第一話 腹ぺこの剣士とエルフ
――綺麗な青空だ。
草原に仰向けになり、流れる雲を眺めていた俺の口から、そんな呟きが漏れた。
考えてみれば、こんなにゆっくりと空を眺めることなんて、最近、してなかったな。
もっとも、ついさっきまで、そんな余裕も無かったのだが……。
俺のすぐ側には、相棒のナーシャがちょこんと座って、俺の左腕に両手をかざしている。
ナーシャの手のひらからは、淡い緑の光が放たれて、その光を浴びた俺の左腕から流れていた血が止まると、その傷口もゆっくりと塞がった。
小妖精のナーシャは、治癒魔法の使い手だ。
「終わったよ」
俺が空からナーシャに視線を移すと、いつも悪戯っ子ぽく笑っている緑色の瞳と目が合った。
緑色の長い髪を三つ編みにして後ろで一つに束ね、白い肌の体に、白くゆったりとした素材のチュニックを、紐のベルトで腰回りを絞って纏っており、足元は素足に編み込みのサンダルを履いている。
ここだけを見れば人族と同じ容姿だが、尖った両耳と、その背中に生えている透明な四枚羽は、ナーシャが小妖精であることを示していた。
「ありがとうよ」
俺は立ち上がって左腕を振ってみたが、痛みも消えてしまっていた。
「お礼の言葉だけ?」
同じく立ち上がったナーシャが、わくわくと何かを期待しているような顔をして、俺を見上げた。
ちょうど、俺の腹の高さにあるナーシャのおでこを人差し指で弾いてやると、ナーシャは頬を膨らませ、額を両手で覆いながら、俺を睨んだ。
「こいつを街まで運んで、報酬を手にしてからだ」
俺は、足元に転がっていた魔族の首を、布に包み込んで持ち上げた。
さっきまで死闘を繰り広げ、やっとこさ仕留めた今日の獲物だ。
十分ほど歩くと、ヒドルという小さな街に着いた。
城門を入り、魔族退治の依頼を受けた酒場に戻ると、カウンターに座って酒を飲んでいた依頼仲介人の足元に獲物の首を放り投げた。
「依頼は果たしたぞ」
依頼仲介人は、顔を青くしながらも、首を実検して、街の郊外で暴れまくっていた魔族であることを確認した。
「確かに。こいつは、今まで十人以上の戦士が挑んで返り討ちになっている魔族だったんだ。やるねえ、旦那」
「お前の褒め言葉なんざ、まったくありがたみはねえよ。それより、ほれっ!」
俺が「早く寄越せ」とばかりに手を差し出すと、依頼仲介人は、面倒臭そうに、懐から小さな紙片を取り出すと、酒場の主人からペンを借り、サラサラとその紙片にサインをした。
「これが依頼完了証明書だ。これを持って依頼主の所に行きな」
無言でその紙片を受け取ると、俺とナーシャは、酒場を出て、街の中心にある大きな商人の屋敷に向かった。
この魔族は意外と手強かったと、俺が身振り手振りを交えながら力説したにもかからわず、依頼主の商人は、まったく色も付けてくれずに、当初の契約どおり、十ギルダーという渋い報酬しか支払ってくれなかった。
しかし、まあ、これだけあれば、二週間は飢えることはないし、今日くらいは贅沢するか。
「それじゃあ、飯でも食いに行くか?」
俺の頭の横を、羽を羽ばたかせながら、浮かぶように飛んでいるナーシャに、くいっと杯を傾けるポーズを取りながら言うと、ナーシャは「待ってました」とばかりに何度も頷いた。
まだ、日没には少し早かったが、俺とナーシャは、ヒドルの街の宿屋にチェックインすると、その食堂で久しぶりの肉料理と葡萄酒に舌鼓を打った。
ナーシャも幼女のような体型だが、歴とした大人の女性で、俺以上のペースで葡萄酒を飲み干している。
ナーシャに会ったのは、二週間ほど前だ。
敗残兵として、首都から落ち延びてきた俺が、とある街の広場で、首から「ボクを雇え!」と書かれた看板をぶら下げて座っているナーシャを不憫な子供かと思って声を掛けたことがきっかけだ。
『お前を雇うと何か良いことがあるのか?』
『治癒魔法が使える!』
『ほ~う、他には?』
『この可愛い顔を毎日拝むことができる!』
『……またな』
『あ~! 待って!』
『何だよ? 他にも良いことがあるのか?』
『あんたに幸運が訪れる!』
『へえ~。それじゃ、ちなみに訊くが、お前の元の雇い主はどうした?』
『流れ矢に当たって死んだ』
『じゃあな!』
『待って! ちょっと待って!』
『何だよ?』
『えっと、え~と……』
必死に何かを言おうとしていたナーシャの腹が「ぐーっ」と鳴った。
『……とりあえず、飯、食うか?』
その一時の優しさで、ナーシャは俺についてくるようになった。
せっかく女が同行するのであれば、色気とフェロモンを撒き散らしてくれるような女が良かったんだが、さすがに見た目幼女のナーシャじゃ、そんな気も起きなかった。
先に酔いつぶれたナーシャが部屋に戻ると、酒場のカウンターの中にいた赤毛の女が一人、俺の横に立った。
「座って良い?」
「ああ、何を飲む?」
「奢ってくれるの?」
「酒場の礼儀くらいはわきまえているさ」
「ありがとう。じゃあ、エールをいただくわ」
「名前は?」
「リジアよ」
大きく胸元が開いたメイドドレスを着たリジアは、腕を胸の下で組んで、ただでさえでかい胸を更に強調させるポーズを取った。
「座りな」
自分の分のエールをカウンターから持って来ると、リジアは、椅子を近づけてから、俺の隣に座った。
「あなたの名前は?」
「アルスだ」
「アルス……、良い名前ね」
「みんなにそう言われる」
「体もたくましそう」
リジアは俺の肩から分厚い胸板に指を滑らした。
「この黒い髪も素敵ね」
今度は、俺の肩まで伸びた髪を指で弄びだした。
「少し縮れているのがチャーミングだろ?」
「そうね。でも、そう言っては、あちこちで女を泣かしてるんでしょ?」
「俺は、女は泣かさない主義なんだ」
俺は、片手で両頬を軽く掴んだリジアの顔に自分の顔を近づけた。
「信じてみるか?」
カーテン越しの眩しい太陽の光で目が覚めた。
ベッドには俺一人が横になっていた。
どうやら久しぶりの葡萄酒で思ったより早く酔いが回ったらしく、二人で部屋に入ってからは、よく憶えていないが、今、真っ裸ということは、男としてやるべきことはやったと信じたい。
俺はベッドから降りると、ズボンを履き、その上にチュニックを着て、ベルトで腰回りを締め、足元には獣の皮でできたブーツを履いた。
そして、胸鎧を付けて、マントを羽織って、剣を背負った。
ベルトに付いているポーチをまさぐる。
「……無い」
昨日、このポーチに入れていた金貨が無くなっていた。
俺は、部屋を飛び出ると、宿屋の小さなロビーに行った。
「おい! 昨日、俺と一緒に部屋に入った女は?」
「さあ、お客様が誰と一緒に部屋に入ったかなど、いちいち憶えていませんや」
カウンターの中にいた宿屋の主人は面倒臭そうに答えた。
「ここの食堂のカウンターの中にいたリジアって女だ!」
「知りませんね」
「知らない?」
「少なくとも、手前どもで雇っている女ではありません」
やられた! 流しの遊女だったのか!
「ば~か! おたんちん! でべそ!」
ナーシャになじられながら、宿屋を出ると、城門に向かって歩き出した。
よく考えたら、分け前として、ナーシャに一ギルダーを昨日のうちに渡していたことから、被害額は九ギルダーだった。
「アルス! 今日のは貸しにしとくからね!」
ナーシャが持っていたギルダー金貨一枚で宿泊代を支払うと、俺達はまた一文無しになってしまった。
リジアを探し出して、金貨を取り戻そうと思ったが、既にどこかに隠れているはずで、労力に見合わないとあっさりと諦めて、次の依頼を探しに、隣の街まで行くことにした。
城門を出て、深い森の中を早足で歩く。
ナーシャはいつもどおり俺の横を飛んでいた。少しは足を使えと嫌みを言うが、今日の俺の発言にはまったく重みがなかった。
「アルス! お腹が空いた!」
「俺だって腹ぺこなんだよ!」
「アルスが悪いんだぞ!」
「分かってるよ!」
「何とかしろよ!」
「そうやってギャアギャア騒ぐから、すぐ腹が減るんだよ!」
「朝飯だって食えなかったんだぞ!」
「これまでだって、一日中、飯を食えない時もあっただろ?」
「昨日の夜、いっぱい食べたから、その反動でお腹が減りすぎなんだよ!」
昨日、腹一杯食べたのは、お前だけじゃねえんだよ!
既に、太陽は西に傾き、後、二時間もすれば沈んでしまうだろう。
今日は、また猪でも狩って、野宿かな?
――うんっ?
悲鳴が聞こえたような?
「ナーシャ!」
俺の指示を待つまでもなく、ナーシャは生い茂っている樹木の上まで飛んで行くと、右手を目の上にかざして遠くを見た。
「あっちに森が開けてる所があって、三人のパーティが豚獣人の群れに襲われてる!」
「豚獣人は何匹くらいだ?」
「二十匹くらい……かな」
「その三人てのは?」
「若い女が二人に騎士らしき男が一人」
「金、持ってそうか?」
「分からないけど、金髪の女がめちゃくちゃ美人だ!」
「……世の中、金じゃねえよな。行くぜ! ナーシャ!」
「あいよ!」