
何度か同じことをしたが、結果は同じであった。
「ちょっと貸してください!」
駈け寄ったリリアがホデムの横にしゃがんで、羽の欠片を寄越せとばかりに、手を差し出した。
「どうされるおつもりですか?」
リリアの正体を知っているホデムは、丁寧な言葉遣いでリリアに訊いた。
「この羽の欠片は、私の所に落ちて来ました。私がやれば、きっと」
ホデムは、無言でうなづくと、羽の欠片をリリアに渡した。
リリアは、ホデムが開けた王子の口に、羽の欠片を放り込んだが、王子はすぐに羽の欠片を吐き出してしまった。
リリアは、王子が吐き出して床に落ちた羽の欠片を腰に付けた布で綺麗に拭くと、少しの間、王子の顔を見つめた。
リリアは、一旦上げた肩を大きく落として気合いを入れると、羽の欠片を自分の口に放り込んで、腰にぶら下げていた小さな水筒から水を口に含んだ。
そして、ホデムが上半身を抱えている王子に自分の顔を近づけると、そのまま接吻をした。
みんなが唖然としている中で、口に含んだ水とともに、羽の欠片を王子の口に流し込んだようで、王子の喉仏がごくりと言う音とともに上下した。
すると、すぐに王子は咳き込んだが、羽の欠片は吐き出されなかった。
ゲホゲホと咳き込む王子の背中をホデムがやや乱暴にさすると、間もなく王子の咳も落ち着いた。
目を開いた王子は、自分を抱きかかえているホデムの顔を見た。
「ホデム。……ここは?」
「死者の谷の王室廟です」
「……そうだ! ミルジャは?」
「ミルジャなら、ここじゃ!」
リーシェの声で、みんなが振り向くと、リーシェの足元に、縛られている裸の宰相とマモン、そしてミルジャが座らされていた。そして、その周りを子犬のコロンが嬉しそうに飛び跳ねていた。
「ミルジャ! どうしてミルジャを縛っているのだ?」
「殿下! ミルジャは宰相と組んで王室を我が物にしようとした奸物ですぞ!」
「な、何を言っているんだ? そんなはずがない!」
「殿下! 殿下が眠られる前にも、ミルジャが宰相に寄り添ったところも見られているはずではないですか!」
「あれは嘘だ! 幻だ! ミルジャ! 戯れだったと言っておくれ!」
必死の形相の王子がミルジャの側に行こうと立ち上がろうとした時。
――パチーン!
頬をビンタした良い音が王室廟に響いた。
王子は頬を押さえながら、リリアを驚きの表情で見つけていた。
「いい加減にしなさい! 現実からいつまでも逃げているんじゃないわよ!」
王子が叩かれたとあって、周りにいた兵士達は色めき立ったが、ホデムが片手を上げて制した。
「な、何をする? 昨日、初めて会ったばかりの賞金稼ぎに殴られる憶えはないぞ!」
おいおい! 涙目になって怒ったって滑稽なだけだぜ。
「殿下。ご紹介が遅れましたが、こちらはエラビア王国の王女リリア様でございます」
ひざまづいたホデムがリリアに頭を下げながら告げると、兵士達も慌ててひざまづき、頭をさげた。
王子は何が何だか分からないようで、リリアとホデムの顔を交互に見渡すことしかできなかったようだ。
「ふぁ~」
この凍り付いている場面で、ダンガのおっさんに抱っこされているイルダが小さく背伸びをした。
そして、ぱっちりと目を開けて、自分がダンガのおっさんに抱っこされていることも気づいていないように周りを見渡し、俺と目が合った。
ぱちくりとまばたきしたイルダは、顔を赤らめて、小さな声で「おはようございます」と言った。




