第三十九話 宰相と魔族
広間に響いた低い声の主が柱の影から出て来た。
「モデラート宰相!」
ホデムが唸るようにその名を呼んだ。
煌びやかな装飾が施された服装という王宮で見たままの格好であった。
ホデムが宰相を睨みつけると、兵士達も宰相を取り囲むように散開した。
「どうやって、ここまで来られた?」
宰相が一人で駱駝に乗って、俺達を追って来たとは思えない。
「この者に連れて来てもらったのだ」
柱の影から出て来た異形の者が宰相の隣に立った。
兵士達と同じような服を着たその者は、身長が高く、逞しい体つきをしていたが、顔は白い羊だった。
くるくると巻いている角が頭の左右から下向きに生えていて、あごには山羊のような白い髭が伸びている、その人族と掛け離れた容姿に兵士達も身構えた。
誰かが俺の服を引っ張った。
見ると子供リーシェが俺を見上げていた。
そして子供リーシェは自分の手を鼻の下で左右に揺らした。
――あらかじめ決めていたサインだ。
あの羊野郎は危険だと判断したのだろう。
俺は、リーシェから預かった小瓶をベルトのポーチから取り出すと、羊野郎から目を離さずに、イルダに近づいていった。
「イルダ」
俺に呼ばれて、イルダが顔を向けたその一瞬の間に、蓋を取った小瓶をイルダの鼻先で素早く左右に振った。
「何ですか?」
何事かとぽかんとした顔で俺を見たイルダは、すぐに目を閉じて、体が崩れ落ちそうになったが、俺がすぐにイルダの体を支えた。
さすが魔薬! すごい効き目だ!
「どうしたのだ?」
リゼルがすぐにイルダの異変に気がついた。
「あの醜い羊野郎の姿を見て、失神してしまったんだろう。ちゃんと息はしてるぜ」
俺からイルダの体を奪い取るようにしてイルダの肩を抱きかかえたリゼルも、眠っているイルダを見て安心をしたようで、同じく近づいて来たダンガのおっさんにイルダを託し、ダンガのおっさんはイルダをお姫様抱っこした。
一方、宰相は、二十人からの兵士に囲まれても平然としていた。
「そいつは何者ですか?」
曲がりなりにも相手はバルジェ王国の宰相だ。ホデムの言葉にはトゲはあったが、まだ丁寧だった。
「契約に基づいて仕えてもらっている、儂の協力者だ」
「契約だと? そいつは魔族なのですか?」
「そうだ。気をつけるが良いぞ」
しかし、羊野郎は、まるで等身大の人形のように身動き一つしなかった。
ホデムは臆することなく、なおも宰相に迫った。
「では、あなたはどうしてここに来たのですか?」
「ホデムよ。そなたがミルジャを疑っていることが分かっていたから、先回りをして、ここに潜んでいたのだ。儂のこれまでの計画が水泡に帰してしまわぬようにの」
「すると、やはり、ミルジャは?」
「儂のお古だ。だが、お腹の子は殿下の子かもしれぬな。ひょっとしたら、儂の子かもしれぬが」
そう言うと、宰相は下品な声で笑った。
「おのれ! 皆の者! 宰相を捕らえよ!」
ホデムが命じると、宰相を取り囲んでいた兵士が剣を構えて、その距離を詰めた。
しかし、それが合図だったのか、生気が蘇ったかのように体を震わせた羊野郎は、宰相を守るように前に出た。
そして、広げた右手を兵士の一人に突き出した。
その手のひらから赤い光が放たれると、その兵士は骨も残さずドロドロに溶けてしまった。
仲間の無残な死に方を見て、他の兵士が怖じ気づいてしまったことは仕方が無いことだ。
魔族との戦いに慣れていないと、その魔法の恐ろしさにすくんでしまって、思い通り戦えないことがある。バルジェ王国の兵士達は、今まさにそんな状態に陥っていた。
羊野郎は悪魔だろう。
魔法を使う最強の魔族、それが悪魔だ。
しかし、悪魔であっても生き物には違いはなく、剣で切られたり、炎で焼かれたりすると死ぬ。強力な治癒魔法の使い手であっても、その治癒が終わらないうちに次から次へとダメージを与え続けるれば良い。
要は慣れだ。
しかし、魔族も暑いのは嫌いなのか、砂漠の国には魔族はほとんどいないというのが定説で、ここの兵士達も魔族との戦いに慣れていないのだろう。
「みんな、どいてろ」
俺は、カレドヴルフを抜いて、兵士達の前に出た。
「そなたこそ、どいておれ」
俺を押し退けて前に出たのは、大人リーシェであった。
「お前ぇ……。俺がせっかく格好良く出て来たのに台無しじゃねえかよ!」
「調合につき合ってもらったお礼じゃ。こやつはわらわが始末してくれようぞ」
魔族でありながら、変なところで律儀なのもリーシェならではだ。
「そうかい。それじゃあ頼むか」
「お姉様、素敵ー! 頑張ってぇ!」
エマの声で力が抜けた俺は、少し下がって自分の一行を順番に見渡した。
イルダは相変わらずダンガのおっさんに抱っこされて眠っていたが、他のみんなは、いつも突然現れる大人リーシェに注目していた。
ホデムは、アドル王子を守るということと、ミルジャを逃がさないということで、二人の近くに立って、いきなり現れた美女を呆然と眺めていた。
リーシェは、祭壇近くにいた俺達から羊野郎を引き離すように、羊野郎を睨みながら、ゆっくりと移動した。
羊野郎もリーシェから目を離すことなく移動していき、二人は広間の真ん中で睨み合った。
「お主、名前を訊こうか?」
リーシェが、腰に手を置き、首を斜めに傾げる、お得意の蔑みのポーズで訊いた。
「マモンだ。貴様は何と言う?」
「ふふふ、わらわを知らぬか? 新参者め!」
リーシェが封印されたのは五百年前だ。それ以降に生まれた魔族は、リーシェに言わせると「新参者」になるらしい。
「わらわはリーシェじゃ!」
――おいおい! 名乗って良いのか?
大人リーシェは、とりあえず、俺の知り合いの魔法士ということになっている。人族と何ら変わらないその容姿は、魔族と言うより魔法士と言う方がしっくりくる。
そして、子供リーシェと大人リーシェが同一人だと言うことは、エマ以外の者は誰も知らない。同一人だと気づかれないように、あえて「リーシェ」という名前をこれまで明かしてなかったのだが、「リーシェ」だと名乗った割には、気を失ったイルダを抱っこしているダンガのおっさん、リゼル、ナーシャ、そしてリリアも驚いているようではなかった。
エマは、子供リーシェの手を引いて、大人リーシェに手を振っていた。
相変わらず脳天気な奴だ。
――――えっ?
俺は、思わず、エマを見直した。
確かに子供リーシェがいた。しかし、――目の前には大人リーシェがいる。
どうなっているんだ?
「リーシェか。よく見ると、貴様、美しい顔をしておるな。このまま殺すには惜しい。儂が可愛がってやろう」
マモンが舌なめずりをしながらゲスっぽい顔をした。羊顔だが分かった。
「ふふふふふ、笑わせおる!」
リーシェは本当に面白そうに笑った。
「ならば、力尽くで、わらわを奪ってみるがよい!」
「よかろう!」
マモンがリーシェに向けて何かを投げるような仕草をすると、黒い縄が飛んで行き、あっという間に、リーシェの体をぐるぐる巻きにしてしまった。
「剣でも切れない縄だ。待っておれ。王子の始末をしてから、ゆっくりといたぶってやろうぞ」
「ふふふふ!」
ぐるぐる巻きにされた縄から頭だけを出している格好のリーシェは思い切り笑った。
「わらわは、いたぶられるよりもいたぶる方が好きじゃ」
「その減らず口も利けないようにしてやるぞ!」
リーシェをぐるぐる巻きにしている縄が短くなっているのか、リーシェの体に縄がぐいぐいと食い込んでいっているのが見えた。
「痛いのは嫌じゃ」
リーシェがそう呟くと、すぐに縄はバラバラに切れた。
縄が相当食い込んでいたように見えたが、リーシェの腕や脚には、縄目すら付いていなかった。
「貴様……」
マモンは自らの魔法があっさりと破られたことで呆然としていた。羊顔だが分かった。
もっとも、マモンは、すぐに気を持ち直したようで、右手をリーシェに突き出すと、その手のひらから赤い光を放った。
しかし、リーシェは、横に一歩分、ひょいと体をずらしただけで、その赤い光をかわした。
その後、何度か、マモンは赤い光を放ったが、リーシェは涼しげな顔のまま、首を傾げたり、頭を下げたり、ぴょんと少しだけ跳び上がるなどして、それをかわした。
「どうした? 当たらぬではないか?」
「ぐぬぬ!」
歯ぎしりをするマモンに向けて、リーシェが、おもむろに右手を突き出して手のひらを見せると、マモンが放ったのと同じ赤い光がマモンに向けて放たれた。
おそらく、最初から当てるつもりはなかったのだろう、その光は身動きできなかったマモンの足元に当たり、床をドロドロに溶かせた。
「お主が使っておる魔法はこれじゃろう? 溶解光と言ったかのう?」
「……」
「そもそも、このような役立たずに、わらわの相手をさせるのが間違いじゃ! 早く出て来るが良い!」
リーシェが広間を見渡すようにして言ったが、誰かが現れる気配はなかった。
その隙を突いて、マモンが消えた。そして、一瞬、宰相の隣に現れると、すぐに宰相と一緒に消えた。
と思うと、アドル王子の背後に二人が立っていた。
アドル王子の近くにいたホデムが、すぐにマモンに斬り掛かったが、マモンが腕を突き出すと、ホデムは腹に強烈な一発を食らったように顔を歪めながら、後ろに吹っ飛んで行った。
「邪魔をするでない!」
マモンがアドル王子の服の襟をつかむと、片手で軽々とアドル王子を吊り下げるようにして持った。
アドル王子は手や足を振り回して逃れようとしたが無駄だった。
「殿下。暴れると、この短剣が間違って刺さってしまいますぞ」
宰相が吊り下げられた王子に短剣を突き付けた。
「形勢逆転だな」
既に宰相は勝ち誇った顔をしていた。
ミルジャは、王子の心配をすることもなく、ゆっくりと歩いて行き、宰相の隣に立った。
「ミルジャ……」
信じられない様子でミルジャを見るアドル王子を、ミルジャは一顧だにしなかった。
「ついに正体を現しおったか!」
ホデムが腹をさすりながら苦しそうに立ち上がった。
「殿下を離せ! この逆賊が!」
ホデムの罵声にも宰相は涼しい表情のままであった。
「何とでも言え。儂も王位継承権を持つ王族の一人だ。もっとも儂も逆賊と呼ばれる不名誉は望まぬゆえ、殿下が残されたお子様を、大事に、立派にお育ていたしますぞ」
「貴様!」
「殿下は、アンタリオンに食われたとか、『死者の谷』に潜んでいた盗掘者に殺されたとか、殿下が帰らない理由は何とでも付けることができる。ミルジャは、殿下の必死の助けで命からがら一人で王宮に戻る。そして『死者の谷』に出向く前に自分の子だと殿下自ら認めていた、ミルジャのお腹の子を、国王陛下も唯一の跡取りとして、大事にしてくれましょうぞ」
「てめえが国王も生かしておくとは思えねえな! 無事に子供が生まれれば、国王も急病とかで殺してしまう算段じゃねえのか? 新たに国王になった幼子の後ろにいるお前が実質的な権力者となるって訳だ」
俺が宰相に食い掛かったが、王子を人質に取られている以上、遠吠えにすぎない。
「そうなるかもしれぬな。人の運命とは誰にも分からぬものよ。ふははははは」
宰相は、俺のくどい解説に愉快そうに笑った。
「と言うことで、殿下、そして諸君らはアンタリオンに食われて死んだということにする。まずは」
宰相はアドル王子に突き付けている短剣を持ち直した。
「殿下、エラビアの姫との結婚もできずに残念でしたな」
「おい!」
俺が一歩進み出て宰相を睨んだ。
「何だ? 命乞いなら受け付けんぞ」
「そんなことしても無駄だぜ。お前達が」
「何?」
俺がご託を並べている間に、リーシェが俺の後ろに張り付いていた。
そして小さな声で「短剣を叩き落とせ」と言ったのだ。
その意味をすぐに理解した俺は、タイミングを図っていた。
俺の文句に宰相が苛ついた分だけ、アドル王子に突き付けている短剣に隙ができた。
それをリーシェも見逃すはずがない!
次の瞬間、転移魔法で飛んだ俺とリーシェは、宰相とアドル王子の近くに立っていた。
俺が宰相の短剣を素手で叩き落とすと同時に、リーシェがアドル王子の服の襟をつかんでいるマモンの手首を切り落とした。
俺は、床に尻餅を着いたアドル王子の腕を引っ張って、なかば放り投げるようにして、ホデムがいる方に王子を逃がした。
そして間髪入れずに、カレドヴルフを抜いて宰相に突き付けた。
一方、リーシェは、右手首を切り落とされておびただしい出血をしているマモンの腹に強烈な蹴りを入れた。マモンは後ろにすっ飛んでいき仰向けに倒れた。
「残念だったな。悪魔を味方に付けて負けることはないと踏んでいたのだろうが、こっちにも強力な魔法士がいるんだ。予定が狂っちまったな」
俺は、剣を突き付けたまま宰相に言ったが、宰相の口角が少しだけ上がっていたことを見逃さなかった。
「みんな、気をつけろ!」
俺が言った時には既に遅く、突然、広間の中に吹雪が荒れ狂った。
叩きつけられるように飛んで来る雪で、視界が遮られた。
それに気を取られている間に宰相が逃げたのが分かったが、氷の塊がアドル王子に襲い掛かったのが見えて、俺は宰相を追うことはできなかった。
とりあえず王子の側に行こうとすると、今度は暖かい突風が吹いてきて、吹雪を吹き飛ばした。
どうやら、吹雪を打ち消すためにリーシェが吹かせた温風のようで、すぐに部屋の中が見渡せるようになった。
すると既に、アドル王子は氷柱の中に閉じ込められていた。
そして、宰相とミルジャ、マモンの姿は見えなかった。
だが、まずは、アドル王子だ。
アドル王子の側に駆けつけた俺の側に、すぐにリーシェが飛んで来た。
「待っておれ」
リーシェが両手をアドル王子に突き出すと、アドル王子を閉じ込めている氷の柱にピキピキとひびが入っていき、ひびが全体に広がると、氷柱は粉々になって砕けた。
王子は、意識がないようで、その場に倒れ込んだ。




