第百十四話 愛と信頼
監獄の扉が開いた音で、俺は目覚めた。
隣の檻の中で座っていたカルダ姫も、抱えた膝から顔を上げていた。
入って来たのは、ザルツェールだった。
「お目覚めですかな?」
カルダ姫は、いかにも不快な顔をして、ザルツェールから顔をそむけた。
「おやおや、つれないですなあ。義理の弟になる私なのに」
「イルダがそなたに身を任せる訳がなかろう!」
カルダ姫が思わず立ち上がり、ザルツェールを睨んだ。
「私の言うとおりにしないと、あなたがどうなるか分からないと言ってもでしょうか? 心優しいイルダ様は、あなたのためならと、心も体も開いてくれますよ」
「ザルツェール! 貴様は絶対に許さねえからな!」
怒りを言葉にすることもできずに、体を打ち振るわせることしかできなかったカルダ姫に代わり、俺が怒りをぶちまけた。
「いくらでも吠えるが良い。貴様には貴様の使い道を考えてやる」
ザルツェールがその嫌らしい笑い声を監獄に響かせていると、また、監獄のドアが開いて、ベルフェゴールが入って来た。
「ザルツェールよ。お待ちかねの姫が到着したようだぞ」
「やはり、イルダ様だ! 姉上を思うお優しい心はそのままだ! ベルフェゴール! 丁重にお迎えしてくれ」
「良いだろう。しかし、そなたとの契約、しかと守っていただくぞ」
「心配するな。今まで、いつも、この男の側に魔王らしき女が現れている。この男を痛めつければ、必ず現れる」
「現れなかった時にはどうする?」
「か、必ず、現れる」
ザルツェールが青ざめた顔で答えた。
ザルツェールも分かっているのだ。ベルフェゴールとの契約が守れない時には、自分の命がないことを。
俺とカルダ姫が檻から出されると、俺は、金属製の手枷で両手首を固定された。
カルダ姫は、そういった拘束はされなかったが、周りを黒騎士どもに囲まれていて、逃げることなどできずに、追い立てられるようにしながら、宮殿の出口に向かった。
途中、同じように黒騎士に連行されたファルとバドウィルの二人と合流した。二人とも俺と同じように手枷をはめられ、顔面には酷い傷を負っていた。
「アルス殿! 生きていらっしゃったのですね」
美形の顔が台無しになっているバドウィルが本当に嬉しそうに笑った。普段は気色悪い笑みだったが、こんな時にも俺の心配をしてくれるバドウィルに少しだけ情がわいた。
「ああ、お前達も酷い仕打ちをされたようだな」
「ふがいなしゃで、はじゅかしいかぎりでしゅ」
こんな時にもカミカミのファルも、主君カルダ姫の無事な姿を見て、明らかに安堵をしていた。
こいつらも少し癖があるだけで、リゼルやダンガのおっさんに負けない、忠実で優秀な従者なのだ。しかし、相手が悪かった。
宮殿の正門まで出て来ると、黒騎士が一人、ベルフェゴールの前にひざまずいた。
「今、城門から中に入りました」
「そこで待っていただいてくれ。我々もすぐに向かう」
ザルツェールが、まるでその黒騎士の主であるかのように答えたが、ベルフェゴールも黒騎士もそれをとがめることはしなかった。
ザルツェールとベルフェゴールが並んで歩き出すと、俺とカルダ姫一行も黒騎士どもに追い立てられるようにして、城門に向かって歩かされた。
夜が明け、空が白んできている時間帯で、黒い雲も、まだ、この街を覆っておらず、とりあえず、周りの景色はよく見えた。
朝早いからか、それとも不測の事態に備えて、どこかに待機させられているのか分からないが、農作業をしている住民達もいない広大な農地を突っ切って、俺達は真っ直ぐ城門に向かって歩いた。
城門の前に、イルダ達がいるのが見えた。
リゼルに、ダンガのおっさん、エマ、ナーシャ、そして、子どもリーシェの姿もあった。
子どもリーシェがいたことで、少しホッとしたが、問題は、リーシェの封印をどうやって解くかだ。
子どもリーシェの近くにはエマがいるが、「おやすみ薬」は俺のベルトのポーチの中にある。手枷をはめられている俺がエマに「おやすみ薬」を渡すことは簡単ではない。
「お姉様! アルス殿!」
俺達の姿を認めたイルダが、思わず、俺達の方に駆け出そうとしたが、リゼルとダンガのおっさんが羽交い締めをするようにして、何とか押しとどめていた。
かなりの距離をおいて、ザルツェールとベルフェゴールがイルダと相対するようにして立ち止まった。そして、黒騎士どもに囲まれた俺達もその近くで止められた。
「イルダ様! よくぞ、お出でくださいました!」
「ザルツェール殿! お姉様とアルス殿を返してください!」
「良いですよ。愛おしいイルダ様のおっしゃることであれば、このザルツェール、いかなることであろうと従いましょう。しかし」
ザルツェールは、ゆっくりと右手を上げて、イルダを指差した。
「あなたと引き替えです」
「……私がここに残れば、お姉様とアルス殿を返していただけるのですね?」
「お約束します」
「ファルとバドウィルは?」
「もちろん、ご一緒に」
「分かりました」
イルダは、あっさりとザルツェールの要求を飲んだ。
「でも、ここはあなた方の支配する場所です。先に、あなたの約束を実行してください」
「いかにここが我々の支配する場所だとしても、あの紫色の髪の魔王が現れて、邪魔をしないとは限りませんからな」
余裕ある笑みを浮かべたザルツェールが話を続けた。
「では、こうしましょう。カルダ姫は大事なお客人ですから、すぐにお返しすることはできませんが、この下賤の者どもの誰か一人をお返しすることで、私の誠意をお見せしましょう」
くそっ! カルダ姫を返してくれない以上、罠だと言っているようなものだ。
しかし、ここでザルツェールに逆らうことなどできやしない。奴の言うとおりに動いて、好機を待つことしか、俺達が生き延びる道はないんだ。
「では、アルス殿を返してください!」
ファルでもバドウィルでもない、この俺を選んでくれたことに、少し感動した。
「おやおや、イルダ様は、よほど、この男のことがお気に入りのようですな。良いですよ」
黒騎士の一人が俺の手枷に付けられている鎖を持つと、俺は、まるで散歩に連れて行かれている犬のように引っ張られて、ザルツェールとイルダの中間地点まで歩かされた。
「さあ、イルダ様。今度は、あなたの誠意を見せてください。あなたが、その下賤な男の近くまで来てください。そこで交代です」
「話が違うぞ、ザルツェール! 俺を完全に解放してからの話じゃなかったのか!」
後頭部に鈍い痛みが襲った。
俺を引っ張ってきた黒騎士が、俺の後頭部に「軽く」パンチを食らわしたのだ。思わず膝を折った俺は、歯を食いしばって、その痛みに耐えた。
「うるさいぞ! 今の自分が置かれた状況をわきまえて、ものを言え!」
無言の黒騎士に代わって、ザルツェールが憎々しげに言った。
「アルス殿にそれ以上の乱暴は止めてください!」
イルダが泣き叫ぶように言った。
「今、アルス殿の近くにまいります!」
イルダはそう言うと、一人前に出て、ゆっくりと歩いて来た。
俺の近くには黒騎士もいる。イルダだって怖いはずなのに、その凛とした表情には決死の覚悟がにじみ出ていて、やはり、ここぞという時に取り乱さない、皇女としての風格を感じる。
イルダは、俺の近くまで、やって来た。
凛々しい顔はそのままだったが、目には涙がいっぱい溜まっていた。
「アルス殿、こんなところで最後を迎えようとは残念でなりません」
「イルダ、まだ諦めるな」
小声でイルダと会話を交わした後、俺は振り返って、ザルツェールを見た。
「俺の手枷をはずせ!」
「イルダ様がこちらに来てから、鍵を放り投げてやる」
どこまでも用心深い奴だ。
こうなれば、イルダに自ら眠ってもらうしかない!
俺は、イルダに近づき、近くにいる黒騎士にも聞こえないほどの小さな声で話した。
「イルダ、黙って聞いてくれ。俺のベルトのポーチに小さな瓶が入っている。それを取り出して、蓋を取り、その匂いを嗅ぐんだ。そうすれば、魔王リーシェが来てくれる」
魔王リーシェが来る!
それが、この状況を打ち破る唯一の方法であることは、イルダも分かっているはずだ。そして、いろいろと俺には尋ねたいこともあるだろうが、そんなことをしている時間はないこともだ。
「ザルツェール! 最後の望みをきいてくれ! 一度で良いから、イルダと抱き合わせてくれ! 抱き合うだけで良い!」
「賤しい者が何を言っている! 許される訳はなかろう! イルダ様を抱けるのは、この私だけだ!」
「ザルツェール殿! 私はアルス殿が好きです! あなたは大嫌いです!」
イルダはザルツェールにそう叫ぶと、手枷をはめられたままの俺に横から抱きついた。直接、見えなかったが、イルダが俺のポーチをまさぐっているのが分かった。
すぐ近くにイルダの顔があった。
いつもの穏やかな笑顔だった。
「アルス殿、大好きです。そして、信じています」
イルダが俺にそう告げると、「おやすみ薬」を自らの鼻の下に持って行った。
手枷をはめられていて、俺は崩れ落ちるイルダの体を抱き留めることができなかったが、イルダと一緒に倒れて、自分の体がイルダの下敷きになるようにして、クッション代わりにした。
突然、爆音が響いた。
「ま、魔王様!」
同時に、ベルフェゴールの驚いた声が響いた。
「ベルフェゴール! 久しいの」
魔王様なのに、俺には、救世主の声にしか聞こえなかった。
イルダの体の下敷きになるという幸福感を味わう隙もなく、俺は寝転がったまま、リーシェの声がした方を見た。
リーシェは、ザルツェール達とリゼル達と三角形の頂点に位置するような場所に立っていた。封印が解けるとともに転移したのだろうが、良い位置だ。
ザルツェールもベルフェゴールも、そして俺の近くに立っている黒騎士もリーシェに注目していて、リゼル達の立っている場所は死角のようになっていた。その隙を突いて、エマが何やら不審な動きをしているのが分かった。
「ベルフェゴール! わらわに代わって、魔王を名乗るつもりか?」
「め、滅相もございません! この街は、魔王様のために用意をしていたものでございます!」
「わらわのために? どういう意味じゃ?」
ベルフェゴールは、ザルツェールの隣から、ゆっくりとリーシェに近づいて行った。
ザルツェールは、リーシェの登場に怯えているようで、目を見開いて、リーシェとベルフェゴールに注目していた。
「この街を、復活した魔王様が、再び、この大陸を支配するための足掛かりにしようと考えてのことでございます。ご覧ください!」
ベルフェゴールがリーシェに広大な農地を紹介するように体を開いた。
「人族どもを奴隷のように働かせ、食料だけは豊富に確保をしております」
「そうじゃの。魔族も食わねば死んでしまうからの」
「そうでございますとも! 魔族の軍団を食わせるには食料の自給が必須ということでございます」
「ふむ。そなたの言うことは、戦略的にはもっともであるの」
「で、ございましょう? さあさあ、この人族の連中のことは放っておいて、魔王様にふさわしい玉座を用意しております。宮殿にご案内いたします」
「さっきまで、そなたが座っていた玉座か? 汗臭くなっていそうで座りたくないわ」
「な、ならば! すぐに玉座を取り替えまする! お好みのものをおっしゃっていただければ、直ちにご用意いたします!」
ベルフェゴールの奴、完全にザルツェールのことなど忘れている。
目の前にいるリーシェの逆鱗に触れることが恐ろしいからで、必死になって、リーシェのご機嫌取りをしていることが分かった。
「ベルフェゴールよ。わらわは、魔王として返り咲くという大望を捨ててはおらぬ」
「ははっ!」
「しかし、それは今でなくても良い。もう少し先にしようかと思っておる」
「では、いつ頃に?」
「そうじゃのう。あと百年後とかかのう」
「百年後? なぜ、今では駄目なのですか?」
「気が乗らぬのじゃ」
「はっ?」
「聞こえなかったのか? 今は、気が乗らぬのじゃ」
「な、なれば、この街は?」
「人族に返してやれ。百年後にまた占拠すれば良い。ベルフェゴール、そなたの力をもってすれば、この程度の街を占拠することくらい朝飯前であろう?」
「それは、そうですが」
リーシェのつれない態度に、ベルフェゴールも戸惑うばかりのようだ。
「リーシェ! とりあえず、俺の手枷をはずしてくれ!」
俺は寝転がったまま、大声でリーシェ言った。
「そうじゃったの。待っておれ」
「お待ちください、魔王様! その人族どもをどうされるおつもりですか?」
「この人族どもは、わらわにとって必要な者どもじゃ。特に、そのイルダじゃ。彼女は返してもらうぞ。ついでに、その下敷きになって顔がにやけておるスケベ男もな」
そう言って、リーシェはゆっくりと倒れたままの俺とイルダの近くにやって来た。
俺達のすぐ側に立っている黒騎士が、剣の柄に手を掛けて、近づいてくるリーシェに構えた。
「そなたと同じ黒い鎧をまとっておるのは、そなたの配下か、ベルフェゴールよ?」
リーシェが首だけを回して、ベルフェゴールに尋ねた。
「ははっ! さようでございます! これっ! 何をしておる! 魔王様の御前じゃぞ! 剣から手を離せ!」
ベルフェゴールがリーシェの近くにいる黒騎士に注意をした時には、その黒騎士の首が宙を舞っていた。
「教育がなっておらぬな、ベルフェゴールよ」
「も、申し訳ございません!」
あれだけ殺気をまき散らしていたベルフェゴールが、その巨体を縮めながら、リーシェの側まで走り寄ると、その前にひざまずいた。




