第三十六話 初めての共同作業
その日の夜。
明日に備えて、早めに寝るかとベッドに横になっていると、お約束どおり、リーシェが飛んで来て、俺の背中に張り付いた。
「アルス! 言い付けておいた買い物は済ませてくれたのか?」
「ああ、ちゃんと買って来てるぜ」
俺は、テーブルの上に置いている食材を指差した。
「ふむっ、ちゃんとあるようじゃの。ごくろうじゃった!」
俺の肩越しにテーブルの上を見たリーシェが後ろから俺の頭を撫でた。
「御礼の言葉だけかよ?」
「では、ご褒美をあげようかの」
「マジか?」
俺は、寝返りをうって、リーシェと向き合った。
リーシェは潤んだ目で俺を見つめていた。
その紫色の瞳を見つめていると、本当に吸い込まれそうになる。
俺は、ゆっくりとリーシェの体を抱きしめた。
――うん? 抵抗しない。今日はこのまま最後まで突っ走ることができるのか?
少しだけ体を離して、リーシェの顔を見つめる。
「良いのか?」
「欲しかったのじゃろう?」
思わず唾を飲み込む。
「お、おう!」
「アルス、来てたもれ」
ついに、この時がやって来たか!
俺はリーシェに覆い被さるようにして、その顔を近づけた。
そして、その唇に熱いキスを……。
――何だ、この感触?
エチケットどおり、目を閉じていた俺は、唇に唇ではない感触を感じて、目を開けた。
リーシェは小さな瓶を俺の唇に押し当てていた。
「何だ、それ?」
「そなたの大好きな酒じゃ」
「いや、それは匂いで分かるが」
「さっき夕食に出ていた物じゃ! もっと飲みたいと言っておったではないか」
アドル王子が、今夜は特別だと言って、出席者全員に振る舞った秘蔵の酒だ。
すごく芳醇で、これまでの夕食会で出されていた酒より格段に美味かった。
リーシェの奴、俺が空いたコップを持って「もう無いのか」とホデムに迫っていたのを憶えていたようだ。
「確かにそうだが……。だけど、どうしたんだ、これ?」
「ここに来る前に、厨房に飛んで来たのじゃ。たまたま見つけての。そなたへの日頃の感謝を込めて、ちょっと、くすねてきたのじゃ」
「ちょっと待て! くすねた酒で、俺への感謝を表すなんて、おかしくないか?」
「何を言っておるのじゃ! こうして、わらわが自分では嫌いな酒を、そなたのために持ってきてやったのじゃぞ」
リーシェなりに、俺にお礼をしようとしたのだろうが、何か、納得できねえ!
「それよりアルスよ。これから薬の調合をしに厨房に行こうぞ」
「はあ? 何で?」
「何でではないわ! そのために、この砂漠の国まで来たと何度も言ったではないか!」
「いやいやいや、そうじゃなくて! どうして、俺がその薬の調合に立ち会わなくてはならないんだ?」
「広い厨房に一人じゃと集中してできないではないか! それに、調合中、どんな危険なことが起きぬとも限らぬ。わらわを守ってたもれ、アルス」
リーシェは俺に正面から体を密着させ、上目遣いで俺を見た。
――ぶん殴りてえ! このぶりっ子魔王を!
「お前に護衛なんていらねえだろ!」
「静けさという敵には、わらわも敵わないのじゃ」
「……一人だと寂しいのか?」
「そうじゃ。さっき、この酒瓶を取りに行った時もすごく寂しかったのじゃ」
冗談なのか本気なのか分からないが、リーシェは、酒が飲めなかったり、子供じみた言動をしたりと、千年生きているのに、本当はまだ子供なんじゃないかと思う時がある。
「調合の時間はどれだけ掛かるんだ?」
「一緒に行ってくれるのか?」
本当に嬉しそうな顔をしやがった。
「だから時間は?」
「半刻ほどじゃ」
「分かったよ。それくらいで終わるんなら、この酒をご馳走になった後、一緒に行ってやるよ」
「イルダが目を覚まさぬうちに済ましておきたいのじゃ」
それもそうだ。
この睡眠薬は魔法を使って調合するらしい。その最中にリーシェが封印されて子供の姿に戻ってしまうと、魔法が途中で使えなくなり、せっかく集めた材料が無駄になってしまう。
「分かったよ。じゃあ、この酒は終わった後のお楽しみに取っておくか」
「やっぱりアルスじゃ! 頼りになるのう!」
無邪気な笑顔を見せて抱きついてきたリーシェが可愛いと思ったのは秘密だ。
リーシェの転移魔法で王宮の厨房に飛んだ。
厨房は、半地下のような場所にあり、当然のごとく誰もおらず、蝋燭も灯されていなかったから真っ暗だったが、リーシェがリズムを取るように指先を蝋燭に向かって動かすと、厨房の燭台に立てられていたすべての蝋燭に火が着いた。
「では、やるかの」
リーシェは、どこからか黒いリボンを取り出すと、長い髪を結んで、後ろで一つに束ねた。
「いかがじゃ、アルス? 若妻のようであろう?」
くそっ! 本当にそう思ってしまった。
俺の性癖を見透かされているみたいで、何だか悔しい。
「アルス、その大きな鍋を取ってたもれ」
俺は近くにあった大鍋の取っ手を両手で持って、リーシェの横にあった竈に置いた。
「今度は、この鍋にたっぷりの水を入れてたもれ」
こいつ! やっぱり俺をこき使うために、色目を使って「一緒に行こう」なんて言いやがったな!
しかし、リーシェは、見た目麗しい美女で、力仕事はさせたくないという気持ちになってしまうのは、男として仕方がないだろう。
俺は、水が入った瓶から小さなバケツを使って、鍋いっぱいに水を湛えた。
そして、厨房の壁に高く積まれていた薪を俺が竈に入れてから、リーシェがその薪を指差すと、勢いよく薪が燃えだした。
火打ち石がいらねえな。まあ、リゼルがいるから、俺達のパーティも火打ち石を使ったことはないが。
「これでよし! アルスとわらわの初めての共同作業じゃの!」
いや、俺の作業の方が圧倒的に多い!
「アルス! 材料をすべて、この上に!」
昨日、今日と市場で調達してきた材料をまな板の上に広げた。
もちろん、その中にはマンドラゴラもあった。
「これらを全部、みじん切りにするのじゃ」
リーシェが壁に向けて、右手の人差し指をくいくいっと曲げると、壁に立て掛けていた、薪割り用の斧がリーシェに向けて飛んで来た。
右手でその斧をつかんだリーシェは、まな板の上にその斧を構えた。
「ちょっと待て!」
これは突っ込まざるを得ない。
「間違っているぞ、リーシェ。それは包丁じゃないだろ?」
「包丁がどこにあるのか探すのが面倒じゃ」
そう言って、リーシェが斧で材料を切るような仕草をすると、材料はあっという間にみじん切りになった。
――いい加減すぎる。
斧を元の壁に飛ばすと、リーシェはみじん切りにした材料を、既にグツグツと煮立っている鍋の中に入れた。
「そうじゃ! 大事なものを忘れておった!」
「何だ?」
「すぐ取って来るゆえ、待っていてたもれ」
そう言うと、リーシェは消えた。
……確かに、鍋が煮立つ音しか響いていないこの広い厨房に一人は寂しいぜ。
他にすることもなかったので、俺は、さっきまで話していたリリアとの話を思い出した。
まだ、はっきりと分かっていないが、アドル王子は、あのミルジャに騙されていて、そのお腹の子は王子の子ではない可能性があることもリリアに話した。
「王家の血統を引いていないのであれば、その子は王になれるはずはないよ。でも、アドル殿の血を受け継いでいる限り、その子は王家の子だよね。もし、私がこの王室に入ったとしたら、その子も家族として私が育てるよ」
自分も妾腹であるリリアは、そう言って笑った。
もしかしたら、リリアが、再々、王宮から抜け出しているのは、妾腹である自分に対する家族の目から逃れたいのかもしれない。
俺は、柄にもなく、そんなリリアに幸せになってもらいたいと思った。
そのために、ホデムの行動に協力しようとも考えていた。
つらつらとそんなことを考えていると、リーシェが戻って来た。
「これを入れなければならなかったのじゃ」
リーシェは、親指と人差し指で何かをつまんでいるような右手を、俺に差し出した。
「これ」と言われても何も無いんだが?
俺がリーシェの右手に顔を近づけると、リーシェの指先が一筋きらりと光った。
よく見ると、長い金色の髪の毛を一本つまんでいた。
「それは?」
「イルダの髪の毛じゃ」
「イルダの?」
「そなたにはやらんぞ」
「い、いらねえよ!」
そんなに物欲しそうな顔で見ていたのか、俺?
「どうやって取って来たんだ?」
「部屋に戻って、眠っていたイルダから一本拝借してきた」
イルダが眠っているから、大人リーシェがここにいる訳だ。
「拝借って、無理矢理、抜いたんじゃねえだろうな?」
「イルダに起きられると封印されてしまうからの、痛くないように魔法で抜いた。そうでなくとも、イルダもリリアと話し疲れたのじゃろうの。熟睡しておったようじゃ」
俺の頭の中に、イルダがベッドに横たわっているイメージが浮かび上がった。
「少し寝間着が乱れて、胸がはだけておったぞ」
俺が淫らな想像をしていたことがバレバレなのか、イルダの顔がにやついていた。
「……取って付けたように、そんな情報まで教える必要はねえから」
「イルダの乳房は小ぶりじゃが良い形をしとるぞ」
「……」
「もっとも、わらわには敵わぬがの」
それが言いたかっただけかよ!
「それで、どうしてイルダの髪の毛が必要なんだ?」
「対象とする者の髪の毛を入れることで、その者にしか効かない睡眠薬ができるのじゃ」
「すると、イルダ以外の者には、この睡眠薬はまったく効き目がないということなのか?」
「そうじゃ。そうしないと、アルスがこの薬を悪用して、わらわを眠らせた隙に悪戯をしかねないからの」
「しねえよ!」
そんな俺の文句も軽くスルーしたリーシェは、鍋の中にイルダの髪の毛を入れた。
そして、鍋に手をかざしながら、何かしらの呪文を詠唱すると、グツグツと煮える鍋の中の湯は、すぐに緑色に変わった。
「これを煮詰めれば完成じゃ。あと少しでできる」
リーシェが、時折、鍋に呪文を込めると、鍋からどんどんと水分が飛んでいき、その量が当初の十分の一程度まで煮詰まると、リーシェは竈の焚き口に向けて、指を振った。
すぐに弱火になり、ぐつぐつと出て来た泡が出なくなった。
その後すぐに、リーシェが、再び呪文を唱え、両手をその鍋の上に突き出した。
リーシェの手のひらから緑色の光が飛び出し、その光がまるまる鍋の中に吸い込まれていった。
その光を吸収した鍋の中の液体は、あっという間に湯気も出なくなった。
「できたぞ」
そう言うとリーシェは、ベルトのポーチから香水瓶のよう小瓶を取り出した。
「洒落た瓶だな」
「イルダにもらったのじゃ」
その瓶にイルダを眠らせる薬を入れるのかよ!




